72話
「に、逃げたって……」
ガジルさんの慌てた姿に動揺し、一瞬言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「そのままの意味だよ! どうすんだ追いかけるのか!?」
「追いかけるぞ!」
私が決断するより早くカルデノは腰掛けていたベッドから飛び降り、そのまま部屋を飛び出す。
「あんたも来るなら急げ! 俺はカルデノと先に行く!」
「はい!」
ココルカバンを肩にかけカスミにもついて来て貰いすぐに宿を出たのだが二人の姿は見当たらず、宿から左右に分かれる道を見渡し、二人の背中をかろうじて見つける。
「もうあんな遠くにいる!」
全力で駆け出し二人の背を追うも、その姿もすぐに見えなくなってしまい、ただ同じ方向と言うだけで夜道を走るのはとても不安だ。転ばないよう足元に注意しながら数分走り続けると、遠くで大量の小石を叩きつけるような音がする。
「なに……?」
走る振動に合わせ頬を伝う汗を、ぐっと拭う。
どうやら音の発生源はある場所で停滞しているらしく、私が走ればそれだけ音は近くなる。
「……!」
カスミが何かに気が付いたように私の前を先行して飛び、正面を指差した。
じっと目を凝らすと、何かを避けるように動き回るカルデノとガジルさん、そしてバロウ。
停滞しているカルデノ達にあと少しで追いつく。
パチャッ。走る足が何か、水溜りのようなものを踏みつけた。私の知る限りで雨は降っていない。それにどこかでそんな形跡があったなんてこともない。だから一瞬頭に疑問が過ぎったものの、それを理由に立ち止まる事もなく追いついたカルデノの隣に並んだ。
「追いついたか」
ちらりと私を見たカルデノの髪から、ぽたりと水滴が落ちてきた。水滴どころか、ガジルさんも同様に一度水に漬かったかのように全身ずぶ濡れになっていた。
「ど、どうしたの?」
地面の水溜りと言い、この水の滴り落ちるほどに濡れた姿と言い、私が一緒に居なかった僅かな時間に、何があったというのか。
「あいつの魔法だ! 近づこうとすると水で押しのけやがる!」
ガジルさんはそう言って前方数メートルの所で棒立ちになったバロウを指差し叫んだ。
「水?」
しかし空を見上げても雨雲はない。少し欠けた月が綺麗に姿を見せている。
「雨じゃない。本当に水を落としてくるんだ」
「ああきみ、話を聞くように二人に言い聞かせてくれないか」
カルデノの言葉が終わるのが早いか、バロウが疲れたように息を吐きながら私に話しかけてきた。
「僕が逃げただとか勘違いしている、逃げようとなんてしていないのに追いかけられる身にもなってくれ」
「でも、ガジルさんはあなたが逃げたって……」
「だからそれが勘違いなんだ。多分こんな遅くに外へ出たから怪しいとか、理由はそんな根拠の薄いものじゃないのか?」
そうなのかと問うようにガジルさんに目を向けると、ガジルさんはあからさまに目を逸らした。
「それに、僕には逃げる理由がない」
「……本当に?」
私はバロウの言葉を疑った。バロウはそれが気に食わなかったのか、機嫌を損ねたように目を細める。
「本当に逃げたわけじゃないの? 私を帰せるとか言ってそれが出来ないから」
「随分な言い草だ。帰れると信じてここまでやって来たんじゃないのか?」
信じて。そう、バロウが私をこの世界に呼び出し、そして帰る術を持っていると信じてここまでやって来た。だが、どこか信じられない自分がいる。
唯一の帰る手段と思われるバロウにこんな口を聞いてしまうほどに。
何故呼び出したのかを語らず、帰る術を語らず、あの時見せた涙の理由も分からないまま。本当に知らないとでも言うのだろうか? バロウはレシピ本に勝手に名前を使われただけ?
