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びゅうびゅう山

作者: 周防 夕


 バスの乗車時に機械から整理券を引き抜いて、間野山(まのやま)の頭に暖かな情景が浮かんで消えた。幻影の正体を探りながら車内へ進む。数日分の衣服を詰めたボストンバッグを隣の席に置こうと考えながら、彼は最後列の五人がけの席へ足を向けた。途中で気が変わり、一列前の二人がけの椅子に腰を下ろす。彼の他に乗客は居ない。

 光(あふ)れる水彩画のような、あの情景は、いつの景色だろうか。間野山は記憶をたぐる。彼の齢は二十代半ばくらいだろう。チャコールグレーのスーツ姿で、白いシャツに紺のネクタイをしている。新入社員のような格好だが、ジャケットはくたびれていて、髪に潤いはなく、目の下は薄く青に染まっている。

 バスはまだ出発しない。整理券をなくさないようにと財布へしまう。

「あっ」

 五人がけの席へ彼は振り向く。思い出が重なって見える。母に寄りそい疲れに眠る少年の姿が見える。

 料金一律性のバスが多い東京で育った彼にとって、バスの整理券は旅行の象徴であった。幼い頃、両親と伊豆旅行にいった。眠りこけて券をなくして母に怒られた。眠る自分を目にすることは出来ない。この幻は己の印象によって構築されたものなのだと彼は察した。

石竜子(とかげ)ノ川前経由、微雨山(びうさん)行き、出発いたします」

 運転手は老人だろうか。ひどく、かすれ声だ。寂れた駅の停留所からバスが走り始めた。乗客は間野山一人、革製のつり革が揺れ、木の床が鈍く光る。彼は目をつぶる。この旅は幼い頃のように心躍るものではなかった。


「一緒に居ても、いつも、つまらなそうにしてるから」

 彼女の優しい言葉を思い出す。女の顔に悪意はなく、涙ぐんだ目から感じるのは哀れみだった。彼女は苦しげに間野山へと別れを告げた。

 二人で行った秋の京都、バスの座席で肩を寄せ合いながら旅行雑誌を眺めた。とても楽しかったように覚えていた。けれど、彼女の言葉を受け取ってから、自分は楽しげな振りをしていただけで、本当は退屈だったのではないか、という疑いが付きまとうようになった。己のうつろな印象よりも、彼女の言葉の方が正しいように思えたのだ。

 私生活、それも恋愛事などで仕事に影響が出るとは考えもしなかった。いつもと変わらず業務をこなしているという自覚もあった。ただ、月の残業が八十時間を越えてから、間野山はひどく頭痛がするようになった。そうして深夜の帰り道で車にかれた。


「石竜子ノ川は通過します」

 目を開けて、窓の外を眺める。石竜子ノ川は枯れ草と岩ばかりが目立つみすぼらしい川だった。停留所の近くに閉じて久しいであろう料亭がある。くたびれた建物の横には色あせた看板が立っていた。「いろんな岩が見られるゾ! 楽しい川下り」と書かれた文字の下には、二頭身ほどにデフォルメされた人々、にこにこ笑う船頭、驚きに目を丸くした少年、その父母、皆が船に乗る姿が描かれていた。少年の頬のペンキはがれ、赤くびついている。泣いているみたいだな、と間野山は心の中でつぶやいた。


「いつになったら会社に来られるんだ?」

 上司の言葉を思い出す。四十の半ばになってもスポーツマンという風体で、大きな手振り、大きな声で語る。それは相部屋の病室でも変わらない。分からないと答えると、医者まで問い合わせてくれた。回答に納得がいかず交渉までしてくれた。病院で出来る仕事を手配してくれた。必要とされるのが間野山はうれしかった。

 気づくと主治医が変わっていた。意味があるのか分からない問答を何度もした。医者は案内の書かれた紙を手渡して「こちらでしばらくお休みください」と告げた。上司に止められると考えて、彼の顔をずいぶんと見ていないことに間野山は気づいた。その時は見放されたような気分だった。


「次は終着、微雨山、微雨山」

 バッグ外側のポケットから三つに折られた紙を引き抜いて開く。「指定療養所『微雨山』安らぎと癒やしの日々をあなたに!」という大見出しが目に入る。イラスト付の観光案内図も記されていたが、印刷の質が悪く小さな文字は潰れてしまっている。紙をしまって外の景色を眺めた。

 季節は夏から秋へ移ろう頃、辺りを囲う山々は嵐山のように鮮やかではない。くすんだ緑と、腐ったような茶色、禿げてあらわになった地面の灰色が見える。山と川の形に合わせて蛇のように曲がる道、その先に楽しげなものが待っているようには思えなかった。


「到着しました。お忘れ物のないようご注意ください」

 運転席横の降車口まで歩き、整理券を出して料金を払おうとした。想像したよりも運転手は若く、同い年くらいに見えた。顔にしわは無いものの肌にはりはなく、ゴムのお面をかぶっているような印象をうける。小さな目は左右に離れていて、こちらを向いても焦点が合わず、自分のことを見ていないような気がした。

「ああ、どうぞ。療養所へ向かう方の料金は不要です。どうぞ、お降りください」

 おかしいと思いつつも、話し合う気も起きず、間野山はバスを降りた。停留所には雨よけの小屋があり、三人がけの木のベンチが置かれている。辺りを眺める。ずいぶんと山を登ってきたようだが、この一帯は切り開かれており、幾つかの日本家屋と畑があった。道の先へ顔を向ける。集落があるらしく、折り重なる幾つもの瓦屋根が小さく見える。合成繊維のバッグをかつぎ直し、彼は歩き始めた。



 家屋群へ向かう途中で道の舗装はなくなり、乾いた地面があらわになった。案内の用紙をバッグから引き抜いて指定された旅館「須ノ川」の位置を確かめる。大通りを進み、川に突き当たった所の左手にあるようだ。

 通りに面した家々のほとんどが商店だった。どれも瓦屋根の平屋で、黒ずんだ壁の木が時代を感じさせる。瀬戸物屋、醤油(しようゆ)屋、そば屋、土産みやげ物屋などが軒を連ねる。建物の間に小道があり、その奥にもくすんだ色の建物が並んでいた。けれど、人の姿は見当たらない。

 視線を感じて間野山は振り返る。ガラス戸に閉ざされた先に幾つもの目が光っていた。それは獣のはくせいだ。ワシやテン、カモシカのものもある。土産物屋だろうか。店主の姿はなく、営業しているかどうかも分からない。不安にかされ、間野山の足取りは速くなる。

