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怪物達のトラジェディ  作者: 二口 大点
全ての始まり
1/5

悪魔からのプレゼント

 朝が来た。嫌だ。今日という一日が始まることが俺にとってどれほどの恐怖なのか、太陽のやつは分かっちゃいない。小鳥が二羽並べる程度の、レンガを一つ入れ忘れただけではないかと思う粗末な窓から射す日の光が、硬く冷たい石造りの牢の中を照らしている。肌寒い風も入ってくるが、薄い毛布一枚を俺を含めた五人が身を縮めて一緒に使っているものだから、大した防寒にはなっておらず寒い。


 肌寒さで自分の肩を抱いた。手についた傷が目に入る。全員が傷だらけだ。生傷だらけで、指先から尻から傷のないところを探すほうが難しい。衣服なんて呼べるものは着ていない。ボロ布一枚、それが俺達の唯一の服だ。日差しを感じて一番に起きるのは俺で、俺が動けば隣で寝ているフロースが目を覚ます。


「あ、おはようアニマ。相変わらず、早いね」


「お前が鈍いだけだろ」


「そうかな」


 プラチナの髪が緩やかに波がかっていて、目は深緑の不思議な色あいをしている。俺達の中では一番整った顔立ちをしていると思う。ただ肌は白い分傷が目立っているため、見ていて痛々しい。着ているのは俺と同じ、汚れた大人用のシャツ一枚だけだ。


 俺とフロースの会話で他の三人も目を覚まし、続々と目を覚まし始めた。


「朝なのか、朝なんだな」


 起き上がるのはオルニット。しかし右足が不自由で、上手く立てないために立ち上がるまでに時間がかかる。こいつは黒髪で耳が隠れるくらいのボサボサっぷり。瞳の色が赤で、顔つきが幼くいつも眠たげな目をしていて、なにを考えているのかわからないから質が悪い。背は俺達の中では一番小さい。


「アニマ、朝はどうして来るんだろう」


「知るかよ」


「アニマ、太陽はどうして光を放つんだろう」


「俺に訊くなよ、知らないって言ってんだろ」


 オルニットはとにかく質問してくる。目が覚めたらひっきりなしに言ってくるから迷惑千万だ。


「おはよう、みんな」


 グラディウスが次に起き上がる。赤の短髪に茶の瞳。精悍な面構えをしており、ここにいる中では一番生気に溢れている。背も一番高い。


「どうした、アニマ。朝だというのに元気がないな」


「どうしてお前はそんなに元気なんだよ。これから嫌な一日になるっていうのに」


「だからこそ、立ち向かうぐらいの意気込みは必要だろう? 僕は少なくともそう思う。だからこそ、誰よりも元気に振舞うのさ」


 暑苦しいやつ。さて、最後は一番の寝坊野郎だ。白髪で黒目、顔つきも体も特に特徴はないが、一番手厳しくやられているせいで、顔も体も傷が多い不憫な奴だ。あの女のお気に入りだから、こういう目に遭っているんだろうけど。


「起きろよゼノ。もう朝だぞ」


「あ、さ?」


 言語が不自由なのか、口数が少ないためなのか、はっきりとした言葉を口にしない。起き上がった彼の目は、生きている人間にしては濁りきっている。こいつも、もうじきなのかもしれない。


「アニマ、君。きょ、うは、だれの、番?」


「さあ、あの野郎の気分次第だろ」


 みんなが目を覚まし、俺は安堵した。今日はみんなが目を開けたからだ。目を開けず、冷たくなっている奴は誰もいなかった。毎日毎日、そいつの動く様子を、姿形を確認できないと不安になる。それが日課であり、俺の唯一できることだ。


 今日でここにきて、何日目だったろう。一月だったか、三ヶ月だったか。もう日にちすらどうでもよくなっている。奴隷商の馬車に揺られていた頃が、既に懐かしく感じる。


 女――俺達を買ったやつだ。名前は知らない。拷問趣味の最低なやつだ。一緒に買われた奴らで、生き残ってるのは俺達だけになってしまっている。その後も新しく買われた奴らが牢に入れられていってるが、他の牢を見れば人数は少ない。きっと、ここが満杯になることはないだろう、と不謹慎ながら思う。


