ジャックダニエル
「オノ・ヨーコは毒婦だ」
座った目をグラスに向けた父は誰に言ってるかわからないがそう言った。
「あいつのせいでジョン・レノンは若者の憧れからただの夢見がちな男になった。ビートルズはオノ・ヨーコに殺された」
もう何度聞いたかもわからない話を僕は相槌も無視もしなかった。
都内のマンションの一室。
寡夫の男が二人で黙々と酒を囲っている。
うんざりもしなければ新鮮味もない会話だった。
僕は決まってその話が始まると父のCDラックの中から適当なやつを一枚選んでステレオに放り込む。
まるで赤ん坊をあやすような気分だが音楽さえ流れてしまえば、後はどうにでもなった。
「たった4、5人もまとめられないような男が世界平和だぁ?ふざけんのも大概にしろ」
至極真っ当な意見を何の関係もない僕に理不尽にぶつける光景の異常さが僕はおかしくて
そうだね も まあまあも言わずに僕はグラスを傾けてた。
音楽はいつも僕たちの間を取り持ってくれて
酒はいつだって僕たちを平行線に置き去りにした。
結構な歳になった父といい歳になった息子の会話としては不適切この上ないと思う
こんな年頃の息子に対して世間一般の父なら、結婚はしないのか?や仕事はどうだ?って聞いてくるのが普通だと思うが仕事に関しては二人共方向性が違うから悩みも共有できないし、
結婚に関しては父の方がとやかく言える立場ではない。
だから僕たちはこうして定期的に会っては生産性がまるでない時間を過ごした。
僕らの間で昔話は暗黙的にしない方針だった。
母が死んでから
「独り身の男二人が一緒に暮らすのは気持ち悪い」
と父の言葉に表向き賛同して僕らは別々に暮らした。
だが、どちらかは
少なくとも父はあの家を出る理由は無かったはずだ。
それでも二人が家を出て新しい住居を手に入れたのは
父が集めたレコードではなくCDで音楽を聴くようになったのは
やはりそういう訳なのだろう。
事実、レコードでは父を上手くあやせてはいないみたいだ。
「ロックの根源は破壊なんだ」
もう還暦間近の男の発言とは思えない言葉も飛び交う
「破壊や開放。それがロックなんだ。世界平和なんて戯言を口にした時点でロッカーは終わりなんだ」
父はヒッピーを事の他に嫌った。
「奴らは反政府や環境破壊や戦争を嫌うと言いながら人間であるくせに他人より一歩高いトコに立った気でいる。そんなもんは麻薬が見せるまやかしだ。事あるごとに地球の寿命が減っていることに気付いている俺たちは偉いみたいな顔をしやがる」
既に自制が効かなくなった父のくだはどんどん巻かれていったが、自分に関係ないことを批判し続ける愚痴に僕は何の嫌悪感も抱かなかった。
その一方で僕は音楽に、病状の進行と共にだんだん効かなくなっていった母の薬を重ねてしまう。
ああ、もう僕と音楽ではどうにもならないんだな。
もう駄目だと思った医者が少し強い薬を出すように、僕も少し音量が高い曲の入ったCDと取り替えた。
音楽はいつだって僕と父を取り持ってくれた。
グラス一杯に注いだジャックダニエルを残り親指の爪程まで飲んだとき
最高潮に達していた父だったが、僕が台所から水を取りに行って戻った時には既にソファの上で事切れていびきを立てていた。
酒の入った中年男のいびきは殊更大きく響いていた。
眠ってしまった父に毛布をかけた僕はステレオの電源を消して、上着を羽織り合鍵で戸締りをして部屋を出た。
革のキーホルダーに繋がれた僕の部屋の鍵と父のマンションの鍵。
僕たちの数少ない共通の持ち物。
それを亡くさないように鞄の一番奥にしまった。
駅のホーム
すっかり熱くなった指先で切符をポケットに押し込むが心のどこかで切符は亡くしてしまいそうな気がしている。
週末のその日は結構な人がいたが、どうしようもなく一人になりたい僕はポケットからイヤホンをまさぐる。
冬の週末に乗る電車の暖房は酔って火照った体には酷く心地が悪くて、座席の隣から連なる金属の手すりに頬が触れると気持ちがいい。
週末の電車に頭を揺らされながら
イヤホンから流れる音楽に頭を揺らしながら
酔った頭から脈打つ血流を感じながら
僕は首の座らない赤ん坊が迷子になってしまったような不安を感じていた。