第六章 秘密(2)
月曜日の朝、登校してきた健人は、すぐ守に声をかけられた。教室に入った健人だったが、守に連れ出されて再び廊下に出る。
「健人、ちょっと話がある」
「なんだよ、どうして廊下に出る?」
健人は廊下の壁に追いやられ、その目の前には守が立ちはだかる。健人が質問してみるも、守は健人の言葉を耳に入れなかった。
「先週の金曜日のことだ。……もう分かるな?」
「………」
守は顔を健人に近づけて話し始める。健人はそんな守の肩を押して溜息をついた。守はすでに、その日のことを知っているようだった。
「春奈ちゃんが泣きながら走ってるのを見ちゃったんだけど。……あれは?」
「…………」
「あれだけ優しくしてあげてと言っただろ!」
守は春奈が泣いていた姿を見てかなり激昂しているようで、その表情は健人さえ見たことのないものだった。
「話はややこしいんだ。最善だったと思う」
「最善?健人はお勉強はできても、そういうことには弱いみたいだな」
「どういうことだ?」
守の挑発的な言葉を受けて、健人は眉間にしわを寄せる。ただ、健人には守に挑発されたからといって、強く言い返すことはできなかった。
「あの占いを聞いてからの健人は変わった。どっちか分からないからとか言って、絞り込もうとしすぎたんじゃないか?」
「……そんなことはない。さっきも最善だと言っただろ」
「あれが最善なはずないだろ!今まで健人と一緒にいた春奈ちゃんが、あんなに泣いたことがあったか?」
守はしばらく健人に迫った後、ゆっくりと離れていく。ただ、納得した様子はまるでなかった。
「まあ、最善だと言ったけど、最善がいつも良いとは限らないだろ?今までは、俺が何も春奈に言ってなかっただけだ。慣れてないことだったから、こんなことになったんだと思う」
「……関わる必要がないことくらい、まあ分かってる。そもそも俺には全く関係ないし、健人らにとっても俺は関係ない」
「………」
始業開始五分前のチャイムが鳴り響く。廊下を歩く生徒は少なくなっていた。
「だけど、健人は俺がサッカーをやめると言ったときは、いろいろ言ってくれた。あれは健人に全く関係ないことじゃなかったかもしれないけど、だけど俺は健人がそう考えていてくれて嬉しかったぜ」
「……何だよ、変な話して」
健人は、守が突然過去の話を持ち出してきたことに動揺する。確かに、健人も少なからず守のことに口を出していたことがあったのだ。
「だから今のことも、その内の一つだと思ってくれて良い。健人が本当にこれで良かったと思ってるんだったら、もう俺は何も言わない。いや、何も言えないわ」
「………」
守にここまで諭されたことは、健人にとって初めてのことである。それだけに健人への衝撃は大きいものだった。健人はそんな守に対して言葉が出なくなる。
「もうすぐ時間だよ?こんなところで何してるの?」
健人がやや俯き、守がそんな健人の近くで立っている。そんな不思議な状況の中に、春奈が走ってきた。
「二人きりで怪しいなぁ。まさか健人の本命は守だったとか?」
「春奈ちゃん、それはない。な、健人?」
「あ、ああ」
「やっぱり怪しい」
春奈はそう言って二人の顔を眺める。そして、それぞれの顔を数回見終わった後、守の方を向いて睨んだ。
「分かった。また守が健人に迷惑かけてたんだね?あれだけダメだって言ったのに」
「は、春奈ちゃん?それは誤解だぜ。今日は何もしてない」
守は春奈にあらぬ疑いをかけられてたじろぐ。ただ、春奈は確認した様子で守に言い返した。
「だって健人がまたこんなに困った顔をしてる。……さあどうなの?白状してしまいなさい」
「春奈、今回は何でもないから。早く教室に入ろう」
「……そう。じゃ入ろっか」
春奈が調子良く守を追及している中、健人はそんな春奈に声をかける。すると春奈は、健人の言葉を素直に聞いた。健人が最初に歩いて教室に戻ると、後の二人もそれについて教室に入った。
健人は自分の席に座ると、頬杖をついて先生が教室に来るのを待つ。そしてその間に、春奈のことを考えた。
先日、健人は春奈の想いには応えられないと本人に伝えた。そうであるにもかかわらず、春奈の態度はいつも通りで、健人にはそれが不思議だった。春奈はどちらかといえば、感情的な衝撃に弱いはずだったのだ。
しかし事実として春奈は、もともと健人とは何もなかったかのように振舞っており、また無理してそうしている様子も見られなかった。そんな春奈の姿を見た健人は、逆に春奈に対して申し訳なく感じた。
