第五章 困惑(1)
今年は冷夏と騒がれ、比較的過ごしやすい日が続いている。しかし、冷房が必須であることに変わりはない。健人は大抵の時間を家の中で過ごしていた。
蝉の声が周囲一帯から聞こえてきており、健人はそれを鬱陶しく感じながら机に向かう。期間を開けてしまうと、計算の能力は落ちてしまう。。毎朝ランニングをする感覚で、健人は解き方を知っている問題をダラダラと解いていた。
夏季キャンプが終わってから、健人にはほとんど用事という用事がない。ひどい時は誰とも喋らずに一日を終える時もあった。しかしそれでも、健人がそれを問題視することはなかった。
しかし、この日はそんなことにはならず、健人の携帯が震えた。電話がかかってきたのだ。
画面を見て、健人は相手が誰なのかを知る。
「もしもし」
シャーペンをノートの上に置いて、健人は電話に出る。時間は午前十一時を回っていた。
「もしもし、健人?」
「そうだけど……何か用?」
「そんな言い方されるなんて……まあいいです。今日は何か予定ありますか?」
電話相手は榛名で、どこかムスッとした様子で健人に尋ねてくる。健人は不思議に思いながら、再確認を兼ねてカレンダーを眺めた。
「何もない」
「そう。じゃあ、一緒にどこかへ出かけませんか?そうですね……市内のショッピングモールとかどうでしょう?」
「えー、暑いだろ」
榛名の提案に健人は文句を言う。可能な限り、このまま涼しい場所で過ごしたいと思っていたのだ。
「ダメです。用事がないのなら十五分以内に私のマンションの前まで来てください。遅れると……知りませんから」
ただ、榛名はそう言い残すと、健人の了承を得る前に勝手に電話を切った。対する健人は、文句を言えないまま携帯を耳から離す。そして、ため息を吐いて重たい腰を強引に上げた。
駅前は昼時であるにもかかわらず閑散としていた。指定された時間までに到着した健人は、木陰を探してそこで榛名を待つ。
アスファルトは見るからに暑そうで、ロータリーに止まるタクシーは今にも溶けてしまいそうである。無機質な街の風景を見て、健人はただ暑苦しさだけを感じていた。
健人はそんな風景を見ることをやめ、携帯を取り出してニュースを確認する。家にテレビはあるものの、それが点灯していることは珍しい。時代の流れに乗って、健人も情報のほとんどはネットから仕入れていた。ただ、大したニュースはなかった。
そうして、時間の確認も兼ねつつ携帯を操作していると、目の前に誰かがやってきた。それに気付くと、健人は顔をゆっくりとあげる。目の前にいたのは榛名だった。
「ちゃんと来てくれたんですね」
「行かないと怒るだろ?」
健人は携帯をしまってから榛名を観察する。今日の榛名は、やや露出度の高い白のワンピースを着ていて、いつも以上に魅力的だった。健人はそんな榛名に一瞬見惚れるも、急いで視線を横に逸らす。ただ、榛名は健人の不自然な行動に笑みを浮かべた。
「どうしたんですか?……感想を言ってくれたりしますか?」
「何の感想だよ?」
健人は恥ずかしさに目を泳がせる。すると、榛名はそんな健人の目の前にわざわざやってきて首を傾げてみせた。健人はそこまでされてから、やっと口を開く。
「……白くていいな」
「見れば分かります。……下着の話ですか?」
「違うよ」
「では、何がどういいんですか?」
健人の感想に納得できないらしい榛名は、意地悪をするように再度質問する。健人は眉間にしわを寄せて不満を示した。
「はっしーがそんなに意地悪だとは思わなかった」
「怒りましたか?」
「怒ってない。驚いただけだ」
健人は頭を掻いて恥ずかしさを紛らわす。すると、榛名は健人のそばに寄ってきて言葉を加えた。
「女性なんてこういうものですよ。言葉にしないと文句は言うし、言って欲しいことと違っていても文句を言う。面倒臭いですよね」
「えっ……!?」
榛名が突然自虐的に話し始め、健人は榛名の様子を焦りつつ確認する。幸い機嫌を損ねているわけではないようだったが、何か言いたげな顔をしていた。
「さあ、それは分からないな。俺はそういう経験ないし。さほど気にしたこともない」
健人は榛名をフォローするつもりで言ったわけではない。しかし、榛名は健人の言葉に喜んだ。
