第四章 夏季キャンプ(5)
「こういうのって初めてなんです。楽しみですね」
キャンプ三日目、朝早くからスタッフの指示に従って集合している。健人の隣では富岡が一方的に話しかけていた。
「どういうコースなんでしょう?……あれ?大野さん?」
「んぁ!?わ、悪い。ちょっとウトウトしていた」
顔のすぐ近くに富岡の顔が近づいているのに気付いて、健人は目を覚ます。焦った健人は口の中を軽く噛む。しかし、肌寒い空気が纏わりついていて、睡眠時間もまともに取れていない。重い瞼を開けることだけで精一杯だった。
昨晩は文俊や雄二と一緒に、守と早織のことで長く話をしていた。文俊から伝えられる学校での早織の様子に守は興味津々で、健人は守が本気であることを知った。
健人にとってどうでもいい話ではあったが、簡単に無視することはできない。結局最後まで話に付き合って、寝たのは二時頃のことだった。
「トランプでもしてたんですか?雄二はトランプ強いですよ?」
「いや、昨日はしてない。でも雄二は確かに強かったよ」
健人は大きくあくびをしながら富岡の質問に答える。そして、ゆっくりと周囲を眺めた。
今からはトレッキングが予定されており、すでにグループが結成されている。健人は富岡と同じグループで、その他は健人の知らない人物だった。
残念ながら守は早織と同じグループになれず、代わりに榛名と一緒となっている。春奈は違うグループで一人だった。
少し時間が経つと、スタッフがグループごとに地図を渡していく。グループによってトレッキングのコースは違う。健人らは少し川を下った所にある登山道への入り口から入山することになっていた。
「綺麗な景色が見れるといいですね」
「そうだな」
「……どんな景色が見たいですか?」
「そうだな」
今の健人に人の話をちゃんと聞く力はまだない。頭が回らずにただ立っているだけの存在である。そのため、健人は富岡の質問もあまり聞いていなかった。富岡はそんな健人の態度に少し頬を膨らませる。
ただ、健人はその富岡の顔を見て不思議に思うだけで、申し訳なさは感じていなかった。健人はまだ富岡の質問を把握できていなかったのだ。
健人が不思議に思ったことは、富岡の性格である。健人の周りにも社交的な人間はたくさんいた。しかし、会ってたかだか数日でここまで感情を見せてくる人間は、富岡が初めてだと思ったのだ。守とでさえ、仲良くなるまでに長い時間を費やしている。
「人の話は相手の目を見て聞かないと」
富岡は健人の前に躍り出て文句を言う。健人は深く頷き、同時に欠伸をした。このときの健人は、世の中には富岡のような人間もいるんだなという感覚しかなかったわけである。
その後、それぞれのグループは一斉に動き始めた。それぞれが違う方向に進むため、スタッフもそれに合わせて散開する。健人らのグループも地図を持つ他校の男子学生に付いて歩き始めた。
「そういや聞きましたよ?大野さんは理系科目が得意なんですよね?」
「得意というかは文系科目よりもできるというか」
「それを得意と言うんですよ。……じゃあ、植物とかにも興味はある?」
「いや、ないかな」
富岡の質問に健人は簡単に答える。すると、富岡は不思議そうな顔をした。
「どうしてですか?バイオは嫌いですか?」
「俺はチマチマと覚えるようなことが嫌いなんだ。数学みたいに一つ覚えて汎用性があればいいけど、植物の名前とか器官の名前とか覚えた所でそれまでだ」
「暗記が嫌いというわけですか?」
「まあ、そうなるな。……だけどどうして?」
健人は質問の意図を尋ねる。すると、富岡は嬉しそうな顔を健人に見せた。
「実は私の父は生物化学を大学で教えているんです。だからなのか、私も生物が好きなんです」
富岡は近くに咲いている花々に視線を向けつつ話す。健人はそれを静かに聞いていた。
「だからどうなのかなと思って。……あんまり好きじゃないみたいで残念でしたけど」
「いや、別に生物という分野は重要だと思ってる。俺には少し合わないだけで」
健人はとっさにフォローしようと言葉を繋ぐ。自分が大切にしていたり好きに思っているものを否定されることは、誰でも辛く感じるものなのだ。
「いえ、気にしないでください。それでなんですけど……大野さんは趣味とか考え方が違う人同士では、良い関係が作れないと思いますか?」
「どういうこと?藪から棒に」