どんなに態度に現れていなくても、春奈は間違いなく傷を受けているはずである。勿論それは、健人が与えたものである。
実際は繊細な春奈のことであるから、健人がその様子を見落としている可能性もある。健人はもう一度、ため息をつく羽目になった。
その日、守に話しかけにくい状態が続いたため、健人は昼食時に一人で購買へ向かった。守の言っていることが分からないわけではない。しかし、理想だけで解決する問題ではなかった。
購買は人で賑わっており、隣の食堂とは比べものにならない。食堂は不味いということで知られているのだ。
健人もその被害にあったことのある人間であるため、人が多いことを理解していながら購買の列に並ぶ。主食と成り得るものは手に入りそうにないものの、腹を満たすものであれば何でも良いと思っていた。
そうして健人は、何かを考えることなく遅い列の動きに身を任せた。
「おい、大野」
列が半分ほど進んだ頃、健人は後ろから肩を叩かれる。振り返ってみると、そこには大林が立っていた。
「久しぶり。……こんなところで何をしてる?」
「見ての通り購買の列に並んでる。……割り込むなよ?」
大林は列の外から健人の肩を叩いており、健人の後ろに並んでいた男子生徒が怪訝そうな顔をしている。大林から声をかけられたことに驚いた健人だったが、今は昼食を手に入れることが最優先だった。
「割り込みなんてしない。こんな長い列に並ぶような効率の悪いことはしたくないからな」
大林は、列に並ぶ全体を馬鹿にするような言葉を口にする。健人がそれを気にすることはなかったが、後ろに並んでいた男子生徒は大林を睨んだ。
「それで?わざわざ声をかけてもらって嬉しいけど、何の用?」
「ああ、機会があれば話がしたいと思っていた。……どうだ、今から列を抜けて食堂の方に行こう。あっちは空いていて効率的だ」
大林は視線で食堂を示して健人に提案する。ただ、健人はそれを少し渋った。健人は購買の列に並んで、かなりのところまで進んでいたのだ。
「……コンコルドの誤り」
「ああもう、分かったよ」
健人は大林の言葉に屈して、面倒だと思いながら列を抜ける。そして大林に先導される形で、食堂の食券機に向かった。
健人と大林の関係はそこまで深いものではない。これまでに同じクラスになったこともなく、ちょっとした機会に少しだけ話す程度である。そのため、大林と食事をとることも初めてだった。
「……見てみろ。大野の前に並んでいた奴はまだ並んでいる」
二人が食券を購入してそれを食事を引き換えるのにかかった時間はわずか一分程。大林は自らが言ったことの正当性を示した。
「食堂は不味いことで有名なんだけど……」
「どうせ腹が満たされればいいとか考えていたんだろ?そうでないと、ほとんど何も残っていない中で列に並ぶことはしない」
「それはそうだけど……」
大林に健人の考えが把握されていたことに恥ずかしさを覚えた健人は、このことで文句を言うことをやめる。これ以上の反発は健人自身にとって不利益だったのだ。
食堂には人がほとんどいないため、二人は席をすぐに決めて座る。健人は大林の正面に座って、話が切り出されるのを待った。しかし、大林は健人に注意をそらすことなく、かけうどんを食べていた。
「……どうして声をかけた?」
「ん?……ああ、そうだった。いつもは一人だから、食事中に喋るということが珍しいんだ。えっと……何の話だったか」
「おい……」
健人は大林に文句を言いながら、自分もラーメンをすする。相変わらずの味に健人は心の中でため息をついた。
「大野の噂は俺の耳にも入ってきてる。二人の女子生徒を引っ掛けて、たぶらかしているとか」
「そんなことしてない」
「まあ、俺もそう思っている」
何を根拠にしているのか健人には分からないが、大林は即答する。ただ、大林のことであるため、健人には想像できない推理をしている可能性があった。
「前回のテストでは驚かされた。まさかその二人の女子生徒が同点で二位になるとは。これも大野が関係しているのだろう?」
「………」
大林の質問は的確で、健人は黙らざるを得なくなる。すると、大林は少し笑って言葉を続けた。
「実を言うと、俺は遠藤榛名と少しばかり面識がある」
「………え?」
「本当だ。そのことで少し話しておく必要があった」