「健人は私について、少し勉強ができるだけの人間だと思っていたのですか?」
「だけとは言わないけど……」
確かに、榛名の学力は高く、その点は尊敬している。しかし、榛名をそれだけで評価しているつもりはなかった。
「似合ってると思うよ。お世辞抜きにポテンシャルが高いから」
健人は観念して思ったことを告げる。ただ、すぐに榛名から反応がなかったため、健人は言葉を言い誤ったかと心配した。
「……褒めてるんですよね?嬉しいです」
「もう行こう。この話はおしまいだ」
健人は恥ずかしさのあまり、衝動的に顔を伏せる。そして一人駅の方向に歩いた。
「手は繋いでくれないんですか?」
「勘弁してくれ……」
健人は慣れないことに動揺して、考えがまとまらなくなる。榛名は電車に乗るまでそんな健人を楽しみ続けていた。
電車に乗って数分、一つ先の駅で電車を降りる。ショッピングモールはすぐそばに立地している。
東宮市最大のショッピングモール、東宮ヤードは駅と連絡橋で接続している。連絡橋には、空港などによく見られるムービングウォークが設置されており、近代的な成り立ちが有名だった。
施設は百貨店とも敷地を共有しており、その他にも専門店や飲食店、映画館が入っている。東宮市民の憩いの場として一番人気な場所だった。
そんな東宮ヤードにやってきた健人と榛名は、榛名の要望で洋服屋など順に店を回っていく。健人は自分が呼ばれた理由を理解しないまま、榛名との時間を過ごした。
しばらくして二人の足が疲れ出した頃、榛名は一つの喫茶店に入ることを提案した。健人はこれまで榛名のそばにいただけで、その時も榛名に従って入店することにする。喫茶店に入った二人は、店員に一番奥の座席に通された。
「ちょっと疲れました。健人はどうですか?」
「まあ少しだけ」
健人はそう答えてメニューを手に取る。小腹が空いていたため、健人はサイドメニューの欄に目を通した。席を挟んで反対側に座っている榛名は、そんなメニューを覗き込むように見ようとする。
「そこにもう一つあるだろ」
「分かってないですね。一緒に一つのものを見たいじゃないですか」
「馬鹿言うな、見にくいだろ?」
健人は自分が持っていたメニューを手渡す。榛名は不満そうな表情をみせたが、素直にそれを受け取った。その後、しばらくメニューを眺めていた榛名だったが、何かを思いついたような顔をしてメニューを元に戻した。
「決めた?」
「ええ」
榛名の返答を聞いてから、健人は店員を呼ぶ。
「このタマゴサンドイッチセットを一つと、はっ……榛名はどれにした?」
「同じものをもう一つ」
「じゃ、これを二つで」
最終的に健人が一人でオーダーを済ませると、店員は頭を下げてその場を離れていく。
「はっしー、じゃないんですか?」
「ごめん、恥ずかしかった」
「今更じゃないですか。……まあいいですけど」
榛名はやや拗ねたようにそう言い、窓の外を眺め始める。健人はたったそれだけでと文句を言いかけたが、マンション前でのやり取りを思い出して思いとどまった。
「……あのさ、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
健人が榛名に声をかけると、榛名は顔を背けたまま返事をする。健人は榛名の様子を気にすることなく、ずっと感じていた質問を榛名にぶつけた。
「今日、どうして俺は呼ばれたんだ?」
「えっ!?」
「あっ、いや、別に嫌だと思ってるわけじゃなくて、ずっと目的もなくぶらぶらしているだけみたいだったから」
健人は榛名の驚いた顔を見て、急いでそう言い加える。ただ、東宮ヤードに来たときからずっと、健人はこのことを疑問に思っていた。
健人は榛名についていろんな店を回っていたが、榛名に何かを探している様子はなかった。その証拠に、数々の店を回ったが、榛名はまだ何も買っていないのだ。
ただ、健人のそんな問いかけに対し、榛名は強く健人を睨んだ。
「何か目的がないとダメなんですか?」
「………?」
健人が榛名に尋ねたことについて、榛名が答えることはしない。その代わりに、榛名は健人にそう質問した。健人は意味を理解できずに眉間にしわを寄せる。
「だから、私が健人と会うことに目的が必要ですか?」
「それは……」
「そもそも、私の今日の目的は健人と会うことでした。健人と会えるのなら別にどこだっていいんですから」
