第一章 「はるな」(1)
春休み最終日の夕方、健人は一人家を出て道を歩いていた。太陽は沈みかけているものの、まだ街は明るい。しかし、健人の顔はそれに似合わず暗かった。
その理由は当然、今日の占いの結果のせいである。健人は占い師のことをインチキだと思っていた。しかし、いざ本当に近くにいる人の名前を出されて、健人は動揺していたのだ。
「はるな」という名前。健人はその名を持つ人間を深く知っていた。
健人は家を出て数分歩くと、一つの古いアパートに到着する。そして、そのアパートの一〇ニ号室のインターホンを鳴らした。
かすれた音が鳴り響くと同時に、部屋の中から足音が聞こえてくる。健人はいつも通りの雰囲気を感じた。
「あれ、もう来たの?まあいいや上がって」
扉が開くなり一人の少女が顔を見せる。ショートカットの髪が揺れ、健人の顔を確認した瞬間に笑顔になる。
彼女こそが深瀬春奈であった。健人は春奈の言葉に従って、家の中に足を踏み入れる。
「ちゃんと誰が来たか確認してるのか?扉開けるの早すぎるだろ」
「ちゃんと分かってるって。健人がインターホン鳴らす時、なんか癖があるんだよね」
「インターホンに癖なんかねーよ。知らないおっさんが来てたらどうする?」
健人は危機意識の低い春奈を注意する。しかし、春奈は聞く耳を持たない。
「健ちゃんもう来たの?」
健人が部屋の奥に入っていくと、寝室からもう一人の少女が出てくる。彼女は春奈の妹の深瀬明奈である。
「うん、お邪魔するよ」
健人はジャージ姿の明奈に答える。明奈は興味なさそうに頷いた。健人は何も変化がないと感じながらソファーに腰掛ける。
春奈は健人の幼馴染で、西高の同級生である。出会いは保育園の頃まで遡り、今でも関係を保っていた。しかし、二人が恋仲である事実はない。
春奈の家は春奈と明奈の二人暮らしである。両親は春奈が小学生の頃に事故で他界しており、それ以来姉妹二人で生活を営んでいた。たまに叔母が様子を見に来るそうだが、それも今では月に一度あるかないかになっているという。
そういう事情もあって、姉妹二人暮らしが寂しいからなのか、健人はよく夕食に誘われて春奈の家を訪れていた。今日もそのために健人はここに来ている。
「お姉ちゃん、早く作ってよ!お腹空いた!」
「手伝いもせずによく言うわね」
エプロン姿で台所を動き回る春奈。健人と明奈はそんな様子を二人眺めるだけである。健人としては、手伝いを率先して行うことに抵抗はない。しかし、春奈がそれを許していなかった。
健人と明奈は、家事の面で共に戦力外だったのだ。
「明奈は今日も一日練だったの!」
明奈は無駄に腕を振って部活の疲れを示そうとする。しかし、春奈はそれを無視していた。
明奈は近くの中学校に通っており、そこで陸上部に所属している。長距離走が得意らしく、毎日練習に励んでいるようだった。
「もういい!お姉ちゃんが早く作らないなら、明奈健ちゃんといちゃいちゃしとくもん」
明奈は拗ねて頬を膨らませると、健人のすぐ横に座ってそのまま健人にもたれかかった。健人はこれもまたいつも通りだと思いながら、丁重に明奈を押し返す。
春奈が全ての作業を終えて食事を用意し終えたのは、その後すぐのことだった。
「……それにしても健人、今日はやけに早く来たね。何かあったの?」
春奈はアスパラのベーコン巻きを頬張りながら、健人に尋ねる。明奈もこの話に興味を持ったのか、皿から視線を上げた。
「いや、別に何もないよ。今日は偶然早く来ただけだ」
「お姉ちゃんに早く会いたかったとか?」
「違うって」
健人は苦笑いしながら答える。ただ、明奈は信じていないようだった。
「なんか私が部活行こうとしていた時、どこかに出かけようとしてたよね?」
春奈は今朝のことを思い出して口にする。それと同時に、春奈の綺麗な髪が波打つ。確かに健人は今朝、春奈と偶然鉢合わせていたのだ。
「ああ。守と約束があったからな」
健人は尋問されているような感覚に陥りながら、嘘をつかないように答える。健人の嘘はすぐに春奈にばれてしまうのだ。
「ふーん、まあ良いんだけど」
春奈は大した話題ではないと感じたのか、話を途中で切り上げた。健人はそれでもってやっと安心する。占いの話はしたくなかったのだ。
しかし、油断は禁物だった。
「……あ、そうそう。今日クラブで話してたことなんだけど、あの占い屋やっぱり当たるみたいね」
「なっ!そ、そうなのか……」
春奈から突然占いの話題を振られて、健人は動揺する。すぐに冷静になったつもりだったが、健人の態度は挙動不審に映る。
「ねぇ、本当は何かあったんでしょ?今日の健人、変だよ?」
「健ちゃん、まさかその占い屋に行ったとか?」
追い討ちをかけるように明奈が追及する。二人して健人に容赦なかった。
「まさか。非科学的すぎる」
占い師に言われた名前が頭の中を駆け回る中、健人はいつも通り振舞うことに徹する。
「ま、そうだよね。健人はそういうのいつも信じない夢のない人間だし」
「それで?クラブで何の話を?」
健人は春奈に話の続きをするように促す。
「ん?それで今日は昼練習だったから、練習が終わった後にみんなで行ってきたわけ」
「行ったって占い屋に?」
「そう」
