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今日、世界は終わるのだ  作者: 森モト
7/19

悲鳴が悲鳴を呼ぶと悲鳴は悲鳴に言う


「まだ、寝ない」


俺の挑発を跳ね返し、リナはキッチンへと姿を消した。


重い体の熱は未だ治まらず、いちいち熱を上げるような真似をするリナを少なからず恨めしく思う。


主導権を握られるのは、気に喰わない。



「…そういう問題でもねぇか」


早くここから離れなくては。いつ足がつくとも知れないのに。

見つかっては意味がないのだ。

こんな後遺症すら残りかねない傷を負ったことすら無駄になる。


手持ちぶさたになり、ベッド脇のチェストに置いてあったリナの煙草を手に取った。

昨日よりだいぶ緩やかになった雨音が、それなのに静かな室内では煩わしい程に響いている。


それに混じる、キッチンから聞こえてくる音。


電話をしてるようではない。

留守電でも聞いているのか。


(―――あ?)


不意に感じた妙な違和感に、紫煙を吐きながら耳を澄ます。

雨音以外の音を拾おうと努めて、すぐさま聡い耳が違う音を捉えた。


留守電でも雨音でもない。

少しだけ開いた窓の隙間から刺さるように伸びた―――悲鳴。


高く空に伸びて、消えた。

身体を起こして窓へ近付く。


「…っ、」


体が酷く痛んだが、構っている場合ではない。甘やかすのは、そろそろ終わりだ。


軋む腕に力を込めて錆びた窓を開ければ、やはり雨音を縫ってこちらに届く断続的な悲鳴。

聞き慣れた筈の音に、鳥肌が立つ。



「―――リナ!」







(―――あぁ、またキャジーが鳴いてる)


開けた窓から届いた情事の声。

斜め右横のアパートメントに住む娼婦の独特の喘ぎ声は、今に始まったことじゃない。以前、叫び声に似ているそれを本気で勘違いした近所の住人が警察に通報したくらいだ。


その度に苛々して煙草を吸った。

今も苛立ちにざわめく精神を抑えながら、耐える。


今は煙草が手元にない。

丁度、母からの留守電を聞いている時だったから、尚更。




「―――リナ!」


そしてまさかの、寝室からのお呼び出し。

なによ、このクズ野郎。


(…あんなゴミ、拾うんじゃなかった)


平穏で下らない生活を乱す危険因子を自ら招き入れるなんて、本当に馬鹿なことをしたと思う。


「…後悔先に立たず」


皮肉を呟いて寝室へ向かうと、立てない筈の怪我人が窓辺に立っていた。


「…ちょっと!」


余りの無茶に無性に腹が立って怒鳴りつけるが、当人は私の声をまるで無視して開けた窓の外に身を乗り出している。


「なにしてんの。寝てなよ、馬鹿!」


駆け寄って、その震える腕を掴む。

それでも動こうとしないグラムを、殴ってやろうかと腕を振り上げた。



「警察呼べ」


―――は?


「なに?」


警察?


