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今日、世界は終わるのだ  作者: 森モト
16/19

隣人は旋律を口ずさむ

「…寒い」


起きた当初は死ぬかと思われた体調の悪さも、夕方になると熱も下がりだいぶ良くなった。

今のうちだと、一日中潜っていたベッドから抜け出し浴室へと向かう。

着込んだ服を床に散らかしながら、寝過ぎてはっきりしない頭のまま浴槽の蛇口を捻った。

そこでやっと身を引き裂くような寒さに身を震わせる。

浴槽に湯も張っていないのに裸になるとは、なんてバカなんだ。湯が溜まるまで裸で待っていなきゃならないじゃないか。


相当頭にきているらしい。


堆積を増やしていくバスタブの湯を眺めながら、私は瞼の奥が滲むのを感じていた。

寝ている間も、それらの間を縫うようにはっきりとする意識の中でも。

馬鹿みたいにグラムの顔しか思い出さないなんて、相当イカれた女と化している。自分でも呆れる程だ。


それなのに、気を緩めればすぐにグラムとのキスを思い出して全身が疼いてしまう。

居なくなった猫を想っても、生産性ゼロだよ、リナ。なんの役にも立たない。


そういって、結局グラムの事ばかり考えている自分に舌打ちしながら鏡の前に立った視界の端、見慣れぬものが映る。鏡に映る見慣れた裸体に、猫が残した噛み痕と。



「キスマーク…?」


右胸の膨らみの上にある赤黒く熟れた華。

付けられた記憶はない。行為に夢中で気付かなかったのだろうか。


「―――…っ、」


考えて、心臓と傷が痛いほど疼いた。

未だ体の奥に再現出来る、すべてを焼ききるような灼熱。そして、魘される。


(恨むよ、グラム)


あんたは私を喰い殺していった。


―――だからだろうか。恨んでいるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

私の大切なものだけを腹に収めて、不要な塵芥を置いていったりしたから。今にも崩れそうな脆い体は空っぽだ。


―――熱い。

それなのに熱を産み出すなんて、便利どころか余計な世話でしかない。大体、こんなものを残して行ってしまうなんて。


「…殴れば良かった」


自ら墜ちた穴から這い出すことを許さない、朱い痣が憎らしい。


「たく、…冗談じゃない」


その痣を消さないようにその場所をわざわざ避けて体を洗う私を誰かなじってくれ。


拾った猫は、帰らない。


(…そんな可愛げのあるものでもなかったか)


金色の獣は、爪痕や噛み痕を残すだけに止まらず、私の全てを喰らっていったのだ。


「…痛い」


こんな不確かで曖昧な印を付けられるくらいなら、抱かれるんじゃなかった。

右胸のそれはいつか消えてしまうと言うのに、あの男を鮮明に思い起こさせるには充分で、あるだけで酷く重い。


―――それなのに。


「なに笑ってんの、リナ」


風呂上がり、鏡に映る自身を罵倒した。目も当てられない自分の姿。


もうお子様じゃないんだから、ガキ臭く焦がれるような気持ち、要らない。

体内に渦巻く余計な考えを消し去ろうと、私は素早くベッド脇の煙草に手を伸ばしていた。

火を点けて、体の奥に巣喰う疑念やら期待やらを毒煙で殺してやろうと思い切り紫煙を吸い込む。


―――それなのに、口の中に広がる慣れた味にすら、金色の気配が漂った。



「…これ、私の煙草じゃなかったっけ」


持ち主は私だ。それなのに連想するのはあの男。或いは、その男に抱かれている自分。

気怠い体をベッドに沈め、紫煙を揺らした。窓の外は、変わらずに、雨。


久々にベッドを占領出来たというのに、もはやそれは喪失感を呼び寄せるものでしかない。

置いて行かれたわけでも、捨てられたわけでもない。


―――そうでしょ、リナ。


言い聞かせて、更に馬鹿馬鹿しさが増すのだから相当だ。

熱に侵された体が重い。煙草の火を揉み消す動作ひとつ億劫。だからこそ、代わりの手が欲しくなる。



『グラム、煙草消して』

『自分でしろよ』


そう文句を言いながら結局、あいつは私の手から白いフィルターを受け取るのだろう。


「…アホくさ」


恋した男との妄想なんて許される歳でもない。

なんとか重い腕を持ち上げながら、灰皿に煙草を押し付けた。


グラムが溜めていった吸い殻を捨てて、綺麗にしたアルミ製の灰皿。私が吸った吸い殻も、グラムが吸った吸い殻も、二人で吸った吸い殻も、全部。


私が今吸ったばかりの吸い殻がひとつだけ横たわるそれを見つめ、こんなことなら棄てなければ良かったと、懲りずに考えた。

そのまま次々に浮かぶグラムの顔を夢の中に捨ててしまおうと試みて、けれどもどうしてかうまくいかない。


夢にまで見た。そのせいか夜中に目が覚めて、居やしない男に振り回されるとは情けない。

再び眠りに就く気も起きず、時計を見れば普段起きる時間より一時間も早かった。


(中途半端に寝るより、このまま起きていた方がいくらかマシだな)


