嵐は去るまでが長い
テリが去った後、なにをする気にもなれなくてベッド横になったままただなんとはなしにニュースに耳を傾けていた。
株の動向や近々行われるアメフトの試合、インタビュー、選挙に出馬する面々に政界の動き。
それから。
『本日正午、ソーホー通りで子供の遺体が発見されました。遺体は手と足を作業用のロープで縛られており、内臓の一部が……―――ブツッ。
消した。
気持ち悪い。恐らくカルト集団の仕業だ。
こんなことが日常的に起きてるなんて吐き気がする。
だから、ニュースって嫌いなんだよ。
いやがおうにも、人間の残虐な性を見せつけられてしまう。
「鍵…」
そうして多少湧き出た警戒心により、閃いた施錠の件。
そういえば、まだ鍵を閉め直していなかった。ベッドから降りて玄関へと向かう。
「…あれ」
カチャリ、鍵を閉めながら何気なく眺めた、キーボックスに違和感。
鍵がスペア共にちゃんと在るか確認する習慣化したこの動作に、今日は躓く。
「…ない」
スペアキーが無くなっていた。
万が一のためのスペアは滅多に使わないし触りもしない。私が無くしたとは考えられない。
「嘘でしょ…」
盗られてる。
―――犯人、犯人は。
グラム、じゃない。あいつが帰った後はちゃんと鍵はあった。ハジ、はなんだかその嗜好性から疑いたくなるが線は薄い。
喉がひくつく。
テリか、隣人か。考えるまでもない。
「警察に連絡…」
言いながら愕然とした。
ダメだ。こんな事くらいで動いてはくれない。
ハジ…も、多分無理。大体、毛嫌いしておいて危なくなったから助けて、なんて虫がよすぎる。
「―――グラム、」
一番頼りたい男は消息が知れない。救いがない。
とにかく、チェーンを掛けておこう。それから拳銃…、引き出しの中から銃を手に取る。
古いものと、最近のものが並ぶ。手にしたのはグラムが置いていったほうの、銃。弾が入っているのか解らないが、威嚇にはなる…筈だ。
(最悪…)
テリの言った通りになった。
いやでも、そういえば私は隣人が部屋から出るのを見ていたはずだ。彼はキーケースにもなににも手を出してない。
その時、スペアはケース内に掛かっていたのか?
―――解らない。
でも、あぁ、なら入ってきた時だ。最初から、そのつもりだったのだろうか?
もしテリが現れていなかったら、あのまま殺されていたのかもしれない。
でも、スペアキーなんか盗れば証拠を残すようなものだ。殺すつもりなら、最初から鍵に手を出す必要はない。
考えても考えても混乱を引き起こすだけの頭を無視し、私は見つけたばかりの拳銃を手に取った。
犯人について考えるより先ず、自分の身を護る事を優先しなければ。
(…ったく、冗談じゃない)
今は午後十時四十八分。
錆び付いた拳銃片手に、ひたすら緊張し続けていた。
―――なのに。
(…なにも起こらない)
早いうちにシャワーと食事も済ませたというのに、全く以て何も起こらない。何かが起きそうな気配すらない。
そろそろ緊張の糸も緩んできた。
極度の緊張は体力を消耗させ、力が今にも抜けそうな体を奮い起こし、ベッドヘッド側の壁に凭れている。シーツの上に置かれた拳銃を縋るように握り締めながら。
あの温和な隣人は、何故、鍵を盗んだのか。
悩んだところで解らない。
もしかしたら意図などなく、朦朧とした意識の中でなんとなく手に取ってしまったのかもしれない。薬物中毒とはそんなものだ。
緊張は徐々に緩み、強張っていた全身は弛緩し始めたていった。
物音すらしない。
静かな部屋に響く普段なら苛つきの原因でしかないささやか雨音が、今日は子守歌に聴こえる。
思えば今日は、緊張してばかりだ。
今にも墜ちそうな意識を奮い立たせるように頭を振る。
―――その時だった。
カチャリ…。
頭を振る反響の中に聞こえた微かな音。
確かに、聞こえた。
けたたましく警鐘を鳴らす心臓を無理に抑えながら立ち上がり、玄関へと走る。チェーンの長さの分だけ開けられたドアの隙間から覗く、見慣れた顔。
隣人、だ。
「―――入らないで」
完全に正気を失っているらしい隣人に銃を突きつける。勿論、離れた場所から。
男はドアをこじ開けようと必死になっているが、簡易で付けた二本のチェーンはそう簡単には外れない。必死にガチャガチャやっている隣人をドア越しに蹴り上げれば、ドアに圧されて呻き声がする。
(隙間から拳銃を覗かせなかった)
武器は持っていないかもしれない。
心臓がパニックを起こしているが、頭までパニックになるわけにはいかなかった。
―――警察を呼ばなきゃ。
ガシャンッ。
「っ!」
受話器を握った途端、戦慄が走った。
音の出所を確認しようと慌てて玄関を見やる。そこには、まだチェーンに苦戦している隣人の姿。
先程の音を作り出すような要素はまるでない。
―――ゾク。
じゃあ、今の音は?
