第四章 夏季キャンプ(9)
最終日、健人はバスの中で何度も船を漕いでいた。昨晩、榛名との用事を終わらせてテントに戻った健人は、守ら三人からいろいろな質問を受けた。その結果、ほとんど寝ることなく朝を迎えていたのだ。
健人は重りがついているかのようなまぶたを閉じては、隣からの声で起こされて目を開く。そんなことを何度も繰り返して、健人はバスの中での時間を過ごしていた。隣に座るのは榛名で、榛名は健人が寝る度にちょっかいをかけていたのだ。
席の位置は全てくじで決められたが、偶然に偶然が重なって健人は榛名と隣り合わせになっている。健人は誰かが操作したのではと考えたが、睡魔の中でそれを考えることはできなかった。
「ねぇ、後三十分もしないうちに到着してしまいますよ?何も話さないでいるつもりですか?」
「……眠たいんだから放っておいてくれ」
健人は窓側に座る榛名から顔をそらすように、通路側に頭をずらす。その時、健人は通路を挟んで隣に座る富岡と目が合った。健人は苦笑いを浮かべて、そっと顔を前方に戻した。
「……どうかしたんですか?」
健人が元の位置に頭を戻したことで、榛名が小声で尋ねてくる。健人は榛名に目配せするだけで何も言うことはしなかった。
富岡とはこのキャンプを通じて知り合った、健人の数少ない女性の友人である。ただ、健人は今の状況になった中で、それ以上のことを深く考えることはやめておくことにした。
「トミーと何かあったんですか?」
榛名が疑いの目を健人に向ける。健人はしばらく目を瞑って考えた後、榛名に一つ小声で質問した。
「富岡さんの下の名前ってなんていうの?」
「どうして本人に聞かないのですか?」
榛名が意地悪い顔で健人に言い返す。確かに、榛名の言うことは間違っていない。健人の隣には富岡が居るのだ。
「今さら聞くのは恥ずかしいだろ」
健人はそんな榛名に対して真面目に返す。それを聞いた榛名は目を細くして健人を睨んだ。鋭さを見せる榛名の顔に、健人は胸を締め付けられる。
「まあそうですよね。今さら本人に聞くのは失礼だと思います。トミーの下の名前は栞菜。……でも突然どうしたんですか?」
「いや、何でもない」
健人は榛名の回答を聞いて、再び寝る準備をする。榛名の返答を聞いて、健人の心の中に安堵の気持ちが広がったのだ。榛名は健人のことを不思議そうに見て、それでもその時は何も言わなかった。
健人が心配していたのは、富岡がやけに自分に対して好意的であったことである。そのことは健人だけでなく、守や文俊、雄二も感じていた。そのため、全く関係ない人間であったが、健人は富岡を運命の人という一つのカテゴリーで考えてしまっていた。
健人に対して女性が好意的な態度で近づいてくることは、今までにほとんどなかった。しかし、榛名といい富岡といい裏で話し合ったかのように、健人は突然そんな経験をすることになっている。そのため、健人は富岡のことを疑って見ていた。
ただ、富岡の名前が「はるな」でないことを知って、健人は富岡について一区切りつけることができた。少なくとも、占いの件と同等に考える必要はない。それが分かっただけでも、健人の肩の荷は下りたわけである。
「……ずっと考え込んで。もしかして、もう浮気心?」
「なんだそれ?」
「昨日は流れのままに口走っただけで、本当は私が健人に抱く感情と同じものを、健人は私に抱いていないとか?」
榛名は抑揚のない口調で健人に質問する。健人には動揺するつもりなどなかったものの、勝手に冷や汗が噴き出してくる。榛名の口調は、健人を精神的に追い詰めようとしていたのだ。
「昨日の言葉に嘘があるのかって聞きたいのか?」
「……まあ、そういうことです」
「じゃ、答えはノーだ。確かに榛名の空気に飲まれていたのは事実だが、嘘を言ったつもりは……ない。一回寝てリセットした今日でも後悔していないから、まあ間違いない」
健人は前の座席を見つめながら榛名に伝える。榛名はそれを聞いて少し笑った。そして次の瞬間に、意地悪い顔になる。
「じゃあ、もう一回ここで言ってください」
「……何を?」
健人は頬を引きつらせて聞き返す。ただ、榛名は恥ずかしがる様子なく、再度健人に言葉を放った。
「好きと言ってください。昨日は私も緊張していて聞きそびれてしまっていて」
「そういうのは……」
「言えないんですか?」
榛名は先程より語気を強めて健人に尋ねる。すると、その声に気付いた富岡が健人の方を向く。健人は今の状況に困って黙りこむしかなかった。
健人が何も言わないでいると、榛名は張り詰めた空気を破って深く座席にもたれかかる。そして、再び穏やかな様子で口を開いた。
「まあいいんですけどね。私は健人を虜にしますから」
自然にそう言う榛名に、健人は何も言えなくなる。富岡はすでに視線を前に戻していた。
「……分かったからこの話はここまでにしよう」
「えー?まだ健人から返事を聞いていませんよ?」
「それは昨日しただろ?」
健人は強引に話を終わらせる。その後すぐ、健人は腕を組み直して、少ない時間しか残っていない中で寝ることに集中した。榛名が健人に何かを言ってくる様子はない。健人はそのまま夢の中に落ちていった。
健人にとって予想していなかったことが起きた、今回の夏季キャンプ。健人はその変化にまるでついていけていなかった。
榛名が健人に告白をしたことは、健人にとって衝撃の出来事である。確かに転入後、榛名は健人とある程度の関係を築いていた。しかし、それが突然ここまでに発展する理由が健人には分からなかったのだ。
占い師の言葉を知っているのは健人と守だけ。それでも、榛名から健人にアプローチをかけてきたという事実から、占い師の言葉は榛名の言葉と関係性がないと考えて差し支えないはずだった。榛名の言葉は榛名の想いであるはずなのだ。
健人はそれに気付いていたために、榛名の想いを受け取ることにした。ただ事実として、榛名の申し出を断る理由すら健人にはなかった。
榛名は外見的にも内面的にも、人を惹きつける力を持っている。健人はそんな榛名の前で、その力を打ち砕くだけの強い志を持っていないのだ。
ただ、この決断が間違っていることなのか、それとも正しいことなのか。それを今の時点で判断することは難しい。評価は後から付いてくると健人は考えていた。