「早くしろ。悲鳴が聞こえる」


ああ、デジャヴ。


「あれは悲鳴じゃない。喘ぎ声だよ」

「…違う」

「違わない」


腕を引いて気を引かせる。

それでもグラムは外に耳を傾けたまま。

横顔は酷く真剣で、こちらを落ち着かなくさせる。


「キャジーっていう娼婦。男と寝ると、ああなるの」

「…違う。良いから早くしろ」

「誤報に、」

「ならない」


決して譲ろうとしない男に、更に苛ついた。思わず掴む手にも力が籠もる。


「あれは悲鳴だ。早くしろ!」


しかも逆ギレ。怒鳴られた。

グラムの気迫に圧され、私は馬鹿みたいに電話へと走る。


―――そうして警察に連絡を入れた頃にはもう、悲鳴は途切れていた。


「…怒鳴って悪かった」


通報して寝室に戻ると、グラムが力尽きたようにベッドに腰掛けている。ゾンビみたいだ。


「別に」


怒鳴られたことより、本当にキャジーの声が悲鳴なのかどうかが気になる。


「…誤報じゃねぇよ」


私の心を見透かしたように、グラムは一点の迷いもなく言い放った。


「なんで解るの」

「…別に」


なに、それ。

誤報にしてもなんにしても、困るのは私達だ。

通報した私の部屋に警官は事情を聞きに訪れるだろう。その時、この怪しい男をどううまく隠すか。


「……」


その時は、クローゼットに詰め込んでやる。

先程の恨みも込めて、私は覚悟を決めた。


そうして時計の長針が三から七に回る頃、けたたましいサイレンが聞こえてきた。


「グラム」

「んだよ」

「クローゼット」


私の言葉に目を丸くする。けれど真意に気付いたのか、大人しく頷いた。


「…チキショウ」


まあ、渋々。



部屋のドアがノックされたのは、グラムをクローゼットに隠し、怪しい物がないか漏れなく確認し終わった時だった。


「…Miss,リナ?ニューヨーク市警の者です」


ドアの向こう側。聞き惚れそうなハスキーボイス。

覗き穴を覗いてドアを開ければ、なんの因果か、そこに立っていたのは昼間のハジ警部だった。

昼と同じ姿で、ハジの背後には警官姿の男が二名くっ付いている。その後ろにはこのアパートの管理人。


どんな事件かも知れない通報に、何故、キャリアであろう彼が足を向けるのか。

グラムのこともあり、思わず、不審感を露わにハジを見てしまう。


「…失礼」


が、ハジの視線がゆらりと泳いだ。背後の警官達も、管理人も。


「…?」


訳が解らず、更に眉を寄せれば。


「…コホン。Miss,リナ、貴方のような妙齢の女性は、安易に体を人目に曝さない方がよろしいかと」


―――あぁ、グラムの事ばかりに夢中になって自分は服を着るのを忘れていた。


「…失礼」


とりあえずドアを閉めて、ソファに掛けてあった大振りのワイシャツを羽織る。

逆にいかがわしい格好になってしまったが、まぁ、下着姿よりマシだ。多分。


「間抜け」


クローゼットから聞こえてきた腹立たしい囁きに、薄い板を容赦なく蹴り上げてから玄関へと向かった。


「不躾な真似をお許し下さい」


ドアを開けた途端、ハジが頭を下げた。

呼んだのはこちらな上、下着姿で出迎えたのはこちらなのだから、謝られる謂われはない。律儀な男だ。


「いえ。それで悲鳴は…」


怪しまれる要因はないと解っていても妙に落ち着かなくて、入り口を遮るように立ち、事件の詳細を聞き出す。


「ただ今、捜査官が検証しています。通報されたいきさつを、詳しくお話を聞かせて頂きたいのですが」


その言葉に、私は眉間の皺を更に深めた。


それはつまり。



「…死んでたの?」


そういうことなのか。


「…ええ、ナイフでめった刺しでした」


その言葉の酷さに、私は無意識に口元を覆った。

友人ではなかったが、顔見知りであった人間の惨殺死体を思わず想像してしまったのだ。


「…キャジー、だったんですか?」

「えぇ。ご友人で?」


私は力なく、首を振った。


「言葉を交わした事は?」

「…あるけど、大した事はなにも。下らない世間話くらい」


キャジーの顔が幽霊のように浮かんでは沈む。

気分が悪い。



「…Miss,リナ」


俯いたままの私の肩に、ハジの手が気遣わしげに置かれた。

外に居たからか、ひやりと凍るように冷たい。


「お気持ちはお察しします。落ち着いてからで構いません。詳しい事をお聞かせ願いますか」


さも私に選択肢があるかのように。


(そんなもの、ないくせに)