 誰一人出会うことなく、目的地にたどり着いた。「須ノ川」は二階建ての木造家屋だった。通りに面して欄干のついた窓が三つあり、その奥に障子が見える。がたついた戸を引いて、玄関へ足を踏み入れる。

 ここにも人は居ない。薄暗くほこりっぽい玄関は三、四人が入るのでやっとだろう。一メートルはありそうな木製の室温計と背の高い振り子時計が目に入る。針が動いているのを確認して間野山は胸をで下ろす。ぜんまいを巻く人間は居るらしい。

「すみません。予約した間野山というものですが」

「どうぞ、いらっしゃいませ」

 どこから声が発せられたのか分からず、間野山はゆっくり辺りを探る。古時計の裏から女が現れた。えんじ色の着物を着た三十後半くらいの女で、目蓋の端に重りがつけられているように目が垂れている。足音もなく現れたことに間野山は戸惑う。

 本人確認もせずに、女は部屋を案内すると言った。間野山はろくに手入れもしていない安物の革靴を脱ぎ、女の背に着いていく。急な階段を上ると、狭い廊下を挟んで三つずつ部屋が並んでいた。

「こちらで」

 女は部屋の前でそれだけ告げて去ってしまった。これから暮らすにあたり尋ねたいことはあったが、ひとまず後回しにして戸を開ける。部屋は六畳で、中央にコタツが置かれていた。隣の部屋とはふすまでだけ区切られているようだ。床の間には掛け軸とがらケースに入った日本人形が、その隣にはブラウン管の小さなテレビが置かれている。

 バッグを下ろし、景観を確かめようと部屋の奥へと歩く。障子を開けると、寂しく流れる小川と一本の柳が硝子越しに見えた。一歩前に出る。安楽椅子や冷蔵庫が置いてあるような広縁を想像していたが、そこは他の部屋ともつながっている廊下だった。吐息が白く染まる。すきま風が吹き込むのかひどく寒気がした。部屋に戻り、コタツに入って背を丸める。

「トンネルを越えるとそこは……」

 そうつぶやいて、間野山は小さく笑った。中高生の頃に読んだ川端康成の「雪国」を思い浮かべる。雪は降っていない。けれど、押し入れの黄ばんだ襖も、補修された障子も、木の天井も、小説のような時代を感じさせた。

 医者は「お休みください」としか言わなかった。特にする事もないのでテレビを見ようとしたが、百円玉を入れないと使えないので諦めた。エアコンを動かすのにも小銭が要るらしい。余りに退屈なので、彼は外へ出て辺りを散策することにした。本屋で「雪国」の文庫本を手に入れようとたくらむ。知らぬ土地での小さな探検に心は軽くなる。

 貴重品だけ持って部屋を出る。この客室に錠は無いようだ。物音がして右へ振り向くと、隣の部屋から男が廊下に出ていた。

「おい」

 そう声をかけた男は二十代後半くらいだろうか、痩せ気味で背は高く、鼻筋の通った顔つきをしている。目つきは鋭い。浴衣の上に羽織を掛けている。

「何でしょうか?」

「新入りだろう。挨拶がしたかっただけだ」

 にやにやと男は笑う。不審に思いながらも、間野山は言葉を返す。

「それは、どうも」

「俺はしのかわっていうんだ。お前は?」

「私は間野山と申します。しばらくの間ですが、よろしくお願いします」

「しばらくの間か。ああ、そうだな」

 篠川はわざとらしく笑った。嘲られたように思えて、間野山は顔をしかめる。

「ああ、すまん。怒らないでくれ。そうだよ、しばらく、しばらく俺らはここに居るからな」

「何か、かんに障りましたか?」

「いいや。まあ、同じ病どうし、いつまでの生活になるか分からんが、よろしく」

「あなたは私と同じ病気なんですか?」

 そう尋ねて、間野山は自分が何の病気なのか知らないことに気づいた。

「そりゃそうだろう。ここの客は皆お仲間だ。まあ、こんな冷えた廊下で話し合うことはない。どこかへ行こうとしていたんだろう? 用を邪魔して悪かったな」

「いえ、ただ本でも買いに行こうかと思っていただけなので」

「本屋なら、出て左の橋を渡った先を直進して、こつとうと質屋の間の道にあったかな」

「ありがとうございます。……あの」

「俺も買い物に出ようとしていたんだ。お互い用を終えたら、親睦会でもするか」

「……ええ、是非」

「じゃあ、池の前で落ち合おう。本屋の道を更に奥へと進めばたどり着く」

 間野山はうなずく。篠川の背を見ながら廊下を歩き、玄関で分かれた。革靴が片付けられていたので、スーツにという奇妙な組み合わせで出歩くことになった。

 篠川という男を間野山は信用できずにいた。それでも、確かめたい事があったので誘いには応じた。分からないことが多すぎて、頭の中が濃い霧に包まれているかのようだった。



 目つきの悪い男の言う通りに進むと、倉のような作りのこつとうと、その奥に「質」という丸い看板が掲げられた質屋が見えてきた。二軒の間は車一台でさえ通れそうにない幅の道があり、重力にあらがうことをんだような縦にひしゃげた家々が並んでいる。しばらく歩くと、古びた木造建ての本屋があった。

 ガラス戸を引いて中に入る。店内は本棚に区切られて二つの通路があり、奥に勘定台があるようだった。背表紙を見定めながら歩く。箱に入った上製本ばかりで、色鮮やかなものは一つも目に入らない。文庫本を見つけられないまま店の奥に着いてしまった。

 店主は三十後半くらいの男で、片肘をつき、てのひらひたいを押さえて悩んでいるような素振りだ。こちらをいちべつしたものの、何も言わず視線を落とした。

「文庫本はありますか?」

 間野山の問いに店主はあごで示して返す。その先にはパラフィン紙に包まれた岩波文庫が並んでいた。カバーが着いていない色紙の帯だけが巻かれた昔の装丁のものだ。エメラルドグリーンの帯がついた日本文学のものを探すと、ぐ「雪国」は見つかった。手に取り、店主の前に出す。

「おいくらですか?」

 文庫に値段は記されておらず、背の部分に「★」の印が二つ並んでいるだけだ。店主は首を横に振る。

「売れないと言うことですか?」

「……あんたねえ」

 店主は顔を上げて、こちらをにらむ。

「あんたは、療養所の人だろう。そんな人から金はとらん。この村はそうなんだ」

「どういうことですか。ということですか?」

「あんたが知ってるでしょう。不要になったら戻しておくれ」

 しかめ面に押し負けて、間野山は追及する機会を逃した。しのかわとの約束を思い出し、しぶしぶ店を後にする。そうして文庫本を片手に道の奥へ進んだ。

 路地裏の一角に、小さなタイルが壁一面に貼られたパブらしき建物があった。店先へ並ぶ植木鉢に生きた草花の姿はなく、乾いた土と枯れ草のみが残っている。物珍しげに眺めていると扉が開いた。肌着姿の老婆が間野山をじっと見つめる。視線から逃れるために足を速めた。


