77話
やがてホルホウに到着すると、海が近い方がいいだろうと少年の両親が親切にも海の近くへ馬車を止めてくれた。海とは石を積んで高低差が作ってあって、そこから桟橋が海へ続いている。船が多く見られた。
荷台から降りたカルデノは、潮風を運んで来る海へ釘付けのまま立ち尽くしていた。その間にメロへ手を貸しながら荷台から降りると、滑るように迷わず海へ飛び込んだ。水しぶきを上げ、クルリと水中で一回転して水面から顔を出すと、金髪が波に揺られ広がる。
「はあ、生き返るわ。本当にありがとうございました、荷馬車の方々」
「いいのよ。気をつけてね」
荷を降ろさなければならないためもう行ってしまう少年や、少年の両親といくつか言葉を交わす。
「また会う事があれば、その時は声をかけて下さいね」
「ここまで助かった。何の礼も出来ずに心苦しいが……」
ガジルさんが荷台から降りながら言う。
「いいえ、いいんですよ。困ったときはお互い様って言いますでしょう」
少年の母親は軽く頭を下げ、では、と荷馬車は遠ざかる。
「親切な人達で、本当に良かったね、カルデノ」
「ああ……」
カルデノは海を見たままだった。目を開いてただジッと。
「海が珍しいのですか?」
メロが聞くと、やはり遠く水平線を見ながらカルデノは小さな声で頷いた。
「海を、初めて見たんだ」
「俺も話にしか聞いたことがなかったんだが、本当に綺麗だなあ」
ガジルさんも、カルデノほどで無いにしても珍しい物を前の前にして中々動こうとはしない。
「じゃあ、あなたも?」
次にメロは私にもそう問いかけた。
「カエデさん……、カエデって呼んでもいい? 私の事もメロって呼んで」
笑顔で、そして期待に満ちた目で見つめられ、頷いた。
「うん」
「それでそれで、海は?」
「私は初めてじゃないよ。どっちかって言えば見慣れてる方かな」
「そう、でも人魚を見るのは初めてでしょう? だってすごく驚いてたもの」
「ま、まあ」
それはそうだ。御伽噺の中にしか存在しないものと、この世界を見ても思っていたのだから。
私は話しやすいように屈み、そのまま両膝を抱える。
「でもカルデノもガジルさんも、初めて見るはずだよ」
「でもカエデが一番驚いてたわ。ねえどう? どう思った?」
「感動したよ。本当に驚いた!」
思った事を素直に話せばメロは、私もね、と話し始めた。
「初めて陸の人と話した時は感動したわ。本当はね、まだ陸の人とはお話しちゃいけないの」
「え? 自由に会話しちゃいけないの?」
うん、とメロは沈んだ声で頷いた。それからキョロキョロと辺りを、主に海の方を確認してから、小さな唸り声を上げて頭を抱えた。
「ほ、本当は成人するまで陸の人には姿を見せてはいけないし、会話もしてはいけないって決まりがあるの。また母に怒られちゃう……」
また、と言う事はどうやら、以前にも決まりを破りそして叱られた経験があるようだが、反省はしているのかどうか。
「ええと、こうやって話してて大丈夫なの?」
「早く帰った方がいいんだけど、でも助けて頂いたのにただ帰ってしまうのは……、その、それにもっとお話、したいし」
そう言われて、私はカルデノとガジルさんの様子を盗み見るように確かめた。まだ二人は、特にカルデノは目に海の青色をいっぱいに写している。見たことのない表情はどこかあどけない様にも取れて、こちらの話は耳にも入っているかどうかと言ったところ。
これならメロの言った通りに、まだ話を続けてもいいだろう。
「人魚は水の中にいないと弱ってしまうようなイメージがあるんだけど、さっきは平気だったの?」
メロはフルフルと首を横に振った。
「いいえ弱ってしまうわ。さっきだってここに来るまで調子が悪かったし。でもさすがに数時間で弱りきってしまう事はないから、今は平気よ」
「え、そうなんだ」
普通の魚を想像してしまっていたのが申し訳ない。魚と人魚は違うのだから、それはそうだと自分が少し恥ずかしくなる。
「私も聞いていいかしら?」
「うん、もちろん」
「カエデ達は、どんな用でホルホウへ来たの? 海を見に?」
「海も見に来たよ。夕焼けとか月が出てる夜とか。けど、一番の目的は晶石。晶石を買いに来たの」
「まあ晶石!」
メロは、偶然ね! と祈るように両手の指を組んだ。
「私、ホルホウで働いていると言ったでしょう? 魔石の採掘に関わっているのよ」
「魔石の採掘に?」
