第七章 真実(2)
「健人?何をしてるのですか?」
「あっ、いやっ……なんでもない」
健人は放課後、一人だけの教室で考え事をしていた。深く考え込んでいたこともあって、後ろから榛名が近づいてきていたことに健人は気付くのが遅れる。
「えー、怪しいです。そのノートはなんですか?表紙に題が書いてないですけど?」
健人は考えていたことを忘れないようにノートにとっていた。そのノートを見た榛名は、内容がかなり気になるようだった。
「何でもないって。ちょっと数学の……」
「でも、私の名前を書いているのが見えましたよ?私の名前を使わないといけない数学の問題でもあるんですか?」
榛名は健人の顔を覗いてそう口にする。健人は状況の悪さに苦笑いを浮かべた。
「別に……数学の文字は何をおいてもいいから……」
「それで画数の多い、それも私の名前を使うんですか!?それは流石に気持ち悪いですよ?」
「悪い、嘘だ!そんな事するわけないだろ!?」
榛名に気持ち悪いと言われたため、健人は咄嗟に自分が言った事を否定する。すると、意地悪く榛名は再び同じ事を健人に尋ねた。
「じゃあ、何を書いていたんですか?……見せて欲しいです」
「……ダメだ」
「どうしてですか?」
「……恥ずかしいからだ」
「え?まさか破廉恥な事でも書いていたんですか?私にいろんな事をさせる妄想とか?」
「違うから!」
健人はあらぬ疑いをかけられたため、必死にそれを否定する。そんな事を考えていたとしても、わざわざ文字に起こしてまで見つかるようにするはずがないのだ。
「じゃあ何ですか?……ねぇ?深瀬さん」
榛名は唇を尖らせて不満そうな表情をして見せた後、突然教室の一角の方に視線を向けて話しかける。健人はまさかと思って、急いでそちらを確認した。
「隙だらけですよ!」
健人が榛名から視線を外した瞬間、榛名は健人が持っていたノートを手にする。そして開いて中を確認し始めた。
「あー!もう何してやがる!」
健人は自分が騙された事に気付いてから、急いで取り返そうとする。しかし、途中で観念して顔を俯かせた。榛名がノートを返したのは、読み始めてしばらくした後の事だった。
「……私、何て言ったらいいんでしょうか?」
「馬鹿にすればいいんじゃないか?」
健人はぶっきらぼうな口調で答える。しかし、榛名がそれに返答してこなかったため、健人はゆっくりと榛名の表情を窺ってみた。
するとそこには、顔を真っ赤にして視線を泳がせる榛名が立っているだけだった。健人と目が合うと、榛名はさらに耳まで赤くする。
「やましい気持ちがあったわけじゃない。普通に考えていただけだから」
「うん……分かってますよ?」
「じゃあどうしてそんな顔をしてるんだ?」
健人の目的を榛名が理解しているのであれば、榛名が特異的な反応を示すはずがない。健人はそう思うと恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
しかし、健人よりも榛名の方が、ずっと恥ずかしさを感じていることは間違いなかった。
「これはその……私の母に言われたあのやつですよね?」
「ああ。だから変な考えはないから安心……っておい!」
健人は自己保身に走って言葉を並べる。しかしその途中で、榛名は突然健人に抱きついてきた。健人は驚いて椅子から転げ落ちそうになる。
「どうしたんだよ!?気に障ったか?分かった!消すから!」
健人は榛名が怒ってしまったのだと解釈して、慌てて消しゴムに手をかける。しかし、榛名はそんな健人の手を握りしめて、健人の肩の上に乗せる自分の顔を健人の頰に近づけた。
「あれは本当に思ってる事ですか?」
「あ、ああ!嘘じゃない!だけど確かに、俺もやり過ぎだとは思った。すぐに消すから!」
健人は榛名の手を振りほどこうと手を軽く振る。しかし、榛名がもう片方の手を健人の背中に回して抱きついてきたため、健人は何もできなかった。
「ちょっと私、どうしていいか分からないです。でも、こんなに健人のことが好きだと思えたのは初めてです」
榛名は少し息を荒くして、健人の耳元で囁く。健人はそんな榛名の声に体を震わせた。
「あ……。これは……なんだ?」
健人は訳が分からず言葉になっていない声を出す。榛名は依然として健人に強く抱きついていた。
「健人、もうこのまま押し倒してもいいですか?胸が高鳴って手が痺れて、とても苦しいんです」
「とにかく離れよう。色々マズくなってきた」
「健人……本当に好きです」
健人が立ち上がろうとしても、榛名は一向に健人から離れようとしない。これほどまで文字に起こした言葉が威力を持っていたなど、健人は想像もしていなかった。しかし、榛名の今の様子を見て、その意味を理解できないということはない。
健人はゆっくりと自分の腕を榛名に回す。そして、かなり緊張しながらも、健人は榛名を腕の中に入れた。ただ、その時間はわずか数秒のことである。
「さあ、終わりだ。そのノートは燃やしてしまおう」
健人は、自分が今していることがかなり恥ずかしいことだと理解して、榛名を強引に引き離す。榛名は少し不満げな表情を示したが、それでも素直に健人から離れた。
「そんなに恥ずかしがらないでください。私はずっとこんな気持ちでいたんですから」
「榛名は耐えられるのかもしれないけど、俺には無理だ。やっぱり形に残らないように考えた方がいいな」
健人はノートの処理方法を考える。これを早急に処分しなければ、守に見つかった時に地獄を見ることになるのだ。
「書いていた内容はとても良かったと思いますけど?」
「いやダメだ。流石に感情に流されすぎた。もっと客観的に見て、理解されやすいようにしないと」
健人はそう言って、再び自分で真剣に考え始める。すると、榛名はそんな健人に笑顔を見せた。
