第七章 真実(8)
大寒波によって降り積もった雪は、次の日の温かい空気によってほとんど溶けた。ただ、被害の痕跡は未だ残っており、至る所でその復旧に追われている。
健人はそんな街の中を、水たまりだらけの地面に注意しながら歩いていた。隣には春奈が一緒に歩いている。
健人と春奈は今、市内の病院に向かっている。昨日の事件で強引に連れて行かれた榛名が、万が一のためにそこで入院しているのだ。しかし、体だけでなく精神的な面でも問題は見られず、早々と退院することが決まっていた。
「今でも信じられない。はっしーにそんなことがあったなんて」
病院の目の前まで来た時、春奈が三度目の同じ言葉を健人にかける。健人はそれに対して、再び自分の顔を春奈に向けた。
「この痛々しい顔を見て信じられないのか」
健人の顔には、男に殴られたことによる痣が残っている。痛みは引いていたものの、これがなかなか治らないことを健人は知っていた。
「健人は喧嘩弱いし、それに鈍臭いから。それだけじゃ、判断できないな」
春奈は意地悪くそう言う。健人はどれだけ大変だったか伝えようか迷ったが、病院の中に入ったためやめておくことにした。
「……今回は隠さないんだ。それ」
エレベーターを待っている間、春奈が不思議そうに尋ねる。確かに健人が前回鼻に痣を作った時、マスクをしてそれを隠すようにしていた。しかし今回、健人はそんなことをしていない。
「これくらいなんでもないだろ。それに隠すようなことをしていると、またはっしーが気にして心配する」
「あ、なるほど、そういうことね」
健人が説明すると、春奈はすぐに納得する。そしてその後は何も言わなくなった。
健人と春奈はエレベーターに乗ると、榛名が入っている病室のある六階に向かう。エレベーター内でも二人に会話はなかった。
榛名が入っているのは一般的な病室で、エレベーターを降りたところからすぐだった。健人は昨日にも訪れていたため場所を理解していたが、春奈は病院の雰囲気に少し押されていた。
病室の扉は開放されている。健人と春奈は躊躇うことなく病室に入った。
「あ、健人……深瀬さんも」
「ごめんね、健人だけじゃなくて」
春奈が笑って榛名に伝える。すると、榛名は難しい顔をしてから笑い返した。
「準備は済んだのか?」
「はい。一日だけだったので何も物はないですから」
榛名はそう言って自分の使っていたベッド周りを二人に示す。確かに、周囲に物はほとんどなかった。
「それにしても、はっしーも大変ね。やっぱり可愛いからこういうのに巻き込まれるわけ?」
「春奈やめとけ」
春奈が少し無神経なことを口にしたため、健人はすぐに自制するよう促す。事件は案外大きなものであり、今朝の地元紙にはこの事件のことが載ったくらいである。それに、父親が捕まってしまった榛名としては、あまりにも心身的に負担があるはずだったのだ。
「いえ、でも深瀬さんのおかげで助かりました。ありがとうございました」
しかし、榛名は気にする素振りを見せず、春奈に感謝の言葉を述べる。今朝、退院の事実を美鈴に伝えられた健人は、精神的にも安定しているということを聞いていた。健人は今になってその意味が分かった。
「健人が助けに行ったんだって?弱くて頼りないのにね?」
春奈は健人のことを馬鹿にして、健人の左頬のあざを指で軽く押す。健人は痛みで顔を歪めた。
「そんなことはなかったですよ?弱くて無鉄砲なことをしているとは思いましたけど、それでも嬉しかったです」
「でも最後ははっしーが手助けしてなんとかなったって聞いたよ?はっしーが前に不良に絡まれた時も、最後ははっしーの一撃が健人を助けたんでしょ?」
春奈は確認するように口にする。ただ、健人には春奈が暗に自分のことを悪く言っているようにしか聞こえなかった。とは言っても、事実であることには間違いない。
「気持ちの問題ですよね?警察の方が先に来ていたとしても、私は助けられたと思います。でも、それだと心の傷はもっと深かったはず。ですから、私は健人に感謝しているわけです」
「へぇ、仲良いなぁ。……羨ましいわ」
榛名が淡々と述べた言葉に対して、春奈は感想を述べる。健人は気恥ずかしくなって口を開かなかったが、榛名はそんな健人と目を合わせて笑った。
「あら、健人来てくれてたのね?……そちらの女の子はお友達?」
三人で話をしていると、美鈴が病室に入ってくる。美鈴は病室の様子を見て微笑んでいた。
「はい。クラスメイトの深瀬春奈さんです」
榛名が美鈴の質問に答える。すると、美鈴は驚いた顔で春奈の顔を凝視し始めた。
「あら、春奈ちゃんなの!?久しぶり!覚えてる?」
美鈴は春奈の名前を聞いて驚きの表情を見せる。ただ、春奈は対応に困っていた。
「覚えてないか……そうだよねー」
