1st
何度も何度も。
七月一日の朝が来る。
数えきれないほどの七月一日の朝が来る。
彼と会えない七月一日が――。
またやってくる。
**
今日は待ちに待った彼とのデートだ。
目覚ましが鳴るよりも早く目が覚めていたが、さやかはシングルベッドの中でじっとその時を待っていた。ふつふつと湧き上がってくる興奮は、普段のさやかからは考えられないものだ。
『北野さん』
それは数日前の夜のことだった。
暗がりの中、すぐそばを車が走り去るたびに、ライトに照らされて彼の表情がはっきりと見えた。
奥二重の瞳、普段はふにゃっと柔らかいのに、その時の彼の表情はひどく冴え冴えとしていた。緊張もしているようだった。
『ずっと……好きでした。僕と付き合ってください』
彼の表情の移り変わる様に見とれ――さやかは素直な気持ちでこくりとうなずいていた。
やや遅れて、ごくりと唾を飲みこむ音がした。さやかがうつむいていた顔を上げると、彼のシャツの首元の隙間、喉仏が上下に動く様が見え――自分とは異なる性の証拠に、頰が一気に熱をもった。
目が合い。
そらせず、自然と見つめ合い。
『……キス』
『……え?』
『キス、していいですか……?』
返事をできずにいると、許可などなくても彼は背をかがめた。そしてゆっくりと、上気し強張った顔を近づけてきた。肩に置かれた手はためらいがちながらも優しかった。真剣に想ってくれているのだと、その表情や所作からも実感できた。ああ、彼はほんとに私のことが好きなんだな……と。
彼の瞳の中には自分の蕩けた顔がくっきりと映っていた。映る自分と目が合った瞬間、さやかの心臓は大きく跳ねた。完全に彼にシンクロしている――。そう気づいたら、もうこれ以上は緊張しすぎて無理、と目をつむっていた。
やがて、唇にふわりと優しい感触が届き……。
「うわわわわ!」
さやかは急いでタオルケットの中に顔を突っ込んだ。
今朝は目が覚めてからずっとこんな感じだ。思い出してはにやけて、にやけてはすぐに興奮が最高潮に達し、そしていたたまれなくなり身もだえる――。この繰り返しだ。
でもそれも仕方ない、なんたって初めてのキスだったのだから。
さやかは社会人五年目でそれなりにいい年齢だ。……なのだが、人見知りなこともあって、これまで誰ともつきあったことがなかった。当然、キスをしたこともない。
だけど、とうとう経験したのだ。
初めてのキスを。
しかもずっと好きだった彼と。
と、目覚ましのベルが鳴りだした。七時ぴったりだ。だが、ジリリリリ、のジリだけで目覚まし時計の頭頂部を叩きつけて黙らせ――さやかは勢いをつけて起き上がった。
これまで七変化の無限ループに陥っていた表情は、一変してはちきれんばかりの笑顔になっている。
「よーし!」
大きく伸びをして、さやかは予定通りに活動を開始した。
*
待ち合わせ場所は横浜、山下公園。
なぜここにしたのか、それはもう覚えていない。
さやかは約束の十一時よりも十分早く来た。それでも、もっと早くここに来たくなるのをぐっとこらえたのだ。こんな浮かれた気持ちは小学生以来かもしれない。
少し強い風が吹き、さやかは乱れた前髪を気にしてなでつけた。
平日は後ろで一つに簡単に縛るだけの髪が、今日は緩く巻かれて、しかも両サイドには編み込みまで作ってある。
髪型だけでなく、服装もいつもと違う。平日は社内の不文律に従って、シンプルなシャツにモノトーンのパンツスタイルばかりなのだが、今日は紺のボーダーのカットソーにラズベリー色のロングスカートという色鮮やかなコーディネートに身を包んでいる。
デートの約束をしてすぐに、さやかはコンビニでファッション雑誌を購入している。そして一晩で読み込み、研究し、翌日にはショッピングへと出かけた。その成果が今日のいで立ちにあらわれている。この格好だと、彼もすぐにはさやかだと気づかないかもしれない。
彼の驚く顔を予想して、さやかの相好が崩れた。
きっと今日は最高のデートになる。
