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今日、世界は終わるのだ  作者: 森モト
11/19

罠にかかったディナー



「テリ」


連日連夜の捜索。寝不足で意識が朦朧とする。反して目の前の上司は、酷くご機嫌だった。


「ホテルの予約を頼む」

「ホテル?仕事で?」

「不粋だね。女性だよ。宿泊はいいからレストランに予約を」


上司の言葉にテリは苦笑を浮かべた。長年付き合ってきた上司の、性癖及び女性遍歴を知っている立場としてはその女性に同情せざるをえない。


「久々ですね」

「なにがだね」

「女性ですよ。最近は仕事一筋だったでしょう」


それこそ病気かと疑うほど、女に構っていなかったのに。


「言うなれば仕事の一環さ」

「…それは、また」

「猫を釣る餌にしては、楽しめそうでね」


職場から出ていく上司を見送りつつ、テリはニューヨークでも五本の指に入る格式高いホテルレストランに予約を入れた。


「テリ」


そこへ赤茶の坊主頭が顔を出す。これでも女性だ。


「…ダリ」


テリの双子の妹であり、この古い煉瓦オフィスの管理を任されている。

組織から逃げた男とは、悪友だった。


「準備、済んだよ」


裏切り者を連れ戻すために。

自分も、彼とは親友ではあった筈なのだが。


「お疲れ様。あとはボスの指示を待つだけだよ」


笑顔と共にそう労えば、妹は神妙な顔をして黙りこくってしまった。彼女がなにを考えているのか承知していて、それでもそれを聞くこともせず、仕事を進める。


ガラス張りの私室からは、数十名の有能な人間が働いている様が一望できた。

様々なスペシャリスト達が集結するこの組織内でも頂点を極めていた男の失踪は、ごく一部の人間にしか知らされていない。


「…奴は、戻りたがらないと思うよ」


自分のよく磨かれた爪先を見つめながら、ダリが絞り出すように言った。


(そうだろうね)


あの無駄にプライドの高い男が自ら逃げ出したのだ。

一度逃げ出しておいて再び大人しく戻ってくるなんて無駄なこと、する筈がない。


「敵うと思う?」


逃げた男は手強い。

なにせこの組織を創設したオーナーの相方だ。

彼がいなければ、オーナーはこの組織を作ることも思いつかなかっただろう。


「…ボスが出れば、或いは。それに彼は、重度の怪我を負っているからね」


テリの冷静な言葉に、ダリはとうとう顔を上げた。

読み取れるのは、焦燥と困惑。



「それでも、この組織で一番強い男だよ?」


解っているよ。だからこそ、だからこそ、この組織には必要なのだ。勘も、知識も、強さも。


「…経験もね」


まだ若くあるその男に圧倒されることが多々あった。

銃火器や薬物の知識、取り扱い、コンピュータへのハッキング、潜入…。ハジオーナー自ら教え込まれたそれらの技術は、絶妙のバランスを以て身につけられていて、なにより彼の飄々とした無邪気さが、彼を彼なしえていた。


「そうだよ。ここに居る誰よりも経験を積んでる」


デリが爪でデスクを弾く。ご機嫌斜めを示す、彼女の合図。


「だからこそ、逃げ出した」


血生臭い仕事を繰り返し繰り返し任されてきた男は、ついにはそれを放棄したのだ。


「あいつは多くを殺してきた。自分とは凡そ接点のない、無関係の人間を」


組織に入る多額の資金と報酬とを引き替えに。


―――そうして、抑え込まれていたもの。



「ダリ」


感情を抑えた声で名を呼べば、憤慨する妹は口を閉じた。

解っているよ。その気持ちはきっと、同じだから。


(でも…、)



「これは仕事だから」


仕方がないことなのだ。

悔しげに唇を噛んだダリが俯く。

可愛い妹であり信頼する仲間でもある彼女に、テリは微笑を浮かべた。


「話は終わり。仕事に戻って、ダリ」


そうして無言で出ていった妹を横目に。


「ダリは留守番だな」


「標的」に、彼女は深く関わりすぎている。私情を抑え切れず支障を来してしまうなら、酷ではあるが彼女をこの任から外すべきだろう。冷静に対処できないなら、下手に手出しさせるわけにもいかない。


なにせ相手は、生半可な覚悟でやりあえるほど容易い男ではないのだから。


(それに、連れ戻した時、誰かひとりでも、罪悪感なしに彼に接せられる人間がいたなら、―――)