「健人言ってませんでしたか?最終的な手段を使う事もあり得るって」
「……それは最後の最後だ。それにその決め方は良くない。信頼されないからな」
健人は、榛名が提案してきたことを即座に否定する。榛名の言う方法が簡単なのは間違いない。しかし、それで十分な説明を美鈴にできるのかと言われれば、それは怪しかった。
しかし、榛名はつい先程の興奮が抑えられないのか、健人に一歩近づいて再確認する。
「本当に……今もそう思ってますか?理屈を並べるよりも、行動で示したほうが早いですよ?それに、私だってそのほうが嬉しいですし」
「それは………」
榛名の顔が目の前まで近づいてきて、健人の決心は揺らぎかける。しかし、将来的な事を考えればやはりそれはできなかった。その方法はまるで、占いで決められているようなのだ。
「そうですか。……少し不満です」
榛名は健人が今の状況に流されて、面倒事を抜かした結論を出すよう求める。女性は言って欲しい事を言ってもらえないと機嫌を損ねる。健人はその事を再三聞いていたが、それでも健人には譲れない理由があった。
「……この話は初めてすると思うけど」
「……どうかしました?」
榛名が健人に自分の意思を強く伝えていたのは、勿論それが叶えばいいと思っているからである。しかし、健人の表情が急変したために、榛名は目に見えて慌て始めた。
「ずっと前、俺が占い屋に行った事は話したと思うけど、覚えてる?」
「え……それって、運命の人占いとかいうやつですよね?」
榛名が尋ねた事に健人は頷く。健人から占いという単語を聞いた瞬間、榛名の目つきは鋭くなった。
「この前は榛名に、結果は覚えていないって言ったと思う」
「はい、そう聞きました」
「でも実はそれ、嘘なんだ。本当は何を言われたか覚えているし、正直なところ、それがあったから俺は今でも悩み続けてる」
健人は正直に自分の胸の内を語る。榛名は静かにそれを聞いていた。
「突発的な結論が、どんなに軽率で厄介か俺は知ってる。だから今、俺は榛名が言ってるような事はできない」
「それで……健人はその時になんて言われたのですか?」
健人がどんな状況で何を深く考えているのか。榛名はそれを理解する前に、健人が受け取った占いの結果に興味を示した。健人としては、その占いの結果など意味を持つものではない。しかし、榛名が知りたいのであれば、これ以上隠すつもりもなかった。
「はるな。下の名前だと言ってたけど漢字は教えてもらってない。ひらがなではるなとだけ。その意味は……分かると思うけど」
健人は半年以上経ってやっと事実を伝える。ただ、榛名はそれを聞いても黙っているだけである。
「俺は最初にそれを聞いた時、はっしーのことじゃなくて春奈のことを頭に思い浮かべた。まあ、その時にはっしーとはまだ会ってもなかったから。はっしーはその時にはもう俺のことを知ってたみたいだけど、だけど俺は知らなかった」
「で……でも、健人は占いなんて信じないって」
榛名は声量を小さくしてそう尋ねる。榛名は、健人が今もどちらの「はるな」なのか決断を付けられていないと思ったのだ。
「そう言ってはいたんだけど、でもこんなことがあり得るなんて俺はどう考えればいいんだろう?本当に偶然だったと結論付けて良いのか、俺には分からない」
「それは、深瀬さんのことが気になっているということですよね?」
榛名が警戒する目つきを見せる。ただ、健人はすぐに否定した。
「そうじゃない。こう言っては恥ずかしいけど、いま俺ははっしーが好きだから。でも、俺がそんな占いに振り回されて、今の状況が占いの結果に基づいていることは間違いないと思う」
健人の考えていたことは、言葉にすると小難しくなってしまう。それでも榛名は真剣に理解しようと努めていた。
「きっとあの占いがなければ、俺がこんなに頼りない存在になることもなかったと思う。だけど、あの占いがあったから、俺は榛名と関係を持てたんだとも思う。きっと占いを聞いていないと、俺は榛名のことを気にもしなかっただろうから」
「そんな……」
「とにかく今はもう、俺はある程度決意をしてる。だから、話し始めた俺が言うのもなんだけど、このことは気にしないでくれ。美鈴さんのことも、ちゃんと考えておくから」
「………」
健人は一通り自分の言いたかったことを全て伝える。対する榛名は、思案顔になって何かを深く考えている。健人は榛名の考えがまとまるのを静かに待った。
「分かりました。母のことは、健人がしたいようにして結論を出してください。ただ言っておきますけど、母はすぐに折れるような人じゃありません。だから、健人の貧相な表現力を最大限活用してくださいね」
「分かってる。……このノートの内容は破棄させてもらうけど」
健人は再び恥ずかしさを覚えつつ、榛名に約束する。すると、榛名はそれを聞いて笑顔を見せた。
「それと……」
健人が続きを家で考えるために帰宅の準備をしようとしたところ、榛名はか細い声で健人を呼ぶ。
「どうしたんだ?」
健人は榛名の様子を確認する。目立った榛名の変化はなかった。
「あのですね……。母にはそれで良いんですけど……私にはやっぱり行動で示してほしいです」
榛名は顔を火照らせた状態で健人と目を合わせる。健人はそんな榛名を目の前に、途中の髪を整える仕草にさえ心臓を高鳴らせた。
しかし、どんなに榛名を魅力的だと思ったところで、健人に榛名の言っている意味は分からなかった。
「鈍感は罪です」
榛名は一言そう告げると、近づけるだけ健人に近づく。そして、二人の身長差を埋めるために踵を少し上げた。
「お願いします」
榛名の声が小さく響く。健人が覚悟を決めたのは、そのすぐ後だった。