 今日はみんなで生き残れるだろうか。酷いことを控えてくれるだろうか。そんなことばかりが頭を過ぎる。


「アニマ、どうして悩んでいるの?」


「悩んでるから悩んでるんだ」


「返答になってないぞ」


「うるせえ、だったらお前がオルニットに完璧な答えを返してやれよ」


 会話。そう会話だけが楽しみだ。無駄に前向きな奴らなのか、タフなのかわからないけど、俺と同じ牢の奴らは不思議と元気なやつばかりだ。こんなところに長く居れば心が壊れてしまいそうなものだがな。


「今日はどんなことをされるかな」


「フロース、は平気。きっと、きょう、は選ばれない、から」


「ゼノ、どうしてそんなこと分かるの?」


「勘、だよ」


 ゼノが笑うと、フロースとオルニットも釣られて笑顔を見せた。元気とはいえ、あくまで他の牢に比べれば、だからな。皆で支えあえるだけ、俺達は恵まれているのだろう。


 やがて、全員が起き上がって眠気も晴れた頃、どこからか重い扉を開く音が聴こえた。まるで地獄の底から呻くような音が牢屋内に響いて、他の牢屋にいる奴らの怯えた声が耳に障る。フロースやオルニットも身を竦めており、怖々としている。ああ、今日が始まったのだ。


 奴隷の生活に慣れるなんて、ここに来た頃は思いもしなかった。毎日が地獄、そしてこれからも地獄には変わりない。死ぬほどの痛みを繰り返し受け続ける。それが俺達の存在意義だ。


 足音が近付くたびに心臓が高鳴る。口から上を隠すだけの無骨なマスクを着けた屈強な男が二人、笑顔が描かれたマスクを着け、黒い艶美なドレスを纏った女を護るようにして牢の方へと歩いてきた。あの女はいつも踵の高い変わった靴を履いており、それで歩く度に硬い音が牢に響く。足音一つが近付くのが分かってしまうから、余計に恐怖を増長させた。


「今日は、どれにしましょうか」


 高くも気品ある声が、俺達を吟味していることを告げた。奴は高価そうな赤い扇を開くと、それで仮面の口元を隠す。男たちは女の側で待機し、獣のような息遣いだけを俺達に向けて発している。


「ゼノ、それとアニマにしよう。後は向こうの牢屋から――」


 名前を呼ばれ、体が跳ねる。最悪だ。いや、なんとなく分かっていた。最近は俺とゼノが大層お気に入りらしい。ここ数日は延々いたぶられている。男達が牢の鍵を開けると、俺とゼノを軽々と引っ張り出して女の前に放り出した。


「ふふふ、愛らしいこと」


 俺の顎を掴み、自分を見上げさせるように顔を上げられる。笑顔のままの仮面が酷く不気味で、ここに来た頃はこの女を見るだけで涙が止まらなかった。


「アニマ、髪が伸びたわね。深い紫の瞳と長髪、なんて雅なのかしら」


 俺の髪はもう腰に届こうかというくらい長くなっている。ここに来てから切らせてもらっていないから、当然といえば当然なのだけど。


 俺とゼノ、それともう数人ほどが選ばれると、そのまま逃げられないよう男に前後を挟まれ、女が先頭に立って牢屋を出る――はずだった。


 ほう、と息づく音が聴こえた。聴こえてしまった。女が足を止め、護衛の男達も足を止める。


「今、溜め息を吐いたのは誰かしら?」


 女が振り向き、牢屋へと視線を向ける。仮面は笑ってこそいるものの、女から発せられる威圧感に身震いした。明らかな不快感を露にしている。


 牢内が静まり返り、一切の音が消える中、護衛の一人が牢の方へと踵を返した。そして牢内を見回し、視線が合った途端に一番怯えた少年を見つけ、その子を牢から引っ張り出す。少年は悲鳴を上げて抵抗したが、黙らせるように力ずくで男に首根っこを抑えられると、床に押さえつけられた。