 道を進むほど家はまばらとなっていく。十分ほど歩いた先に池はあった。十数メートルほどの広さで、向こう岸にはくすんだ色の木々が立ち並んでいる。ひがしやまかいの絵を雨ざらしに放置したような景色だと間野山は思った。池の前にこけの生えた木のテーブルとベンチがあり、羽織を着た男がこちらに背を向けて座っている。

「すみません、待たせてしまったようで」

「いいや、先にやらせてもらってる」

 間野山は池を背に男の対面へ腰を下ろす。卓上にはラベルの貼られていない茶色い四合瓶と二つの湯飲みが置かれていた。篠川は透明な液の入った方を手に取り、口をつける。

「お酒ですか?」

「ああ、焼酎だが。お前も一杯どうだ」

「いただきます」

 飲み会や酒の勧めを断るのは失礼のように思えて、間野山はいつも誘いを受けた。嫌われていないあかしのように思えたし、断ったために誘われなくなるのを恐れてもいた。篠川にいで貰い、湯飲みで軽く乾杯をした。うさんくさい麦焼酎を口に含む。彼は酒のしが分からなかったが、それでも、とてもしいと思える味ではなかった。

「まずいだろ」

 そう言って、篠川は笑う。その笑みから喜びやうれしさは感じられない。彼の笑顔にはいつも何かを馬鹿にするような色が隠れ見えた。

「好きな銘柄じゃないんですか?」

「いいや。ここで手に入るのはどれもうまくないんだ。安酒だ。だが、酒なんて物は酔えりゃあ良いだろう」

「はあ」

 篠川は間野山を見ずに、その先を瞳に映しながら口を開く。

「今や魚一匹も見えないが、この池には昔、ぬしが居たんだとさ。誰から聞いたんだっけな。同じ宿のやつだった気がする」

 間野山は体をひねって池を眺める。沈んだ枯れ木や底の土が目視できるほど水は澄み切っている。中央に小さなほこらがあった。

「昔、ひどく冷えた年があった。農作物は枯れ果てて、村はきんに襲われた。隣村から娘を下働きに出していた父母が心配になって、にぎり飯を作って子を迎えに行った。その道中、骸骨のように痩せたおんなじきに出会った。恵んでやろうかと母は尋ね、娘のために取っておけと父は答えた。すると女乞食は、『おとうさま、おかあさま』とつぶやいたそうだ。乞食が嘘をついた訳ではない。ふくよかで尻のでかかった娘は、枯れ木のように変わり果て、親ですら気づけなかった。にぎり飯をあげるも、急いで食って喉を詰まらせて死んじまったらしい」

 酒を注ぐ音が聞こえる。池の方を向いたままなので、語り手がどんな表情をしているのか間野山には分からない。けれど、篠川がその家族をあざわらっているような気がした。

「その頃、ここは森の中で、池は神の住まうところとしてまつられていた。濃緑の苔に遮られて水の中はほとんど見えなかったそうだが、巨大な魚影はよく目にされていたらしい。神の怒りを恐れて漁はしてこなかった。だが、そんな風に人死にばかりが続き、犬が主人あるじかばねを食うようになり、とうとう村長は神の池に手出しすることを決めた。村の男たちは恐る恐る苔を網ですくって魚を探した。けれど、急な土砂降りに強風、雷が男らを襲った。みな一目散に逃げた。そうして、村は池に手を出さぬ事を決めた。心労からか、天罰からか、村長は死んだ。それから、池の苔は氷が溶けたように消え果てて、その水中があらわになった。そこには、巨大な池の主どころか、小魚も、貝一匹も、居なかった。澄み切った水と、黒い土しか無かったんだとさ」

 間野山は振り返り、口を閉ざした篠川を見つめる。視線はすれ違う。篠川は笑いもせずに無表情で池を見ている。

「この村を現した小話だ」

 そう言って篠川は酒を飲み、片頬ほおをつり上げて笑う。

「あなたは私たちが同じ病だとおつしやいました」

「ああ、そんな事を言ったかな」

「それは、どんな病なのでしょうか? 私は医者に教えて貰えずに居るのです」

「知ってどうなる。それで治る訳でもあるまいに」

「それは、そうですが……」

 間野山が口ごもっていると、篠川は小さく息を吐き、彼にしては影の薄い笑みを浮かべた。

「そう困った顔をするなよ。俺は医者じゃないんだ」

「でも、あなたは、同じ病気と言った。知っているなら答えてくれても良いじゃないですか」

「病と言ったのはぜいげんだったか。そんな、大層な物じゃない。俺とお前の『それ』は同じではない。異なる所もないだろうが」

「それ、とは何ですか?」

「『穴』だよ」

 冗談を口にしているような顔つきではなかった。刃物を思わせる鋭い目つきで間野山を見つめながら、篠川は言葉を続ける。

「『空白』でもいい。いや、やはり『穴』だ。その言葉が、真実適切なのかは知ったことではないが、俺は、そう思う」

 篠川は目を伏せて歯ぎしりをした。酔いのせいか、ゆらゆらと頭が揺れている。まともに話が出来る相手では無いのかもしれないとうたぐって、間野山は一声かけて席を立とうとした。

 その時、地面が揺れた。

 かすれたうなごえが空気を震わしていた。目前の男が発した物ではない。喉を詰まらせたように苦しげな呻きは遠くから響いていた。こちらの胸の内をえぐるような、ひどく不快な音だった。数分は続いただろうか。音は徐々に小さくなり、ぷつんと消えた。元あった音をこそぎ食らっていったかのように、辺りは静寂に包まれる。

「あの山の神様の泣き声だ」

 篠川は青ざめた顔で遠くを見つめている。視線の先にあるのは、村の大通り正面にある小山だ。

「日本じゃ、どこの山でも神様はしこと決まっている。あの音は、己の醜さを悲しみ、すすく山神の声なんだとさ。びゅうびゅうと聞こえるだろう。だからびうびう山、微雨山なんて名がついた。どうせ、どこかの洞窟に吹き込む風の音というのが真実なんだろうが」

 日が暮れていく。夕焼けを背に微雨山は炭のように黒ずんでいく。空気が静まったことで、間野山は己の手が震えていることに気づいた。鼓動が強く響く。それは自らの生命力を感じさせると言ったたぐいのものではない。恐怖に面して心臓が外へ逃げようと暴れているかのような響きだった。