ベッドに横たわったままニュースをつける。

普段、ニュースをまともに見やしない私がチャンネルを変えなかったのには、深夜にろくな番組がないという理由の他に、私に偉そうに説教をした男の事を思い出したからだ。


『自分が生活してる場所で起きていることくらい把握しておけ』


(…偉そうに)


しかし正論。尚更腹立たしい。


天気予報が流れた。明日も、雨。

ここ最近降り続けている雨に、必然的に梅雨を思い出し、おまけのように四季というものを感じていない事も思い出した。


無意識に煙草を手に取っていた自分に苦笑し、バカらしくなる。


『…地区での連続殺人事件の犯人像は未だ掴めないまま調査は難航している模様です。NY市警によれば、犯人はその地区の住人である確率が高いということもあり、地区周辺の住人達に警戒を呼び掛けています』


ふと、私が求めているような類いのニュースが流れてきた。

犯人はご近所さんか。なら、殺しにきてくれれば良い。

グラムに会えないなら、こんなつまんない人生意味がない。グラムに逢うまで、一体どのように生活していたのか、それすら思い出せないのだから。


私の世界は、完全に終わりを迎えていた。

胸元の朱が、私が生きた唯一の証のようにも見えてくる。


「は…」


吐いた溜め息は自嘲の笑みとして耳を裂く。妄想癖を持つ同僚じゃあるまいし。

大仰に言ったところで私は死ぬことなどなく、また明日から何の問題もなく生きていくに決まっている。

気分は悲壮の極みだとしても、地球が崩壊する訳じゃない。


本当に馬鹿な女に成り下がった。


(それでもあんたがもたらしたものだと思えば…)


嫌悪すら薄れるというのに。





翌日、私は何事もなかったように出勤した。

一晩に様々な事があったせいで、馴染みのオフィスもボスの 顔も新鮮に見える。

グラムが置いていった銃を代わりにとボスに返そうと見せた が、安物は要らん、と突き返された。謝れば、お前が病院送りにならなくて良かったよ、と冗談っ ぽく笑い返してきたので私も勿論笑い返す。陰でハゲとか言ってすみませんでした。