理解力の乏しい健人に対して、榛名ははっきりと自らの気持ちを伝える。ただ、健人はそれを聞いてもなお、口が動かなかった。
「私の言っていること、分かりませんか?」
「いや、分かるけど。……そういうものなのか?」
健人は一般的な立場で話をしようとする。ただ、健人自身が当事者であることに変わりはなく、榛名はそんな健人の様子にため息をついた。
「キャンプが終わってから今まで、健人が私に連絡を取ってくれたことがありましたか?いえ、やっぱり先に確認しておきましょう。……私は健人が好きです。健人はどうですか?」
「な、なんだよいきなり」
突然の榛名の言葉に、健人は動揺を隠しきれない。健人は自分の顔が熱くなっていくのが分かった。
「確認です。あのときは雰囲気に流されてしまったと、バスで言っていました。今日改めて聞いておくことは大切だと思います」
「……そう言ってもなぁ」
健人ははっきりとした言葉を避ける。すると、榛名は急に声のボリュームを落とした。
「やっぱり、そういうことですか……」
榛名は表情を暗くして健人を見つめる。すると突然、榛名の目が潤み始めた。健人はそれを見て焦る。
「ちょっ!そ、馬鹿泣くなって!好きだよ!本当だ!」
健人は無我夢中になって言葉を並べる。しかし、榛名が一度瞬きをすると涙が溢れてくる。健人は決心して机の上にある榛名の手を握った。
「言葉で何でも伝わるとは思っていないから、安い言葉を口にするだけなのは嫌だったんだ。でも榛名がそれを望むなら……」
「お待たせしました。タマゴサンドイッチセットになります」
健人が机の上で榛名の手を握っている中、タイミング悪く店員がやってくる。健人は店員の存在に気づくと、急いで腕を引っ込めて机の上を空けた。店員は笑いを必死にこらえている様子で皿を机の上に置くと、そそくさと去っていく。
「なんだその顔は……」
健人が再び榛名に目を向けると、いつも間にかその顔は笑っていた。涙も拭った後のようで、健人はその時になって騙されたと気付いた。
「さっき言いましたよね?言って欲しいことを言ってくれないと嫌ですって。特にこういう感情は判断が難しいですから」
「そうだとしても、ちょっとやりすぎじゃ……?」
健人は大きく息を吐く。榛名の涙を見た時、健人はそれに騙されてかなり焦った。こんなことが毎回あると思うと、健人はどうにも耐えられそうになかったのだ。
「今回はいたずらです。健人が全然仕草を見せてくれないので、本当に心配になってしまいました。……これからは健人から連絡してくれますか?」
「分かったよ。分かったからああいうことはもうこれきりにしてくれ。少し疲れる」
健人は実際に感じたことをそのまま伝える。すると、榛名はしっかりと頷いてみせた。ただ、榛名は同時に質問を付け加える。
「でも、健人にとって私はどう見えていますか?面倒臭いですか?それとも考えていることが分からないとか?思っていることがあれば言ってください」
榛名はそう質問すると、健人の顔を見つめて答えを待つ。健人は変な質問だと感じつつ考えた。
「……はっきりとしたことはお互い分かってないだろ?ただ俺は、はっしーが客観的に物事を見ることが出来て、利口な考え方をする人だと思っていた。だから今日は新鮮に感じたよ。そういう一面もあるんだと思って」
健人は、榛名が論理に基づいて動いているとばかり思っていた。夏季キャンプに突然参加するなど不可解な行動も見られたが、それでもその理由が健人に恋情を抱いていたためと考えれば理解できる。
「まだ健人は私の外面しか知らないと思います。私も健人のことをまだまだ知りませんから。……だから、こういう機会が必要なんだと思います」
榛名はもっともらしいことを述べる。ただ、榛名の告白を受け入れた健人にしてみれば、榛名のこの言葉は他人事ではない。
「それに……」
健人が榛名の言い草に苦笑いをしながらサンドイッチに手をつけようとすると、榛名が言葉を続ける。不思議に思いつつ榛名の方を向いた。
「私は結構嫉妬深いです。やきもちだって妬きます。そういうのは嫌ですか?」
榛名は恥ずかしそうに顔を赤くして話す。健人はそれを聞いてすぐに言葉を返した。
「別に良いんじゃない?」