「恨まれるかな…」


テリは何度目か解らない溜め息を、深く深く吐き出した。








ハジという男は、相当怪しい。


これはただの女の勘でしかないが、この意見にボスも賛成するだろう。


「ボス」

「なんだ、リナ。金の貸し借りなら受けないぞ」


なんの話よ。


「…そんな話、一体誰が掛け合ったんです?」

「なんだ違うのか。どうした」


ハジとのディナーに不安を抱え、私は彼への対策を練ることにした――とは言っても、平凡な女がそう巧い手を思いつくわけもなく。藁にも縋る思いで、ツルッパゲの元軍人に縋ってみることにしたのだ。


「ハジ警部のことなんですが」

「なんだ。ベッドにでも誘われたか」


あからさまな物言いに、私は不快を露にする。セクハラだ。


「食事には誘われました」


食事には、を強調する刺々しい声色を一蹴するように、ボスはさも愉快だと笑い出した。豪快な笑い声は、プライベートオフィスの外へも漏れ聞こえるらしく、仕事をしていた数人がこちらを振り向いた。


「男が誘うディナーのフルコースには、ベッドインも組み込まれてるもんだ」


(…確かに)


全ての男がそうだとは言わないが、女性に関しては下半身で物を考えるのが「男」というものだ。

眉間の皺が無意識に深くなる。


「ディナーに付いていってレイプされても、文句は言えないぞ」


あのハジという男相手なら、尚更。権力で揉み消すくらいわけもなく、裁判にしたって、陪審員は彼の味方だろう。

大体、食事の誘いに乗った時点でこちらにも少なからずその気があったと思われる。そうなっては、地獄に突き落とされるのは私のほうだ。


考えて、恐ろしくなった。

世界中に味方がいるような相手と対決しようなんて無謀すぎる。



「…策は?」


仕事の上司に相談するような内容でもないが、グラムに頼れない以上、彼に助けを請うしかない。

ボスは少し考える素振りをして目を逸らすと、やがてデスクの鍵付きの引き出しを漁り始めた。


整頓されていないのか、がさがさ漁りながら発せられた言葉は、至極単純明快。


「逃げろ」

「は?」


思わず間抜けな声が出る。


「逃げろ。とにかく逃げろ」


あまりにも原始的且つ抽象的なアドバイスだ。納得いかない。


「捕まるなよ」


こちらの表情を窺うようにボスが睨んできた。

そんなことを言われても。



「捕まる前に逃げろ。怪しまれてもいい。とにかく逃げろ」


その真剣な声に、思わずたじろいた。

もしかしたら、私が考えているよりずっととんでもないものを相手にしているのではなかろうか。



「追われたら…?」


逃げたら、追われる。当然の摂理だ。


「奴は追わない」


しかしボスは自信ありげにそう切り返してきた。


「奴はスマートじゃないやり方は好まない。逃げた女を追ったこともない。…多分」


多分?

ボスの言葉に、慰められるどころか更に不安が増した。

これではなんの為にボスに縋ったのか解らない。


「ほら」


そうして人目を憚かって差し出されたのは、一丁の拳銃。


「四五経口だ。特別に貸してやるから、護身用に持ってろ」


私は表情を固くして、拳銃を受け取れないまま立ち尽くしてしまった。

たかが一人の男に対して、ここまで警戒する必要があるのか。


「ハジにはこれだけする必要がある」


考えを見透かされた。

ボスは相変わらず、真面目な顔で私を見ている。



「撃てるか?」

「…無理です」


情けなく答えた私に、ボスは親切にも銃の撃ち方を教えてくれた。

こんなものの使い方なんて、一生知りたくなかったけれど。


「当てるなんて考えるな。あくまで脅し道具だ」


最後にそう念を押された。

面倒見の良い男だと思ってはいたが、ここまでしてくれるとは思ってもみなかった。

親切過ぎて逆に疑いたくなる私は嫌な大人だ。


「…ありがとうございます」


しかし、縋る為の藁は手に入れた。

ボスが居なければ、きっと今より途方に暮れていただろう。


「大事な部下の為だ。健闘を祈るぞ」


茶化しながらも感慨深い表情を浮かべた上司を見やり、私はもう一度礼を口にする。

口煩い禿げた中年親父に、初めて感謝した日だった。



ボスのオフィスを後にして、私はゆっくり時間を掛けて外に出た。


鞄の中にある異物は九ミリの拳銃。合衆国に渡ってからは、銃を物珍しく見ることもなかったが、まさかそれを使うことになるとは思ってもみなかった。


(弾丸なしの護身用の銃は、…引き出しに入れっぱなしだし)


