Ⅰ・来訪者3
* * *
「白ちゃん、いる~?」
大量だった虫干しもようやく終了。最後の本を三毛の兎に渡していると、庭から女の声が聞こえてきた。
バルコニーから見下ろすと、相変わらず露出度が高い格好の夜魔が、潤んだ瞳と艶やかな唇で投げキスを飛ばす。早く下りてきてちょうだいな、とせがまれて渋々と庭へ行く。
途端、急接近してくる巨大な胸。
「ああっ、よかったわぁ白ちゃん。無事だったのね」
「ぶ、無事って…、何が?」
さも当然のように突撃してきた抱擁をスルリと回避し、リオンはひきつった顔で問いつつ間合いをとった。未遂に終わった抱擁に懲りる様子など当然なく、女はさも心配そうな色っぽい表情を浮かべる。
「白ちゃんにもしもの事が遭ったら、私は躊躇う事なく毒を飲むわぁ…! 愛を許されぬ二人、切り裂く運命、心中、そして永遠の愛…! 嗚呼、なんて素敵ー…」
「…あのー…」
胸の谷間からひっそりと取り出した一輪の薔薇と戯れる女に困惑していると、裾をクイクイと引っ張られた。見ると、角を生やした小悪魔がにっこり笑っている。
「えっとねー、読書の秋だってー。悲恋のお話が気に入っちゃってね、今の彼女は夢と愛に生きる乙女なのー。だから白ちゃん、ちょっと妄想に付き合ってあげてねー。ほらコレ、軽~い眠り薬だから大丈夫だよーっ」
「あ…いや、あの…。ほ、ほら…、俺ら天使は自殺しちゃいけない決まりだから。演技でも駄目。うん」
「えーっ?」
薬の小瓶を片手に抗議の雄叫びをあげる小悪魔を裾から剥がし、リオンは改めてこの両者から間合いをとった。…この二人は決して嫌いではないが、苦手なものは苦手だ。
リオンはやや強い口調で、それで? と話の先を促した。身悶えをやめた女は、わざとらしい仕草で右手を頬に当て、困ったように首を傾げる。
「それが…、白ちゃんを捜している悪魔がいるみたいなの。だから私、心配で…」
「俺を…? 誰が?」
女は、よくわからないのよねぇ、と左手も頬に当てる。
「見慣れない悪魔だ、って聞くから…、きっとアレね。夕べの《道》で来た余所者じゃないかしら?」
「でも、夕べは誰も来なかったんじゃ…?」
「大規模な訪問はなかったけれど、ちょこっとは来ていたみたい。ほとんどは《道》が開いている間に帰っちゃったけど、その一匹だけは帰らずに残ったようよ?」
リオンは眉をひそめる。
次に同じ世界と《道》が開くのは何時か、それは誰にもわからない。数百年、数千年後かもしれない。にも関わらず、その悪魔は昨夜のうちに帰らずバハールドートに残り、そしてリオンを捜している。…喜ばしい気持ちではない。
黙り込むリオンに女は、とにかく…、と両腕で挟んだ胸を寄せて続けた。
「白ちゃん、気をつけてね。できるだけ公のお傍にいて、お出掛けは安全を確認してからにしてね。
白ちゃんにもしもの事が遭ったら、私は躊躇う事なく短剣で喉を突くわぁ…!」
「わ、わかった。気をつけるようにするから。…心中もどきなんて、目覚めが悪くなるだろうだし」
ぼそりと小声で付け足された言葉が聞こえなかったのかどうなのか、再び身悶えしていた女は満面の笑みを浮かべた。
「ええ、そうしてねぇ白ちゃん」
リオンに危害を加えるバハールドートの民はほとんどいない。基本的には寛大な性質である彼らは、リオンを友好的に迎えている。そうでない者も皆無ではないが、タオを警戒してリオンに直接手出しはしない。
昔と比べて随分と雰囲気が変わったとはいえ、バハールドートの民がタオを畏れる気持ちは変わらない。それは魂に刻み込まれた本能のようなもの。緩和する事はあっても、完全に消え去る事はない。
だが、今回の悪魔はバハールドートの民ではない…。
難しい表情で館内の廊下を歩いていると、三羽の兎がドアに耳を押し当てている微笑ましい光景と遭遇した。タオの自室のドアである。仲良く盗み聞きのスリルを楽しんでいる…わけではなく、単に主人の様子が気になっているのだろう。
「ほら、散った散った。タオの安眠を妨害すると、半殺しにされちゃうぞ?」
わざと抑揚を付けた小声でおどけて言うと、ラピちゃん達はビクリとして逃げていった。途中で長い垂れ耳のラピちゃんが自分の耳を踏んで転んだが、怪我はなかったのか慌ただしく顔をこすって再び逃げていく。可愛いものだ。
笑みを浮かべていたリオンだったが…、ため息をついてドアを見やる。
タオに訊けば何かわかるかとも思ったが…、彼は、リオンには不要だ、と感じた情報は絶対に話さない。それに、今朝のあの様子――。今はそっとした方がいいだろう…。
リオンはもう一度ため息をつき、ドアに向けていた視線を外した。