私は首を傾げた。だって人魚である彼女は長い時間、水からは出ていられなくて、おまけに陸を歩く足はない。それなのに、どうやって? と思うのは必然だ。
「魔石の採掘はどこで?」
「海の中よ? それで採掘した魔石は陸の人と取引するの。陸の人は水の中ではすぐに死んでしまうのでしょ?」
「そうだね。泳ぐだけならともかく、水中じゃ息が出来ないから」
とても悲しそうにメロは背後の広い海を振り返った。
「海の中には、綺麗な景色が沢山あるのよ。陸の人はそれが見れないのね」
「海の中は確かに見れないけど、でも海以外にも沢山綺麗な景色はあるよ」
「……どんな?」
「え?」
聞き返してきたメロの目は大きく期待に大きく開かれていて、キラキラと水面の反射が入り込む。
「私、陸の人が海を知らないように、陸を知らないの。陸を旅なんて出来ないのに憧れは人一倍強くて、だからつい色々聞いちゃうの」
大きな目が、次は悲しそうに伏せられた。
「それで、さっきも人攫いに遭ったの?」
「……」
言葉はなく、ただ頭がこくりと縦に頷いた。
「いいのかいつまでも話してて、親が心配してるんじゃねえか?」
ガジルさんがまるでずっと会話に加わっていたかのように、自然に入ってきて、私とメロはガジルさんを見上げる。
「心配、してると思う……、いいえ心配しているわ」
でも、と言葉が続いたかと思うと、メロはハッとして背後を振り返った。
「どうか……」
したの? と続くはずだった私の言葉が終わる前に、ザパッとメロの振り返った先で水面が盛り上がり水が散り、メロと同じ金色の髪を持った女性が現れた。
「か、かあさ……」
「メロ!」
現れた女性が目頭を吊り上げて一喝すると、メロはビクリと肩を震わせて小さく縮こまる。
「あなたはまた決まりを破って!」
「ご、ごめんなさい……」
「心配したじゃない。皆があなたを探していたのよ」
「……ごめ、なさい」
二度謝ると、女性は小さく息を吐いてから、こちらへ目を向けてきた。
「失礼ですけど、あなた方は?」
その声は若干硬く、女性はさりげなくメロを後ろへかばった。
「私達は……」
なんと言っていいか、迷った。きっとこの女性はメロの母親だ。さきほどメロは母さんと、そう言いかけたのだと思う。人攫いに遭ったのを助けたのだと言えばメロはまた同じように怒鳴られるかもしれないが、その事情を隠して今の状態は説明しづらい。素直にメロとこうしているきっかけを説明した。
説明の途中から女性の顔は険しくなり、メロの顔色は青くなる。
「と、言うわけでして」
「そうでしたか」
女性は数秒間動きを見せなかったが、メロを振り返った。
「メロ……」
「ご、ごめんなさい! でもどうしても陸の人の話を聞きたかったの!」
「それで連れらされていて、言い訳のしようもないわね?」
「う……」
でも。とメロは食い下がり、私にすがるような眼差しを向ける。しかしこちらから助け舟を出す、というのも難しい。メロがこのまま母親と帰る行動に、何の間違いもないからだ。
「でも、でもこの人達にお礼をしたいの。助けてもらって、怪我を治してももらって、だから」
ダメだ、の一点張りかと思いきや、メロの母親は表情を和らげた。
「そうだったわね。お三方、感謝の言葉が遅れてしまって申し訳ありません。娘の事を助けて頂いてありがとうございました」
言葉の後に頭が軽く下げられた。
「この子も感謝しています。本来なら何かお礼を出来ればいいのですけど見ての通り私達は人魚でして、陸の人が望むような物もご用意出来ません」
「い、いえそんな……」
「そうだぜ」
ガジルさんは私の隣に、私と同じようにしゃがみ込んだ。
「別に物をねだるために人助けしたんじゃないんでな、俺達は」
「そう、そうですよね。失礼な事を言ってしまいました」
母親はあからさまにホッとして見せた。
「それに、さっき他にも娘を探してるって言ってたろ。早く無事な姿見せてやった方がいいんじゃないか?」
「え、ええ! そうですね。ではお世話になりました……。ほら、行くわよ。帰ったらたっぷり叱るからね」
母親はメロに声をかけ、静かに海の中へ姿を消した。
「…………」
メロは名残惜しそうにじっとこちらを見ていて、でも数秒後には無言でこちらに小さく手を振って、同じく海の中へ姿を消した。
「行っちゃった」
「ああ、そうだな。で……」
素っ気ない返事の後、ガジルさんはさっと立ち上がってカルデノに目を向けた。
カルデノはずっと海の向こう側でも見ているようにじっと目を見開き、目に光景を焼き付けている。