なんだ、笑顔というものは案外簡単に作れるものなのか。

妙なところで感心しながらデスクに戻ると、例の妄想好きの 同僚が私の携帯電話を掲げて手を振っていた。


「リナ、電話」

「ありがと」


そう言って携帯電話を受け取り、ディスプレイを確認もせず 通話ボタンを押す。それが間違いだった。


『―――仕事中に失礼』


ここ数日で覚えた不愉快な声が聞こえてきたのでほぼ本能的に通話を切った。


「あれ、リナ。電話は?」


随分早く切ったのね、と顔を傾げる同僚に。


「間違い電話よ」


と答えたところで再び携帯が震えた。舌打ち。


『…いきなり切るとは酷いな、傷ついたよ』


くたばれ。

傷付いたと言うわりには愉快が滲む口調を遮るように眉を釣り上げる。

そのまま同僚が聞き耳を立てているオフィスを抜け出し、人気のない非常階段へと向かった。


「失礼なのはどっち。いま、仕事中」


そう言って切ろうとすると、ハジは感嘆の溜め息を吐いて見せた。受話器越し、わざとらしく。


『案外、元気そうだね』


逞しい限りだ、と付け加えるハジに苛立ちながらも、私は声を抑えて話を続けることにした。


「…猫の具合は?」


自分の下からグラムを奪った張本人にこんなことを尋ねるのは癪だが、他に訊ける相手が居ないのだら仕方ない。


『…気になるかね?』


その静かな口調に、素直に頷く。


「世話してた猫の安否くらい、気にする」


例え、もう戻ることはなくても。


『元気だよ。相変わらず生意気だ。負傷して、多少は静かになっていることを期待してたんだが』


苦笑混じりの言葉に嘘はないと確信して、相手に伝わらないよう浅く安堵の息を吐いた。

猫は無事。もうそれでいいじゃない、リナ。


『猫は、君への恩を仇で返さなかったかな』


まるで保護者のような口をきく。

恩を仇で返す、か。


「……、」


―――そうでもない。

空っぽの部屋に帰れば、きっと言いしれぬ喪失感を抱くだろうが。

でもそれは、仇とは違う。

私が勝手に惚れて、手放したくなくなっただけだ。


『食事でもどうかな』


不意に口調を軽いくした男に、溜め息。目的はそれか。


「グラムと約束したんでしょ」

『なにを?』

「私に関わるなって」

『起きてたのかい?』


口約束をしたあの時、私は端で交わされていた話を聞ける状態じゃなかった。


「別に、あいつならそうするだろうって、思っただけ」


それは希望すら混じる。

ハジの疑問に携帯を持つ手を変えながら、答えた。


『自惚れだね』


さる女と部下との間の奇妙な繋がり。ハジはつい意地の悪い台詞を吐く。


「自惚れか…」


そうかもしれないね。

呟いた私の声は静かで自嘲と虚しさが混濁している。

けれどグラムは確かに、ハジに嫉妬していたのだ。


「恩人を変態の餌食にはさせないよ、うちの猫は」


それが私に固執してのことなのか、上司に奪られることへ対する意地なのかは、解らない。


「気位の高いお猫様だったし?」


自然と苦笑が浮かんだ。

無意識に浮かんだ笑みの筈なのに、口元は痙攣し、目の奥は熱い。


『―――リナ?』


受話器越し。私の異変に感づいたのか、ハジが気遣うような声を掛けてきた。

私から猫を奪った張本人のくせに、変な男。

熱が集中し始めた両目を閉じ、浅く呼吸を繰り返す。


「…なんでもないよ」


そうして落ち着けば、何事もなかったかの様に声が出た自分を内心で誉めてやりたい。


『それで、食事はいつにしようか』

「…あんた、私の話聞いてた?」


つい笑みが漏れた。

この男に慰められるのは釈然としないが、今の所、グラムの話を出来るのはこの男しかいないのだから仕方ない。


「仕事、戻るわ」

『残念だ』

「次、また誘っても無駄よ」


私は可笑しい、と唇を震わせた。


『それは燃える。グラムで釣ってもいい』

「なにそれ、早速釣られそうだわ」


ニヤリと口元を緩めて非常階段を後にした。

まだ繋がったままの携帯に向けて、思い出した様に口を開く。


「…猫に、伝言頼みたいんだけど」





「血で汚れた絨毯の弁償、早くして欲しいらしいよ」


仕事の合間、甲斐甲斐しく自分をからかいに来たらしい上司に、グラムは唖然とした。


(…この人、暇を持て余しているのか)


グラムの話相手をしていたテリは、部下いじりに余念のない暇そうな上司に呆れる。


「…テメェ、あいつには近づかねぇ約束だろうが」


グラムは苛立った声でハジを牽制するが、暇な上司はそんな部下の態度が楽しくて仕方ない様子だ。


「勿論、近付いてない。電話だからね」


ダリによってベッドに縛り付けられたグラムを挑発するように屁理屈を捏ねて肩を竦める。

長い脚を組み直しながら、上司であるハジはにやにやと唇を歪めていた。


(…性悪)


