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今日、世界は終わるのだ  作者: 森モト
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子守唄がないと眠れない。




「―――水」


早朝。


ソファから早すぎる朝を迎えた私に厚かましい一言が浴びせられる。


「喉、ゲホ…渇いた。水、寄越せ」

「うるさい」


牽制しつつ、硬くなった身体を解すように手足を伸ばした。


「…早く、しろ、ゲホッ」


偉そうに。


そのまま激しく咳き込みだした男を横目に、足早にミネラルウォーターを取りにキッチンへと足を向けた。


「…飲める?」


ベッドに乗り上げて、激しく咳き込み続ける男に尋ねる。

咳き込み続けられては、口移しも出来ない。


「ゲホッ、…っ、」


ふ、と咳が止まり、息を整えたのを確認してから、再び咳の波が襲う前に男の口を塞いだ。


「…、」


咳を引き起こさないよう、可能な限りゆっくりと水を流し込み、男の喉が水を体内に押しやるのを確認しながら水の量を調整する。


「…ケホ、」

「まだ、飲む?」

「あ゛ー、」


まだ掠れているらしい喉に再び水を流し込む。


水の冷たさが際立つ分、濡れた唇が熱い。



(火傷しそう…)


そんな錯覚に陥る。


ただの口移し。

意味なんて水分補給の他にない筈なのに。


甘くて、震える程、良い。


熱に喘ぐ顔でも見てやろうと、わざと流し込む水を小出しにしながら目を開けた。


「…、」


男は瞼も閉じず、じっとこちらを見ていたらしい。

視界が開けた途端、飛び込んだ熱に濡れた生意気な瞳。


(こうして見ると、ほんと目つき悪いな)


目を合わせた人間全て、睨み殺そうとしているように攻撃的。

それなのに病んでいるものだから、そそられてしまう。


「テメ、いちいち傷に触んじゃねぇ、よ」

「…ごめん」


謝罪し肩を竦めつつ、甘い唇を離す寸前、もう一度、傷を一舐め。


「…っ!てめ、ざ、けんなっ」


殴れも蹴りも出来ないくせに威勢だけはイッチョ前。


私はそれに気付かないふりをして、キッチンへと引っ込む。


―――そして男は、寝室に戻った私の手の離乳食を見て絶望を露にしたのだ。



「ほら、口開けなよ」


嫌な顔をしつつ、今度は大人しく口を開けた。


開いた唇の奥、傷に触れないよう慎重にスプーンを運ぶ。




「…、」


スプーンの柄の部分が、昨夜の噛み傷に触れて痛む。

顔を歪めた私に気付き、男が怪訝そうにこちらを見た。


「…なに」


男の怪訝そうな表情の真意を知りつつ、わざと尋ねれば。


「別に」


そう言って拗ねた様に目を伏せた男を笑ってやった。





「…ピアノ、弾くのか」


吐き気を押さえながらも必死にヘドロを咀嚼していた男が、ふと部屋の端に視線を走らせる。

視線の先、黒く重厚な塊。


「あぁ、…まぁね」


意味もなくスプーンでヘドロを掻き混ぜるが、鈍く痛む人差し指がピアノという言葉に反応して疼いた。


バカ正直な体の反応に、我ながら呆れてしまう。


男はピアノに視線を向けたまま、私に表情を読ませもせず呟いた。


「…指、悪い」


ぽつり。

拗ねたまんま、けれど素直。


「…別に。あんたに比べたら、大した怪我じゃないし」


死にかける程の傷というものをつい最近間近で見ているせいか、右の人差し指の傷など気にとめるものでもない小さなものに思える。


男はピアノを食い入るように見つめ続けていた。

珍しいのか、或いはなにか思い入れでもあるのか。



「…聴かせろ」


頼みごとを命令口調で言うのもどうかと思うんだけど。


「悪いけど、人に聴かせるような腕は持ってない」

「構わねえよ」

「あのね…」


どこまで我儘なんだ。


「音楽より、傷を治すことを考えなよ」


未だピアノを見つめている男の唇の前に、そこから気を逸らすようにスプーンを差し出した。


「音楽療法って、あるだろ」

「バカじゃないの?」


私なんかの腕で音楽療法なんて笑わせる。


「…聴かせろよ」


スプーンには目もくれない。

ピアノを凝視し続ける男に、私は舌打ちして立ち上がった。


「交換条件」

「なんだよ」

「ユアネイム」

「いやだ」

「あ、そ」

「………」


眉間に皺を刻み、男は私を睨む。

そこまでして名前を言いたくないのか。お前は何者だ。


「…解った」


そしてそこまでしてピアノが聴きたいのか?


まさか本当に音楽治療が出来るだなんて考えているのではあるまいか。




「リクエストは?」

「…ない」

「言えば」

「ピアノの曲なんて知らねぇ」


そう吐き捨てられた言葉に、ピアノに歩み寄りながら溜め息。


「失敗しても文句ナシ」


重厚な黒から現れる白い鍵盤が目に凍みる。

指の曲げ伸ばしを軽く繰り返し、鍵盤に指を置きながら。


怪我人に刺激が少なさそうな曲…ねぇ。



ポ――ン…。


二日ぶりのピアノの音にどこか興奮を覚えながら、我儘な怪我人の為に曲を紡ぐことにした。

滅多に人に聴かせないせいか、耳をそばだてられている気配に緊張する。








ジワリ。


滲む汗が心地良い。

強い雨音が耳につく。


傷む首をピアノに向けて、女――リナといったか――の背中を見た。


肉のない薄い背中が、静寂を待っている。




ポ――ン…。


雨音と重なる、初めて聴くピアノの生音は新鮮で、俺は視線を天井に向けなおした。


瞼を閉じれば、遮断された薄闇に、鮮明な鍵盤の音が鳴り響く。


耳に染む雨音とピアノの音は少しばかり傷に障り、微動だに出来ない今の状態は決して良いとは言えないが。


穏やかで鮮やかに流れるピアノは、傷を癒すように空気に融けてゆく。


―――柄にもなく、波立たない胸の内に感謝すらした。






「…今の、なんて曲だ?」


傷む指に溜め息を吐いた私に、寝てしまったのだとばかり思っていた怪我人がぱちりと瞼を上げる。


意外。きちんと最後まで聴いてくれたらしい。



「即席」

「…は?」

「適当に弾いただけ」


素直に驚いたのか、男は一瞬だけ間の抜けた表情を浮かべると小さく息を吐いた。

なかなか好感の持てる反応。


「良かった?」

「あぁ」


素直に答える男に、つい頬が緩みそうになる。

人に聴かせるのは慣れていないとはいえ、気に入って貰えたなら、それはそれで単純に嬉しい。



「あんたにあげるよ。今の曲」


まぁ貰っても嬉しくないだろうけど。


「良い曲、…だな」

「どうも」


仕事は終えたとばかりにピアノから離れれば。


「なぁ」


呼び止められた。




―――その日。


私は我儘な怪我人の所望により、指の痛みを我慢しながらピアノを弾き続けるはめになった。


二日分のサボりは、余裕に取り戻せたと思う。


雨が気にならない日は、久しぶりだった。




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