平凡な一般市民が、元軍人のニューヨーク市警に拳銃一丁で立ち向かうなんて笑える。


(安いヒーロー映画じゃあるまいし)


祈る気持ちで、バッグの中の硬質に触れた。

一体、私はどうなってしまうのだろう。



「―――やぁ、リナ」


電灯の柱に凭れていると、渦中の人物が現れた。

輝かんばかりのアルカイックスマイルが憎たらしい。


これはもう、覚悟を決めるしかない。








「―――弾なしかよ」


舌打ちを打ち掛けて、舌の痛みにやりそこなった。

動けるようになった体を引きずって俺はリナの部屋を物色していた。

別に疚しい気持ちからそれに及んだわけではなく、なにかしらの武器を手に入れるために。


こんなヤバい地区に住んでいて、まさか銃を所持してないわけがないと踏んでの所行だったが、やっと見つけた拳銃は空砲。


「弾なしが役に立つか、バカ女」


不在の家主に悪態を吐くと、そのまま電話を手に取った。

馴れた番号は馴染みのピザ屋のもの。例え盗聴されていたとしても、このしがないピザ屋の番号なら問題ない。この番号のピザ屋は表向きの隠れ蓑であり、裏は武器売買の巣窟だ。法律という言葉を知らぬゴロツキ共の商売は、由緒正しい武器商人よりバカ正直で使いやすい。


表向きのピザメニューで武器が注文出来るって仕組みは、洒落ているし便利だ。現役の時は、面白がってよく利用していた。



『―――はい、こちらメタリカピザハウス』


大抵の客は、この店名を聞いた時点で電話を切る。


「注文頼む。スペシャルチーズピザにコーラMにポテトL」

『ご贔屓さんですね』

「あぁ、久しぶり」

『いや、本当に』


メタリカピザハウスは、電話では絶対に客の名前を出さない。奴らの客層は、通信系で名前が流れるとヤバい連中ばかりだからだ。


「ドリンクは二つ頼む」

『これはまた、豪勢っすね』


これは、食べれるピザも食べれない武器もダブルで注文、という合言葉。バカは単純で面白い。


「急げよ」


電話を切り、ベッドへと戻る。

動けるようになったとはいえ、こんな状態では逃げ出すのも無理だろうし、襲われてもかわせない。


組織がこの場所を突き止めたのか。

まだ確信はないが、別件とは言えハジの足が及んだのだ。油断は出来ない。

本来なら痛みを無視してでも此処を立ち去るべきだ。


「…、」


では何故、今すぐそれをしない?


逃げるためにこんな怪我を負い、それでも今生きている。

またみすみす殺されるのか、それとも再び誰かを殺すために連れ戻されるのか。


どちらにしても、よろしくない。



(―――それなのに、何故留まろうとする)


不可解であり、それでいてどこか解りきっている答えに行き着いた。

苛立ち紛れ、煙草を咥える。ふわふわと頼りなく空気に立ち上る紫煙は、暢気で羨ましい。


―――そうこうしている内にチャイムが鳴らされた。



「ピザ、お届けに参りましたー」


聞き馴れた武器屋の声に、煙草を咥えたままドアに立つ。

覗き穴から見えるのも、見慣れた顔のみで他には居ない。


「そこに置いてけ」


ドアに凭れながら煙草を吹かす。じっとりと滲む汗が、不愉快だった。


「えっ、金は?」

「借りがあるだろ」

「どやされちまうよ」

「俺の名前出せよ」

「チーフにも借りがあるんで?」

「お前等ピザ屋は、全員俺の言いなりだ」

「…おっかねぇ」


そそくさと逃げ帰る音を確認してからドアを開ければ、ピザとその他がきっちり揃えられていた。



普通のピザボックスより倍以上の高さがある箱を開ければ、ピザとポテト、コーラが顔を覗かせる。それらが乗っている底を外せば、ピザ臭くなった鈍色の拳銃がひとつと、弾が入ったチョーク箱が数箱。

