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今日、世界は終わるのだ  作者: 森モト
12/19

激情に彼方

はぁっはぁっはぁっ。


乱暴にタクシーから降りて、アパートメントへと駆け込んだ。

走って走って走って、雨を気にする余裕もない。


寒空の下、コートをハジ邸へと忘れざるをえなかったため、黒のスリットドレスで雨に打たれていた。流石に寒さを覚え、アパートメントの階段をかじかみながら上がる。


はぁっはぁっはぁ。


泥の跳ねたヒールが忌々しげに階段や踊場、廊下を汚した。



「…っ」


乱れた髪から滴る雫が、無情にも生々しく開いた肩の傷を叩いている。

静かな夜に音が響くのも構わず、タクシーのドアと同様、乱暴に部屋の扉をこじ開けた。


グラム、グラム、グラム、グラム、グラム、グラム!


寝室に走る。キッチンのテーブルにピザの食べかけがあったのを横目で確認して。


…バンッ。




「…安眠妨害すんじゃねーよ」


寝室に足を踏み入れた瞬間、飛んできた悪態は私の耳には届かない。


「…、」


名前を呼ぶことも出来ずに、ただソファに腰掛ける傷だらけの男を漠然と見ていた。


「…なんだ、その格好」


金色の眉が寄る。眉を横断している切り傷が痛そう。


沈黙が訪れ、互いに声を出せない雰囲気になってしまった。

その間、私は平静を取り戻し、グラムの姿に眉を顰める。


「…あんた、包帯は?」


ソファに腰掛けるグラムの体には包帯もガーゼもなく、見るも無惨な傷が生々しく外気に曝されていた。よく見れば髪も濡れているのか、外からの明かりにつやつやと鋭く光っていた。


「風呂借りた。包帯巻いてくれ」


その聞き慣れた生意気な物言いに、泣きたくなる。


(グラム…、グラムだ…)


強張っていた表情が自然と緩む。荒かった息が落ち着いていく。とくとくと激しかった鼓動も、次第に落ち着いてきた。



「…バカだね」


込み上げた嬉しさを噛み締めながら。

ゆっくりとグラムに近づき、まだ乾いていない金髪を乱暴に引っ張った。


「っテメ、優しくしろ」


(口煩いヤツ…)