テリは吐き出したい溜め息を必死に抑える。


「揚げ足取るな、変態が」


グラムの灰緑の眼が鋭く睨み付けるが、彼と付き合いの長いハジにそれは通用しない。


「縛られている君に変態呼ばわりはされたくないね」


まぁ、それは認める。

付け足された言葉にテリは眉尻を下げた。奔放な上司が自分を変態だと自覚していた事に驚く。


「縄のことならダリに言え」


ふてくされた様にハジから視線を外したグラムにも、同情に近い意味でテリは眉尻を下げた。


「…ダリはそんな趣味があったのか」


ボスの驚愕した表情に、ダリの兄として慌てて彼女の名誉を守る。


「グラムが怪我も気にもせず動き回るからです!仕方なくですよ!」


テリの必死の言葉に、ボスは納得したように顎に手を当ててグラムを見た。

変態との言い争いを放棄して煙草を吸っているその姿は、全く以てしおらしくない。


「その様子だと、復帰も近いな」


満足げである。


「言われなくても解ってる」

「それは、結構」


ハジの満面の笑みが気持ち悪い。


「俺に仕事やらせたきゃ、リナには近づくな」


あぁ、グラムったら往生際が悪い。ハジにそんな脅し効くわけがない。

釘を刺されたハジは、やはり肩を竦めてそれを受け流している。


「君が作った彼女の隙間に入り込むのは、僕こそが適任だと思わないかい?」

「思わねぇよ。今すぐ出てけ、変態」


短くなった煙草を灰皿に押し潰し、空いた片手でハジを追いやる仕草をひとつ。


「―――あぁ、グラム、あとひとつ」


ドアに手を掛けたハジが、思い出した様に再び部屋を振り返った。至極、真剣な顔をして。


「愛してる」

「殺すぞ」

「リナから」


たちの悪い冗談だ。

思わず閉口してしまったグラムに、ハジは相変わらず真剣な眼差しを向ける。


「代弁してあげただけだよ」


彼女が君に言えなかった言葉をね。或いは、君が彼女に言いたかった言葉だったかな。


そう含んだハジに続いて、テリもすぐさま部屋を出ていった。

相変わらず仄暗い部屋に一人になったグラムは再び煙草に手を伸ばす。


「柄じゃねぇよ…」


生意気で勝ち気な女を思い出し、無意識に呟く。

彼女にいたぶられたあちらこちらに散る傷がずくりと鳴いた。


無音の室内。

リナが弾いた曲が不意に欲しくなる。即席だ、と口笛で奏でたが、肺が痛んで終わった。


「バカ女…」


吐いた科白は音もなく壁に吸い込まれ、ただただ、虚しい。





ハジと不本意にも連絡を取ってからニ週間後、私の部屋に郵便物が届いた。


差出人は、「猫」。長い円柱形の郵便物を部屋に引きずり込み、茶色のリサイクル包装紙を破く。


「…つまんないカーペット」


円柱を解くと、深緑に黒の幾何学模様が入ったシンプルな絨毯。なんの洒落っけもないが、手触りはいい。

グラムの髪質に、少しだけ似てる。


(わざとか?)


私は広げたカーペットに寝転がり、長い毛を指に絡めた。


恋しくなるじゃん、クソ猫。


私は近くに転がるチャンネルを手繰り寄せニュースをつける。明るいテレビ画面を見て、初めて涙ぐんでいたことに気づいた。


(阿呆の極みだ)



『昨夜二十三時頃、国防総省長官秘書のベックハーパー氏が自宅で遺体で発見されました。警察によれば何者かに銃で射殺されたとの――』


物騒な世の中。下層も上層も、犯罪者には関係ないらしい。


そういえば、グラムはそういうものを飯の種にしていたのだったか。詳しいことは解らないが、もしこのベックハーパー氏の件が彼の仕業なら、彼はもうそれだけ回復したと言うことだ。奴の仕業と決まったわけでもないのに、ハーパー氏には悪いが安堵した。


「アホらし…」


ここ一週間、やはり奴の事しか考えていない。



『…ニューヨーク市警きっての敏腕警部ハジ氏が、ここ数ヶ月に渡りスラム街で起きている連続殺人事件の犯人逮捕に本格的に加わるとの――』


たかが警部一人が捜査に加わるってだけで大層な報道。

奴からもあれ以来、連絡はない。良かったと言うより、惜しい気がしてならなかった。

ハジと逢ったからといって、グラムに繋がるわけじゃないのに。


望みを掛けるのはやめなよ、リナ。いい加減、ウザすぎる。


(自分の気持ちに振り回されてばかりいる)


テレビの中ではあのハジが連続殺人犯に宣戦布告をしていた。

いかにも捕まえるのは容易いと言うような、犯人にしてみれば腹立たしいくらいに麗々な表情で。

それだけのバックが付いているからの自信なんだろう。なにせ、犯罪組織のトップだ。正攻法じゃだめでも、手段を選ばなければ逮捕も容易いだろう。なにより、あの男は容赦がなさそうだ。そんなのがニューヨークを守るヒーローと崇められてるなんて、笑える。


羊水にたゆたうような気分になり、グラムの髪質に似たカーペットに頭を擦りつけながら瞼を閉じた。

折角の休日が、妙に暇に感じるのはいつものことだ。

あぁ、この前はグラムと過ごしたんだっけ。


(せがまれて、ピアノ弾いてやって…)


「音楽治療、か」


そんな馬鹿な事を言っていた男の顔が、雨の音に合わせるように流れてゆく。


―――雨は、癒してくれるだろうか。

期待してではないが、久しく触っていなかったピアノへと向かう。通っていたピアノ教室は、グラムが消えてすぐ後に辞めた。意味はない。ただ、なんとなく。なんとなく、今まで通りの気持ちで弾くことかができない気がして。