だが公園内をざっと見渡し、さやかは安堵半分、がっかり半分のため息を小さくついた。まだ彼が来ていなかったからだ。
でもまだ八分前、来ていなくても全然普通だ。
うーん、と伸びをすると、鼻先をさわさわと潮の香りがくすぐった。そんな些細なことで心が緩んでいく。公園のすぐ目の前、広大な海へと、さやかは香りに吸い寄せられるように近づいていった。
そんなさやかの足には白のスニーカーが履かれている。おしゃれで、なおかつ気張っていないスタイルになるように調整した結果、公園デートにはこれが一番、と、これまた新たに購入したものだ。しかもこれなら初デートでも疲れにくく一石二鳥なのである。
頭上をかもめが優雅に、一筋の流れに乗って海の方へと飛んでいった。なんとものどかな光景だ。一羽が飛んで、後ろからまた一羽。地面に映る薄淡い影が、そのたびにさやかの前を通り抜けていく。海と陸とを隔てる黒い柵に手を載せると、見下ろす海面にも数羽のかもめの姿があった。
ぷかぷかと浮かぶかもめの群れを、近くにいる真面目そうな少年がやけに熱心に写真に収めている。まだ中学生くらいにしか見えないその少年は、なぜか上下黒のスーツを身に着けていて、精悍そうな顔立ちと相まって悪目立ちしている。それでもスマートフォンをかもめに向けるあたりは年齢相応で、さやかは心の中でくすりと笑った。
見渡す限りの空と海は、両手を広げて頭上を仰ぎみたくなるほど広い。どちらの青も美しく、そのこともまたさやかを嬉しくさせた。天から差す日の光はまばゆくて強い。だがそれも気持ちいい。普段は日焼けすると毛嫌いしているくせに。
こんなふうに太陽の下にいるのなんて、随分久しぶりだな。
だが海に背を向け柵に背を預けると、さやかは自分が独りきりなことをなぜか実感していた。
向かい側、しゃわしゃわと水流を吐き出す噴水に群がる子供達には、見守る家族らしき大人が付き添っている。行き交う人々の多くもそばには誰かがいる。笑みも、ちょっと不満げな顔も、応じる表情も動く口も。誰かに向けているからこその鮮やかな彩りを含んでいる。
だがそんな辺り一面に咲き乱れる花のような群衆の中で――さやかは一人だった。
ああ、早く来て。
わたしにも共に過ごせる人がいることを思い出させて。
あまり来たことがない場所だからか、ふいに覚えた寂しさが疎外感へ、疎外感がみじめさにまで増幅していった。
さやかは真新しいカットソーの裾をそっとつまみ――とうとう、うつむいた。
無理しておしゃれしてきたように見えないだろうか。
ボーダーなんて自分には若すぎただろうか。
編み込んだ髪型も浮かれすぎて見えないだろうか。
ラズベリー色のスカートも、それに合わせたリップも鮮やかすぎたかもしれない。
チークだって、もうちょっと控えめにしてきた方がよかったかも……。
身に着けているすべてのものが初デートを勇気づけるチャームどころか重しになっていく。
より深くうつむいたさやかの視界に足元、まだおろしたての白のスニーカーが入り、
「ああ、失敗したかも……」
今度こそ、さやかはがっくりと首をうなだれた。
いくら今スニーカーが流行っているからといって、社会人同士の初デートなのだからヒールのついたパンプスを履いてくるべきだった。彼はスーツの似合う人だし、きっと今日もジャケットやシャツといったコンサバな服装で来るだろう。
そうだ、彼とはこれまで会社でしか共に過ごしたことがなかったけれど、たまの談笑の端々からもそちら方面のファッションを好みそうな気がする。いや、きっとそうだ。
今日も待ち合わせ場所が公園だからと、カジュアルさを基本とした装いを追求してしまったが……。このすぐそばには赤レンガ倉庫もあるし、散策がてらちょっと足をのばせば雰囲気のいいレストランはうなるほどある。ここはそういう地域なのだ。
ああ、私ってなんて気が回らない人間なんだろう。
もう一度昨日までをやり直せたなら、絶対にこんな格好はしてこなかったのに……と、後悔ばかりが募っていく。
せめて今朝に戻りたいよ。
さやかはぎゅっと目をつむった。
そうしたら、私……。