Ⅱ・伝承3
* * *
自分があの暗闇に何年在たのか、それは未だにわからない。わかっているのは、あの頃の自分は自分という存在すら理解していない“モノ”だった、という事だけだ。
そんな自分を、あの男の逆臣達は暗闇から引き出した。自分が初めて自覚した熱と感覚は、闇の檻から引きずり出すために何者かが腕を掴んだ際の手のそれ。闇を映すだけだった瞳が捉えたのは、頼りなく揺れる松明の灯り。それらをぼんやりと知覚する中で頬を撫でた、トロリと冷たい僅かな風。
空っぽの状態である自分に、逆臣達は知恵と知識と感情を教えた。全てが新鮮で、時に恐ろしく、時に嬉しく感じたものだ。
そして自分は、あの男を殺した。
後悔などしていないが、だからと満足もしていない。自分には肉親への情など微塵もないし、それは今でも変わらない。あの男を殺すなど特別な事ではなく、蚊を叩き潰すかのようなもの。躊躇いなど皆無であり、永遠の忘却に沈んで当然の行いだった。
『だが――。お前は今、それを思い起こしている』
前触れもなく響いたのは、聴く者全てにどっしりとした安堵をもたらす程に自信に満ちた低音の声。どこか愉しげなそれに顔をしかめ、指先に付いた泥を払う。
「だから、なんだ?」
『なに、純粋な喜びだ。過去を過去と見ないお前が、過去を振り返った事への』
「懐かしんでなどおらぬぞ」
それに返ってきたのは、まるでむきになった幼子の言を微笑ましく思うかのような――…、優しさとぬくもりを感じさせる微笑。
『懐かしむ。――お前の口からその言葉が出るとは』
「亡霊と馴れ合う気など毛頭ないわ」
『そのお前が、此処に来た』
「…ほんに、めでたい奴よ」
暗闇に包まれた空間。魔法の光球が照らし出したのは、長年忘れ去られてきた狭い洞窟。地上の深き森の木々がそうしたのか湿気に満ち、瑞々しい苔が岩肌の壁や床にむしている。
まとわりつく湿気と冷気に舌打ちすると、クツクツと喉を鳴らす笑い声が聞こえた。
『お前が望めば、私はお前が望む以上の知識を与えるというのに』
「付きまとうな、死に損ないめ」
『この私が有する知識だぞ?』
「貴様の助力など、いらぬ」
やれやれ…、と愛情深く苦笑する気配。
『可愛げのない。赤子の頃のお前は、私に興味を抱いたものだが』
「記憶にない」
『哀しい事だ。記憶の破片でも残っていれば、また違った結果が訪れたかもしれん』
「結局は、責難か」
『…お前を責めなどしない』
囁くかのような、より深い慈愛の声音。
『お前は父を殺し、多くの民を葬り、国を沈めた。それを責める資格など、私にはない』
「珍しく弱気の発言だな…。裏があるのかと余計に勘ぐるわ」
『お前は私によく似ている』
「貴様と馴れ合う気などない」
地を抉り作られた通路は、人一人がようやく歩けるだけの広さしかない。もう少し背が短ければ良かったな、などと笑う声を無視しつつ、下へと傾斜のある通路を進んでいく。行儀良く前を漂う光の球が通路を照らすので、足元の苔や起伏に足を取られることはない。突然の光と人影に驚いたのか、壁や床を這っていた手足の多い虫達がワサワサと散っていく。
湿り気のあるどんよりと淀んだ冷気。壁についた手が苔にヌルリと滑った。
「…貴様、一体どこまでついてくるつもりだ?」
『さて? 此処は私が棲む地だ、私の自由だろう?』
「棲む地、か…。物は言い様だな。伝説の魔王も、今ではただの地縛霊か」
地下通路を歩き始めてから、かなりの時間が経ったはず。通路が伸びる方向に間違いはない。そろそろ着いてもよさそうなものだが…。
そう思いながら大きく左へと蛇行する通路を抜けると、突如として視界が開けた。