手放しで喜ぶにはあまりに、このバロウと言う人は信用出来ないのだ。
「あなたが私の帰る術だと信じてここまで来たのは確かです。でも、あなたは私の事を知らないって言ったでしょ」
「言ったさ、言った。僕が君の事を知らないのにとても気前良くもとの世界に戻してあげるなんて言うものだからとてもとても、それが信じられないんだろう?」
「……」
図星だ。考えを見透かされているのか、しかしだからと言って素直に頷く事も出来ない。見透かされていたなどと認めたくなかったのだ。
「あなたは、どうして私の名前を聞いて泣いたんですか」
「……何故それを聞く?」
「だっておかしい。誰だって気になりますよね? 私の名前を聞いてあんな風に反応するなら私の事を知っているという事でしょ? あなたは嘘をついてる」
「……そ、れは、いや……」
バロウは初めて言葉を詰まらせ、ぐるりと視線が意味無く地面に向けられた。やはり何か知っているのだ、知らないと嘘をつくほどの事を。
「帰れるのは勿論嬉しい、でもこんな目に遭ったのがどうして私だったのか知りたいんです」
「……ははっ」
バロウが小さな声で笑った。その不可解な笑みの意味が分からず、そして同時に苛立つ。
「私には私の生活があったんですよ!? 大事な家族だって友達だっていて、それが突然なくなる恐怖が分かる!?」
「……」
バロウはゆっくりとしゃがみ込み、頭を抱えた。まるで頭上から降りかかる何かから逃れるようにも見えた。
「なんだよ、そんなの……」
「え?」
声が籠もっていて満足に聞き取る事が出来ない。そのため一歩バロウに近付く。
「嫌な事を、思い出したよ」
スッと抱えていた頭が上げられた。目の奥はどんよりと濁り感情を感じさせない、まるでがらんどう。
「最初はこの世に生を受けた事を何か、意味があるんだと思ってた。だけど特別な事は何もなかった。ただ人として生まれて、そこにどんな意味もなかったんだ」
「なんの、話ですか」
「僕には故郷があった。今はもう帰る事は叶わないまるで夢のような。そして家族がいた。大切な友人も生活もあった、いいや本当は夢だったのかも知れない。だとしたら素晴らしい夢だった」
苦しそうに胸のあたりで拳を握り、ほろりと涙を流し始めたバロウは支離滅裂な事を口にし、私は困惑した。異常とまで思えた。
「でも夢じゃなかった、僕の頭は正常で、そして努力は無駄ではなく着実に現実のものとなって来ている」
「夢じゃない? 努力? ねえ、本当に何の話をしてるの、答えてよ」
要領を得ないただの言葉の集合に、恐らく本人の中では全て繋がりや意味があるのだろう。
「ねえあなたなんでしょ? どうして……」
「君がこの世界に来た意味なんてないよ」
底冷えのする声。肌があわ立つのを確かに感じながらそれでも無視できない、短い言葉だった。
「意味が、ない?」
私の頭にはこの世界に来てからの記憶が一気に駆け巡る。
楽しかったこと、恐ろしかったこと、悲しかったことも嬉しいこともあった。
「意味がないって、なに」
「そのままの意味だ。君でなければならない理由はなかったし仮に君ではない誰かがここに居たしても何も変わりない。砂粒のような無数の存在からたまたま、偶然君と言う一粒がこの世界へ来ただけだ」
私はこの世界の人間ではない。普通の生活を送っていた学生で、こんな世界に来なければ辛い思いはしなかっただろう。毎日帰るのが当たり前の家に、また帰る事が出来るか不安に思う事もなかっただろう。
そしてこんな世界に来なければカルデノにも、カスミにも、様々な誰とも出会う事は出来なかった。この世界にしかない現実離れした光景、美しい景色、様々な色、些細に揺らされた五感の刺激も、得られなかった。
この葛藤が、出会いが、思考が、行動が、私が、全て無駄と?