濡れた髪を掌に収めれば、ポタリ、金の束先から透明な雫が滴る。


「乾かしなよ。怪我が治っても、風邪引いたらマヌケだよ」

「その言葉、一部テメーに返す」


そう言ってグラムはぐっしょりと濡れた私のドレスを鷲掴んだ。

飽和状態のシルクは私の身体に張り付いて、傷だらけの拳を伝い水が溢れている。そうして床に水が溜まるのを、俯きながら眺めていた。


薄闇のグレーの部屋。雨音。


目の前で気持ち良さそうに撫でられている男が人殺しとは、到底信じられそうもなかった。


混乱が再び舞い戻る。その渦は次第に大きくなり私の躰を、心を、飲み込もうとする。


―――だからだろうか。俯いていたせいで、疼く肩がグラムに曝されていた事に気付かなかった。


グラムがそこに、目を走らせた事にさえ。


「…シャワー、浴びてくる」


やっと出た言葉にすら息を詰まらせそうになりながら、私はグラムから離れようと爪先の方向を変えた。

混沌とは別にある、妙な感情すら、巨大な渦を巻く。

もう、考える気力もない。



「…誰と会ってた」


ふと、低く唸る様な声が私の背中を打った。


…ねぇ、獣みたい、その声。


「あんたには関係ない」



少なくとも「グラム」、あんたには。


金色が立ち上がる。怪我をしているとは思えない程、素早く、身軽に。


「リナ」


―――静かに、それでも性急に歩み寄ってくるグラムを眺めたまま、私は動けずにいた。

腕を捕まれる。骨が軋むほど、強く。


「ハジと会ってたのか?」


やめてよ、離して。


吐き出す台詞の代わりに、金色の獣を睨みつけた。

鋭かった灰緑の瞳が酷く痛々しげに歪む。



「はっ…俺を売ったのかよ。抱かれてきたのか?ハジに」


私を嘲る声。

手負いの獣は、私を喰い殺そうとする。


「…ちが、う」

「なにが違うんだよ。正直に吐け、この淫ら…」


気付けばその熟れた頬を殴りつけていた。勢いで横を向いたグラムの口元から、どろりと出血。

それを見て、一瞬で沸いた頭がりやりと冷める。


呆然と見つめる赤が滲む唇から、ふと嘲笑が漏れた。捕まれた腕が千切れそうだと、鳴く。


「…そんなに男に飢えてんなら、俺が相手してやるよ」


冷たい眼。

あんた、そんな顔も出来たんだね。


でもだめだよ、グラム。あんたの眼は、私を煽るだけだ。


自分の変態っぷりに嘲笑が湧いて出る。


「…あんた、そんな体で女を満足させられると思ってるわけ?」


冷えた唇は、同じく低温の言葉しか吐けない。

本当は、今すぐ熱い涙を流してしまいたいのに。


あぁ、馬鹿なこと、してる。



「その体に欲情してた女一人満足させるくらい、訳ねぇだろうが」


棘を含む言葉。

乾いた笑いが、肺から浮上する。


「男の本性も見抜けねぇ女なんざ、俺が相手にする必要もねぇくらいだ。…有り難く思えよ」


死んじゃいなよ、グラム。


「…っ」


傷の痛みも何も考えず、私はその傷に埋め尽くされた痩身を押し倒していた。

合わせた唇、その傷の凹凸から、血液を絞り出すように吸い付く。


閉じた瞼の奥が酷く、熱い。


(泣いてるの、リナ)


肩に置かれたグラムの指。ハジに痛めつけられた噛み痕に、不揃いの尖った爪が喰い込む。


「…っ、」


痛みに反応して、唇から離れた私の首に傷だらけの指が素早く絡み付いた。

傷に爪を立てられたまま引き寄せられて、キス、キス、キス。



一瞬の冷たさを感じて、すぐに溶けてゆく。


右肩の痛みに、体を支えていた右腕から力が抜けた。

その瞬間、右肩が獣の目前に落ちた。


「つ、ぁ…っ」


熱い息がぶつかったかと思えば、ハジのキスマークが残る肩の傷をぐちゃぐちゃに噛み潰すように歯を立てられた。

歯という器官は、肉を裂くのになんと適しているのか。


痛みに目が眩む中、喰われる恐怖に息を止めたくなる。

痛みに震える私を、今度は癒すように、グラムは舐めた。


―――ずるり。血をすすられる感触に鳥肌が立つ。


心臓に、ぷすりぷすりと、一本ずつ針を突き刺すような痛みと衝撃に、目蓋を閉じて、気絶しまいと堪えた。


私が跨る男は、手負いの獣だ。

それでも牙を隠そうとしない、猛獣。



―――淫乱。


(…そんな良いものでもないか)


真下で噛みつくのは、私の大切な大切な、狡猾で気高い、不遜のバカ猫。


白い剥き出しの肌を裂く無数の赤線。皮膚の歪み。


底冷えする、緑。見下ろしたグラムの唇。

私の血か本人の血か解らない赤が混ざり合い、無様に、けれど淫靡にこびり付いている。


それすら、私の胸を掻き立てるんだから、もうどうしようもない。


グラムに跨ったまま、濡れて張り付く邪魔なドレスを剥ぎ棄てる。曝された肌を襲う冷気に、けれど高熱に熟れる傷口のせいか寒さはさして感じなかった。

眼下の生意気な瞳を見つめ返しながら、熱く溶け始めた体とは裏腹に、妙に冷めていく頭の中。


グラムの胸、一際深く抉られた傷に私は手を添えた。グラムの眉が、ヒクリ、ひきつる。



「…あんたを、殺してやりたい」


虚ろに動いた唇と共に、その傷ひとつに体重を傾けた。


「ぐ、ぁっ」


悲鳴が上がる。

全身震わせるような欲が体中を巡って、早く吐き出したいと出口を探してる。


「その声、最高…」


無意識に舌舐めずりをしていた。

舌先で触れた唇が、どちらのものか解らない唾液で濡れていたことに気付き、また、熱が上がる。


「てめっ、…つぅ」


傷を圧す手に更に体重を掛ければ、冷えた掌に熱が籠もる傷の脈動。


―――生きてる。




「…グラム、鳴いてよ」


口を閉じないで。

鳴いてみせて。

私の前で。


私に、鳴かされて。




グラムの顔を覗き込む。

薄暗い、灰と黒に映える濡れた緑は揺らがない。


生意気、な、瞳。


薄闇、無機質な空間に激しく地面を叩く音が響く。


あぁ、今日もだ。激しい雨の音が耳に煩わしく纏わりつくのに、何故か静寂を感じさせる。

酷く、静かだ。


(ねぇ、グラム)


