Ⅱ・伝承2
* * *
「元気そうで何よりだ」
純粋な優しさのテノールの響きに、リオンはテーブルに頬杖をついて見やる。
「俺が?」
「お前も、彼も」
「…」
「違うのかい?」
ふいに黙り込む弟に、シロンは軽く小首を傾げた。
イシュヴァ大神殿、大天使長の自室。白い石で造られた室内に、天窓からやわらかい日差しが優しく降り注いでいる。
しばし無言で壁の風景画を意味なく見つけていたリオンだったが、一つ息を吐いて視線を外した。
「…よくわからない。あいつが参っている姿なんて、俺は今まで見た事がなかったから」
「彼が、参って…? 何故?」
シロンはますます不思議そうに問いつつ、戸棚から白い陶器のティーセットを取り出した。手慣れた手つきで茶を淹れ、弟の前にカップを置く。
「知るかよ。俺には想像がつかないような無茶を企んでいやがるんだろ、あの馬鹿…!」
拗ねるように言葉を吐いた弟に、シロンは目を優しく細めてやわらかく微笑む。リオンがここまで心を許した友など、このイシュヴァでさえ一人もいない。兄として大天使長として、とても嬉しく思っている。
テーブルに顎を乗せてむくれていたリオンだったが、カップから立ち上る芳香の誘惑に負けて体を起こした。
「で、兄貴は知ってるのか?」
「イシュヴァとバハールドートが一つの世界であった頃――その中でも、混血の者達について、だね。先代から聞いた事はあるよ」
「俺はないけど?」
「大天使長にのみ伝えられる話の一つだ。――…あぁ、これだ」
古の時代より、次代の大天使長へと受け継がれてきた書物。シロンは弟に、お前にはまだ早いからね、と中を見ぬように忠告した後、その長き歴史を馳せる深い紺色の表紙を開く。
「イシュヴァの民――まぁ、当時はまだイシュヴァは存在しなかったけれどね。先祖達は混血の民をかなり危険視した。それこそ、後にバハールドートの民となる悪魔達以上にね。
混血の民は我々を『異端者』と呼び、悪魔達を『恥ずべき者』と呼んだ。そしてかの争いの最中、彼らは新天地へと旅立った」
「タオもそんな事を言ってたな…。
その混血の民にさ、案内しろ、会わせろ、って言われたんだ。俺には何の事だか、さっぱり…」
シロンは苦笑する。
「私にもわからないなぁ」
「タオにもわからない、らしい。…あくまでも、らしい、だけど」
「お前は喧嘩をして帰ってきたのかい?」
「別にぃ…。
――…なんで笑うんだよ?」
リオンに睨まれ、肩を震わせていたシロンは、ごめんごめん、とやわらかな表情で手を振った。
「そうだねぇ…、私なりに調べてみよう。
それで、お前はいつまでイシュヴァにいるのかな?」
「一週間位はいるつもり」
文句や愚痴をこぼしつつも、やはり弟は無二の親友の元へと戻る。再び笑いそうになったシロンだったが、その気配を察知したリオンに一瞥され、笑いを微笑へと切り変えた。
「イシュヴァに戻ったお前が、再びバハールドートに行く、と言った時――…、私が何と言ったかを覚えているかい?」
微笑みながらも真剣な口調に、リオンの背筋が自然と伸びる。
「それでお前がより良く成長するならば、だろ?」
そうだよ、とシロンの目が和む。
「バハールドートでの十年で、お前は随分と変わっていたからね」
「バハールドートに感化されてた、とか?」
「良い意味でね。魂に纏う輝きが違う。生きた光だ」
「ふぅん…」
「リオン」
曖昧な相槌を返すと、再び真剣な声音で名を呼ばれた。見ると、大天使長はまっすぐと自分の瞳を捉えている。
「私は大天使のお前に期待をしているんだ。お前はイシュヴァに良い刺激を与えている」
「は? 大袈裟な…」
「事実だよ。今のお前の言動一つひとつが、私や民にはとても新鮮だ。お前という存在によって、この弱った世界が少しずつ力を得ていく気配を、私は感じている」
「そんな…」
大天使長自らの言葉だが実感が湧かず、リオンは呟いて窓の外を見つめた。
あの災いがもたらした打撃はとてつもなく、数多くの生命が潰え、世界は疲弊してしまった。生き残った天使の数は、自分達兄弟を含めても百にも満たない。――それでも、あの頃にはなかった結束力が、今の民にはある。
現在、天使の大半はこの大神殿周辺で暮らしており、皆が支え合い、共に汗を流し、共に笑っている。ほんわかと掴み所がないあの頃とは異なる活気と希望が、今の民と世界には満ちているのだ。
「私は彼に感謝している。彼はお前をお前らしく導いてくれた」
「…あいつが聞いたら、すげー嫌な顔をするだろうな。大天使長の分際で、って」
「かもね。怒られたよ」
「…は? タオに?」
怪訝な顔で茶を啜ると、シロンはどこか楽しげにクスクスと笑って後頭部を掻く。
「いやぁ、ちょっとね。少し前に用事があって扉を開けたら、偶然あの空間に彼がいてね。握手を求めたら、貴様は相も変わらずに自覚と威厳が足りぬ、って手をはたかれた」
「…兄貴らしいといえば兄貴らしいけど、それはタオが正解」
「うーん、面目ない」
苦笑するリオンに、シロンはふんわりと微笑んでいる。
心地良い冷たさの風が窓辺のカーテンを揺らした。
「創世の争い前は、どういう関係だったんだろうな…」
ふと呟かれた言葉に、シロンは、ん? と優しく喉を鳴らす。
「天使と悪魔が、だよ。混血がいたんだ、凄まじいまでにいがみ合っていたわけじゃなさそうだし…」
「我々イシュヴァの民とバハールドートの民は、元は一つの種族だった」
「へ?」
言いながら、カタン…ッ、と席を立つ兄を、リオンは反射的に目で追った。
窓辺へと歩んだ大天使長は、白い陽光に目を細めて空を見上げている。
「そんな伝承があったな、と思い出してね」
「それも、先代から聞いた話?」
「うん。バハールドートの民を拒む天使達には、受け入れがたい話だろうけれど」
「…実話なのか?」
怪訝な顔に疑問符を埋め尽くす弟に、シロンは目を伏せて、どうかな…、と軽く頭を振る。
「だが…、かつては同じ大地に立ち、同じ空を飛んでいたんだ。同じ祖を持っていたとしても不思議じゃないだろう。
――…まぁ…、そうは言いながらも、どこか他人事のような感覚の存在を否めないのは…、私が未熟者だからかな…」