「さあ、帰ろうぜ。我らが、しばらくの住まいに」

 間野山はうつむきながら歩く。頭の中にかかった霧は晴れることもなく、むしろ、より濃くなり、それを銀幕スクリーンとして、幾つものぼやけた映像が投射される。骸骨のような女、肌着姿の老婆、水の底の大きな影、そしてすすり泣く女の姿……。



 布団からはほのかなかびの香り。吐息は白く染まる。安酒を飲んだせいか、間野山はひどく頭が痛んだ。旅館に帰り、夕食も取らず布団を引いて横になった。もうろうとしているに、夜は更けきっていた。

 娘を迎えに行った父母は、どうすれば子を救えただろう。飢えて変わり果てた娘に、食べ過ぎるなとたしなめて、少しずつ恵めば良かったのか。彼女は死んだ。飢えた心に殺された。

 池から魚を捕れば良かったのか。いいや、そこには何もなかった。大きな魚影は未知への想像が作り出した幻影か。とうとぶべき物があるように思えて、蓋を開ければ何もない。あのうめき声が風の音というように、いにしえの怪奇は学問が解明してくれる。何にも無いと教えてくれる。

 目をつぶると、肌着姿の老婆が思い浮かんだ。彼女はまだパブを営んでいるのだろうか。薄暗い中でなら厚化粧をした老女にさえ美しさを感じられるのかもしれない。それとも酔いのヴェールが必要か。彼女は老いている。ひび割れたしわ、化粧に痛んだ目蓋、落ちくぼんだ目、光のない瞳。

「ううぅ」

 山から響いた音を間野山はる。もっと低く、かすれた声だった。

「ううぅぅ……」

 恋人の瞳を思い出す。ベッドで寝転び、互いの鼻が触れあうほどに近寄って、彼女の瞳を見つめたあの時を思い出す。女のほおにまつげが一本落ちていて、抜けた所はないか目で探った。見つける前に彼女は男の胸に顔を預けた。女の瞳はまぶしくて、男は正視することが出来なかった。その輝きは女の内なる活力を表しているように感じられた。

 そんな力を自分が所持していた事があっただろうか、間野山は己に尋ねる。今思えば、仕事を始めた頃は人の役に立ちたいとの思いで力がみなぎっていたような気もする。才覚の乏しい己に出来ること、己が手に入れられるもの、己に待ち受ける生活、それらが明確になるにつれて、思いは霧散していった。

 それでも、仕事を続けられたのは、平凡な幸せを夢見られたからだろう。平均の六割ほどの給料で雇われながら、借金ローンでマンションの一室を買い、我が家で待つ妻と子のために働く。いつか訪れるはずのそんな日々だけが心の拠り所になっていた。仕事でひどく疲れるほど、その暮らしに近づけたように思えて、どれほどの激務も彼にとっては義務へと変わっていた。

 彼女は大学生の頃していたアルバイト先の後輩で、少しの抜けた、けれど優しい子だった。労働時間が長くなるにつれ、女との距離が広がっていくのに気づきながらも、彼はどうしようとも思わなかった。ある日、女が彼のアパートに泊まりに来て、間抜けな彼女は、意図せず他の男の存在を彼に気づかせてしまった。間野山は追求することもせずに独りで寝た。肌を重ねる喜びは、単に肉欲から発せられるのではなく、無防備な己を見せられるほど相手を信頼しているから与えられるのだろう、などと考えながら。

 恐らく彼はひどく傷ついただろう。それでも客観性を持つのだと己を励ました。たとえば、もう少し仕事が落ち着けば元のように戻れるだとか、彼女と別れても世の中には他の女たちが居るだろう、だとか。そのもっともらしい言葉の空虚な響きに、彼は段々馬鹿らしさを感じるようになった。

 ああ、そんな気まぐれで、ほこりのように吹き飛ぶものが、己が心より求めた幸せなのだろうか。優しい妻、元気な子供、定職、ホームドラマに描かれたような幸せの規範、なぜ、そんなものを求めてきたのか。周囲の甘言に乗せられたのか。では逆に、自分が心から欲するのは何だ。地位や名誉か。夢見たことはあっても、心血を注ぐほどには求めていない。勉学や仕事、暮らしの中で、絶対的な、全てを賭けられるような欲求を感じたことはあったか。無い。昔から消去法で生きてきた。彼女との暮らしを夢見たのは、今の自分が得られる「幸せ」がそれしか残っていなかったから。漠然と自分のことばかりを考えている。そんな男が、他人を幸せに出来るものだろうか。幸せになれるものだろうか。そんな男に、人間としての価値があるのだろうか。自分には無い。自分には欠けている。そう気づいた時、彼は己の『穴』を知る。

「ううぅ……、ううぅぅ……」

 間野山は呻く。胸の『穴』へ強い風が吹き込んだかのように。口から息が漏れるたび、体の内がぼろぼろと削れていくように感じられた。指先からひっそりと感覚が失われていく。それは病か、眠りゆえか。苦しさも、悲しさも、寂しさもなかった。風が吹くほど、彼の心は安らぎを感じるのであった。



 トオマス・マンの長編小説二作と、プルゥストの代表作を読み終えるくらいの時間を、間野山はこの村で過ごした。義務のない暮らしに緩急はなく、時の認識もだいぶうつろになった。浴衣に羽織姿の間野山は、旅館の傍らにある石橋の上で川を見つめている。

「おい、何をしてんだ」

 振り向くと片手に酒瓶を携えたしのかわが居た。まだ昼前というのに飲み始めているらしく、鼻先は赤く染まり、目は血走っている。ほおや目の下は青ざめていて、その赤と青の対比が余計に彼を病人らしく見せていた。

「川を見ていた」

「ずいぶん詩的なことだな」

 篠川は彼らしい人を小馬鹿にするような笑みを浮かべる。その表情と向き合っても、間野山は特段不快にはならなかった。

「その通りかもしれない。子供の頃に習った『ゆく川の流れは絶えずして』という文句を思い出していた」

「それで、何を考えてたんだ」

「人間のおもいも泡のようなものかもしれない。心臓から血管を巡って血が流れる。食後に眠くなるのは、胃に血が集中して脳の分が足りなくなるから。いくら論理を教わっても、人の思考や感情は制御できない。血の川に浮かぶ泡沫あぶくのようなもの。そんなものを有り難がる必要はないのかもしれない」