「!?」
拳銃を構えて寝室を覗く。
床に散った窓ガラスの破片。割られた窓から侵入してきた三人の男が立っていた。黒いマスクを被り、手にはオートマチックガン。以前見た銀行強盗の犯人さながらに、顔は目と口しか見えない。
「…あんた達、なに」
黒いマスク以外は私服。犯罪を犯すには到底向いてなさそうなカラフルな服装。
(―――ガキだ、こいつら)
内心で毒づく。
ガキの遊びで殺されるなんて真っ平ごめんだ。
「出て行け。警察呼んだわよ」
ギリギリと引き絞られた糸を必死で繋げながら低く唸る。一対三じゃ、勝ち目はない。
「金ならやるから、出て行って」
金を渡して命が助かるなら儲けものだ。
大体、この男達と玄関で未だにガチャガチャやっている隣人は関係あるのだろうか。手を組んでる?
(…でも、あんなジャンキーと手を組んでも邪魔になるだけだ)
何者だ、こいつら。
「やだなあお金なんて。そこらの強盗と一緒にしないでよ」
じりじりと私に近づく一人が妙に高い声で言った。
スラムのガキじゃない。
「ねぇお姉さん、それ撃てるの?」
先程とは別の声がする。マスクのせいで三人の中の誰が喋っているのかすら判らない。
「黙れ、クソガキ」
精一杯の虚勢も虚しく声は震えた。既に恐怖と言うより、妙な違和感と緊張感に支配されている。
バタンン…ッ。
「!」
玄関から、混乱を更に煽る嫌な音がする。ドアを破られた。
硬直したまま眼球だけをさ迷わせる。
現れた隣人は、一人じゃなかった。
(…なんなんだ、こいつらは)
目の前に三人の黒マスク、右横には隣人と四人目の黒マスクが現れた。グルか、と思えば、四人目のガキは足元の覚束ない隣人を殴って気絶させる。
(なにがしたいんだ)
銃を三人に向けたまま、数歩後ずさる。このままじゃ、真横のガキに襲われて終わりだ。
少しずつ奴等から距離を取り、撃てやしない銃の射程距離内に全員を入れた。
「かっわいい~!震えちゃってるよ」
ゲラゲラと下品な笑い声がする。
(…黙れ、クソガキ)
一人が銃を玩具のように振り回す。
私が構える銃より数倍ごついそれは、明らかにこちらの分が悪い事を証明していた。
「あんたら、なんなの」
やはり声は震えた。
それを馬鹿にするように、ガキ共は体裁など気にせず笑い出す。
上品な口調とは反対の卑下た笑い方が耳に障った。
苛々する。
―――落ち着けリナ。
この銃に弾はあるが、引き金を引いたとしても的に当たるかどうかも解らない。第一、銃に機能差がありすぎる。例えひとりを仕留めたとしても、次を撃つ前に他の奴等に殺られるだろう。
あぁ、息がしづらい。
「俺らさぁ、最近有名なんだよね」
ケラケラ笑いながら、一人が銃を構えた。標準が私を定める。脚が竦んだ。
「…知るか、クソガキ」
私の口は止せばいいのにそんな事を言う。
ガキ共はそれに苛立った様子もなく、またゲラゲラ笑い出した。その様は壊れた人形のようで、不気味だ。
「知らない筈ないじゃん。俺らの事をさ」
中央に立つ一人が私と奴等を隔てているベッドにのし上がる。汚い足で上がるな。
「ニュースくらい見るでしょ?」
「ほらこの前の、…ギャシーだったかな」
まだ若い無邪気な声と嫌な笑い声が鼓膜に纏わりついて不快だ。
「あの時はびっくりしたなぁ。何度も鳴かせてカモフラージュしたつもりだったのに、思いの外、通報が早かったから」
(…あぁ、頭が痛い)
黒マスク達が何故ここにいるのか、なんとなく読めて勝手に溜め息が漏れた。