おまけかなにか知らないが、注文していないパイナップル(手榴弾)まで入ってやがる。使わねえよ。


「あん?…ポテト、ケチりやがったな」


無駄に考えるのはやめて、まずは腹ごしらえだ。









セントラルパークを一望出来るホテルの最上階。落ち着いた雰囲気の中、高級な調度品は赤と白で統一され、出てくる料理の色までその二色をメインに構成されていた。


(煙草が吸いたい…)


ついぞ口にしたことがないような料理に満足しながらも、私はなんとも不憫な精神状態に陥っていた。


(まさかこんな高級ホテルに連れ込まれるとは…)


自分の正面に座る紳士的な男を見る。

適当なファミリーレストランかダイナーでの食事を予想していた私の格好はシャツにジーンズ。

ハジはそんな私にわざわざドレスとヒールを買い与え、このレストランへと赴いたのだ。


(嫌味にも程がある…)


そこらの女なら、そりゃ喜び跳ねるだろうが、私には見下されたようにしか思えない。

先程から穏やかな会話が交わされているにも関わらず、私は警戒心の塊と化していた。



「猫に玩具を与えるんですけど、すぐに壊してしまって」


未だ緊張したままなのは、話題が猫についてだということも原因になっている。

ハジは私が猫を飼っていると思っているが、実際に猫を飼っているわけではない。先程など、飼っている猫の好物を尋ねられ、危うく煙草、と答えそうになったくらいだ。


(…帰りたい)


ハジが私の嘘に気付いているだろうと容易に想像がついたのは、食事もそこそこに猫の話ばかり持ち出してきたからだ。

私に気取られないようにと、配慮しているようでもない。

私の猫がグラムという人間だと、完全にバレている。


「リナ」


食後のコーヒーを飲みながら、ハジは甘い声を出してテーブルの上に置かれた私の手を取った。鳥肌が立つ。


「もし良ければ、私の猫を見に来ませんか?」


まずい。ベッドに直行、フルコースだ。


「明日も仕事だから、また次の機会に」


努めて平静を装う。

拒絶しているとわざと気付かせるよう、握られた手を引いた。


「いえ、是非おいで頂きたい」


しかし引いた手を今度は強引に引き寄せられてしまった。またしても肌が粟立つ。

睨むように目を釣り上げたが、ハジは微笑を浮かべたまま見返してきた。

有無を言わせぬ青い瞳に唇を噛む。


折れるしかないのか。

解っていながら、それでも足は動こうとしなかった。


「―――リナ。貴方が私の家まで付いてきて頂けるなら」


その声はあくまで穏やかで、不穏など匂わせやしない。


「猫の安全は、保証しますよ」


甘い声の、脅迫。


「…なに言ってんの?」


あくまでしらばっくれる。そうしなければ、完全に相手の思う壺だ。


だからといって、今のこの状況では回避できるとも思ってない。どうしたらいい?


「…貴女のアパート周辺に部下達を待機させています」


ハジの静かな言葉に、全身から血の気が引いた。


「…ついてきて下さるだけで結構です。先を強制させたりしません」


―――先って、なに。

ハジは微笑を浮かべながら、握っている私の親指の付け根を撫でている。変態め。


「来て頂けるなら、部下は撤退させます」


そんな言葉、信じられるか。

現時点で自分を脅迫している男の言葉など微塵も信用出来やしない。それなのに、それをあえて口にする男の真意が掴めず、私は唇を深く噛んだ。


「さぁ行きましょう、リナ」

「…Fuck you」


腕を捕まれ無理矢理立たされる。不愉快を乗せて、汚い言葉を囁いた。

それがハジを喜ばせる結果になってしまったことに、私は気付かなかったが。


ホテルを出て十分後。超高級マンションのエレベーターの中に私はいた。

ハジのマンションはニューヨークの鮮やかな街に囲まれ、優良な立地条件の元に建てられているコンシェルジュ付きのプライベートマンションだった。

エレベーターからの夜景は、自分が置かれたこの状況をさしおいて美しい。


(でも、よかった…)


郊外の高級住宅地に連れて行かれては逃げることもままならないと危惧していたが、此処なら、と少なからず安心する。

一軒家ではないことも救いだ。ただ、造りがまずい。

このマンションはエレベーターからすぐ各々の玄関に直接入れるようになっていて、セキュリティは階数と各部屋のパスワード。二つが揃わないと自分の部屋へは辿り着けない。つまり逃げ出してすぐエレベーターに乗り込んだとしても、一番近い階数に逃げ込んで隠れることも出来ない。


(…ジーザス)