 女が俺達の脇を通って少年の前に立つ。怯えきった少年は女を見上げ、泣きじゃくって許しを請う。ごめんなさい、許してください、息つく間もなく謝り続ける少年の言葉を、女はただ聴き続けた。やがて女は膝を折り、少年の頭を優しく撫でた。


「今日は自分じゃない――そう思って安心したのかしら? 正直に言いなさい」


「ごめんなさい、そうです。許してください、ごめんなさい」


 撫でていた手が少年の言葉を聴いて止まり、その小さな頭を鷲掴みにした。


「私の愛を受け取ることができないのに、そう思ったのね。安心、したの。残念で、ではなくね?」


 女は安心、残念、という言葉が強調されるように語気を強めて言い放った。少年は謝ることを止め、絶望したように顔を青くし、口を開閉するだけで言葉を失っている。


「醜い子」


 吐き捨てるように女が言うと、男が少年を持ち上げた。この瞬間、多分牢にいた全員があの子の行く末を察したのだろう。助けを請う彼の言葉を聴きながらも、視線を合わせようとする人は誰もいなかった。少年を抱えた護衛が重い扉を開いて牢外に出て行く。言葉にならない悲鳴が聴こえたのを最後に、少年の言葉は重い扉の閉まる音に掻き消された。


 俺の首を、女の氷のように冷たい手が撫でる。思わず身震いしてしまったが、女は気にする様子もなくそのままゼノの頭を撫でて、俺とゼノを側に寄せる。


「ああ、可愛い可愛い私のアニマ、嫌なものを見たでしょう。愛しい私のゼノ、あなたもとっても気分を害したでしょう? でももうそんなものを見ることはないのよ。もう醜い子はいなくなるから。さあ、行きましょう」


 優しい声色で、何事もなかったような女の様子に、心底恐怖を感じた。邪魔になれば、この女に愛されなくては、俺達の命など蝋燭の火と同じ価値しかないのだと改めて感じさせられた。一息で手間なく消されるか、大事に蝋がなくなるまで火を灯し続けられるか。そのどちらかだ。


 牢を出ると、石橋に繋がっていて、僅かな外を見ることか出来る。牢は周囲を堀に囲まれ、石橋以外の出入り口はない。そして堀には、女のペットがいる。水面からこちらを覗くそれは、人一人を丸呑みにできそうな巨大な口に、びっしりと並んだ鋭い牙をカチカチと打ち鳴らしてこちらを眺めている。魚のような、爬虫類のような。赤い目と大きな口以外ははっきりと全貌を見たことはない。見ることがあるとすれば、俺がそいつの餌になる日だけだろう。


 もしかしたら、さっき新鮮な餌を貰ったのかもしれない。そんな考えが頭に過ぎる。自然と拳に力が入り、自分の服を強く握り締めた。


 石橋を過ぎると女の屋敷に入った。牢とは比べ物にならないほど美しい内装で、床には赤い絨毯が皺一つなく敷き詰められ、広い廊下の壁には絵画や宝石がちりばめられた装飾などが飾られている。


 初めて見たときはあまりに凄くて言葉が出なかった。住む世界が違いすぎて、理解が追いつかなかった。今は、もう慣れてしまったけれど。


 奥へ奥へ進むと、やがて黒い鉄製の扉が見えてくる。近付くにつれて他の奴隷達の表情が曇っていくのが分かった。全員、経験済みなのだろう。あそこでなにをされるか分かっているのだ。


 先に出て行った護衛の一人が扉の前に待機している。女の歩く速度に合わせて扉を開き、中へと通した。


 中では蝋燭が揺らめき、朝が来たというのにそれ以外の明りがない。女は俺達を部屋の中心に集めると、護衛に命令して小瓶を取ってこさせた。その中には赤い液体が容れられている。それが俺達に配られた。