―――鳴いてよ。



「っぅ…」


傷に毒を塗り込む様に、皮膚と皮膚を押し付けた。

薄い瘡蓋が剥げたのか、傷に宛てた掌に生暖かい液体の感触が広がる。


「…て、め、殺すぞ」


呻きながらなに言うのさ、バカ。


「…いいよ」


早く、殺しなよ。私が本格的に馬鹿なことをしでかす前に。


ねぇ、グラム。私、どうなっちゃうんだろう。


(…ねぇ、グラム……)



「抱いてよ、グラム」


―――馬鹿。馬鹿な、リナ。

こんな怪我人に抱かれてどうするのさ。

益々変態の極みだよ。きっと虚しさしか、残らないのに。


「…行っちゃう前に、抱いてよ」


私の前から消えてしまうことなんて、拾った時から解ってた。

それなのに馬鹿みたいに馴れ合うから、罰が当たったんだ。


「ハ…、」


吐き出される荒い息。

痛みをやり過ごしたのか、私を嘲ったのか。


灰緑が金に滲んでいる。


あんたは綺麗だね、グラム。


(―――だからだ…)


手放したくないと思うのは。

手懐けた凶暴で美しい獣を手放したくないだけ。


ただ、それだけだ。


「あんたなんか、死んでいれば良かったのに」


部屋の前で男が倒れていた。

私の部屋じゃなければ良かった。

男が死んでいれば良かった。


その金の髪も灰緑も、完全に生気を失って倒れていればよかった。



―――そうすれば。



「…生かしたのは、お前だろ」


掠れた声。突きつけられる現実。

悔いても悔いても、きっと、報われない。


グラムの傷だらけの手が、濡れた下着に掛けられた。


「…そうだね」


拾わなきゃ良かった、あんたなんか。


「…っ」


乱暴にブラを剥ぎ取られ、弾けたホックが背中の傷にめり込んで瘡蓋が剥がれたのが解る。疼くような痛み。

反射的に眉を寄せて、耐えた。


「…その顔、すげぇそそる」


猫が、口を歪めて嗤う。

歪な唇の隙間から覗く、赤い色が、私を惑わそうとちらつく。


「鳴いてよ、グラム」


グラムの胸に舌を這わせる。正確には、開いてしまった傷に。


「、ぐぁっ…」


グラムの腹が痛みに波打ち、金色の眉が悩ましげに顰められる。


そそるのはあんたの方だよ、グラム。


痛めつけて痛めつけて、一生、ここに閉じこめてやろうか。

消えるなんて許さない、グラム。


「鳴くの、は…」


荒い息。与えられ続ける痛みに耐えながら、私の首に回したままの腕に力が込められる。


「…ん、」


ほんの一瞬の隙。口寂しい唇が、グラムのそれに重なった。

グラムの唇の凹凸が、私の唇の表面を擦りあげてゆく。


煙草の味じゃない。ちゃんと、グラムの味がする。

そんな馬鹿みたいなことに悦びながら、手を動かした。

グラムの体に刻まれた、傷という傷は把握しているから。


脇腹の焼け爛れた皮膚の引きつりを撫でて、グラムの下着に手を伸ばす。


―――熱い。


グラムが私の下で身じろいだ。

傷は至る所にある。勿論、例外ではない下肢を弄りながら、私は口の奥に消えるグラムの悲鳴を飲み込んだ。


雨の音もなにも、聞こえない。



「…ハジの相手は、楽しかったかよ」


指が、脚が髪が息が。

自分のすべてで私を愛撫しながら、つまらない事を言う。


折角、感じていたのに。



「…さぁね」


ひたりと吸い付いてくるグラムの唇は熱い。


感じてるの?グラム。


「良かったか?」


知らないよ。あんな能面みたいな男とのセックスなんて、想像もつかない。したくない。


「…黙りなよ、黙って、感じろ。馬鹿猫」


だから、お喋りはよして、グラム。


口もきけないくらい夢中になってみせて。

本能に従うだけでいいから、溺れてみせて。


グラムの指が私の傷をなぞり、私の指がグラムの傷をなぞる。


指でいたぶったグラムの傷を、私は癒すように舐め、指でいたぶった私の傷を、グラムは癒すように舐める。


―――馬鹿みたいだ。


いたぶって慰めあって、それなら傷付け合うなんて真似、しなきゃいいのに。


「ぐっ、ぁ…あ」


艶やかな悲鳴が響く。


私とグラムじゃ怪我の数も重さも違うから、必然的に多く鳴くのはグラムのほう。

悲痛な声は私の体を駆け巡り、そして無駄に高い熱を撒き散らしていくのだ。