バッグの中の拳銃だけを頼りに、敵の部屋に足を踏み入れた。

エレベーターから直接広がるリビングは整頓され、モダンな家具が揃えられている。いかにもな内装だが、人が生活している部屋というよりは、生活感のないモデルハウスだ。


「適当に寛いで」


飲み物を用意しながらハジが言うが、寛げと言われて寛げる筈もない。

一先ず出口に一番近い椅子へと腰掛けた。拳銃をいつでも取れるよう、右手をバッグに重ねる。



「リナ」


目の前のローテーブルに置かれた赤ワインとグラス。


「シャワーを浴びてくるよ。先に飲んでいてくれて構わない」

「あぁうん、………は?」


予想だにしなかったハジの言葉に、つい間抜けな声を出してしまった。シャワぁ?


「あぁ、勘違いしないで。する為に浴びるわけじゃない。警官は肉体労働が主でね」


(するってなにを)


穏やかに微笑みながら、ハジは際どい台詞を残して浴室へと消えてしまった。

掛けられたレコードからは、ゆるいシャンソンが流れている。



澄ましたそれを耳に、玄関へと向かいエレベーターのボタンを確認する。素早く扉を開いて階数を押すシミュレーションを何度かして、馬鹿らしい、と頭を振った。


グラムに関する情報を得られないかと、寝室や書庫を覗き、なにもないと諦めたところでキッチンの作業台に置かれた一台のパソコンに目がいった。

電源が入ったままのトップには、なにかのデータが映し出されている。


カチ…カチ…。


どこかの国の戦場の画像、それに関する記述。まるで新聞記事をそのままデータにしてあるようだった。

シャワーの音に耳を澄ましながら、マウスを握り、一番上へとスクロールしていく。


「―――…、!」


表れたのは、見知った顔だった。


「グラム…」


明らかに個人情報であろうデータ内容には、名前、生年月日、血液型や体重など、様々な情報が書き連ねてある。けれど、生年月日は「unknow」となっていた。


―――名前は、『グラム』ではなかった。



戦場孤児であり、イギリスの孤児院でおよそ十歳まで育てられたこと。軍人に拾われ、軍の特殊教育を受けたこと。


199*年 西独の潜入捜査官、爆発に巻き込まれ死亡


200*年 国家安全保障委員会会長、事故死


200*年 ケンタッキー州上院議員、自宅のプールて溺死…………


緻密にまとめられたそれを読み進めながら、自身が受けた衝撃に平静を保てそうにない。

全て事故死と見せ掛けてあるが、きっとこれは事故ではない。


―――目眩が、した。





「彼は優秀な男だよ」


そうして背後の気配にすら、気付けないで。


「…っ」


振り返ろうと身を捩る前に、背後から抱きすくめられた。硬く長い腕に囲われ、身動きが取れない。


「全く君は、自分で自分の首を絞めている」


耳朶に当てられた唇が甘く囁く。

呆れたような、けれど楽しくて仕方ないというような、嗜虐者の戯れ。


「…これ、なんなの?」


パソコン画面に視線を置いたまま、拘束されている。


「君が拾った猫のことだ。素晴らしい経歴だろう?」


小さく笑いながら、ハジは私の曝された項に唇を這わす。

その熱っぽい吐息とは反対に、私の身体は冷たくなっていった。


「…グラムは、一体なんなの?」


震えて、出した声まで掠れていた。


「…グラムは、彼の名前ではないよ」


ムカつく。解りきった事を口にする暇があるなら、さっさと質問に答えればいいのに。


(私を痛めつけようとしてる…)



「うちの猫は、グラムだわ」

「…君は素敵な女性だね」


なおも質問に応えようとしないハジに、苛立ちと不快感は増すばかりだ。

腹いせに体を拘束している両腕を思い切り抓ってやった。


「イテ」


さもからかうような声色で笑みが吐かれる。痛くも痒くもないと、楽しげに。

くたばれ!