「いつものお薬よ。お飲みなさい」


 躊躇う様子は見せられない。飲むのを嫌がるも、逃亡なんてもっての他だ。俺達は全員、そう教え込まれている。全員が小瓶の中身を飲み干すと、女は満足したように笑い出した。狂ったように笑い終えると、一転して冷たい声色が女の口から放たれる。


「鞭を」


 男が壁に掛けられていたものを手に取ると、女に手渡した。俺を含めた奴隷たちが怯えたように身を寄せ合う。女が一歩前に出ると、鞭を床に打ちつけた。渇いた音が俺達の恐怖を刺激する。


 俺達の様子を窺っていた護衛が俺を引っ張り出し、服を無理矢理脱がせられた。そして女の前に投げ出させると、女は一撃、俺の背に鞭を打ち付けた。痺れるような痛みが打たれた背から広がり、声無き悲鳴を上げる。そのまま連続で打たれ続け、身動き一つ取れずに俺は呻いていた。


「ああ、可愛いアニマ、あなたは素晴らしいわ。これだけやっても美しいまま。この調子なら、そろそろ――」


 なにか言いかけて、女の仮面が他の奴隷たちに向けられた。


「いけないわ、私ったら。アニマだけを可愛がるのはダメ。みんな平等に愛してあげないと。次は誰にしましょうか?」


 悪魔の笑い声が聴こえた。鞭打ちだけで終わるわけがない。次はなにをされるのか。護衛が俺の側で、俺を見下ろしながら歪な笑みを浮かべている。


「傷、治ってきた。お前はあともう少し」


 傷が、治ってるだって? 痺れて痛いのかどうかももう分からない。何も感じないし、動けないから傷に触れることすらできない。


 護衛の口が動いている。なにかを言っているようだ。でもその言葉の意味を考えることは出来なかった。悲痛な声が聴こえてそんな声なんて掻き消えたからだ。誰かが、あの女に愛されているのだろう。朦朧とした意識の中、部屋を照らしている蝋燭の火が一本消えかかっているのが見えた。


 いつか――俺も消えるのだろうか。この暗い暗い掃き溜めの中で。


 遠くから声が聴こえた。目蓋を開けて、そこで自分が気絶していたことに気が付いた。視線を宙に彷徨わせると、自分が壁に磔にされているのを理解した。鎖に繋がれた鉄製の枷を手足に付けられており、外れないかと手足に力を入れるも、俺の力で外すのは無理だった。


 部屋はさっきと同じ部屋で、横に目を向けるとゼノや他の奴隷も磔にされている。全員傷だらけで力なく磔になっており、生気を感じさせない。さらに部屋を注意深く見回すと、部屋の隅であの女と護衛の男がなにかの液体を容れた瓶を手にしつつ、何事か話している。


 いつも飲まされている赤い薬ではない。色は濁った緑で、とても飲みたいと思える代物じゃなかった。女の仮面がこちらに向くと、俺が起きたことに気が付いたのだろう。ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「起きたのね、アニマ」


 頬に女の手が触れる。相変わらず冷たくて、鳥肌が立ちそうだ。女は俺の視線が液体に向いたことを察したのか、目の前に緑の液体を持ってくる。


「これね、新しいお薬にしようか考えているの。でも、とても強いお薬でね……」


 女が歩き出し、まだ気を失っている他の奴隷の手前で止まった。そしてその奴隷の口を開け、気味の悪い薬をその子の口内へと流し込む。喉が僅かに動いて、薬を飲んだのだと分かった途端、その子は目を見開き、苦しみ悶え始めた。


「痛い熱いあづ痛い痛いたいたい!」


 骨が軋むような音、折れる音、なにかが切れるような音、聞きたくない音が嫌なほど耳に入った。血管が浮き上がって顔から体から青筋が立ち、泡を吹きながらその子は暴れ出す。鎖が千切れそうな程暴れるその子は、やがて獣のような雄叫びを上げる。そこから、俺は我が目を疑った。その子は肉が膨張し、子供であるはずの体が急成長を始めると、姿が変貌しだした。


