5th, replay
そしてまた、時が巻き戻った。
滝から出るや、驚きながらもにこにこと近づいてくる金伽羅を――。
「ええええっ!」
シバは瞬時に木に縛り付けた。
「どうしてですかあー!」
たとえ力の強い金伽羅であろうとも、主であるシバの緊縛から逃れることはできない。
「罰だ」
端的に告げたシバに、俄然、金伽羅が暴れ出した。
「私、なんにも悪いことしていませんよお!」
それもそうだ。だが、
「お前が覚えていないだけだ」
しれっと応えると、金伽羅は抵抗をやめて肩を落とした。
「そ、そんなあ」
泣けばゆるしてもらえると、金伽羅はそう思っているふしがある。
だがゆるさない。
「お前はそこでしばらく頭を冷やしてろ」
「そんなああ」
嘆く金伽羅を残し、シバは一人で社殿へと戻った。
「シバ様。これはなんともお早いお戻りで」
これまで同様、上下黒のスーツに身を包んだ制吒迦に遭遇するや、
「ついてこい」
シバは社殿の奥を指し示した。
「人間界ですか? 今から?」
「そうだ。お前もちょうど行こうとしていたんだろ?」
「え? どうしてそれを? あ、いや」
「今更誤魔化そうとしてもだめだ」
「す、すみません」
「まあいい。さ、ついてくるんだ」
濡れた衣を着替え、先の見えないほど長い廊下へと出ると、シバの胸にふいに哀愁じみた想いがわいてきた。
ああ、ようやくここまで戻ってこれたんだな……。
ぐんぐん歩んでいくシバ、それに従う制吒迦だったが――。
「……ん?」
「おや、これはどういうことでしょう」
二人そろって声が出た。
前を見て、後ろを見て。
「元の場所に戻っています……よね」
二人はシバの部屋の前まで戻っていた。
「また彼女が何かしたのか?」
「彼女、といいますと?」
そう言えば説明していなかったな、と、シバがこれまでのことをかいつまんで話すと、さすが制吒迦、驚きはしたものの冷静にこれからについて分析し始めた。
「なるほど、シバ様の神力をかの女性が使っている……と。きっとシバ様の想いの強さも影響しているのでしょうね」
「だと思う」
自分のことながら、彼女を好きな気持ちには自信がある。
そしてそれゆえに彼女に強じんな力を流し込んでしまったことも――我がことながら深く納得できる。
「ではシバ様がかの女性への想いを捨てればよいのでは? 神力とはそういうものですから」
「だからそれはだめだと、そう『前回』も言っただろう」
「……ああ、そうでしたね」
僕を怒らせては駄目なのだと、二人の童子はこのことを世界の原則として理解している。それを金伽羅は無邪気な思いつきでぶち壊すし、制吒迦は理詰めの思考回路に引きずられて軽視してしまうこともあるのだが。
もう一度言おう。
この世界は今、僕の支配下にある。
そして僕を怒らせたら絶対にいけないのだ。
と、制吒迦がぽんと手を打った。
「そうです。かの女性の心を覗いてみてはいかがでしょう?」
「な、なにを言っている……! そんなことをしたら失礼だろう!」
やること自体は簡単だ。
だが好きな女性にそのようなことはしたくない。
好きな人の心を盗み見たいと思うのは、人間であれば当然だろう。だがシバは神なのである。それゆえ、生きとし生ける者、多種多様な生物の思考を、これまでごく自然に読んできた。
でも、だからこそ、彼女の心だけは読みたくない。
そうシバは思っている。
心を読まずにいても特別だと思える美しい人――そんな人は彼女だけだから。
頬を染めたシバに、制吒迦がぴしりと言った。
「今は緊急事態なのですよ!」
「それは分かっている」
「何もしなければ、私達はずっとこのまま廊下でさまよい続けます」
「……そうだな」
「それにかの女性もお困りなのではないですか? はては嘆き悲しんでいるかもしれませんよ?」
「な、なに?!」
「人ならぬ力を得れば戸惑うに決まっています。そんな時こそ、シバ様、あなたのお言葉が必要になるのではないでしょうか」