「通報したの、お姉さんでしょ?警官があなたの部屋に行くの、見たもの」
肩を竦めて、まるで世間話でもするように。興奮もしていなければ、罪悪感も感じていない。無機質な、人形のように。
―――こいつらが、あの連続殺人事件の犯人。
銃を握った手が更に震えた。
「これは冗談じゃないよ」
マスクの口が、にいと左右に伸びた。
「俺らは」
「正義の」
「味方だからね」
耳障りな声で言葉を繋げる。
正義の味方?
人を殺しておいてなにを言っているのか。
「僕らが産まれ育ったニューヨークは、どこよりも美しい、世界に誇るべき街なんだ!」
一人が大仰に芝居がかった台詞を吐く。
「なのに、君達みたいなクズがこの街を汚してる」
ベッドを乗り越えた一人が、向けられた銃をものともせずに近づいてくる。
「クズが息をするだけで空気が汚染されていくんだ。やっすいジャンクフードの臭い息がさあ」
じり、と迫るガキ達に私も銃を構えたまま後ずさった。理解の範疇を超える。
「そこの男なんか見てみなよ。毎日毎日身、を粉にして働いても大した金にならない」
俯せに倒れた隣人の頭を近くに立っていたガキが踏みつける。気を失った隣人は、衝撃に体を跳ねさせた。思わず隣人の方に気を取られた私を、ガキ共が見逃してくれる筈もない。
「っ」
いつの間にか目の前まで迫っていた男に右腕を捕まれ捻り上げられた。
向こうに立っていた二人が、それを待っていたかのように寄ってきて、身動き出来ないよう羽交い締めにする。やけに鼻につく香水に吐き気がした。
「汗水垂らしても報われない彼があんまり可哀想だからさぁ。夢でも見せてあげようと思って」
マスク越しでも目前のガキが卑しく嗤っているのが判る。
「まさか、薬を…」
呟いた私に、ガキは感嘆を漏らす。
「アンタ、クズにしては頭が良いなぁ」
「薬の為ならなんでもしたよ、彼。全く馬鹿みたいに俺らの言うこと聞いてさぁ。利用するには打ってつけだった」
奴から漂うお高く止まった香水が髪に染み着きそうで嫌になる。
「ねぇお姉さん、大人なのに、全く情けないよねッ…!」
密着させていた体を離したかと思えば、私の髪を勢いよく掴み上げた。
「!」
頭皮ごと毟り取られるような痛みに息を飲む。皮膚から毛根が引き剥がされる。
「あの不細工な娼婦はつまんなかったけど、お姉さんは楽しませてくれそうだなあ」
まるで意思のない人形でも相手どるように私を扱う。くたばれ。
「イカれた妄想に、大人を巻き込むんじゃないよ、クソガキ」
必死の悪態に体を拘束する腕に力がこもったかと思えば。
「、っ」
左頬に強烈な衝撃。殴られた。
「クズのくせに生意気だなぁ…!正気が保てなくなるまで犯して殺してあげるよ!」
殴られた勢いで下を向いた私の顔を上げさせ、少しの苛立ちを含んだ声で、それでも奴等は興奮気味に嗤う。
「ハッ…」
じんじんと痛む頬に、勝手に苦笑が漏れた。
なんてつまんない終わり方だ。こんなイカれたガキに殺されるぐらいなら、もう一度だけでも逢いたかった。あのテリが訪れた時、無理にでも居場所を聞き出して。
(…馬鹿な、リナ)
「なに嗤ってるの?気持ち悪い」
顔を覗き込んでくる嘲りの笑みは、ただ。
「…キモいのはアンタの頭の中だ、この妄想ヤロウ」
自由な右脚を思い切り蹴り上げる。空中で曲げられた膝は、正面に立っていた男の股間を勢い良く蹴り潰した。
「―――生憎、ガキのもんで満足出来るほど若くなくてね」
無様にのたうち回る男を鼻で嗤う。