「死別の悲しみも、食後の眠気も、大差ないと言いたいのか?」

 返事もせずに目をそらし、間野山は橋の下を見た。枯れ草と小岩ばかりの川に生き物の影はない。

「なあ、お前は、かえるの解剖をしたことがあるか?」

 篠川が背中越しに尋ねた。間野山は振り向かずに答える。

「いいや。ない」

「俺もない。ただ、授業でかいこの幼虫の解剖をしたことがある。まず、生きている内にスケッチをする。そんで、あおけにして、頭と尻に針を打って動けなくした。芋虫を殺すなんて大したことじゃないと思っていたが、その時は少し気味が悪かった。これから俺はこいつを殺すんだってな。腹に刃を沿わすと、れいに割けて、体液があふれた。そうして、糸を作る器官だとか、蚕の卵巣とかが、どんな形で、どこに格納されているのかを知った。殺して初めて、その内側を知れた。生きている内には決して見えなかっただろう物を知れた」

「蚕にも、卵巣があるのか」

「そりゃそうだろう。卵を産むんだから」

 間野山は楽しくもないのに、笑った。その笑みはどこか篠川のものに似ていた。

「あ、珍しいな。あいつが出歩いている。おい、はりがい

 旅館と反対の岸から、小太りの男がこちらに歩いてくるのが見えた。五分刈りの坊主頭に、垂れ目で低い鼻という顔立ちで、歳は三十近いだろうに幼い雰囲気がある。篠川に声をかけられても反応はなく、まっすぐ前を見たまま歩を進める。風呂敷包みを片手に携えていた。

「間野山は針谷と会ったことあるか?」

「いや、ない」

「『須ノ川』の先輩だ。変な男だ」

 石橋まで着くと、小太りの男は篠川へ目を合わせずに頭を下げ、そのまま通り過ぎようとした。

「待てよ、針谷」

「なんですか」

「こいつは宿の後輩だ。挨拶くらいしておけよ」

 針谷は立ち止まり、何を言うでなくこちらを見つめた。間野山が視線を返すと目を伏せた。

「初めまして。間野山と申します」

「僕は針谷だ。僕は用がある。帰る」

「ああ、俺も戻ろうかな。間野山はどうする?」

 屋外だろうと、部屋に居ようと、ぼうぜんと時を過ごすだけで何も変わらない。よどんでいると、急に鳥肌が立った。空気が震えている。あのうめき声が響いているのだと少し遅れて間野山は気づいた。山から響く呻きはこの村では日常の一部であった。

「ああ。くそっ、くそ」

 針谷は石橋の端まで走り、うつむきながら高欄を蹴りつける。 篠川は酒瓶を持つ手を震わしながら青い顔で笑っている。間野山は口を開けながら山を見つめ、ひゅうひゅうと息を漏らす。しばらくして、うなごえは消えた。

「神様だ。また、神様だ。山のほこら、神様だ……」

 針谷は小さな声で繰り返し呟く。篠川はふらつきながら彼の横まで歩き、声をかけた。

「あの山に祠があるのか?」

「山の神様、他の客が言っていた。山、階段を上ると、洞穴があって祠がある。そこからの声だ」

「そりゃ、山頂とかにあるのか?」

「遠くない。村の人はおまいりしてる。遠くない」

「初めて聞いた。面白そうだ」

 血の気が引いたままの顔で、篠川はけたけたと笑う。

「山神様の祠に行ってみないか。まだ昼前だし、たまには体を使うべきだ」

 運動すべきと毛ほども思っていない口ぶりで篠川は語る。間野山は深く考えもせずに同行する意思をうなずいて伝える。

「僕は行く。早いか。いや、僕は見る……」 

 濁った瞳に微雨山を写しながら、針谷は聞き取れないほどの早口でつぶやいている。人語というよりもおうものに近いと間野山は思った。そうして、針谷の『穴』の広さを強く感じるのであった。



 針谷が手荷物を部屋に置いていきたいと言うので、三人は一度『須ノ川』に戻った。間野山としのかわは無言のまま玄関で時間を潰している。共同の風呂と便所を使っているのに、他の客とまるで顔を合わさないことに間野山は気づく。他にもまだ旅客は居るのだろうか。篠川に尋ねれば分かるかもしれない。だが、無言のを埋めるために大して興味のない問答をするのもおつくうで、彼はただ時計の秒針を目で追うことにした。

 二階から針谷が降りてきて、さて向かおうとしたその時に、物陰から生気の薄い女中が現れた。

「お山のほこらに行かれるのですね。洞窟は薄暗いですから、こちらをお持ちください」

 そう言って女中は懐中電灯を間野山に手渡す。単一電池が二本入った鉄製の物で、ずしりとした重さがあった。

「洞窟は、途中、道が分かれています。初めを左に、次を右に、その次を右、最期に左。お忘れ無いように……」

 誰も女中へ返事はせずに背を向けて外へ出た。思えば彼女も変な女だ。大してうまくもない飯ではあったが、腹がき始めた頃を見計らったように配膳してくれた。宿の主人や板前の姿を見たこともない。実は彼女が女将おかみなのだろうか。疑問は明らかにする前に頭の中で溶けていく。そうして、三人はだ見ぬ洞窟へ吸い込まれるように歩き始めた。


 大通りを直進し続けると、山の斜面に作られた石の階段に突き当たった。四、五分ほど歩くと、石材は段々朽ちた物に変わり、更に進むと踏み固められた土の道となる。辺りは青緑の色合いで、健やかな黄緑と真逆のいんうつな空気が漂っている。密生した羊歯しだささが所々道を塞いでいた。

