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過去作品・短編

路上

作者: 八雲 辰毘古

 ふと気が()くと道に迷っていた。

 迷いたくて迷ったわけではないが、当て()もなく歩いていたのだから迷うのは当然だった。(たし)か私は何か非常に苛立たしい心地のために家を飛び出して、それっきりであった。電話も財布もない。着の身着のままで、衣嚢(ポケット)に鍵が入っているばかりであった。

 今自分は坂道を下ろうとしている。殺風景な住宅街が、両側から私の行く先を押し殺そうとしている。私はその手には乗るまいとして左に道を変えたが、そこは墓地だった。怖いとは微塵(みじん)も感じなかったが、お先が真っ暗な気分がして、仕方なく進路を右に直した。どうということもない。(ただ)変なところへ行って失敗するくらいなら、と云う反抗心だけで道を(えら)ぶのだから迷うのに文句のつけようがない。そこにあるのは冒険のような輝かしい勇気ではなくて、逃避と云う虚しい臆病であった。逃げるように道を択んでいる。否、道が私を択んでいるのであった。そこにある道を避けるのが私の選択なのだから、そう云ったところで語弊はないと云えよう。

 曲がった先には、矢張り住宅街がにやにやと無色透明な(わら)いを浮かべながら、平行に(なら)んでいた。これは私の被害妄想なのかもしれない。目を凝らして視ると、彼らは結局のところ白い壁の住宅街なのであって、嗤うどころかひたすらに無関心なのであった。露台(ベランダ)には洗濯物すら干されず、何の装飾もない。唯堅牢なる防犯によって鎧われた窓が、部屋の中を見せじと濁った色をして私の目線を阻んでいた。私に彼らの私生活(プライベート)(のぞ)く趣味はないが、余りにも生活臭がしないので、ひょっとすると幽霊街(ゴースト・タウン)にでも迷い込んだのかしらと思った。いっそのこと、このまま神隠しと云うことで、社会から消え失せてしまった方が私としては気分が良かった。しかしこれは悲しいかな、現実であった。多くの人はこうしたところで自分が主人公になる空想(ファンタジー)を夢見ようとするが、こと現代においてはそれは余りにも虚しい徒労と言わざるを得ない。逃げている私が言えることではないかもしれない。が、少なくとも私は現実の中に逃げていると云う自覚があった。あの濁った、透明感のない窓の内側に引き籠った生活をするくらいなら、私はこうしてひたすら蒲公英(タンポポ)の種子みたく根もなく飛び回っている方を択ぶのである。もちろん、これも否定的な選択であった。

 恐らくこうした消去法的な考え方が、私を思考の袋小路へと迷い込ませるのだろう。頭が曇っているときほど、人はよく道に迷う。来た(みち)を戻ろうと思うにも、実は思い出せぬと来ている。にっちもさっちも行かなくなるとき、人は帰る場所すら忘れてしまっているのだ。右の衣嚢(ポケット)の鍵が、唯一、帰るべき場所を暗示する物であったが、これは唯一の重荷であった。

 そろそろ右に曲がろう。すると、また知らない道が出て来た。私は少なくとも自宅を出て、自分の住んでいる街を歩き回っていた(はず)なのに、自分の住んでいる所のことを何も知らなかった。そして迷い込んだのだった。所詮は知ったかぶっているだけだったのだ。私は私のことを知り尽くしていると自惚(うぬぼ)れていたのである。ところが、現実はどうだ。今私はここが事実何処であるかと云うことすら、分かっていやしない。白い壁の住宅街が、青い壁になったからと云って、それが何になるのだろうか。たぶん、そこの角を曲がれば、今度は緑色の壁が列んでいるに相違(ちがい)ない。

 だが、そうはいかなかった。その角の先は大通りに出ていた。月極駐車場が(わず)かに視界を拡げている他は、少し高い灰色の、四階の建物がとことこと立っているぐらいだった。手前の道路には自動車の往来があった。私はそこに、人の顔を観ようと努めたが、運転手の顔は速すぎて(ことごと)く見えなかった。それで私は、砂漠で水にかつえている旅人のように、人に飢える感触に顎を(さす)られた。これには私も堪らなくなって、喉がひりひりとするのを覚えた。そして、私は横断歩道もないその道を飛び出した。

 盛大なる警音。おぞましい罵倒の声。しかし、私はこの憎悪を一身に浴びることを、まるで十日間も雨乞をし続けて、ようやく成功した呪術師のような気分で歓迎していた。この歪んだ悦びはなかなか説明するにはむつかしく、そして説明の余地のないものだった。車道を渡り切ったとき、私は悪戯(いたずら)に目覚めた少年のような気持で、街を見直した。街は相変わらず殺風景であったが、少し明るく見えた。そして、私は季節外れの蒲公英(タンポポ)のことを思った。固い道路の(ひび)から、細細と、しかし力強く独り立ちしている黄色い花。通りに綺麗に落ち着いて咲く躑躅(ツツジ)になるくらいなら、私は風に流され、仮令(たとい)人の邪魔になろうが、着いたところにこそ根を張り続ける蒲公英(タンポポ)のようになりたいと思った。ゆえに私は衣嚢(ポケット)に手を突っ込んで、鍵を取り出し、近くの塵芥(ごみ)捨て場に寂寥(ひっそ)りと棄ててやった。帰る義務を負わなくなった途端、私は途轍もない爽快な気分で街を見つめることが出来るようになっていた。

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