Ⅱ・伝承1
――遥か古、創世と呼ばれた時代。
バハールドートとイシュヴァは、一つの大きな世界だった。しかし、悪魔と天使との間に争いが起き、多くの犠牲者を出す結果となった。
互いの安全を保つために、当時の魔王と大天使長はチカラを使った。魔王はそのチカラで世界を二つに裂いた。大天使長は扉を創り、二つとなった世界が唯一接する《道》を封じた――…。
「――で、今の此処とイシュヴァがあるわけだ。ここまでは貴様も知っているだろ?」
夕日が差し込む書庫。馴染みのソファで偉そうにふんぞり返った魔族は、ラピちゃんが差し出した冷酒を尊大に啜った。
向かいのソファに座るリオンは頷き、先を促す。
「天使共は秩序や理性といった堅苦しいモノを重んじ、それらを無視する悪魔を、世を乱す者共だ、と蔑視した。悪魔は悪魔で、基本的には誰でも何でもかかって来やがれ、ただしウザくなったら排するからな、ってな姿勢だったため、自分達とは考えが異なる天使共がウザかった」
「バハールドートの民らしいな…」
だろ? と、楽しげに声を弾ませるタオ。
「そして、だ。イシュヴァではどう伝わっているかは知らねぇが――…。創世の頃の世界には、悪魔と天使の他に、第三の勢力が在った」
「第三の勢力?」
「初耳か?」
「初耳」
だろうな、と。タオは何故か痛々しく自嘲し、両指を這わせる。
「創世の時代を記する書物のほとんどは消失したからな。此処でこの話をマトモに知っている生物は――…ま、俺だけだろうよ」
タオはグラスを揺らし、透明な水面が踊る様子を眺めている。
どこか物憂げな友に、リオンはわざと明るい声音で訊いた。
「第三の勢力って、人間とか?」
「いや、人間じゃねぇ。なんつーか、悪魔と天使の間っつーか…」
「…? それって人間だろ?」
「人間に対する貴様の考えがよくわかる言葉だな」
タオは笑って酒を飲み干すと、脇に控える垂れ耳のラピちゃんの頭へとグラスを置いた。主人愛用のグラスを割っては一大事、ラピちゃんは石のように固まってしまった。
「悪魔と天使の混血として生まれ、いつの間にやら種として確立していった連中だ。こいつらが曲者で、本来自分達こそが全ての頂点に位置する存在だ、とかいう迷惑な考えを持っていやがる」
堅苦しい天使。適当な性分の悪魔。そして、自分達を至上とする混血の民。
争いの場からまず最初に去ったのは、この混血の民達だった。
「連中は、悪魔や天使という低能な者共などは争うにも値しない、と見限り、余所の世界へと大移動したわけだ。低能な者共が蔓延る陳腐な世界など自分達には相応しくない、我らは高みを目指す、と」
「単なる傲慢な連中…というよりも、何だか危険な感じがするな…」
リオンは寒気を感じて腕をさする。混血の民に対し、恐怖に似た印象を抱いてしまう。
そんなリオンが気になったのか、茶トラ模様のラピちゃんが、そ…っ、とリオンの手に触れてきた。その優しさが嬉しくて、リオンはお礼にと頭を撫でる。ラピちゃんは気持ちよさそうに目を閉じている。
「ま、貴様が危険だと感じるのも頷けるな。余所の世界に降り立った連中は、その世界の本来の住人達を排除し、自らの世界にしやがった。それが昨日の夜に繋がった世界で、あの小娘は混血の民――しかも、その長の娘ってわけだ」
「混血だから、翼に天使と悪魔の両方の特徴があったのか…」
人の話を全く聞かない性格も混血の民の特徴なのか、はたまたあの娘の性格が問題なのか…。リオンはそんな事を考えて、つい失笑してしまった。
「で、あの小娘はなんで貴様を襲ったんだ?」
「知るもんか。案内しろ、会わせろ、とか言って…」
娘の言動を反芻していると、また頭が痛くなってきた。そんなリオンが楽しいのか、漆黒の魔族は意地悪な笑いを浮かべ、災難だったな、とわざとらしい労いの言葉を吐く。
「連中は連中で、かなり歪んだ神話だか伝承だかを有しているみてぇだからな。此処やイシュヴァ、それらの民に対し、俺らには理解不能な解釈をしていやがるんだろうよ。
まっ、貴様はただでさえ異質だからな。その変人に、よくわからん期待をしやがったんじゃねーの?」
「なんだよそれ――…つーか、待った。人を変人呼ばわりすんなよ」
「はぁ? 自覚ねぇのか?」
リオンの抗議こそが予想外だったのか、破顔したタオは笑い損ねたような表情を浮かべる。