 皮膚にはざらついた鱗が浮き上がり、爪が肥大化して指先を包んだ。口が耳まで避けて歯が鋭利な牙に変化すると、そのまま顔の骨まで変化し始める。トカゲのようにも見える形に変化しだして、さらには尾のようなものまで尻から伸び始める。背中が曲がりだして前傾姿勢になっていくと、背骨に沿って棘が生え始めた。その姿は人からかけ離れており、怪物と呼ぶ以外の言葉が出ない。


 あれはなんだ。なにがどうなっている? これは夢か? 理解が追いつかない。


 混乱する俺を置いて事態は進展していく。奴隷の子の変化に合わせて鎖が限界まで引っ張られ、ついには引き千切れる。苦しそうに呻る彼の低く濁った声は、最早人間のものではない。


「イダ、イ」


 よろめきながら女に真っ赤な眼を向けると、雄叫びを上げて喰らい付こうと鋭い牙を剥き出しにして襲い掛かるも、護衛の男がそれを阻んだ。男の腕に牙が突き刺さり、今にも食い千切られそうだというのに、護衛の男は動じていない。それどころか、深々と噛み付かれた腕からは血が一滴も出ていない。


 唖然としながらその様子に釘付けになっていると、女が溜め息を吐いた。


「私の言葉、解るかしら?」


 その子から返ってくるのは獣の吠えるような怒声だけだ。女は再び溜め息を吐く。


「そう、解らないの。知性は欠片も残らなかったわけね。駄作だわ、なんて醜い子」


 護衛の男は自身の腕に喰らいつくそれの頭を掴むと、力を込めて握り始める。その子は痛みからかその手を剥がそうと鋭利な爪が並んだ手でガリガリと引っ掻くも、徐々に抵抗を止め、力なく震え始めた。


「グ、アア、オ、ガア、ザ……」


 男の掌が掴んでいたものごと、その掌が閉じられた。割れるような音と共に、あの子が飲んだ薬と同じ緑色の体液が周囲に飛び散る。痙攣した人間だったものを抱え、護衛の男は部屋を出て行く。


「ああ、また失敗ね。耐性をつけさせるだけじゃ駄目なのかしら? やっぱりその子自身の資質も関わってきそうね」


 女が一人、ぼやくように考え込んでいる。なにを言っている? 耐性? 失敗?


 俺は頭が悪い。でも、こいつの言葉で理解できたことがある。この女は俺達をいたぶるために奴隷として買ったんじゃない。こいつは俺達でなにかの実験をしているんだ。


「今日はここまでにしましょうか。他の子達は随分疲れたのかしら。あれだけの騒ぎで起きないだなんて。そう思わなくて、アニマ?」


 女が仮面に手をかけた。そしてそれを外す。初めて見た女の顔。透き通るような肌、そして銀に輝く瞳が俺を捉えている。この屋敷に飾ってある絵画から出てきたような、幻想的で有り得ないほど美しいその女は、気品のある声を俺に投げかけた。


「可愛い可愛い私のアニマ。頭の良いお前なら、私を裏切るようなことはしないでくれるわね?」


 嫌だ、この女はきっとなにかを俺にしようとしている。なにをするつもりだ。なにをしようという。女が護衛の男に目配せし、液体の入った瓶を持ってこさせた。まさか、嫌だやめろ、その緑色の薬はなんだ。あの子が飲んだ薬じゃないのか。


 女が妖しい笑みを浮かべた。そしてあの薬を手にしながら、逃げようと暴れやかましく鎖を鳴らす俺に近寄ってくる。女は男に指示して俺を壁に押し付けて身動きを取らせなくすると、指を俺の目の下に当て、知らない間に零れていた涙を拭う。