鍵盤に置いた指の噛み痕も今じゃすっかり綺麗になった。痕が残れば良かったとは思うが、肩口の傷は残りそうなので、多くを望まないように。


留守電も、聞かなくなった。



「…、」


鍵盤を圧す度に、グラムにピアノを教えたことが思い出されて高揚する。

目の奥に滲んだものを感じて、すべてを抑え込むように瞼を下ろした。そしたら、メロディを間違えた。

音が外れた曲は間抜けで、まるで私みたいだ。

じわりと滲んだ涙が枯れるまで、滅茶苦茶に鍵盤を圧し続けた。

酷い、不協和音。こんなもので癒されようなどと一瞬でも考えた自分が情けない。

力の加減も考えなかったから、隣近所に筒抜けだったかもしれない。


(…まぁ良いか)


一人は朦朧した婆さんだし、もう一人は、人の良い地下鉄掃除員だ。今まで文句を言われたこともない。

涙が枯れた所で瞼を開ければ、自然と溜め息も出る。

黒と白の鍵盤が私の視界に迫ってくようでまたすぐ閉じた。


逢いたい、グラム。




ガチャ…。



「!」


耳に届いた音に、私は弾かれた様に玄関へと目をやった。

聞き慣れたドアが開く音に、まさかグラムが、と期待したわけではない。


(鍵、してなかったっけ?)


この街で施錠しないでいるなんて自殺行為だ。今まで一度も忘れたことはない。


(昨日、昨日…どうしたっけ)


昨日は同僚と飲んで、それでも泥酔はしなかった筈だ。しなかったけど、記憶が曖昧。


カツ。



「…っ」


足音。徐々に近付いている。


(銃…は、引き出し)


カツ。


あぁ、もう脚が震えて動かない。

心臓が壊れたように跳ねている。

このままでは、ヒトに許された心拍数を簡単に突破してしまうのではないか。


カツ…。



「―――っ、…あ?」


悲鳴を上げかけて、しかし、現れたのはお隣で暮らしている気の良い地下鉄掃除員だった。

ただし、見慣れた穏やかな笑みは浮かんでいない。

目の下に酷い隈が出来ている上、荒れた唇からは涎が垂れている。


―――ドラッグ。


気の良い、なんてただの世辞にしかならない形相に思わず後退った。


「すみません。ピアノ、うるさかったですか…?」


恐らく意味はないだろう謝罪を口に、彼との距離を計る。

見たところ凶器は持っていない。首を絞め殺されるのだろうか。それともキッチンの包丁で?


恐怖に痺れる体が厭だ。心臓がギリギリと締め付けられて、うまく頭が働かない。


「あ、の…」


混乱しきりでろくな考えも浮かばない私の耳に嗄れた声が飛び込んできた。それに弾かれるように頭を上げる。


「…なに?」


声が震えたが、ほんの少しだけ恐怖が和らぐ。見た目の割に、声は以前と変わらない穏やかな色が滲んでいたからかもしれない。


「ピアノ、き、聴か、せて下さいません、か…?」


怯えている私に気を遣っているのか、一歩だけ私から離れた。私は状況に追いつけないまま、目の前の隣人を見る。


「勝手に入って、こんな、こと、失礼なんですが、…ピアノ、が…好きで」


途切れ途切れ。合間に荒く吐く息は薬の症状だろうか。隈の奥に光る眼は真っ黒に濁っていたが、昔と変わらない繊細な色を湛えているような気さえする。


「本当に、それだけ?」


声はもう、震えなかった。


「一曲だけ、一曲だけ、聴かせて…くだ、さい」


控えめの懇願。疲れきっている隣人に、私は決意して溜め息を吐いた。


「下手ですよ?」


一応、断っておきますが。人様に堂々と聴かせられる自信などない。


「リナさんは、お上手ですよ」


あ、笑った。

以前と変わらない、多少歪になってしまった人の良い笑み。

それが演技かどうかなんて私には判断できない。震える脚を叱咤してピアノの椅子に腰掛けた。


(ええぃ、ままよ)



「リクエストは?」


弾けないのもありますけど。

そう付け足した私に、彼は疲れた表情をそのままに、波の立たない静かな池のように笑う。


ここ、スラムじゃよく見る表情だ。生きる事に疲れきって、もう、どうしようもないような。


そういう人間の大抵は薬に走る。珍しい事じゃないが、薬に浸かるとなにをするか解らないから怖い。


「星に、願いを、あの、弾いて貰えますか…?」


少し躊躇いがちに、あまりにも可愛らしいチョイスが飛び出した。

思わず私は、口許に笑みを浮かべていた。


「O.K.」


リクエストされた曲は、母から教わって覚えた。幼稚でつまらない曲だと乗り気じゃなかったが、この疲れた男に応える事が出来たことには感謝しよう。


ポ―――ン…。


なるべく穏やかに伝わるよう、刺激しないよう鍵盤を叩く。

グラムに続き、人に聴かせるのはこれで二回目だ。

隣人達と仲良く交流する性格でもない為、これで懐かれては困ると思いつつ、断るのも怖い。


(なにより、放っておけないし)