「質問に答えて」

「殺し屋だよ」


愕然とした。


(冗談でしょ…)


殺し屋が部屋の前に転がってるなんて、世も末だ。


「僕専用のね」


はしゃぐように、男は笑う。


「つまらない話になるが、僕は世界中にアンテナを張った大規模な犯罪組織を個人的に所有していてね。犯罪というものは大金を産み出しもするけど、それとは別に金も掛かる。まぁそれで、資金集めの為に依頼を受けて、殺しをやったり破壊工作をやったりする」


特に彼の腕は絶品だよ。正確、確実、無駄もなければ、まるで殺しのひとつひとつが芸術品のようだ。

まあ芸術品なんて無駄なものの代表格だけれどね。

ハジがふふ、と耳元で笑った。



「軍人だった頃、イギリスでの特殊任務で彼を見つけてね」


(イギリス、ボスが言ってた…)


最早、頭はショート寸前で、そんなことくらいしか解らなかった。

この先、まだこんな話ばかり飛び出すのか、と動悸ばかりが速くなる。


「彼の素質を一目で見抜いた僕は彼を欲した。その頃、まだアイデアでしかなかった組織建設の為にね」


吐き気がする。子供の遊戯の駒集めじゃあるまいし。


「…仲間の軍人を、殺したの?」


その言葉に、一瞬だけハジの笑みが潜められる。


「彼らは邪魔でね…、リナ。今の君のように」


低くなった囁きを理解してすぐ、首筋に噛みつかれた。


「…っ」


グラムの付けた噛み傷に重ねるように歯を立てられて、ぶちり、と肉が弾ける音を聞く。

すぐにその傷を癒すように吸い付かれて、体から力が抜けた。


鈍い痛みに耐えるべく、強く強く、目を閉じて。



「当時の記憶はなかったことにしてあるが…、僕は嘘が得意でね。それで邪魔者を始末した僕は、彼を持ち返って育てた。…素晴らしい才能の持ち主だったよ。与えれば与えただけ吸収する。頭も良いし、仕事に余計な感情は持ち出さない。普段は傍若無人で生意気な男だが―――」


私の肩に出来た醜い鬱血を、ハジはうっとりと眺めたあと、がぶり、耳朶を口に含む。


気持ち悪い。触るな、変態。


―――好き勝手にされる体を厭い、唇を噛み締めゆっくりとバッグの中に手を忍ばせた。



「…時に、リナ」


吐き出した耳朶に唇を寄せたまま、腰を撫でられる。甘ったるい声色に噎せそうだ。


「猫とはもう、寝たのかい?」


ハジの掌がゆるりと脚の付け根を撫でてきた。


「っ、」


それを合図に、握っていた銃をすぐさま取り出した。そのまま延長線上の動作で骨が軋むことも構わず身を捩る。いきなりのことだったからか、それともはじめからそのつもりだったのか、ハジの拘束から私はあっさり抜け出した。そのままの勢いで銃を構えると、彼は降参だ、というように両手を上げた。


浮かぶ苦笑が、腹立たしいことこの上ない。


「全く勇ましいな、君は」

「あんたは卑怯者で度を越した変態だわ」

「褒め言葉だよ」

「…くたばれ」


銃口を向けられているにも関わらず、ハジは動揺した様子もなく軽口を叩いている。反する私は、優位に立っていながら今にも恐怖と緊張で卒倒しそうだった。


「…もうお帰り、リナ。残念だけれど、約束だからね」


その言葉に、嘲笑が浮かぶ。


「冗談でしょ?信用出来ると思う?」

「するかしないかは、君次第だ」


ふわり。ハジは相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、玄関への道を開けた。

ハジを睨みつつ銃を構えたまま、一歩、また一歩と玄関となるエレベーターへとにじり寄る。


「…グラムをどうする気?」

「さぁ、どうしようか」


対峙する男はあくまでふざけた態度を崩さない。

有利に立っている筈なのに、この焦燥感と不安はなんなのか。



『―――逃げろ!』


頭の中でボスが叫ぶ。


爪先から這い上がる恐怖に後押しされるまま、私はハジに背中を向けた。それでもやはり、ハジの微笑は揺るがない。


私を見送ったハジの足元には、二匹の美しいシャムがじゃれていた。






「…全く、飼い猫に爪を立てられるなんて」


飼い主失格だな。

そう独りごちて、ハジは電話を手に取った。

女性との約束は守らなければならない。正直、守るつもりなど毛頭ない戯れ言に過ぎなかったが、彼女を見て少々気が変わった。


(少しばかり楽しませて頂くとしよう)



「テリ、配置は済んだのかな?」

『…とうの昔に』


通信機越し。抑えられた少し低い声に部下の緊張が滲んでいる。


「待たせて悪いがこの際だ。僕が指示を出すまで存分に楽しみながら待っててくれ」

『イエッサ』


上司の気紛れはいつもの事。テリは呆れながらもハジの命令に従った。


―――雨足は未だ、揺るがない。




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