「気になっただけです。例えば、国語が好きな人と数学が好きな人では、関係はどうなりますか?」
富岡は真剣な面持ちで健人に尋ねる。ただ、健人は返事に困った。どうなるかと聞かれても、健人には富岡の言っていることが分からなかったのだ。すると、富岡は補足を加える。
「……仲良くなれないと思いますか?」
「そんなことはないだろ」
富岡の補足を聞いて、健人は意味を理解して答える。ただ、こんな質問をされている理由は、まだ理解できていない。
「そうですよね。ごめんなさい変なこと聞いちゃって」
「いや……」
自己解決したのか富岡が少し頭を下げる。ただ、今度は健人に靄が残った。富岡が何を知りたかったのかやけに気になったのだ。
「人間関係ってそんなに淡白なものじゃないと思う」
「えっ?」
「あっいや、俺はそう思うってこと」
健人が自分の考えを口にすると、富岡は不思議そうに健人の顔を見つめる。健人は急いで顔を背けて、言葉を続けた。
「まあ、何もかも考え方が正反対の人間同士だったら無理かもしれないけど、普通そんなことはあり得ないでしょ。否定し合う部分があったとすれば、どこかで考えが一致する場所があってもおかしくないはず」
「そうですね」
「だから、ちょっと人と意見が違うからといって悲観することはないと思う。……富岡さんが何を聞きたかったのかは分からないけど」
富岡が内に秘めていることに干渉するつもりはない。そもそも、そんなものが富岡に存在するのかも不思議なところである。
しかし、健人は自分の中の納得いかないことを解決するために、富岡にそう伝えた。人間関係はたった一つの出来事で変化してしまうが、それが全てを司るわけではない。健人はそれを伝えたかったのだ。
富岡は健人が長々と話したことに驚いている。しかし、すぐに笑顔を見せて頷いた。
「大野さんって意外と真面目なんですね。見た感じ何も考えていなさそうなのに」
「失礼だな」
「でも、少し尊敬しました。私の変な質問に真剣になってくれて嬉しかったです」
「………」
健人は再び反応に困って口を閉ざす。富岡の言動は、その全てが謎めいているように健人には感じられたのだ。少なくとも、健人が簡単に理解できるものではなかった。
「最後に……」
「ん?」
富岡との会話で目を覚ました健人がようやくトレッキングを楽しもうと考えた時、再び富岡が少し声のトーンを落として健人に話しかける。健人は富岡の言葉を待った。
「大野さんには気になる人っていますか?」
「……えっと、なんて?」
「気になる人です。いますか?」
富岡ははっきりとした言葉で健人に質問する。健人は口を数回開けたり閉じたりした後、言葉を発した。
「気になるって……どういうこと?恋愛感情的な話?」
「そ、そうです。それ以外ないと思います」
富岡はかなり恥ずかしがっていて、健人の質問にたじろぎながら答える。健人も聞き慣れない質問に狼狽えた。
ただ同時に、別の可能性が浮かび上がる。
富岡と健人の関係は全く浅い。そんな富岡がこのような繊細な質問をしてくるなど、普通に考えてあり得ない話である。しかし、誰かがこの質問をするように富岡に指示していたとすれば合点がいった。
富岡は春奈や榛名と同じグループで数日過ごしている。そんな二人のどちらかが指示していたとすれば、今の話も理解できないわけではなかったのだ。
「それは秘密だな。俺はそういう話が人を伝播して広がっていくことを知ってる。火さえつけなければ煙は出ないんだからね」
「……あはは、そうですよね。私はまた変な質問を……」
「強いて言えば、俺は数学に恋してるぞ」
「あはは、面白くないです」
健人が場を和ませようとボケるも、富岡は冷たくそれをあしらう。健人は言わなければよかったと後悔し、火照った顔を冷ますために顔を色んな方向へ振った。
とにかく、この場が変な空気にならずに済んで健人は安堵した。そのことを考えると、健人の犠牲も無視できるものである。
ただそんな考えも、次の富岡の言葉までだった。
「私は大野さんのこと、素敵だと思います。学校が違うのが残念ですね」
「……えっ?」
「何でもないですよ」
「………」
それからの富岡は、この話題に触れようとしなかった。健人は、今の富岡の言葉を気にするべきなのか考える。しかし、波風を立てないように何も言わないことにした。