どうせ殺されるなら、足掻いてからがいい。
「このクズが…!」
別の男が私の頭めがけて銃を振り上げた。
あぁ、これで脳天をかち割られて、私はおしまいか。
(…グラムの馬鹿野郎)
私が死んだことをニュースで見て驚け。
―――そして、後悔してよ。傷 が治っても、あと少しでも一緒に居てやれば良かったって、後悔して。
(…しないだろうけど)
それでも、馬鹿げた最期の祈りは届くだろうか。
「…リナ」
振り下ろされた銃が視界の端で静止する。タイミングよく現れた新たな人物に、私は目を閉じることも忘れた。
「そういう趣味に走ったのかよ」
窓際に置かれたソファに、凭れる様に立つ男。
やる気なさげに構えられた拳銃は、私の頭を狙う男に照準を合わせている。
瞬きすら忘れて、戯言を吐く新参の男を見た。
金髪の鮮やかなその男は、以前手負いだった過去を匂わせない。
「…遅い」
安心感と嬉しさがこみ上げて出た言葉がこれだ。我ながら可愛げもクソもない。
「涙浮かべて、Help me…くらい素直に言えねぇのかよ」
呆れた口調ながら、それでもグラムは笑ってる。そんなことに、心底ほっとしてしまった。
「な、なんだ、オマエ」
四人のうちの誰かがぼそりと漏らす。グラムの登場を機に、股間を蹴られた男は震える内股で立ち上がった。まるで産まれたての小鹿だ。決して格好いいとは言えないその姿に、こんな状況ながら私は男という生き物を不憫に思う。
「ガキがいっちょ前に騒ぎやがって」
ガキの質問には答えず、グラムは空いた片手で煙草に火を点している。暢気なものだ。
「この女がどうなってもいいのか!」
先程の余裕はどこへ行ったのか、完全にグラムの気迫に圧されているガキ共は私のこめかみに銃口を当てた。
ゴリ…。金属と頭蓋骨が擦れる音。その無機質な冷たさに不快が増す。恐怖というものはとうに消え失せ、ただ助けを待つだけの状態。
グラムの余裕の表情は、相変わらず生意気だ。
「動くなよ、ちょっとでも動いたらこの女の頭ぶち抜くからな!」
使い古された台詞と共に私のこめかみに更に銃口が喰い込んでいく。痛い。
こいつが引き金を引いたら私は終わりなんだ。
どこか遠い次元でそんなことを考えながら、私の視線はグラムを捕らえたまま離れない。
ニタリ。ムカつく笑みを私に向けた猫は明らかにこの状況を楽しんでいる。
「早くしてよ」
つい、催促が飛び出た。
「…っ喋るな!」
苛立ちも露に、ガキが叫ぶ。脅しのつもりか、引き金を軽く引いたらしい。
耳元で響く金属の擦れる音に、さすがに体が強ばった。それを意に介したふうもなく、グラムは煙草をふかしている。このクソ猫。
「素直に助けてって言ってみろ」
「はあ?」
この期に及んで何を言う。
私はこめかみに銃を突きつけられていることよりも、私が怯える様を見て笑っている目の前の金髪にキレた。
「くたばれ」
私の言葉に、グラムは煙草を床に落とす。ジリ、火を踏み消す音が耳に届いて私は目を剥く。
「ちょっと、床が焦げる」
血みどろのカーペットだけじゃなく床まで傷モノなんて冗談じゃない。
「殺されかけてるくせに、床の心配かよ」
「大家に文句言われんの誰だと思ってるわけ?……さっさと助けろ、この恩知らず」
さも可笑しそうに笑う金色を睨みつけた。
周りに立つガキ共は苛立ち紛れに地団駄を踏む。
「仕方ねぇな」
私の命乞いに満足したらしい。グラムは酷く緩慢な動きで構えていた銃の引き金を引いた。