少しだけアレンジして、オリジナルより長く、優しく。


―――途中で鼻を啜る音が聞こえたが、無視した。


こんな拙いピアノに涙してくれてるのか。なんだか私の方が感動してしまいそうになった。



―――ガチャ、パタン。




「…?」


しかし、曲の途中で響いたのは、二度目のドアが開く音。

隣人が出て行ったのだろうか。鍵盤から手を離さないまま首を巡らせると、隣人は先程と同じ場所に立っている。


(…え、なに?)


隣人はドアの方を向いたまま、不思議そうな顔を浮かべていた。


カツカツカツ…。


足早に足音が聞こえたと思えば、隣人の肩がビクリと跳ねた。



「…ちょっと!」


二人目の訪問者は見覚えのある男だった。

確か「テリ」――とかいう、グラムの知り合い。縮れ毛の男は、隣人に躊躇いなく銃を向けている。

完全に怯えきっている隣人を見るや否や、私は二人に走り寄って銃を握る男の腕を掴んだ。


「…どこまでお人好しなんです?」


こちらが牽制したつもりが、睨み返された。


「不法侵入者が偉そうに。あんた誰よ」


私の言葉に、縮れ毛の男は溜め息を吐いて銃を下ろした。


「テリ、と言います。貴方の猫の友人です」

「私のじゃない」

「言葉の文です」


飄々と返してくるテリという男を一睨みして隣人に目をやれば、私の気持ちを汲み取ったように、頭を下げて部屋を出て行ってくれた。


「ピアノ、あ、ありがうございます」


そう言った隣人は申し訳なさそうで、私の方がいたたまれなくなってしまう。



「なにを考えているんですか」


隣人が消えた途端、テリという男は私を睨みつけてきた。

なにが、と首を傾げれば憤慨したように声を荒くする。


「麻薬中毒者を部屋に招き入れて暢気にピアノなんか弾いて!なにもなかったから良かったものの、なにかあってからじゃ遅いんですよ?全く、僕が彼に言われて様子を見に来たから良かったものの…、女性でしょう!?」


一気に巻くし立てた男に、呆然と口を開けるしかない。

今、私は説教をされているのだろうか?


「これからはもっと警戒すべきです!いくら隣人でも、中毒者を部屋に招き入れるなんて!」


ひどい怒りっぷりだ。オマエは私の父親か?


「いや、彼は勝手に入ってきた…」


間違いを訂正すれば、今度は目をひん剥いた。


「不法侵入者に巧くもないピアノなんか聴かせてなにになるんです!」


下手くそと言いたいのか。


「いや、でもまともに見えたし…」


余りの迫力に口をすぼめれば。


「中毒者はいくらまともに見えても豹変するのが常識でしょう!どこで貴方を殺そうとするか!少しは危機感を持ってください!貴方のような無防備な女性達が、このエリアでどれほど狙われやすいか解らないわけじゃないでしょう!?」


百倍で返ってきた。

一頻り私を叱りつけたテリという男に、今度はこちらが冷ややかな視線を送る。勝手に人の部屋に入ってきた上に、気の良い隣人を薬中のイカれ野郎だと罵る縮り毛に、私は腹立を立てていた。


「薬中でもないくせに人を殺すような犯罪者がなにを偉そうに」


グラムの友人、ハジの部下と言うことはやはりこの男も犯罪者の一人なのだろう。私の言葉にテリは言い返せず、閉口した。


「不法侵入については謝ります。ですがそれは、貴方の部屋に男が入っていくのが見えたので…つい。大体、勝手に入ってきたなんて、鍵をしてなかったんですか」


再び口喧しくなったテリを無視して、ベッドへと寝転がる。疲れた。


「…もう、うるさい、アンタ。グラム並みにやかましい」


ぐったりとなった身体をベッドに横たえ、顔を右腕で隠しながら私は勝手に飛び出す溜め息を抑えられなかった。思ったより緊張していたのか、吐いた息と共に全身から力が抜けた。