「おーい、どうだ満足したか? カルデノ」
「……なに?」
一拍遅れて、ちらりと苦笑いしているガジルさんに目だけを向けた。
「カルデノ、ええと今までの話とか聞いてた?」
「すまない、聞いてなかった。さっきの人魚は?」
こりゃ深刻だ。とガジルさんが言った。
「たった今帰って行ったぜ。お前が海を見てる間にな」
「そうだったか」
私も立ち上がって、カルデノの隣に並んで海を見た。
「綺麗?」
「ああ、すごく」
やはりどれだけ海を見ても、私には特別なものには感じられなかった。
「夕方と夜にもここから海を見たい」
どうやらガジルさんが語った海の話を忘れられずにいたようだ。
「なら今のうちに宿を探しておくか。そうしたら日が暮れる頃、またここで海を見れるだろ」
カルデノはガジルさんの提案を聞き入れ、名残惜しそうに海を離れた。
海がある以外は他に変わった様子のないホルホウは、それでも見かけない焼き魚だったりを目にした。いや、焼き魚がそれほどまで珍しいわけではないが、海から上がったばかりなのを売りにしているお店が多々あった。
宿で部屋を取る事が出来た私達三人は、そんなホルホウの街並みを歩いて楽しんだ。カルデノはずっと時間を気にしていて、日が沈む少し前にまた、メロと分かれた場所まで戻った。
空はオレンジ色。厚い雲が夕日の色に縁取られチリチリと燃えるように赤く、そんな中で海がうっすらと同じく色づく。水面のさざなみの音が、徐々に静まる街の音に負けず耳を刺激した。
私はふと、並んで海を眺めるガジルさんとカルデノを見た。二人はまたも目を奪われていて、私が二人を見ている事にすら気づいていないようだった。それからきょろりと辺りの様子を伺う。ひと気が無いわけではないが、もう海で仕事をする人もいないような時間で、少なくとも近くには私達以外、誰もいなかった。
「カスミ」
名前を呼ぶと、カスミはココルカバンの隙間から顔を覗かせた。
「海だよ。見たことある?」
カスミはブンブンと髪を振り回しながら首を横に振った。今日一日はずっと人の目があり、カスミはココルカバンの中で退屈していただろう。海をもっとよく見ようと、大きく身を乗り出す姿は今にも落っこちそう。
ふと、遠く沖の方に水面から顔を出す人影が見えた。
「……?」
じっとその人影を見ていると、突然元気よくこちらに手を振ってきた。
「昼間の人魚だな」
カルデノが言った。
「あ、メロのこと?」
それならば、と私も大きく手を振った。その直後、人影は海に沈み、一分もせず目の前で水しぶきが上がった。
「わあ!?」
驚いて一歩のけ反った。ガジルさんもカルデノも揃って目を大きくしてその正体に目を見張る。
「ふふ! 驚いたでしょう?」
いたずらを成功させ、大満足の笑みをしたメロだった。
「驚いた、けど……、いいの?」
ここに居ては、また母親に叱られるだろうに。しかしメロは嬉しそうに笑ったままで、沈んだ表情はまったくない。
「今は付き添いがいるからいいのよ。母さんにだってちゃーんと許可を貰っているんだから」
「え、付き添い?」
言われて注意深く海を見渡すが、近くには、もちろん遠くにだってそんな人影はなかった。
「姿を見せはしないけれど、でもちゃんといるわ」
となると、その付き添いというのは海の中だろうか。薄暗い中ではそれもよく分からない。
「夕焼けの海や月の夜の海を見ると言っていたから、きっと居ると思って、こうして会いに来たのよ。明日、どうしてもお礼がしたくて」
「明日? 明日、なにかあるの?」
「そう、何かあるのよ。だから明日の朝また、ここへ来て欲しいの。絶対に」
「ぜ、絶対に?」
「そう絶対に! 約束よ!」
弾んだ声の短いこだまを残し、海の中へ姿を消した。帰ってしまったのだ、私を驚かすために現れた先程とは大違いで音もなく。まるでまだそこに居るのではと思わせるほど静かに。
一方的で勢いのある約束を取り付けられた私は、ポカンとしてカルデノとガジルさんの二人へ目を向けた。
「え、明日?」
いいのかな。と呟けば、カルデノが短く息を吐いた。
「まあ、礼がしたいと言うならいいんじゃないか? 貰えるものなら何でも貰っておいて損はないと思う」
「まあ、そっか。でも何だろうね? 楽しみだなあ」
やがて夕日が沈み月が出て、真っ黒になった海に月へ続く光の道が出来上がった。
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