―――パシュッパシュッパシュッ。サイレンサーの控えめな音が響く。同時に、私に銃を突きつけていた男とグラムに銃を向けていた男が倒れた。
「フルオートなんか握りやがって。場所考えろ。くたばれクソガキ」
グラムが再び銃を構える。
「ヒッ…」
私を羽交い締めにしていた男は恐怖に息を飲み、もう一人はグラムに向けて発砲する。当てずっぽうで撃った弾は、当然のようにグラムには当たらず、窓際のソファに穴を開けた。
ちょっと待て。とうとうお気に入りのソファまで被害に遭った。これが終わったら全部弁償させてる。未だに体を拘束されたまま、銃弾を避けたグラムに恨めしげな視線を投げた。
(…悪いのはノーコンで下手くそなガキだっていうのは承知してるけど)
ソファに穴が開いたと同時に発砲していたグラムの弾は、立ち竦んでいるガキの左足に寸分の狂いなく埋め込まれた。痛みに呻く不埒者はこれで三人。
「この女がどうなっても良いのかよッ…!」
憐れ生き残りの、怯えながらの精一杯の威嚇。通用するわけもない。
「ガキが夢見んのはベッドん中だけにしろ」
―――パシュッ。乾いた音と共に私の脇を銃弾が掠めると、背後にあった男の体が痙攣して私は解放された。
静かなると、グラムは再び煙草を手にベッドへと腰掛ける。
思っていたよりずっと呆気なかった救出劇に、私は未だ現実味を感じられずにいた。
煙草の小さな火に照らされたグラムの金髪を、もやがかかった頭でぼんやりと眺めている。反してグラムは懐から携帯電話を取り出した。数回のコール音が静かな部屋に遠慮なく鳴り響く。
「―――ハジ?あぁ、俺。連続殺人犯、逮捕しに来いよ。…あ?リナの部屋。あぁ、良いとこのボンボンが四名。全員拳銃所持。巻き込まれた一般市民が一名。薬漬けにされてる。脅されて利用されたんだと。救護班も頼む。…あ?無事に決まってんだろ。ウゼェよ、仕事しろボケ」
的確な情報を言い終えると、用済みだと言わんばかりに携帯を放り出した。
未だ呆然と立ち尽くしたままそれを聞いていた私は些かの疑問を抱き眉を寄せる。
「…ねぇ」
「あ?」
グラムは煙草を美味そうに飲みながら視線を寄越す。
久々の灰緑は暗闇に紛れて融けてしまいそうだ。
「あんた、一体いつから見てたわけ?」
途中参戦のこの男が明らかに知るはずのない情報を、今まさに、この男は口にしたのだ。
「…テメェが玄関のドア蹴ったとこらへん」
少し考える素振りを見せて、肩を竦めた金髪に静かな殺意が芽生える。
「命の恩人が危ない目に遭ってたってのに、見物?」
近付いてグラムの咥えていた煙草を取り上げた。
香りが私のものと同じだったことに少なからず驚愕したが、今はいかんせんそれどころじゃない。
「タイミング見てたんだよ。多勢に無勢だから、全員が一カ所に固まるまで」
いけしゃあしゃあとよく言う。
「…最低」
低く吐き捨てれば、グラムも眉を釣り上げて反論してきた。
「助けただろ。礼くらい素直に言えよ、ボケ女」
口の悪さは相変わらずお互い様らしい、このクソ猫。
「私がビビる様見て楽しんでたバカにくれてやる礼はない」
グラムから顔を逸らした私の腰に、数秒してグラムの腕が回ってきた。
ぐ、と引き寄せられて、腰掛けているグラムの両足の間に連れ込まれる。
「ちょっと、なに」
心臓が跳ねる。
回された腕の力強さに、保護を必要としていた傷だらけの獣はもう居ないのだと少し悲しくなった。
「オマエさ」