「ぅ、あ…ッ」


笑みが漏れる。

私の下で喘ぐ獣は美しい。


「…グラム、もっと鳴いて」


グラム自身を受け止めながら、癒すように宥めるように、或いは煽るように無数の傷を舐めた。


血だらけのセックス。

下らない即席の嗜好。


それなのに。


「最高…」


もう、毛先を滴るのが水なのか汗なのか、解らない。


視界の端に映る窓は淡く白く発光しているようで、暗い灰色の空と街は、霞むほどの雨に覆われている。


―――そうだ。

所詮、私は廃れた街の腐った蟲の一匹に過ぎない。


(でも、グラム)


あんたは、違うから。



「…おい」


グラムが、ふとまともな表情を浮かべた。

熱に浮かされた頭で首を傾げて、灰緑に吸い込まれて。


「…な、に」


息が途切れる。

熱い。



「なに、泣いてやがる」


―――あんたなんか大嫌いだ、グラム。


「ないてない…」


震える。

弱々しい女を演じてるつもりなの、リナ。


「…泣いてなくねぇよ」

「やめて、よ…」


優しくなんて触れられたくない。

私はあんたを殺そうとしてる。


優しくなんかしないで。もっと痛めつけてよ。


滅茶苦茶に、もうこの瞬間だけは、全て忘れられるように。


一緒に、死のうよ。




「リナ…」


呻きながら、グラムがゆっくりと上体を起こす。

それすら繋がったままの体には痛くて、私は息も絶え絶え、必死に喘いだ。


グラムの手。傷だらけの掌。それが私の頬を包んで、仰向かせる。

間近で見る灰緑。その眼が嫌になる程、穏やかで。


(―――あぁ、本当だ)


私、泣いてる。

間近の緑は歪み、頬に置かれた手の凹凸に生暖かい川の流れが向きを変えた。


「グラム、グラム」

「なんだよ…」


グラムの声がする。

すぐそこで、息をしてる。


殺してやりたい。


―――馬鹿だね、リナ。




「…生きて」


死なないで。


「ここを出ていっても、絶対、死なないで」


私の唇を、笑ったグラムの吐息が撫でた。


―――生きてる。



「死なないで」


今の私は、多分、どうしようもないくらい醜い顔をしているだろう。


涙が、グラムの傷を伝う。

滲みればいいのに。

私が与える痛みに、もっと傷付いてみせて。


「…もし死んだら、殺してやるから」


目の前、独特の笑いが漏れて、私の欠けた隅々にまで染み渡ってゆく。


「おっかねぇな」


ああ、その顔。私、その顔が好きだ。

死にかけてる顔より、痛みに歪んでいる顔より、ずっと。


あんたが愛しい、グラム。




「う、ぁ…、あぁ…」


抱かれながらひたすら泣き続けた。


悲しみか苦しみか愛しさか快楽か、すべてがない混ぜになって、泣いて鳴いて啼いて、喘ぎ声なのか嗚咽なのか解らなくなっていた。


グラムの腕が私を包む。その傷付いた体では辛いだろう体勢で、それでも私がキスをせがむから。


「…リナ、」


痛みに翻弄されながら、グラムは私を抱き締め続けた。

その腕の中は、熱くて熱くて熱くて、目眩を起こしながら喘ぎ続ける。


「…グラム、キスしたい」


私の唇が勝手にそんなことを言う。

キスなんてさっきから、息が続く限り、しているっていうのに。


「…したいのかよ」


快楽と痛みに閉じていた瞼を、グラムがゆっくりと開ける。


灰緑の濡れた眼。それだけで、もう、イケそう。


「したい…」


―――泣きたい。ただ静かに、涙を。


雨の音は止まない。

それなのに、終わりはくる。


鼓膜。


そこへ直接に響くグラムの呻き声と喘ぎ声が、私を落とそうとしてる。


遠のく意識が未だに繋ぎ止められているのは、グラムが与える胸の痛みでしかない。雨と同様、終わりなどないように私を苛なむその苦しみは、それでも終わりがくるのだ。


これが終わったら、あんたは居なくなる。



「っ、リナ…」


最期に、グラムは私を強く抱き締めた。

私はただ、グラムの肩に顔を預けて体を震わせるしかできない。


―――ぎりぎりで繋ぎ止められていた意識の糸は、余りにも脆かった。


このまま、ふたりで死ねたら良かったのに。



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