健人は春奈の返答に心の中で大きく息を吐く。別に健人はやましいことをしていたわけではない。しかし春奈と鉢合わせていた場合、健人が説明に追われることは間違いなく、面倒ごとは避けられないのだ。
「………」
健人はとにかく平静を保って、この場をやり過ごそうとする。この話題は健人にとって苦しいものだった。
健人が占い師から「はるな」という名を告げられて、それを春奈と結びつけたのは仕方のないことである。何故ならば、健人の周りに「はるな」という名を持つ人間が他にいなかったからだ。
そして同時に、その「はるな」が春奈だったとしても、特に困ることはない。春奈とは長い付き合いで、それ故に安心できたからである。
しかし、健人が春奈のことを好いているかといえば、そうではなかった。また同時に、春奈が健人に好意を抱いているわけでもない。そんな中で無責任なことを口にするのは、健人には躊躇われたわけである。
「……ねぇ、結果気にならない?」
「別に気にならない。そんなインチキな言葉にいちいち喜怒哀楽していても仕方ないだろ」
「……つまんない」
健人は自分のことを棚に上げて興味がないことをアピールする。すると、春奈は口を尖らせた。
「でも実績はあるんだよ?」
「その占い師とグルだったらどうする?」
健人は考えられる仮説を突きつける。占い師の宣伝目的に、占いが当たったという嘘を誰かが吹聴している可能性は大いにあるのだ。
「本当、健人には夢がないなぁ」
春奈は残念そうに俯く。健人はそんな春奈を見て申し訳なく思った。
もし健人が占い師のもとに行っていなければ、きっと春奈の話に乗ることができたはずである。面倒なことになったと健人は感じた。
「じゃ、この話は良いか。私がどんな人の名前を告げられたのか、健人には言っておきたかったのにな」
「………」
健人は春奈の言葉を聞いて考える。もし、春奈が占い師から伝えられた名前が健人の名前でなければ、それはつまり占い師がインチキであるか、健人が伝えられた「はるな」という名が春奈ではないということになる。
つまり、春奈の言葉を聞くことで、健人は少なからず小さな事実を知ることができるはずだった。
「健ちゃん!聞いてみようよ!未来のお兄さんが誰なのか、明奈は興味があるよ!」
明奈から健人の背中を押すような言葉が飛んでくる。それを受けて、事実さえ知ってしまえば、面倒ごとに悩まされる必要はないと一瞬思ってしまう。
しかし、健人にはその勇気がなかった。
「俺に言ってどうする?占いの結果がインチキかどうかは別にして、そういうのは秘めておいたほうがいいんじゃないか?」
健人はもっともらしいことを言って、この話を終わらせることにした。あまりにも話が出来すぎているように感じたのだ。
「……そうだね。健人には関係ないもんね」
春奈は静かに呟く。そんな春奈を見ても、健人にはどうすることもできない。その場の空気は、一気に重苦しくなった。
ただ、全員にとって過ごしにくい空気は、すぐに春奈が取り払った。
「健人、お父さんはいつ帰ってくるの?今日中に帰ってくるなら、余ったの持って帰って」
春奈はそう言って作り余った夕食の一品を示す。
「ああ、ありがとう。でも多分、親父はしばらく帰ってこれないと思うから。なんか、今は繁忙期らしいよ」
健人はそう言って春奈の提案を固辞する。明日からは学校が始まる。明日はまだ始業式だけで健人には関係ない話だが、部活動をしている二人の弁当の足しにしてもらう方がよっぽど良かった。
「そう……。忙しそうだね」
春奈は素直な感想を述べる。健人はそうだなと呟いた。
父親の大野文隆は外資系企業に勤める会社員である。健人は、文隆がどの部署でどんな仕事をしているのか知らない。しかし、出張でよく海外に行っていることは、家に残されている健人への土産で把握していた。
そして、このことが原因で健人には母親がいなかった。
健人の母親だった人は、銀行員として働いていた。ただ、どちらも多忙な毎日を過ごしていたらしく、そこから生まれた価値観の違いで、健人が幼い頃に二人は離婚していた。
健人が父親のほうに引き取られたのは、当時の健人がそれを望んだからである。しかし、健人がなぜそのような判断をしたのかは、もう忘れてしまって覚えていない。
「またお腹が空いたら来てよ。私たちも二人で寂しいから」
「ああ、いつもすまない。じゃ、今日はこれで帰るよ。食事代はまたまとめて渡すから」
「……そんなのいいのに」
「それじゃおやすみ。くれぐれも戸締りはしっかりとしろよ」
健人は春奈と明奈に見送られながら家を出る。
「うん、また明日学校でね」
「健ちゃん、またお姉ちゃんと一緒のクラスだといいね」
二人からの別れの言葉を聞いて、健人はそのまま春奈の家を後にする。外は既に暗くなっており、春だというのに気温は低かった。
健人は今日の自分がとても情けなかったと感じながら、ゆっくり帰った。たかだか一つの占いで焦りすぎている。健人の感想はこれに尽きた。
ただ、占いの結果など精査してみれば信じるに値せず、そのことは自ずと証明されるはずである。健人はそう結論を出して、深く考えすぎないようにすることにした。
明日からは忙しい日常が戻ってくる。本来ならば、占いのことなどその中で淘汰されるはずだった。