腹に顔を埋めて喋るものだからから堪らない。皮膚を通じて内臓が振動する擽ったさに身を捩りつつ耳を傾けた。
あんな別れ方をして、何事もなかったかの様に触れ合っているから不思議だ。あれだけ逢いたいと願っていたのに、涙すら滲まない。
「銃構えといて、なんで撃たねぇんだよ」
掠れた声で言われた台詞は、甘さのあの字も見つからない。なんて陳腐な。
グラムの真意が掴めぬまま、腹に顔を寄せているヤツのつむじを見下ろした。
「…当てる自信なんかないよ」
言えば、突然グラムは立ち上がり、私はその勢いで体を後ろへと反らすハメになった。
「うるせぇ!撃たなきゃ折角の銃もただのガラクタだろうが!なんの為に置いてったと思ってんだよこのクソアマ!」
至近距離で頭ごなしに怒鳴られた私は片眉を上げる。
(無駄に偉そうな態度は変わらない)
「私に撃たせないために、あんたは来たんじゃないの?」
その言葉に、今度はグラムが不愉快そうに片眉を上げる。
鏡のように互いを映し出して突つきあって、反応を窺っている。
馬鹿が二匹。
「…自惚れんな」
呆れ気味に吐き出されたそれを合図に、説教をおっ始めたグラムに一層体が重くなる。なにこれ。グラムも縮り毛テリも、お母さん並みに口煩い。
「…あぁ、もう、解ったから、ごめんて」
受ける意味が解らない説教にぐったりと肩を下ろしベッドへと倒れ込んだ。
疲れた。殴られた頬が痛い。
「…リナ」
グラムの腕が俯せの私の肩を持ち上げる。
やめてよ、グラム。説教なら後で聞くから、今は寝かせて。
しかし胸中の訴えは完全に無視された。
「…っ」
離せバカ、と口にする前に私の唇にグラムの唇がぶつかってきた。あまりの荒々しさに、互いの前歯がガチリと鳴きあう。
慣れ親しんだ煙草の香りが咥内に滑り込み、気持ちが自然と落ち着いていくのが解った。
傷の凹凸もない、滑らかな唇の感触。口の中を荒らしても、グラムはもう呻かない。
どこかつまらないと思いながら、キスに溺れている自分が可笑しかった。
スムーズに動くグラムの指が私の髪を弄る。
それに応えるように、私はグラムの背中を両腕で撫でた。傷に呻きもしないし、鳴きもしない。
傷すら、ない。
密着した胸から、心音が伝わる。
―――生きてる。
痛みに艶やかな悲鳴を上げる事はなくなった。それが、たまらなく悲しくて、たまらなく嬉しい。
グラムの指が、私の耳朶を擦る。
優しい仕草は、相変わらずこの猫には似合わない。
「リナ…」
掠れた声に堪らなくなって目を開けたら、夢にまで見た灰緑とぶつかった。
「…泣いてんじゃねぇよ」
静かに唇が分裂して、完全に離れる間際。
私は眼の奥の熱を閉じ込めることもせず、私を真っ直ぐに見下ろしているグラムを見る。
おかしい。ほんの少しの、たった数日間の空白は、私を燃え上がらせるには充分だったらしい。
込み上げてくる嗚咽を隠そうと、グラムの襟首を乱暴に引っ付かんで引き寄せた。
「っ、」
グラムの肩に顔を押し付けて唇を噛んで。
しゃくりあげるなんて情けなくて、縋らなきゃ生きてけない弱い女みたいにはなりたくないし、見られたくもない。
それでも涙は溢れるから、声を抑えるだけが精一杯の強がりだ。
「リナ」
肩に縋ったまま震える私をその腕が抱き締める。背中に回された腕に、耳元に押し付けられた唇に、痙攣してた胸が殊更に震えた。
―――ねぇ、怖い、グラム。
あんたは今ちゃんと、此処にいるのに。
また何処かに行ってしまうだろう喪失感とか、電話あぁ、そうじゃなくて―――。