手が震える。これは怒りではない、戸惑いでもない、悲愴、絶望、そのどれでもなく、しかし似ているこの感情を表す言葉が見つからない。
「言いたいことは、何となく理解しました」
いつのまにか目に浮いていた涙を袖で拭う。
「でもあなたの言う私に意味がないって言うのは、私であった意味、という事ですよね? でも私のような誰かを連れてくる必要はあった、だから私が今ここに居るんですから」
「ああ、僕を探しこうして会いに来てくれた事に深く感謝している。今君がここにいるわけを話そう。僕の家に来てくれるか?」
長くなるというのだ、落ち着いて話すためにもやはり道端よりは、バロウの家であってもそちらの方がいい。しかし腑に落ちなかった。
「どうして急に? 何も教える気なんてなかったように感じたのに」
「そうだなあ、うーん……」
バロウは困ったように腕を組み、首を傾げる。そんな些細な仕草にさえ人間らしさを感じられるほど、今まで無機質であった。
「僕を探して会いに来てくれたことへ感謝と敬意を表する事にしたんだ。確かに帰るにしても、何も知らないままと言うのは確かに気の毒だ。昼間は嘘を言ってすまなかった。家族に会いたい気持ちは、僕も同じなのに」
「……」
「許してもらうわけには、いかないかな」
許す許さないだけで言えば勿論許せる気はしない。だがそれが今関係あるか。謝罪を受け取るかどうかで元の世界に帰してもらえるかの結果が決まるなら勿論、即座に許すと口にするだろう。
私は結局何も答えず、そしてバロウの家へ向かう事となった。
ガジルさんはそこで自らはバロウの家に行かないと言う。
「込み入った話みたいだしな。俺が同席するってのは気が引ける」
「そうか。色々すまなかったな」
カルデノが軽い挨拶のかわりに礼を口にした。ガジルさんが何故か見張っていてくれたおかげでこうしてバロウを逃がさずにすんだのだ、感謝しても足りない。
「じゃあ俺は行くが、また来る。何か協力出来る事があるかもしれないしな」
「本当にありがとうございました」
駆け足で遠ざかるガジルさんの耳に私の声は届いていたようで、軽く手を上げて最後の挨拶となった。
「じゃあ、何から話そうか……」
バロウは呟くように小さな声で言う。
昼間は目に入らなかった部屋が、今は自然と見る事が出来た。天井に吊り下げられたペンダントライトに明かりを灯す石が括られ、ソファに腰掛けたバロウの顔に影を落とす。
私達もソファに腰掛けたままバロウの言葉を待った。
「そうだなあ、まずは僕が一度死んだ人間だと教えておくよ」
「え……?」
死んだ人間? 悪い冗談だろうか見極めるためバロウに目を凝らす。カルデノも驚き目を見開いているのだから私の反応は正常だろう。
死んだにしては血が通っているというか、人間味があると言うか。素直に飲み込む事は出来ない。そうして見せる様子が面白いのか、バロウは口角を吊り上げた。
「いや、いや今は生きているよ。僕が言いたいのは……、そうだな前世の話だ。今は二度目の人生でね」
「前世……、そんな事がありえるのか?」
冗談を、と言いつつカルデノの引きつった顔と声色がどこか否定しきれずいる。私も同じ事を思ってはいたが、私自身すでにこの世界に来た事が冗談だろうと否定したくなる事柄であるため、何も言えない。
「冗談なんかじゃないさ。僕は前世、魔法なんて使えなかったし、それどころか魔法を使える人なんて存在しなかった」
頭の中で何かが繋がる。この家の扉にはめ込まれた小さな水晶玉のような物、この世界ではどの家でも見たことのないペンダントライト型の明かり。
バロウから目を離せない。次に出てくる言葉が待ちきれず無意識に前のめる。心臓が存在を主張するようにドキドキと大きく鼓動を鳴らす。一体何に期待しているのか検討も付かないのに、どうしてか何かを求めていた。
「それから魔物もいない、それどころか獣人も魔族も存在しなかった」
バロウは懐かしむように目を細め、アゴを擦る。誰かに話してみたくて仕方が無かったと語るように声は弾んでいた。
「そんな平和なようで少々物騒な世界のとある島国に、僕は生まれたんだ。君もよく知っているだろう、カエデさん」
バロウは同意を求めるように私へ笑いかけた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
 