「――…よく、見えんな…。昇れ」
光の球を天井へと昇らせ、空間全体を照らし出せるまでに光度を上げていく。その間に自身はすたすたと広い空間の中央へと歩み出た。
半円型の広い空間だ。天井も高い。自分が棲む館などすっぽりと納まる広さがあるだろう。見た限りでは来た道以外に道はないが、この空間へと漂ってくる空気の存在を微かに感じる。湾曲した壁を左手で撫でるように歩きつつ、注意深く観察していく。
半円の底辺部分にあたる垂直な壁だけは、どうやら一枚の岩で出来ているようだ。その岩壁を撫で、僅かに顔をしかめる。壁を見据えながら慎重に後退していく。
苔と湿度に浸食され一目ではわからなかったが、壁には文字が刻まれていた。力ある魔族の間で《古き文字》と呼ばれる物とよく似ている。自分が知るそれとは字体が若干異なってはいるが、それでも読めなくはなさそうだ。
光の球を更にもう一つ作り出し、浸食され読みにくくなった文字をよく照らす。
「火焔。清流。疾風。我は三の扉を封ず。この地に封じしは水の門。封じし言葉は――」
最後の箇所は損傷が激しくますますわかりにくい。どうやら文字を刻んだ後に人為的に削り取られたようだ。
光球をあれこれと操って刻まれた文字に陰影をつけ、根気強く読み取りを試みる。
「し――…違うな、せ、か? せ…し……、せい…ょ……な…?」
『清浄の波』
「清浄の波?」
思考へと滑り込んだ淀みない流暢な言葉を、つい反射的に繰り返した。
途端――。
「!」
突如として起こった激しい横揺れ。ふいをつかれて身構える余裕もなく、転ぶように地へ手と膝をつく。その眼前で、一枚岩と思われた壁の中央が避け、不気味な低い地響きを伴いながら左右へと開かれていく――。
空気全体に響いた、ゴォンッ…! と低い地鳴り。扉と揺れは停止し、擦れて削り落ちた苔や砂がパラパラと降った。
そして、静寂。
「………。
おい」
ドスが利いた不機嫌な声。対して目に見えぬ男は、クツクツと喉で笑っている。
「どうするのだ、これ」
『さぁな』
「さぁな、って――…貴様のせいであろうがッ!!」
立ち上がりつつイライラと怒鳴りつけるが、相手はひょいと肩を竦ませる澄ました気配を返すのみ。
『私はただ独り言を呟いただけだ』
「亡霊の分際で独り言など呟くでないわッ!」
『亡霊のくだらぬ独り言に聞き耳を立てるとは、お前の趣味を疑うな』
「貴様と揉め遊ぶ暇など、余には微塵も存在せぬッ!」
馴れ馴れしく身勝手な相手に本気の殺意を覚えたが、それでも目には警戒を宿し、出現した新たな空間を睨みつける。
開かれた先も通路となっているようだ。ただ、これまでの通路とは広さも造りも完全に違う。岩盤をただ掘っただけの洞窟ではなく、採掘した石を緻密に成形し組んだ回廊。
そして、奥の暗闇から感じる――…記憶の底に在るあの空気。
「本当に残っておったとは…。将来は盗掘者の絶好の稼ぎ場か? 参ったな…」
『この地の行く末など気にしない、のではなかったか?』
「私が知らぬ所で残っておったのが問題よ。
――…まさか、地下は完全に残っており、先程のような封印が残り二つある、などと言い出すのではあるまいな?」
『だとしても、問題はないだろう。我が封印を解ける者など、後にも先にもお前一人だけだ』
「…ならば、今解いたコレはどうする?」
ため息をついていると、男が、愉しくて仕方がない、といった風にケラケラと笑った。
『いよいよ私の助力が必要か?』
「全身全霊で拒絶する。――…手は後で考える」
ボソリと無意識に付け足した言葉に、男が腹からの本気の笑い声をあげる。耳障りなそれに舌打ちし、頭を軽く振って歩を進め始めた。