「悪魔の世界に馴染み、二対の翼を持つ俺と懇意にする、大天使。――明らかに変だろうが。
あぁ、そうか。魔界が気に入りやがったって事は、貴様はもう堕天使みてぇなモンか。…いや? 堕天使っつーよりも、貴様は駄天使だな。おっ、コレ気に入ったぜ。やーい、駄天使」
「…ッ。タオッ!!」
顔を真っ赤して発する抗議など無痛である魔族は、友情を込めて親友をケラケラと嘲笑った。
そんな悪友にも慣れているリオンは、苦笑混じりのため息をつく。
「…それにしても、あの娘を放置しても大丈夫なのか? 王の娘なんだろ?」
「王の娘だから、なんだよ? 俺が棲む森で暴れやがった時点で、ぶっ殺しても問題はなかった」
「…。いや、そういう問題…もあるけど、でも、そうじゃなくて…。
王の娘なら、それなりのチカラもあるんだろ? バハールドートに害はないのか?」
苦しい言い回しの大天使にタオは笑う。
「ああ? バハールドートの民が、あんな小娘に殺られるとでも? 売られた喧嘩は釣銭をくれてやってまで買うのが、バハールドートの流儀ってモンだ。
あ、自分の血を吸う蚊も叩き潰せねぇ気弱な駄天使には難しい話か。そのくせに、肉は食えるんだよなぁ。俺はてっきり、天使って生物は草食動物とばかりに」
「…。偽善で悪かったな」
「なぁに、貴様はなーんにも悪かねぇさ。イシュヴァが悪いだけだ、うん」
「…」
「けどまぁ…、確かに問題だな。小娘が馬鹿な魔王の呪物やらを掘り出しでもしやがったら。ま、それはそれで面白くなりそうだが」
リオンの怪訝な眼差しなど気にせずに、タオはブツブツと何やら呟いている。…出会った頃と比べて丸くなったとはいえ、やはりタオはタオだ。
肴の木の実を口に放り込んだタオが、ふとリオンに視線を向けた。
「ああ、そうだ。貴様、やっぱりイシュヴァに帰れ」
え…? と、リオンは顔をしかめる。
「なんで?」
「またあの小娘がちょっかいをかけてきやがっても、もう俺は助けてやらねーぞ」
「心配して言ってくれてるのか…?
…いや、怪しい。絶対に怪しい」
低く発した疑惑の呟きに、ブッ、と酒を吹き出すタオ。
「はぁ!? おい貴様ッ、怪しい、とはなんだッ? 貴様は人様の親切を素直に受け取れねぇ天邪鬼天使かッ?」
「天邪鬼のお前が言う親切は、親切じゃない。絶ッ対に、裏がある」
「なんだよそれ…」
「お前の日頃の行いの、結果」
「…昔話の羊飼いになった気分だな」
「お前なら狼を自力で追い払えるさ」
「えー…」
不満げに微妙な表情を浮かべるタオが面白い。悪戯っぽく笑ってやると、ますます眉間にしわが寄っていく。
そんな主人を書庫専属の五羽の兎達が不思議そうに見上げていたが、タオの睨みで即座に散っていった。
苛立ちに前髪を握ったタオがため息をつく。
「…とにかく、貴様はイシュヴァに帰れ。ひと月――いや、数日だけでいいから」
「数日…?」
「最初に言ったひと月さえ、俺は妥協してやっているんだぞ? 本当なら、数百年は来るんじゃねぇ、と言いたい」
「…」
タオの目は本気だ。それがわかる程の年月をリオンは共にしている。
だからこそ。リオンは、はぁ…、と大きなため息をついた。
「――…じゃあ、一週間でいいか?」
「ま、いいだろう」
「…で? その一週間で、お前は何をやる気なんだ? あの娘を殺す、とか言うなよ?」
「安心しろ。俺の予定にあの小娘の存在は、全くの無関係だ」
――…つまり、娘の再襲撃を言い訳に追い払おうとした自体は文字どおりの言い訳だった、という事か。
リオンにタオの考えはわからない。わからないが――、再びのため息だけで追及を諦める。此処はバハールドートであり、タオはバハールドートの要だ。リオンには計り知れない事情もあるのだろう…。
「…よくわからないけどさ、無理はするなよ? あと、ちゃんと寝ろよ?」
「貴様は俺の母親か何かかよ」
「あははっ。お前ってデカい駄々っ子みたいだもんなっ。
そういえば、先代の大天使長から言われたなぁ。ちゃんと食べなさい、とか、ちゃんと休みなさい、とか」
「…ふぅん」
まるで興味のない相槌だ。…地雷を踏んだかな、とリオンは戸惑う。
――…幼少時代のタオに、心から温かい言葉を掛けた者はいたのだろうか?
そんなリオンの想いを知ってか知らずか、タオは運ばれてきた夕餉の鶏肉を豪快に食らった。