私が浅く頷けば。


「部屋の中に入っても?」

「…どうぞ」


部屋の中に警官を入れるなど言語道断だが、下手に断って怪しまれても困る。いい言い訳も思いつかない。


私は彼らを中へと招き入れ、さり気なくクローゼットへと凭れた。

警官達が部屋の中を見渡し、ハジは神妙な面持ちで寝室の窓から外を眺めていた。

そこからは、キャジーが暮らしていたアパートメントが見える。


「Miss,リナ」

「…なに」


ハジがこちらに歩み寄ってくる。

緊張し過ぎて、心臓が痛い。眼球の奥が乾いて充血しているかもしれない。


「何故、悲鳴だと?」


あぁ、やっぱり聞かれた。当然と言えば当然の疑問だ。


私はキャジーとは顔見知りで、彼女の奇声の事も知っていたのだ。


今まで何度、あの奇声が耳に届いても情事のそれだと気にしたこともなかったアパートメントの住人の一人が何故、今になって警察に連絡を寄越したのか。


「深い意味は、ありません」


跳ねる心臓を抑えながら必死に冷静を装う。


「…虫の報せ、というやつです」

「むしのしらせ?」

「日本の…」


そうして日本人特有の感覚的な人格を装って呟いた。

なんの確証も得られぬ私の言葉に、ハジが溜め息を洩らす。


―――当然だ。


私はなにも知らないんだから。



「怪しい者を見ませんでしたか?」


私は首を横に振った。


「そうですか…」


神妙に眉を顰め、ハジはその長い睫毛を揺らして何事か考えこんでいる。


(本当に、綺麗な男…)


黒に近い茶髪は艶やかで、肌も透けるように白い。

白人に多い赤ら顔でもない。純粋な白に映える蒼い瞳は、透明。

太くも細くもない白い首筋を、私はつい凝視してしまった。


―――これじゃあまるで、痴女だ。


そんな私に気付いたかのようにハジがこちらへと視線を向ける。

真意を隠す長い睫毛が疎ましい。


「それでは、そろそろ失礼致します。ご協力有難うございました」


協力なんてもの、なにひとつしていないが…。



「捜査に進展があれば、またお伺いに参ります。その時はご協力を」


礼儀正しく頭を下げて玄関へと向かうハジを見て、この緊張からやっと解放されるのだと、深く溜め息を吐いた。


その時。


ガタッ。自分の背後から響いた物音に、吐いた溜め息を思わず飲み込んだ。

今の物音に、当然ハジは振り向く。



「…クローゼットの中に、なにか?」


返した踵を再び翻し、私に覆い被さるようクローゼットに手を付けた。


紳士的だった瞳が、一気に冷める。暢気に見惚れていい相手じゃなかったらしい。


「Miss,リナ。中を拝見させて頂いても?」


ぬらり、と長い手が伸びてきた。

クローゼットの取っ手に手が行く前に、私は。



「―――っ、だめ!」


咄嗟に出た否定の言葉に、私もハジも眉間に皺を寄せた。



私のバカ。余計に怪しまれる。


ハジの様子に、他二名の警官達も寄ってくる。

酷く緊迫した空気の中、管理人だけが所在なさげにウロウロしていた。


(…バカ猫、殺してやる)



「Miss,リナ」


身を屈めて私の顔を覗き込むハジの、底冷えしそうなまでに無機質な瞳はさすが敏腕警部というところか。

しかし、こちらも負けてはいられない。


私はハジのネクタイを勢い良く引き寄せると、更に接近した。

別に色仕掛けに出たわけじゃない。


「内緒で…」


意味もなくキッチンの天井を眺めているアパートの管理人へと視線を流す。

なるべく自然に、なるべく悟られないように。


「…猫を」


私の言葉に、ハジは目を丸くしてやがて小さく笑ったようだった。


「なるほど」


柔和な笑みを浮かべて、確かにバレたら困りますね、と賛同までしてくれて。そのまま警官と、ご親切に管理人も引き連れてすぐさま出て行く。

ドアまで見送りに出た私に再び礼をすると、ハジは美しく微笑んだ。



「―――そういえば、怪我をしてましたね」


その低く柔らかな声に、頭から冷水を浴びせられた気分になった。

なにも答えられずにいる私へと、大きな手が伸びてくる。


「…肩」


(あぁ、私のこと…)


私は心底安堵して、小さく肩を竦ませた。心臓に悪いったらない。


「…ヤンチャな猫で」


ハジは穏やかな笑みを浮かべたまま、そろりと私の耳朶を撫でてきた。

皮膚の薄いそこ。「中身」を直に触られたようでぞっとする。


「お大事に」


同じように笑みを浮かべながら見送る。

階段の向こう側、ハジが姿を消したのを確認して、私は急いでドアに鍵を掛けた。


―――心臓が、五月蝿い。


触られた耳朶の裏が気持ち悪い。あの触り方、真性の変態だ。

ねっとりと絡みつくような、長い指の、指紋すら感じさせるような感触。ぶるりと身震いする。


(気持ち悪い、)