「俺の元母親だ。大昔に会ったことがあるのかもしれない」
健人は美鈴に代わって紹介をする。すると、春奈は頷いて理解した。ただ、昔に会った記憶があるわけではなさそうだった。
「昔から健人とよく一緒にいたよね?こんなに大きくなっちゃって」
美鈴は昔を思い出しているのか、春奈の顔を見つめて固まる。春奈は視線を泳がせて健人に助けを求めた。
「深瀬さんが私の手かがりを見つけてくれたんです。健人に車のことを伝えてくれて……」
「あら、そうなの!?ありがとうね!」
榛名の説明も半ば、美鈴はさらに感極まった様子で、ついに春奈を抱きしめ始める。健人には、もうどうすることもできなかった。
「……ぶ、無事で何よりです」
春奈は絞り出したような声を出す。健人と榛名はそれに笑うしかなかった。
「それでお母さん?退院はもうできるの?」
榛名は春奈を助ける意味も含めてそう声をかける。すると、美鈴は春奈から離れて頷いた。
「ええ、もう手続きも終わったし」
「じゃあ、このままお昼は三人でどうですか?私……の母がお金出してくれますよ?」
榛名は表情を明るくして提案する。しかし、美鈴はそんな榛名の言葉に唇を尖らせた。
「あら、お金は出してあげるけど、私は入れてくれないの?」
「私は構わないですけど、深瀬さんと健人が嫌ですよね?」
榛名は健人と春奈の顔をそれぞれ確認する。二人とも、嫌ではないものの困ってしまうことは間違いない。ただ、それを表情に出すことはできないため、二人は表情に困ることになった。
「……分かったわ。二人には感謝してもしきれないくらいだもの」
「いえ、私はそんな……」
春奈はそう言って謙遜する。しかし、春奈の活躍が何よりも大きいことは言うまでもなかった。
「あと健人、あの話のことなんだけど……」
会話の中でふと思い出したのか、美鈴は突然健人に対して口を開く。春奈以外は、あの話が何のことかすぐに理解する。
「……あの話ですか?それはえっと……」
健人は唐突な話題に膝を震わせる。今ここで何かを口にできるほど、健人に度胸はないのだ。しかし、美鈴は健人の様子を把握する前に大きくため息をついた。
「あの話はもういいわ」
「……えっ?いいってそれは……」
「昨日のアレを見ちゃったら、私が話をしたくなくなったの。なんか情けなくなったっていうか……」
「そうですか」
美鈴は何かを憂いているのか、何度も大きく息を吐く。ただ、健人にとってみれば、これほどいい話はなかった。
「じゃ、私は帰るわ。はいこれ、三人仲良くね。……それじゃ」
すっかり元気の無くなった美鈴は、榛名にお金を渡してフラフラと動き出す。そして、部屋の中の荷物を抱えあげるとそのまま廊下へと向かっていった。
「それじゃ、私たちも行きませんか?病院の雰囲気はどうも私には合わなくて」
「そうだよね。私も病院は嫌い」
「それじゃブラブラと歩き出すか」
二人の意見を聞いて健人がまとめる。時間はちょうど、お昼時に近づいていた。
「それでさ、さっきから気になってたんだけど、はっしーのお母さんが言ってたことって何なの?」
「……言ってたこと?」
「そう。昨日のあれを見たらどうこうとか……」
「ああ……」
春奈が何のことについて聞いているのかを理解して、健人は少し息を漏らす。榛名もこの質問に対しては恥ずかしそうに顔を背けた。
「あやしいなぁ。二人で何かあったんだ?」
「特別に何かがあったわけじゃない」
健人は誤魔化すためにとっさにそう口にする。しかし、春奈は目を細めて不思議そうにした。
「特別なことじゃないのなら教えてくれてもいいのに。……ねぇ、はっしー?」
「そ、そうだよね」
榛名はまるで他人事のように笑う。しかし、それが春奈に対して全く効果を発揮していないことは言うまでもなかった。
「詮索するのはよくない。……退院祝いということだし、はっしーは何が食べたい?」
「あ、話し逸らした」
「そうですね。……ラーメンとかどうでしょう?昨日、談話室で近くに美味しいラーメン屋があるって言ってたの聞いたので」
「よし、じゃ決定だな」
健人は淡々と決定すると、春奈の話を受け付けないようにエレベーターに向かった。ただ、春奈はまだ気になって仕方がないようだった。
「分かってます。キスですよね?……はっしー?」
「何のことですか?私には分かりません」
「もー、あざといなぁ。顔に書いてるよ?」
「昨日はしてないですから!」
春奈に問い詰められてとっさに出た言葉。本当のことではあったが、墓穴を掘ってしまったことには間違いなかった。健人も心の中で声を出して、榛名の失態を非難する。
「昨日は……ですか。それは何ですか?一種の自慢の方法ですか?なかなかできることじゃありません」
春奈は意地悪い笑みを榛名に対して浮かべる。榛名も自分の失敗に気がついて顔を赤くした。