「それで、なにしにきたわけ?説教か?」


こっちは居なくなった猫を忘れるのに必死こいてるってのに、何故、今更こんな男がやってくるのか。

用があるならさっさと済ませて帰ってくれ。


「あぁそれとも、変態に言われて見に来たわけ?」


グラムが私を気に止めるわけがない。それでも期待している自分に嫌気がさす。


「猫、です」


飛び出た言葉に、私はテリを睨み付けた。


「ジョーク?」


もしそうならぶん殴ってやる。

不穏な私を見て取ったのか、テリは否定するように肩を竦めた。


「生憎、貴女とは冗談を言い合えるほど親しい仲ではありません」

「…ご丁寧にどうも」


いちいち長ったらしい。

そんなテリに可笑しさを覚えながら、顔を隠していた腕でさり気なく口元を抑えた。


「嬉しいんですか?」


すかさず指摘してきた男に、溜まらず吹き出す。嬉しさが相まって。


「言わないでよ」


バカ正直に喜んでる自分に、自分が一番呆れてるんだから。


「…グラムの体は?」

「もう仕事に復帰出来るほどになりましたよ」

「そう」


仕事に復帰したと言うことは体の心配はもう必要ないらしい。けれど仕事に戻ったということは。


「…あいつ、元気?」


人を殺すということだ。

それが厭で逃げ出したあいつを連れ戻させたのは私。


「心配しなくても、彼は図太いです」

「…なら、いい」


そうか。問題がないわけではないだろうけど、それなりにやってるなら、いい。


「心配していましたよ」

「なにを?」

「貴女を、です。本人は認めたがらないですが」

「心配って…」


なにか心配される要素があっただろうか。


「連続殺人やら、ボスやら、です」


何故か疲れた口調に切り替わったテリに疑問を投げつける。


「ボス?」

「ハジ警部ですよ」

「あぁ、あの変態…」

「その変態です」


目の前の男もあの変態にはだいぶ手を焼いているらしい。苦労を思うと、なんだか私まで一緒に疲れてしまった。


「心配いらない。変態からは連絡もないし、これからは仕事に追われるらしいから」


先程観たニュースを思い出しながら横になっていたベッドから起きあがる。

見知らぬ男を前にベッドで横になるなんて、グラムがこの場にいれば警戒心が足りないと怒鳴るだろうか。


「…バカ猫」


ガキっぽいせに、妙に面倒見が良かったことを思い出して、ぽとり、笑みが落ちた。


「国防長官秘書のニュース、観ました?」


妙に声を押さえたテリに顔を向ける。

そのニュースなら。


「さっき観た」


それがどうしたと言えば、更に小さくなった声色で。


「グラムですよ、あれ」


―――あぁそう。さも興味がなさそうに呟けば、テリは浅く溜め息を吐く。


(なにを期待してたんだか)


馬鹿だ。この男も、私も。


「…それじゃ、失礼します」

「サヨナラ」


軽く会釈をしたテリを見送りもせず、早々と別れを口にする。


視界を腕で伏せた耳に、入ってきた時と同じ足音が遠のいた。


「――リナさん」


遠くから届く。


まだなにかあるわけ?