「針谷、さっきは何を持っていたんだ?」

「本だよ」

 先頭は針谷、その後ろに篠川、間野山と続く。二人ぐらいは並べそうな道幅だったが、彼らは一列で歩いている。

「それなら、間野山と話が合うかもな。詩人だから」

「僕のはそう言うのと違う。漫画だ。馬鹿にするのか。また、お前は」

「さあ、知らん」

 怒りを表すように針谷は地団駄を踏んだ。話し相手がかんしやくを起こしても篠川は素知らぬ顔だ。

「あのおやも、のもんだって言って。僕の『漫画少年』を捨てやがった。だから、やってやったんだ。あの親父……いや、もう良い。どうでも良い」

 針谷は前を向いたまま早口で語り続ける。穴が空いた風船のように彼の怒りは膨らまぬまましぼんでいった。

「俺は『ガロ』が好きだけどな。びうびうと吹く風も、白土三平のトリックでありそうだ」

「ガロなんて知らん。洋書か。知らん」

「最近、創刊されたやつだよ。本当に知らないのか?」

 その問いには答えず、針谷は黙々と歩を進める。話す気がせたという雰囲気ではなかった。目前の男が人の言葉を急に認識しなくなったかのように間野山には感じられた。

「間野山は知ってるだろ?」

「さあ。漫画は読まない。それより、酒を持って行くんだな」

 篠川の片手には無色の曇りがらの四合瓶が握られている。

「ああ、せっかくだから神様にささげるのさ。と言っても罰当たりに、くすねたもんだが」

「酒屋から盗んだのか」

「最近、酒屋の店主がけちまったようで、何を言ってもほとんど返事しねえんだ。アル中の成れの果てだ」

「店主は酒飲みなんだな」

「昔はそうだったみたいだ。今は知らん」

 言葉を交わしながら坂道を歩いているのに、不思議と息は切れなかったし、体も熱くならなかった。篠川の話を聞き流しながら、間野山は洞窟について考える。あのうなごえはそこから響いているのだろうか。もしそうならば、洞窟のどこかに喉となる部分があるはずだ。己らは自らだいだらぼつの大口に飛び込むのか。桃色の岩肌を頭に浮かべ、間野山は馬鹿げた己の空想を笑う。


 傾斜が緩くなった辺りで、道は鎌のように大きく曲がっていた。その先には木目の露わな灰色の鳥居が建てられていた。一同は道の端によって小さな鳥居をくぐる。岩肌にぽかりと開いた洞穴が見えた。

 穴は少しかがめば入れると言った広さで、明かりはともっておらず、その奥には闇ばかりが続いている。針谷が急に振り向いた。目を見開き、間野山を眺める。無言のまま懐中電灯を奪い取ると、迷うことなく洞窟へ歩を進めた。乗り気だったはずの篠川は針谷の背中を見つめたまま足を止めている。灰色の岩壁に空想したような不気味さは無かった。ただ、鳥居をくぐったせいか、間野山は辺りに異様な空気が広がっているように思えた。そうして、想像したよりも小さな口からは、幼いころのぞんだ井戸のような底知れぬ深さが感じられた。

「……間野山、俺らも行くか。針谷一人で進んじまいそうだ」

「ああ」

 頭を下げて首を突き出し、洞窟に入る。外で見た印象とは反対に中はほのかに明るかった。腰を屈めながら進むと、ぐに針谷の後ろ姿が見えた。背筋が伸ばせるほどひらけた所で彼は立ち止まっている。道の先は二股に分かれていた。

「初めは左……」

 女中の言葉をはんすうするように針谷が呟く。一同は左の道へ進む。間野山はただ前の二人に付き従う。時折、体勢を崩して岩壁に触れた。の肌のような質感でひどく気色悪かった。奥に行くほど暗闇は濃くなり、懐中電灯なしでは歩くのがおぼつかなくなった。

「待てよ、針谷」

 低い声で篠川が呼び止めた。針谷は油の切れた玩具おもちやのようにぎこちなく振り返る。それは幾つかの分かれ道を経て、再びさんに差し掛かった所であった。

「三度目の分かれ道だから次は右だろう」

「次は左だ」

 相手の言葉を無視して前を向き、針谷は歩き始めようとした。篠川が手を掴んで止める。女中の言葉も、道についても、共にうろ覚えだったので、間野山はどちらの主張が正しいか分からない。

「いや、俺はちゃんと数えたぜ。針谷、お前は何度道を曲がったか覚えてるか」

「次は左だ。僕は知ってる」

「質問に答えろよ。懐中電灯は一つしか無いんだ。この暗さじゃ一緒に行動するしかない。迷子はごめんだ」

「……ど、どう、洞窟は、途中、道が分かれています。初めを左に、次を右に、その次を右、最期に左。お忘れ無いように」

 それは伸びたテープを再生したような声だった。いつもとまるで異なる声色で、針谷は女中の言葉を再現して見せた。間野山は全身のしびれと共に既視感デジヤブを抱く。胸の内側からが染み出るような不快感があった。この空間への強い嫌悪に彼はようやく口を開く。

「一度、来た道を戻ろう。次は二人で確認しながら来れば良いだろう」

 篠川が振り向く。彼は目を丸くしている。一人下山するつもりだったのを見透かされたと思い、間野山は後ろめたさに顔を背ける。だが、篠川は間野山の発言に驚いている訳ではなかった。

「どうしたんだ、篠川?」

「……お前も振り向けば分かるさ」

 間野山はゆっくりと首を回した。壁ははすたくのようだった。一面に数えきれぬほどの穴が空いている。その、どれもが先の見えぬ深い暗闇を蓄えている。地面に面した穴が十数はあった。自分が来た道がどれなのか、間野山には分からなかった。



 依然と左へ進もうとする針谷を二人がかりで押さえ、しのかわが懐中電灯を奪い取った。強くあらがわれたが、一旦灯あかりが手から離れると奪い返そうとはしなかった。針谷は歩きもせずに体を左右に揺らして「左だ、左だ、左だ」とだけつぶやいている。間野山と篠川は少し湿った地面に腰を下ろし、これからどうするか話し合った。ここまでは正しい道順のはずなのだから、闇雲に動くよりは誰か来るのを待つべきだという結論になった。

「普通ならば、飢え死にするより早く、女中が不審に思って助けをしてくれるだろう」

 篠川が言った「普通ならば」という言葉だけが間野山の耳の中で残響をする。あの女中、もしくは、あの山村は普通なのだろうか。目つきの悪い男のちようしようは、己の言葉のうつろさへ向けられているようにも感じられた。

 篠川のてのひらにある懐中電灯は上へ向けられ、彼の手が揺れるたび天井のおうとつあらわになった。幾つもの陰影から人の顔のような像を見つけることが出来た。苦しみ、怒り、悲しみ、そんな表情ばかりに思えて、間野山は喜ぶ顔を探す。

 そうやって視線をさまわせながら、間野山は篠川と自分たちのことについて話した。針谷は仕立屋で修行中に主人とけんをし、徹夜で店のマネキンに大量の針を刺した。篠川は電子計算室という新設の部署に一人配属され、幹部からの理不尽な扱いに激怒し数百万する機械を破壊した。

「その時、どうせいしていた女が子供嫌いでなあ。ひでえ女だった。スーパーで走り回る子供を突き飛ばして、嘘みたいにれいに笑うんだ。何でこんな女を好かねばならないのか、己の身を呪ったもんだ。この村で休んで、俺も少しはまともな人間になれるかとも思ったもんだが」

 そんな篠川の話を聞いて、間野山も珍しく自分のことを口にした。楽しげに語り続けることで、暗闇に潜む何かが己らに忍び寄るのを防げるような気がしていた。似たようなことを篠川も感じているらしかった。