「グラム」


クローゼットに直行し、ハジに対する苛立ちをぶつけるように乱暴に扉を開け放つ。

被せていたシーツを剥ぎ取り、一言怒鳴ってやろうと口を開けて―――。



「…グラム?」


閉じた。


そこに居たのは、膝を抱えこんで顔を俯せ、弱々しく座り込んでいる、金色の簔虫。


「…グラム、痛むの?」


包帯に巻かれた拳を、血が滲むのも構わず力一杯握り締めている。呼吸も荒い。


「ちょっと」


肩に手を伸ばせば、そこは小さく震えていた。


「あんた…、」


部屋の灯りに照らされた顔色はこれ以上ないというほど青い。消耗しきった青白い顔は怯えているようにも、苛立っているようにも見える。

かさかさに乾いた唇、焦点のあわない瞳が、震えるままあらぬ方を睨みつけて。


―――血走った、獣の眼だ。



「ハ…、」


荒い息を吐いて、グラムは私に顔を向けた。

目に掛かる金髪が、汗で束になっている。


「…リ、ナ」


掠れた声で、それでも私の名前を紡いだことに安堵した。


「傷が痛む?」

「…いや、」


私の腕に縋るように掴まりながらなんとか立ち上ったが、まだ息が荒い。

よろける体は、熱が上がったわけでもないらしかった。


(…冷たい)




「―――寝る」


私の詮索を事前に拒否するかのように、グラムは荒く吐き出した。


「…解った」


消耗しきった体をベッドまで運び、傷に障らないよう慎重に寝かせる。

そこでようやく深く息を吐いたグラムを横目に、少し考えてから私もベッドに入った。

横にはならず、枕をクッションに壁に凭れて煙草を吸う。


互いに、口をきけなかった。




「女は…」


寝ていたと思っていたグラムが不意に口を開いた。

既に落ち着きを取り戻していた声に、もう一度、安堵する。


「…死因はなんだ」


死んでいたことは、解っていたのか。


「…ナイフで」

「めった刺しか」


私の声を遮るように放たれた言葉に、片眉が上がる。


「どうして、解るの?」

「悲鳴が断続的だった。…犯人は、被害者の癖を知ってたんだ。いつもの喘ぎ声に似せるようとして、何度も何度も刺して、悲鳴を上げさせた」


まるで、情事に溺れる娼婦の喘ぎ、そのままに。



「一息で殺せば、ただの悲鳴で終わるからな」


―――皮膚が粟立つ。

キャジーを殺した凶悪な犯人が。

それを平静に分析している、グラムが。



「…怖いかよ」


そしてそれを誤魔化すように煙草を揉み消した。


こわいんじゃない、グラム。

そんなことじゃ、なくて。


「リナ」


だらりとベッドに投げ出していた右腕をグラムに引かれる。

熱の籠る手の内が、生々しかった。


「…怖いか」


全身が竦むような、鋭い灰緑。

ぐさり、突き刺さっては返しがあって、抜けない。



「あんたの眼、さ」


あのハジって男に、似てるね。

そう紡ごうとした唇は微かに震えただけで形にはならなかった。それこそ虫の報せか、グラムにハジの話は不味い。

言ってしまっては、消えてしまう。


…そんな気がした。



「俺の眼がなんだよ」

「…別に」

「はぁ?」

「寝る」


グラムが元の調子を取り戻した事に思いのほか安堵して、私はシーツに潜り込んだ。

隣にあるグラムの体温に、はしたなく熱を持つ下肢が恨めしい。


自分の激しい心音に、先程の騒ぎを思い出して知らず溜め息が出た。


本当に、厄介だ。




「…リナ」


今では違和感なく呼ばれる名前。順応している自分。

厄介者と蔑みながら。


「…悪い、」


それでも、私は。



「世話掛ける」


そんなことを気にして欲しいんじゃない。

そうじゃなくて。


「…そう思うなら、」

「早く治して出てけ、だろ?」


漏れた苦笑が私の首筋を舐める。


やめてよ。


許すな。



「リナ?」


突然起き上がった私に、グラムの訝しげな声が掛かる。


無垢な顔。純粋な男の顔。

私の大嫌いな、「男」の顔だ。


「…リナ?」


ベッドから抜けてソファに横になった。暖房を切った肌寒い空気が、剥き出しの足に牙を剥く。冷える体を抱え込むようにブランケットに身を包み、腕を交差させた。


背中に感じるグラムの視線を無視していたら、やがて、溜め息が聞こえる。



「おやすみ」


拾った獣に情を移すなんて、あまりにも。


(……バカな、リナ)




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