何やら誘導されているような気もしないでもないが、言われてみればその可能性は否定できない。そして一度でも彼女の悲し気な表情を想像してしまうと――もうそれを忘れることなどできはしない。
一転、シバは覚悟を決めた。
「分かった。やってみる」
制吒迦が無言で小さく拍手をした。
「どれどれ……」
実はこの時、シバはうぬぼれていた。
きっと彼女は自分に会いたがっているだろう、と。
なかなか会えない恋人のことを少しは考えてくれているだろう、と。
でも――違った。
『……』
何も聴こえなかった。
『……』
どれだけ耳を澄ましても――何も聴こえなかった。
「……もしや、心が壊れたのか?」
シバのつぶやきに――制吒迦が息を飲んだ。
「それは……!」
「ああ、分かっている」
術は使った当事者にしか解くことができない。いや、実際は力の強い者によって破ることもできるが、彼女は今、シバと同等の力を持ってしまっている。だから、もしも彼女が理性を失ってしまった場合――。
「僕達は永遠にここをさ迷うことになるかもな」
つ、とシバの額に汗が伝った。
何度も巻き戻されている時の流れ。だが今は、その『時』という概念が『次元』ごとねじまげられた異空間に放り込まれてしまっている。しかもここはシバですらも自力で脱出できない、檻のごとき強じんな空間なのだ。
心が、体が、すべてが『危険だ』と訴えてくる。このままではまずいと、荒ぶる本能に突き動かされそうになる。
こんな感情は初めてだ。
ああ、これが『怖い』ということなのか――。
するとその感覚に共鳴するかのように、彼女の心の声が聴こえ始めた。
『怖い、怖い』
『怖いよ――』
ざ、と目の前に人間界の映像がうつしだされる。
コンビニの中、若い男の店員が彼女に近づいていく。
それは彼女の記憶だった。
『怖いよ――』
そしてあろうことか、店員が彼女を抱きすくめる。
『怖い……!』
彼女の感じた恐怖が、大きな闇となってシバに襲い掛かる。
それになんら抵抗することもできず――。
ただただ、荒れ狂う嵐の中で耐える他なかった。
*
どれだけ長い時がたっただろう。
「シバ様……。シバ様……!」
ずっと制吒迦がシバを呼んでいる。
意識をとばし反応を見せない主にずっと声をかけている。
だがシバは何一つ応じることができない。
彼女の感じた恐怖に完全に同期してしまっている。
『もう彼にも会えない』
『どこにも行きたくない』
『一人でいたい――』
彼女が孤独を強く望むがゆえに、真逆の願いを有するシバが最もひどく拒絶されている有様だった。
彼女の心を読んでいること自体が苦しい。
まるで地獄の炎に焼かれているかのようだ。
尋常でない汗が流れては落ち、流れては落ちていく。
だがシバは彼女とのつながりを絶つつもりは毛頭ない。
今、彼女は非常に危ない状態にある。
下手にシバの神力を取り込んでしまったせいで、不安定な彼女を食わんと、大量の妖魔や悪鬼が彼女の家の周りをぐるりと囲んでいる。確かに今の彼女は絶好の狙い時のごちそうだ。
今はシバの術によって守られているが、これで完全に負の感情に引きずられて堕ちてしまうようなことがあれば――あっという間に彼女は魂ごと食われてしまうだろう。そうしたら彼女は輪廻転生の流れに戻ることがかなわなくなる。シバの恋した人、美しい魂は――永遠に消滅してしまう。
ぎり、と、シバが歯を鳴らした。
「僕はあきらめないぞ……」
「シバ様っ!」
たとえこの心が朽ちてしまおうとも。
たとえどれほどの苦痛を味わおうとも。
「僕は彼女をあきらめたりしないっ……! 絶対にだっ!」
「シバ様……」
やがて。
『ごめんなさい、こんなことになってしまって……』
ぽお、と、闇の中に小さな光が浮かんだ。
『ごめんなさい……』
彼女がつぶやくたびに、闇の中、ぽ、ぽ、と光の玉が生まれていく。
『ごめんなさい……』
やがて光の数珠は連なり、闇を打ち負かし始めた。
『もう一度だけでいい、やり直したい』
『お願い、私にもう一度チャンスをください』
『そうしたら、私……!』
限界まで膨張した光が一瞬で炸裂し――。
四方八方に広がっていった。