大林は、さも当たり前のように喋る。しかしそれは、健人にとって初耳の話であった。大林と榛名に面識があったとしても、健人には関係ない。しかしそれでも、健人は心のどこかで詳しく関係を知りたいと感じた。
「……続きを話せよ」
「気になるのか?」
大林は健人にそう尋ね、観察する。健人は遊ばれている気がしてならなかった。
「そんな怖い顔をするな。別に深い関係があるわけじゃない。……ただ、ちょっと面白い話だ」
「それは分かっている。お前が話しかけてきたくらいだからな」
「……いや、それはちょっと違う」
健人の言葉を大林は否定する。健人は動かしていた箸を止めた。
「別に、俺が話したいから話すんじゃない。大野のために話すんだ」
「どういうことだ?」
健人は大林の言っていることが分からず首を傾げる。大林はラーメンを完食すると、話すことに集中し始めた。
「まず結論から言っておく。遠藤榛名は大野が思っているほど可愛い人間じゃない。俺には劣るが、それでも学年で二番の頭脳を持っていることがそれを示している」
「……簡単に言ってくれ」
健人は理解に苦しみ、簡潔に述べるよう求める。知能指数が二十違うと会話が成立しない。そんなことを聞いたことがあった健人は、それが事実であると実感した。
「つまり、遠藤榛名の本当の姿は狡猾でずる賢く、そして冷静沈着だということだ。今の大野が見ている遠藤榛名は皮を被っている」
「……何を根拠に」
健人には馬鹿話を聞くつもりなどない。それでも、大林が言っているために、否定から入ることはできなかった。
「根拠か。……実は遠藤榛名が転入してくる前、彼女から俺にコンタクトがあった。出会ったのはまあ、これは偶然かもしれない」
「……それで?」
「大野も聞くだけじゃなくて自分で考えてみろ。大体今の話で分かるだろ?」
大林は呆れた様子で文句を言ってくる。ただ、健人には何のことかさっぱり分からなかった。健人がずっと思案し続けていると、大林は諦めの表情をしながら言葉を続けた。
「その時に彼女は俺にあることを聞いてきた」
「あること?」
「そう、あることだ。具体的なことは身のために言わないでおくけどな」
大林は頻繁に視線を周囲に向けて、周りの状況を確認する。健人もそれにつられて何度か周囲を見渡したが、特別不思議な点はなかった。
「全く話の流れが掴めないんだけど?つまり、お前は何が言いたいんだ?」
「だから忠告だと言っているだろ?今の大野は彼女の手の平で転がされているだけだ」
「だから何を根拠に言っている?」
健人は少し苛立ちながらそう大林に迫る。核心だけを話せばいいものを、大林は話を遠回しにしすぎていたのだ。
「だから言っている通りだ。遠藤榛名は……」
「………?」
大林は再度健人に説明を始めるも、途中で口を閉ざしてしまう。そして健人の後方を確認した後、すぐに空の皿を持って椅子から立ち上がった。そのまま、大林は健人のもとから去っていく。
「何だよ、全く」
「……あれ?健人は今日、食堂ですか?」
健人は突然去った大林に愚痴をこぼす。しかし、突然背中から声をかけられ、健人は肩を飛び上がらせた。
「は、はっしー!?どうしたの?」
健人は引きつった笑顔で榛名に話しかける。特に榛名に対して悪いことをしていたわけではなかったが、健人は嫌な感覚に陥っていた。
「いえ、ちょっと購買にペンを買いに来ていたんですけど。……誰かと一緒にいたんですか?」
健人の目の前の席に置かれている飲みかけのコップを見て、榛名は不思議そうに尋ねる。榛名の声が抑揚を失ったような気がして、健人の返答は少し遅れた。
「大林だ。はっしーも知っているだろ?」
「ええ。……学年一番の方ですよね?」
健人もラーメンを完食すると、その皿を返却口に持っていく。その後ろを榛名がついてきた。
「それで、何の話をしていたのですか?」
「え?いや、他愛もない話だ」
「……そうですか」
健人は笑って誤魔化そうとしたが、榛名の何か考え込んでいる表情を見てつい唇を噛む。大林の話を聞いた後であったため、健人は悪い想像をしてしまったのだ。
「まあ何でもいいです。それより、早く教室に戻りましょう。もうすぐ授業が始まってしまいますから」
健人が実体のない何かに怯えていると、榛名はすぐにいつも通りの様子に戻る。すでに、榛名には不審な点など一つもなかった。
「そうしようか」
健人は大林の話が嫌な方向に発展しないことだけを祈り、榛名と一緒に教室に戻った。




