神と死は同居する
―――深夜、四時。
久々に穏やかな夜を過ごしベッドに入って既に二時間が過ぎていた。
ベッドに就いてから一時間弱、寝たふりをしていた女は、つい先程やっと眠りに就けたらしい。
その顔を、眼球を巡らせてなんとか視界に入れる。
向き合いはしない。というか、出来ない。
それでもリナは律儀に俺の肩に額を押し当て、安らかにその瞼を閉じている。
その高い体温に、体の痛みが僅かに和らぐような気がしたが、それを見越してベッドに連れ込んだわけではない。
(…生意気な態度が気に入らなかっただけだ―――)
「…ハジ、ね」
困ったことになった。
まさか生かされた先にまであの男の影がちらつくとは。野垂れ死んだと諦めてくれりゃあよかったものの。
(…巧くいかねぇ)
隣で眠る女を見る。
―――この女に、俺は生かされたのだ。
致死に達する、傷という傷。体中にこびりついた泥や砂、血を落とし、丁寧に体を拭き、傷に薬を塗り込み、包帯を巻いた。
傷は着実に癒されている。
酷い痛みはもう、過去になりつつある。
この女は俺に飯を喰わせ、生かそうとした。
死にかけの俺を。
―――覚悟すらしたのだ。『死』というものを。
ハジの拷問から逃げおおせたのはいいが、やはり自身の状態は最低最悪だった。
それなのに、俺は今、生きている。
今までさんざ、ぽっくり逝っちまう人間達を目の当たりにしてきたというのにこのしぶとさはなんだ。
ヒトはそれだけ脆く貧弱なものだと、知っていながら。
(…それなのに、俺は図太く生きている)
死ぬことを恐れたことはなかった。
或いは、麻痺しているのだと、言い聞かせてきた。
・・
死ぬ、という現象を身近に置いて長く生きすぎていたのかもしれない。生きるか死ぬか、傲慢にも相手に選ばせたこともあった。
『生』に未練などない。
他の奴等は浮き世への未練だとか、残された人間の哀しみだとか、去ってしまう自らへの侘しさだとか。
「間際」に考えれば、キリがないだろう。ただ、自分はそれらに全くと言って良いほど縁がなかったというだけの話だ。
残して後悔するものも、俗世への未練も、なにひとつ。
―――それなのに、体に詰まっていた血液や体液が体外へ流れ出る様を見ながら。
自らの血の池に、腕を浸しながら。
叩きつける雨の冷たさに、祈った。
―――神よ。
存在するか否かすら考えた事もない。祈った記憶もない。
それなのに、凍り付いたように動かない体の底から、微かな熱さえ奪われていきながら。
醜く、縋った。
姿も見えぬ偶像へと向けて、俺は。
(死にたくない…)
漠然と。
まるでそれが、遺伝子に組み込まれた欲求のひとつのように。
(死にたくない、と)
冷たい雨に殺されながら、霞む視界で空を見上げた。
天が、墜ちてくる。
底を付いていた力を振り絞り、千切れそうな体に鞭打って、目の前の階段を這いずるように上へと進んだ。
その時の記憶は、あまり鮮明ではない。気付けば、タイルの上に塵のように転がっていたのだ。
雨から逃れたとはいえ、感覚も残らない体に期待など出来ない。
死ぬ時は誰かに殺されるものだとばかり思っていたが、血生臭い舞台から自ら逃げ出した結果がこれだ。
―――自殺ということになるのだろうか。
『自ら命を絶つ者に、天に召します父の祝福は与えられない』
二年前、眉間をぶち抜いて殺した牧師の言葉が蘇る。
はなから天国地獄なんてもんを信じちゃいなかったし、なにをどう善良に改心したとしても、どうせ俺は地獄に堕ちていた筈だ。
―――あぁ、指先から、口の端から腐ってゆく。
(…俺は、死ぬのか)
サァァアアア…。
『ねぇ』
混濁した意識に訴えてくる声に停止しそうな胸が震える。
祈りは神にではなく、この女に届いたのだ。
「…グラム、」
ほんの数日前の夢から、夢の中と同じ声に引き戻されて瞼を上げた。
窓からカーテンに遮られることなく差す強烈な朝陽に目を細める。
暖かい。
―――生きてる。
「グラム、起きなよ」
真上から尖った声がする。
(…起きてる)
寝起きで、体中が痛い。口を開くことも億劫だった。
「離して」
不可解な言葉に、俺は欠伸を噛みしめながらリナを見た。
不機嫌そうなリナは上体を両腕で支えた状態で俺を見下ろしている。俺の左腕は軽く浮いていて、ガーゼの歪む指先はその長い髪を絡めとっていた。寝ている間に掴んでしまったらしい。
日本人のイメージそのままの、真っ黒な髪。ほんの少し淡く光る、黒い瞳。
釦が雑に止められたシャツの隙間から、俺がつけた肩の傷が見える。
残酷な噛み痕が、鮮明に。
なんの痕もない肌より、傷付いた皮膚のほうが、ずっと扇情的だ。
「グラム、離して」
いつまでも離そうとしない俺に苛立った様子でリナが言う。
「わりい…」
ようやっと髪を離せば、リナは跳ねるようにベッドから飛び降りて、遅刻する、とキッチンへと消えてしまった。
遅刻、とは言え段起きる時間よりかなり早い。
「リナ、コーヒー」
「くたばれ」
キッチンに向かって言えばすぐさまそう返ってきたが、それでも数分後には湯気を立てるコーヒーが手元に運ばれてきた。
(…ばかな奴)
「グラム、固形物食べられそう?」
「それ以外食いたくねぇ」
「離乳食がまだ残ってるんだけど」
「近所のガキ共に配れ」
「タフ過ぎるのも困るわ」
「ほざけ」
数分後、リナは美味そうな朝食を手に寝室へと戻ってきた。
久しぶりのまともな食事に、自然と笑みが漏れる。
「それ、飲ませろよ」
「は?」
「お前のオレンジジュース」
「…コーヒーは」
「パンにコーヒーじゃ、腹が痛くなる」
「…どこのガキだ」
そうしてグラスが渡されたが、思いの外重いそれに顔をしかめた。
それに気付いたリナは苦笑している。
「…まだまだだね、グラム」
そう言ってグラスを支えるリナは、どこか安堵しているようだった。
動けるようになったとはいえ、まだ全快したわけではないのだと、痛感する。
―――大丈夫。
まだ、出ていける状態じゃない。ハジの出現で、グラムが早々に此処を立ち去るのではないかと危惧していた私はバカだ。
(…怖がりめ)
「どこまで飲む気?返してよ」
「ケチくせぇ」
「くたばれ」
そして、手放したくない、と。ただ純粋に離れたくないと、願って。
馬鹿なリナ。
厄介者扱いしていた猫に情を移して、いざ出ていくとなると寂しく思うとは。
本当の馬鹿だよ、リナ。
「今日、遅くなるから」
「…残業か?」
グラムの吹かす紫煙が私の気持ちのように頼りなく揺れていた。
「…ん、そう、仕事」
ハジと食事の約束をしているとは言えない。
私はコートを羽織い、逃げるように部屋を出た。
出際にキスしたかった、なんて、笑えない。