「じゃ、昨日は抱擁くらいですか?奥手な二人であれば、それだけでも恥ずかしいことなのかな?」
「春奈、もういいだろ?趣味悪いぞ」
健人は耐えられなくなって春奈に指摘する。健人としては別段苦しい思いをしているわけではなかったが、もし春奈の牙が健人を狙ったとき、健人は隠し通す自信がなかったのだ。
しかし、健人がそう口にした瞬間、今度は榛名の様子がおかしくなり始めた。
「もういいです。話してしまいましょう」
「はっしー!?」
健人は驚いて病院内であることも忘れて声を出す。春奈も唐突な言葉に目を見開いている。
「昨日は深瀬さんの言う通り抱き締められただけです。すごく暖かかったのを覚えています」
「は、はっしー?」
健人は自分の秘密を漏らされているような気がして、身体中が火照ってくる。しかし、それでも榛名は言葉を止めなかった。
「キスは以前私から仕掛けてしました。何もしていないと、健人はしてくれませんでしたから」
「へ、へぇ。……健人なら仕方ないですよね」
榛名の暴露話に春奈も少し身を引かせる。ただ、榛名には言い切った後の開放感があるようだった。
「もうこの話はいいだろ?」
「い、いえいえまだ聞きたいことがあって……」
春奈は先ほどまでの勢いはなくなったものの、まだ追及を続けようとする。しかし、健人にはそれが無理をしているように見えた。
すると、そんな春奈に対して榛名も即座に言い返した。
「何が知りたいですか?全部話しますよ?」
まだ病院を出ていない。しかし、目には見えない二人の対立は、榛名の態度によって大きくなりつつあった。
「何ですか、自慢がしたいんですか?」
「いいえ、深瀬さんが知りたいと言ったので伝えただけです。本当は、私にそんなつもりなんてなかったこと、分かっていますよね?」
「そうですか?はっしーは頭がいいから、何を話して何を隠せば上手くいくか、全部分かっているんじゃないですか?」
榛名の言葉も次第に厳しいものになっていく。健人は止めたいと思うも、どちらの意見を聞いていくべきか分からずに動きを止める。
「……深瀬さんはそう思っているわけですね?」
「ええ、はっしーは何か隠してる。大切な何かを。……でも、私が知っても意味ないし」
春奈は確信を持った様子で口にする。しかし、結局はそれが何なのかまで追及することはしようとしない。これ以上踏み込む理由がないと、春奈にもよく分かっていたのだ。
しかし、春奈がそう言って退いたのにもかかわらず、榛名は続けて口を開いた。春奈と健人は、そんな榛名の行動に驚かざるを得ない。
「ありますよ。私が健人に隠していることはあります。話しましょうか?」
「……どうせ大したことじゃないんだろ?もういいから、この話は終わろう」
健人は機会を窺ってこれ以上話が発展しないようにする。しかし、それでも榛名が止まることはなかった。
「大したことかどうかは私には判断できません。それは健人が決めることですから。でも、きっとこのことは大きなことだと思います」
「自分でそこまで言うくらいなんですから、相当なことなのかもね」
「もうやめておけ。昨日の今日で気持ちに整理がついてないのかもしれない」
健人としては、とにかくこの問題について大きくすることは良くないと感じている。榛名が何かを隠していたとしても、それは健人も同じだった。今更隠し事がある程度で、騒いではいられなかったのだ。
ただ、今日の榛名はいつもとは少し違い、話を終わらせようとした健人の腕を掴んで何かを伝えようとする。健人は、それに逆らうことはできなかった。
「……これ、なんですけど」
あらかじめ準備していたのか、榛名は服のポケットから二つのポチ袋のようなものを取り出す。そして、両方ともを健人に手渡した。
「……これは?」
中には小銭が入っているのか、金属が当たる音が聞こえてくる。重さは大体同じだった。
「一つは狭川君に渡しておいてください」
「守に?どういうこと……?」
健人は不思議に思って一つの袋を開ける。すると、案の定そこには小銭が複数枚入っていた。金額を数えてみると、合計七百五十円である。
「なに渡されたの?」
春奈が気になる様子で健人に近づいてくる。ただ、健人はそれどころではなく必死にこれが何を意味するのかを考えた。
そして、健人は一つの可能性を見つけ出した。
「ごめんね、健人」
健人が理解した瞬間、榛名は小声で健人に謝る。ただ、健人は唐突なことについていけない。
「じゃ、こんな話も終わりにして早く行きましょう。何ラーメンがあるんでしょうか」
榛名は健人に謝った後、何もなかったかのように一人で歩き出す。健人の隣では、春奈が心配そうに健人のことを見ていた。
「……マジかよ」
なんとか絞り出した健人の声は、擦れて小さくなっていた。