「俺が小学生の頃だったかな。コンクリートで舗装はされているが、ぐ降りられて、ザリガニの捕れる川があった。少し家から遠くて、友達二人と自転車で遊びに行った」

 話題に尽きたのか、篠川は昔話を始めた。いつものような嘲笑は影を潜め、彼としては珍しくおどおどした様子だ。それは、叱られるのを恐れながらも、後悔から悪事を報告する子供の姿とよく似ていた。

「二人はザリガニを捕るのに夢中になっていたが、俺は直ぐに飽きて、辺りをうろついた。他の小学校からも子供が来ていた。下水口というのかな。コンクリートの壁面に直径一メートル半くらいの土管が飛び出ているのを見つけた。この先はどうなっているんだろうと、不気味で楽しい想像が膨らんだよ。そうやって立ち尽くしていると同い年くらいのやつが俺の隣へ並んだ。初めて見る顔だった。そして、奥はどうなってるんだろう、とそいつが言うんだ。怖いな、って」

 篠川は天井を見上げる。彼の瞳に映るのはどんな顔であろう。

「俺は強がって、怖いのかお前は、と言って、穴に入った。怖くないよ、と言ってそいつは着いてきた。しばらく歩いた。数メートルくらいだろうに、ずいぶんと長く感じた。分かれ道に着いた。お前は怖がりだから、途中で戻るだろうと俺は言った。名前も知らんそいつは、戻りやしない! 進む! と言って、二人別の道を歩いた。俺は数歩進んだだけで、一人で居るのが不安になり、外に出たくなって、でも、そいつに馬鹿にされるのが嫌で、忍び足で川に戻った。少し離れた所でザリガニを捕る振りをしたよ。あいつがいつ出てくるか、横目で確認しながら。日が暮れて、夕焼けの歌が流れて、守口と継田が帰ろうと言った。そうして、俺は家に帰った。あいつは、土管から出ては来なかった。今も気になっている。あいつは、どうしているのだろうな。名前も知らぬあいつは……」

 言葉は絶えた。返す言葉が思い浮かばず、間野山も口を閉ざす。

「左だ、左だ、違う……いや、あっ、あっ」

 針谷がつぶやくのをめて壁に向かって駆けた。うずくまり、何かから隠れるように身を縮めている。緩やかな風、水滴の落ちる音だけが残るかのように思えた。だが、そこに他の音が潜んでいることに間野山は透かさず気づいた。

 それは人の足音と吐息らしかった。篠川も気づいたらしく、口に手を当てて辺りを見回している。二人とも喉を震わす気にはなれなかった。

「うぅぅ…ううぅぅ……」

 聞き覚えのある音だった。それはまだ声であったが、そう遠くない内に人にとってただ雑音ノイズされそうな、ひびの入った響きであった。針谷がいつの間にか篠川の元へ忍び寄っており、懐中電灯を取って静かに灯りを消した。

「ひうぅ……ひううぅぅ……」

 後方の穴の一つから、うめきと共に一人の男が現れた。暗闇でもその姿形は捉えられる。腰の曲がった老人のようだ。灯りも持たずによろよろと歩いてくる。篠川がかすれ声で「酒屋のおやだ」と呟いた。ほこらにおまいりに来たのだろうか。顔見知りならば道を案内してもらおう。そう言える空気ではなかった。

 老人はこちらへ迫ってくる。間野山には、その姿たいが白黒映画で見た生きるリビングデツドと重なって見えた。三人に気づく様子もなく、老人は口から乾いた空気を漏らしながら彼らの横を通り過ぎていく。

「ひうひゅう……うう……ううぅぅぅう」

 酒屋の店主の顔を間野山は初めて見た。老人というのは誤りであった。男の髪の毛は黒の方が多かったし、顔のしわは浅かった。間野山とそう変わらない歳なのかもしれない。ただ、生気が欠けていた。頭は禿げてまだらに頭皮がのぞいている。手足は力を込めても漏れてしまうように小刻みに震えている。そして、黒目からは光がせ、まるで眼球に穴が開いているようだった。それは、生きたまま骨から肉を切り取られた、づくりの魚の瞳とよく似ていた。

 男は左の道へと進んだ。その姿は直ぐ暗闇に溶けた。三人は無言で固まっている。間野山は強い鼓動に救われる思いであった。その音が自分がまだ生きていると証明してくれるように思えたのだ。

「ううううぅぅぅ……あっ……あぁぁ……」

 大きな呻きが空気を強く揺さぶった。それは何かがはじけたような音だった。あの男が発したとするならば、それは余りに力強かった。

 針谷が立ち上がり、甲高い声で意味の分からぬ言葉を叫びながら駆けだした。数ある穴の一つに飛び込む。彼を追って篠川も走り出す。間野山もその後を追った。この場所から逃げなければ、更に忌まわしいものを感じることになる。そんな予感があった。


 己の肉体からださえ覆い隠す濃い闇の中、息を切らしながら走る。本当に地面を歩いているのか、そもそも自分は歩いているのか、そんな疑問さえ頭に浮かぶ。ぐらぐらと目が回り、平衡感覚が虚ろになっていく。時折ちらつく光だけが頼りであった。

 小さな光の帯が天井に向かって伸びていた。その下で男がかがんで丸くなっている。淡い光が辺りに広がり、間野山は己の体を取り戻し、篠川の背を目にすることが出来た。懐中電灯を片手に持った針谷を彼は見下ろしている。道の先は行き止まりであった。

「何が親孝行だ……。僕は悪くない。いいや、本当は。お母さん。笑って欲しかった。ごめんよ。僕は悪い。何でなんだ。ごめんよ……」

 針谷の感情は整理されぬままに言葉となってあふる。灯りを見つけたことで緊張がほどけ、間野山は篠川へ背中越しに声をかける。

「さっきの下水口の話だが」

 針谷のうわごとがこだましているのを気にもかけず、間野山は口を動かし続ける。

「彼は無事に穴を出て、中高、大学を順調に卒業して、良き伴侶とわいい子のために働いている。まともに生きている。たぶん、そうだ。だから気にかけることはない。むしろ、ずっと穴から抜けられないのは……」

「……はははは。ああ、そうだな。お前の言うことは正しい」

 篠川がけたけたと笑う。間野山も乾いた笑みを浮かべる。針谷は己の生を呪う。

 その時、湿った空気が吹き抜けた。そうして、村でよく耳にしたあの響きが空気を震わす。人の胸の内をえぐるような、虚ろで不快なあの響きが、いつもとは異なる濃度で我が身をでる。間野山は鳥肌の立つ胸をかきむしる。彼は、あの音の正体を知った。