健人は簡単に言って笑う。健人にとって、それが問題であるように感じられなかったのだ。しかし、榛名はすぐに質問してくる。
「じゃあ例えば、私が知らない男の人と手を繋いで歩いていたら、健人はどう思いますか?」
「……ちゃんとした理由があれば気にしない」
「浮ついた心を持っているかもしれませんよ?」
「俺ははっしーを信頼してるから」
健人は榛名が何を言いたいのかよく分かっていなかったため、問題として取り上げるほどのことだと感じられていない。しかし、健人のそんな考えは、榛名が求めることと少しずれていた。
「私にはそれが出来ないのです。その時は黙って見ていられるかもしれません。でも心の中は騒つきます。キャンプの時も、健人が深瀬さんや他の女の子と一緒にいるだけで苦しかったです」
「……深瀬は昔からの友人だ。どうすれば良い?」
榛名が苦しく感じているのであれば、それは改善しなければならない。しかし、春奈は健人の昔からの知人で、突然関係を絶つことなどできない。健人は榛名への対応に困った。
「別に深瀬さんとどうしろということを言いたいんじゃないんです。……ただ、私を心配させないでほしい。深瀬さんと話をして一緒に笑ったとしても、それ以上の感情を私と共有してくれるだけで私は嬉しい。私だって健人のことを信頼しているつもりですから。……ダメですか?」
「ダメ……というか。それは……」
健人は口籠って、何を言えば良いのか分からなくなる。そもそも何をすれば榛名が心配しないでくれるのか、健人には皆目見当つかない。
「だから今はこれで良いんです。また違う日、今度は健人から私を誘ってください。それだけで私は嬉しいですから」
「あ、ああ。忘れないようにしておくよ」
榛名にまっすぐ見つめられ、健人はそう答える以外に返事が見つからなくなった。ただ、榛名はその言葉を聞いて、今日一番の笑顔を見せる。健人はそんな榛名に理性さえ奪われそうになった。
健人は衝動的に榛名に何かをする前に、しっかりと自分の感情を抑え込む。決して誘惑されたわけではない。それでも、榛名は健人のことを惹きつけ取り込もうとしていた。
「じゃ、俺からも最後に一つ……」
「何ですか?」
「これからはその……そういった露出の多い服は外で着ないでほしい。決して似合ってないとかそういうわけじゃない。ただ……」
「私のこういった姿を他の人に見られたくないんですね?」
榛名が健人の顔を覗き込みながら尋ねる。健人は少し唇を噛んで、それでも小さく頷いた。榛名は健人のそんな様子を見て、綺麗な歯を見せて笑った。
「分かりました。……でもこの服は健人に褒めてもらった服ですから。これは健人と二人きりの時に着ますね」
榛名は嬉しそうにそう口にすると、そのままサンドイッチに手をつけ始めた。時間が経ってから、千里は自分の奇行を嘆いた。
また同時に、自身のことを客観的に判断すると榛名の言った通りだと感じた。
榛名がサンドイッチを食べ始めたのを見て、健人も食べ始める。そして、自分がどうしてこれほどまで榛名に好意を抱かれているのかを考えた。
榛名と健人は、四月に初めて顔を合わせた。そのため、二人の関係はまだ浅いと言える。占いのことと榛名の外見の美しさから、健人は確かに榛名を意識していた。しかし、健人が榛名に抱いていた感情はそれだけである。
榛名の方も、不良に絡まれた事案やテスト勉強など、健人と接触する機会はあった。しかしどれも、榛名が健人に好意を抱く理由としては弱いものである。
告白を受けた時も、健人のどこに惹かれたのか榛名は話していない。健人はそのことを考えると不思議に感じた。普通は、何もなしに人を好きになったりはしないのだ。
健人はばれないように榛名の様子を窺う。ただ、榛名は健人の視線にすぐに気がつき笑みを浮かべる。健人はそれを見て苦笑いをしてから、視線をサンドイッチに戻す。
健人が榛名の虜になりつつあるのは、どうやら間違いないようだった。
それからも二人は東宮ヤードの店舗を回ったが、健人が本屋で参考書を買った以外はウィンドウショッピングだけで時間を費やした。
榛名は本当に何かを欲していたわけではなく、健人と一緒にいるだけで満足していた。帰る頃になってそれを確認した健人は、勝手に榛名の気持ちに寄り添ろうとしていた。