「人が好いのも魅力的ですが、ご自愛を」


ちらりと視線を寄越した私に、テリは緩く微笑んでいる。


「…ご丁寧にどうも」


腕の隙間から出した声は、掠れていた。


「グラムの言葉ですよ」


もっとも、彼はこんな丁寧な言い方ではありませんでしたが。

そう付け加えたテリに、やはり顔を覆ったまま。


「…なら、私にも言伝させて」


瞼を下ろしているから、視界が滲んでいるかなんて解らない。


でもきっと、歪んでる。


「下手に構わないで。ウザイ」


こっちは忘れたいのに。あんたの記憶は在るだけで私の体を毒すから。

自分からは来やしないくせに、他人を差し向けるなんて半端な真似、勘弁してほしい。


「…そのまま、お伝えします」


テリはやはり丁寧に、私の伝言を受け取った。


「わざわざ出向いて貰ったのに、ごめん」


この拙い謝罪にも、きっと縮り毛の男は微笑んだのだろう。

男は足音を静かに鳴らして訪ねた時とは相対的に静かに出て行った。


ドアが閉まる音を耳に、唇が震える。


「…くたばれ」


半端な優しさはなにより痛いってことが解らないのだろうか。

そこまで馬鹿でガキだったっていうの、グラム。


あんたは、残酷だ。





「…だそうだよ」


仕事から戻ってシャワーを浴びているグラムに照りがメッセージを伝えると、浴室から喉を鳴らす音が響いた。


「生意気な女」


君に負けず劣らずね、とは言わないでおく。

仕事を終えた彼がこんなに楽しそうなのは久しぶりだ。原因は勿論、あの口の悪い女性だろうが。


「彼女、薬中の隣人を部屋に入れてピアノを聴かせてたよ」


彼が望んでいただろう報告をテリがすれば、けたたましかったシャワー音が止み、バスローブを羽織ったグラムが出てくる。濡れ手て色味の増した金髪が重みを増している。


「…なにやってんだ、あのバカ」


先程とは打って変わって、苛立ちを吐き出す表情にテリは皮肉を吐く。


「さすが血だらけの君を拾っただけはあるね」


ハジとグラムの間で使いっ走りさせられてる恨みくらい晴らさせて欲しい。


「ウルセーヨ」


手の甲で綺麗な金髪の滴を拭いながらグラムは中央に置かれたベッドへと向かう。

仕事に復帰すると共に彼はオフィス内の自室に戻ることを許されたのだ。


「彼は勝手に入ってきてしまったみたいだけど」

「鍵は?」

「し忘れてたみたいだね」


そう言うと、ますます眉間の皺が深くなる。面白いなぁ。


「―――殺されてぇのか、あのバカは」


そうかもしれない。


独白に近いグラムのそれに、テリはらしくもなく感慨深げに考えた。

寂しそうな彼女の背中が、少し、痛かったのだ。


「…会いに行かないの?」


そうして思わず口にした言葉にグラムが目を丸くした。失言だ。


「…リナに懐柔でもされたか」


ベッドに腰掛け、以前から吸い慣れた煙草とは別の銘柄のそれに手を伸ばす。


解ってないなぁ、君は。


「僕は君の味方だから」


だから、つまり。


「…そりゃどうも」


煙草に火が点くと、グラムは強ばっていた身体から力を抜いた。

彼の一仕事は、例え秒で終わるものであっても神経を消耗し過ぎるのだ。


「…明日も仕事か」


そのウンザリとした様子にテリは心底から同情する。

仕事復帰から数日、女にうつつを抜かす暇など与えないとでも言うように与えられた仕事の山山山。言わずもがな、ボスの企みだ。


女にうつつを抜かしてんのはてめぇだろボケ。

吐き捨てられた独白はグラムの心中でのみ存在を許されただろう。


―――別に、リナに執着しているつもりはなかった。


それは確かに事実であり嘘でもある。

認めたいとは、思わなかった。


「明日は」


慣れない煙草のにおいに、テリが鼻を鳴らす。

神妙な顔付き。大体の予想はついていた。


「動くかもしれない」


連続殺人犯の行方は、未だ掴めていない。


「周期があるんだ」

「事件を起こす?」


その言葉にテリが頷く。

話題の殺人事件が勃発する周期。それは偶然性が高いものか、或いは狙っているのかは解らないが。


「隣人の線は?」


煙草を吹かす。有り難くもないつまらない勘ばかり当たるのは承知していた。


「確信はあるけど、確実ではない。少なくとも実際に見た彼は薬中でありながら正常を保っていたからね。まぁ、演じているのかどうか解らないけど。波が収まっている時だったのかもしれないし。それに、薬による突発的な事件なら、ここまで捜査が難航するのはおかしい」


―――けれど、もし彼なら。

リナは完全に、とまではいかなくともあの隣人に好意を持ってしまった。少なくとも今日の件で、彼は彼女の浅い信頼を確固たるものにしたわけだ。


「なんというか、きな臭いよね」

「…まあな」


あのハジが関わっていながら長引く殺人事件。

捜査上で見落としているのはなにか?

全くもって証拠や手掛かりが見つからない訳ではないのに、この巨大な都市での微細な事件に過ぎないのに暗礁に乗り上げている。


犯人像は愉快犯。知能的なのかはたまた偶然に助けられているだけか。


「彼女は武器を?」


なにか危惧するようにテリが呟く。


「銃を置いてきた。いざとなりゃ使うだろ」

「…撃たせるつもりなの?彼女に」


テリの非難じみた目に向かって笑いながら、グラムは煙草を潰した。


立ち登る灰煙は糸も容易く空気に融けていく。

そうして濃くなっていく目に見えぬ毒素を見ながら、まるでリナだ、と馬鹿げたことを考えている。


「させねぇよ」


まぁあの女が、正当防衛の殺人を気に病むとは思わないが。


「…どうするつもり?」


訝しげにテリが見る。そう急かすな。


「さぁな…」


浮かぶ思いも考えも塵芥そのままに消えていく。


ただ、あの女の死体だけは見たくないと、それだけはハッキリしていた。

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