「泣いているの? いじらしいわ」


 うっとりとした表情で俺を眺める女は、少しの間怯える俺を観賞した後、小瓶の蓋を開けた。


「やだ、やめて、やめてください。他のことならなんでも言うことききます。だから、その薬、その薬を飲むことだけは許してください。お願いします、お願い……!」


 声が震える。あの変貌した子の、苦しむ姿が脳から呼び起こされた。ただ怖い。恐ろしい。おぞましいものが目の前にある。やめて、近づけないで。


 俺の口に男が親指を突っ込んできて無理矢理開けさせると、そのまま顎を掴まれ上を向かせられる。抵抗しようにも男の力に逆らえず、なすがままになってしまった。


 女は薬を俺の口元まで運ぶと、そこで焦らすように止めた。荒い呼吸で嫌だという以外、俺にできることはなにもない。


「アニマ、折角だから答えてあげる。あなたの懇願、私の心にとっても響いたわ。いじらしくて、愛しい私のアニマ。いつまでも手元に置いて、朽ち果てるまであなたを愛でていたい」


 女が薬を自分の胸元まで引っ込め、哀しそうに俯く。


「そうね、あなたにこんなに恐ろしい思いをさせて、あまつさえ怖い思いもさせてしまった。あなたが怯えるのも無理ないわ。それなのに私ったら、なんて残酷なことをしようとしているのかしら」


 本当にそう思ってくれているのか? やめてくれるのだろうか。


「こんな薬、飲むのなんて嫌よね」


 女はそのまま小瓶を床に落とし、瓶を割って中身をその場にぶちまけた。そして男に俺から離れるように指示し、女は俺を優しく抱きしめてくれる。


 やめて、くれるのか? 初めてこの女に温もりを感じた。温かくて涙が止まらない。安堵したせいか声を上げて泣く俺を女は無言で抱きしめ、そして俺の耳元で囁いた。


「だからね、アニマ。愛するあなたのためだもの。あなたのお願い、聞いてあげるわ。あの薬は飲ませないこと、約束してあげる」


 女が俺と向き合い、そして男からなにかを受け取った。それは今まで見たことがない、真っ黒な薬の入った小瓶だった。女は蓋を開け、俺の目の前で揺らしてそれを見せ付ける。


「約束は守るわ、あなたのためだもの、アニマ。あんな安全面を考慮した試作品じゃ満足できないわよね?」


 女が笑んだ。歪んだ笑みだった。状況を飲み込めない俺の口に、女の指が容赦なく突っ込まれる。


「成功率を上げるために、あれはある程度原液を薄めて効力を弱めたつもりのものだったの。徐々に変化するようにしたのだけど、あれでもまだまだ駄目だったわね。不思議そうな目をしているわね。ああこれ? 気になる? これは原液そのままよ。失敗するリスクは最大値、でも見返りも最大値。


だからこれを誰かに試すつもりはなかったの。私は成功させたかったから。でもアニマ、あなたのためだもの、あの薬が嫌だというのなら、このとっておきをアゲル」


 冷笑する女を目に映して、女の言葉を理解してしまって、血の気が引いた。体が震え、声にならないものが喉の奥から洩れだす。足も力を失ってしまい、腰が抜けて倒れかけるの枷に繋がれた鎖が支えた。


「嬉しいわ、アニマ。腰が抜けるくらい感動してくれるなんて。可愛い可愛い、愛しいアニマ。遠慮なく、私の愛を受け取って?」


 小瓶を俺に近づける。抵抗も、瞬きすらすることができない。死の恐怖を感じて身を竦める俺を眺め、女は狂ったように笑い始めた。


 嫌だ、やめろ近づけるなやめろやめろやめろやめ――。


 黒い液体が口に注がれ、それはすんなりと喉を通った。直後、俺の体は燃えるような熱さと引き裂かれるような激痛に襲われた。意識が溶ける。誰かがみてる、だれだこいつ俺は誰だなにをしている苦しい痛い辛い悲しい嫌だ助けて。


「う、ぐ、がああああぁぁぁああぁああ!」


 叫んだことを最後に、そこから先の意識が途絶えた。

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