 脇目も振らずに駆けた。穴の中では、どこにもその音が反響していた。視界を流れていく岩壁に幾つもの顔が見える。血の涙をこぼす少年、痩せこけたじき、皺ばかりの老人、彼らは口を開けて呻いている。間野山は走る。光を、救いを求めて、走り続ける。



 ある日、間野山はいつものように「須ノ川」の一室で目覚めた。鼻の大きな女中の出した飯を食らい、積んである本を手に取って、文字を目でなぞる。内容は頭に入らず、その本が初めて読むものなのか、読みかけなのか、それとも読み終えたものなのか分からなかった。しおりを挟まずに本を閉じる。

 もう何日も誰とも話していない気がした。人と面するのが、ただおつくうだった。この日々を、干からびた川の水車のような暮らしと彼は例えた。緊張も悪意もない、期待も好意もない、そんな毎日だった。

 部屋の外の便所から戻る時に、間野山は隣の部屋に客が居たことを思い出した。何という名だったか忘れてしまったが、気まぐれに隣室の戸をたたいてみた。返事はなく、彼は自室に戻った。窓側の廊下に出て隣室をのぞく。部屋の隅にほこりのかぶった火鉢が置かれており、永らく人の住んでいる気配はなかった。

 間野山は階段を下りて、を履き、外に出た。もう日は暮れかけていて、大通りには長い影が落ちている。びうびうとうなる山は夕焼けを背負い炭のように黒ずんでいる。道を歩く人々も逆光のために影絵のようだ。川沿いの冷えた空気を吸おうと彼は橋まで歩いた。

 石橋の上から川を眺めて時間を潰す。だが、時がつほど、我が身を振り返るような雑念が肥え太る。考えることをんで彼は本屋へ向かう。文字をなぞる間は己を失っていられた。

 歩けども本屋にはたどり着かなかった。いつもと同じ道を通ったはずなのに見覚えのない路地に居た。けかけた本屋の店主を笑えないな、と笑おうとして、間野山は頬の肉が凝り固まって動かないことに気がづいた。

 古びた木造の商店が並んでいる。漬け物屋、豆腐屋、そして酒屋があった。間野山は引き込まれるように歩を進め、戸を開ける。店の中には見覚えのある、ラベルの貼られていない酒瓶が並んでいる。入って直ぐ左に勘定台があり、店主が座っていた。

「……しのかわ?」

 間野山はその名を頭の奥から探りあてた。そうして、自分の頭にかかる霧が以前よりも更に強く濃くなっている事を知る。

「おい、どうしたんだ。酒屋で働き始めたのか?」

 返事はない。篠川の目は少し垂れて、あの鋭さを失っていた。顔全体から生彩が欠け、ほおの皮は重力にしたがって垂れている。

「篠川だよな? 須ノ川で泊まっていた」

「……酒は要らんのか? なら帰ってくれ」

 篠川は無表情のまま視線をそらす。口数の多かった彼が、会話を嫌うように苦々しい顔をしている。

「どうしたんだよ」

「もう、俺はしばらくの客じゃない。ここで暮らす。だから店を継いだ」

「店主になったのか? 元のおやはどうしたんだ」

「お前だって分かっているだろうに」

「何をだよ」

 その時、間野山の知っている顔つきで篠川は一瞬だけほほんだ。

「俺はまともに生きられなかった。お前はどうだろう?」

 酒屋の店主は言葉の途中で顔を伏せた。そうして、口笛を吹くように「ひゅうひゅう」と息を漏らす。

「今日もまた、山はうめく。その頃合いにバスは来る」

 男の黒目に光はなかった。間野山は言葉を失い、何も言わずに店を出た。

 旅館の自室に戻り、ここへ来る時に持参した荷物を探す。衣服、財布、携帯電話、気づかぬ内に世俗と繋がるための物は全て絶たれていた。問いただすにも女中の姿が見当たらない。彼女が戻ってくるのを待とうか。そうしている内に、眠くなり、寝て、起きて、今日を忘れてしまうような気がした。彼は何も持たず部屋を後にし、大通りを駆けた。今はだあの呻りが響かぬようにと祈りながら。


 夕暮れのバス停、浴衣姿の男が合成樹脂のベンチに座っている。もし、今日のバスが終わっていたとしても「須ノ川」に戻る気はなかった。

 集落からバス停までは少し距離があった。遠くに見える山村は来た時と変わらない。古びて、乾いた、彩りのない固まり。あの村で自分は何をしてきた。忘却と喪失が『穴』を広げ、己が瓦解するのを待つだけの日々。彼は右手を胸に当てた。胸の中央が鈍く痛む。山を下りれば無くしたものを取り戻せるだろうか。これからは、まともに生きていけるのだろうか。

 古びたバスがのろのろと坂を登ってきた。その姿に間野山は救いを感じはしなかった。バスはバス停の前で止まり、荷物を抱えた若い男が一人降りた。間野山は重い体を立ち上がらせて乗車口まで歩く。久しぶりに走ったせいか全身がひどくだるかった。車の階段を上るだけで息切れした。

 整理券を引き抜き、おぼつかない足取りで車内後方の二人がけの席へ向かう。村に来る時と同じタイヤ上の席だ。登ろうとしたものの、足が上がらなかった。仕方なしに一列前の一人がけの席に腰を下ろす。

 間野山は深く息を吐いた。このまま揺られさえすれば、街に戻れる。役割と義務が己の輪郭を描いてくれる。迷惑をかけた人々に謝ろう。遅れた分を取り戻すため、身を粉にして働こう。他人にも優しくなる。そうすれば、楽しい日々が訪れてくれるだろうか。間野山はゆっくりと目蓋を降ろす。

 幼い頃、架空の物語を見て怪物と戦う空想をした。空想の中では空だって飛べた。それを実現する手立ては知らず、知ろうともしなかった。現実的な重みのない妄想は心地よかった。最後列のシートで身を寄せ合い眠る幸せな家族を間野山は思い浮かべる。自分を父役に当てはめて、彼は心地よいひとときを過ごした。

 運転手が行き先を告げ、バスは出発した。塩化ビニルのつり革たちが同じリズムで揺れている。山道を走り車体は揺れる。走行音に紛れて小さな音が聞こえた。それは弱々しい風のような音だった。たった一人の乗客が湿った息を吐いている。「ひゅうひゅう」と息を吐いている。

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[良い点] 評価するほどの知識をもっていませんが、不思議な世界感を 感じることが出来ました。 続編はないですかね!! [一言] 彼は此岸にいるのですかね! 雪国は読んだのですかね! 別の小説の周藤さん…
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