Ⅵ・無辜の灰2
* * *
扉のある空間に広がる無の時間。そこにリオンは降り立った。
「…なぁ、本当にもう大丈夫なのか?」
隣で眉根を寄せ虚空を睨む魔族は、リオンの問いにますます顔をしかめる。
「しつけぇ駄天使だなぁ。貴様は自分の治癒魔法が信用出来ねーのか?」
「お前の回復速度が俺の常識を凌駕していて、それが逆に不安になる」
「あんなかすり傷、半日もあれば充分だ」
「それが丸一日意識がなかったヤツの台詞かよ」
「俺様を三日間監禁しやがった駄天使に言われたくねぇな」
「その駄天使の結界を、三日間ぶち破れなかったくせに」
友の不満げな表情にリオンは苦笑する。――病み上がりのタオは、リオンがタオの部屋に張った結界を、館の一部と共に吹っ飛ばしたのだ。今頃ラピちゃん達が片付けや修繕に追われているに違いない…。
リオンの視線に対し、タオは短髪を乱暴にガシガシと掻く。
「ま、おかげで肩慣らしは済んだぜ。3日も缶詰にされたおかげで、体がなまっちまったからな」
「はいはい」
失笑するリオンの傍で、ふいに起こる黒き風。見ると、長髪の姿に戻ったタオの姿。脇に抱えていた紺色の革表紙の古書を、面倒そうに開いている。
「…その本、なに? お前が潰れている間にこっそり中を見ようとしたけど…、なんつーか、本に拒絶されて、触る事も出来なかった」
「本ではなく、貴様の本能が拒んだんだろう。簡単に言えば、死者の書だ」
「し、死者の書っ?」
物騒な名称に思わず身構えると、タオは楽しげに残酷な笑みを浮かべた。
「相当な呪力が宿っているからな。ある程度強力な魔族でも、問答無用で死者の門へぶち込められる」
「もしかして…、使いこなす資格を持つ者はお前だけ、って類いのシロモノ?」
まぁな、と興味のない返事。
「似たブツなら、貴様の兄も持っているはずだが?」
「大天使長にのみ伝わる書に見た目が似ているけど…、ソレとは中身が違う」
「実際に読んだ事が?」
「…ないけど」
「中身云々は貴様の思い込みか」
「…。なら、何が書いてあるんだ?」
「貴様が知る必要はない」
「気になるだろっ」
「あ、そうだ。リオン、背中を向けろ」
片手で器用に本を閉じたタオが、ふと思いついたようにリオンを呼んだ。不満で口をとがらせながらも、リオンは素直にタオに背を向ける。
「一体なん――…いッてぇェッ!!」
ブチッ! と鳴った痛みに飛び上がったリオンは、髪を振り乱してタオを睨んだ。リオンの騒ぎなど関しない魔族は、一本の立派な白い羽根を指先でクルクルと弄んでいる。…リオンの翼から抜いたらしい。
羽根に強力なチカラを宿す事は、魔族も天使も共に同じ。それを本人の断りなく抜く事も、やはり魔族も天使も関係なく極めて問題のある行為だ。
「勝手に大天使の羽根を抜くなッ!!」
羽根を抜かれてジンジンと痛む翼をさすり、リオンは足を踏み鳴らして怒鳴りつけた。だが…いつもの事だが、怒鳴られた側に懲りる様子などない。烈火の抗議を聞き流しつつ、自身のたたんだ翼へと何やら手を回している。
「代わりにコレをくれてやる。ほれ」
「…」
自身の翼から一枚の羽根を抜き、ほれ、とリオンに差し出すタオ。…リオンは怒りを忘れ、目を大きく見開く。
「へ…? な、なんでだよ? この前は、絶対にやらん、って頑としていたくせに」
「御守り代わりだ」
「お、御守り…?」
怪訝顔のリオンに、タオは強引に羽根を渡す。
タオの魔力をビシバシと感じる漆黒の羽根…。魔族の頂点に位置する者の羽根だというのに、禍々しさは微塵も感じず、むしろ清浄なチカラの流れを感じる。
純然たる黒とは、なんと美しいものなのだろう――…。
「いつまで呆けている? お子ちゃまには刺激が強すぎたか」
「いッ…!?」
脳天を本の角で一発叩かれ、リオンはハッと我に返った。…羽根に宿る魔力に魅力されて正気を飛ばしかけていたらしい。冷ややかなタオの視線が痛い。
リオンは自嘲して羽根をしまおうとし――、触れた羽根の感触に心が惑わされる。軟らかくてしなやか。極上の手触り。無意識に羽根の先で頬をくすぐって、そのあまりの気持ち良さにニヤニヤしてしまった。
「…あ」
タオの視線がますます痛い。…またもや羽根に宿る魅惑のチカラに取り込まれかけたようだ。
リオンは慌ててわざとらしい咳払いをし、羽根を大切に懐へとしまった。
――魔力みなぎる羽根の交換は、最上級の親愛の行為。タオがリオンを強く深く信頼し信用している証でもあるのだ。
「ひとつ忠告する」
いつの間にか漆黒の大鎌を手にしていたタオが、その柄を肩に掛けてリオンを見た。
「私は今からこの虚空を裂く。裂いた向こうは別次元の空間だ。そこを突っ切るぞ」
「…その空間の先が目的地か」
「だがな」
忌々しげに虚空を睨むタオの盛大なため息。
「簡単にたどり着けるとは思うな。ある地点まではあらかた片付け済みだが、その先も涌いているだろうからな」
「涌く…?」
「この私に怪我を負わせるようなモノが、だ」
本気のタオに深手を負わせた何かが、無数に存在すると…? リオンは顔をしかめる。
「お前が俺を連れて行きたがらなかったわけだ…」
「――他の理由の方がデカいけどな」
「へ?」
「とにかく」
呟きを修正するかのように、タオは、トンッ、と鎌の柄を床に打ち付けてリオンの注意を向けた。
「貴様は私の後ろにいろ。雑魚への手出しは構わんが、深追いはするな」
「わかった」
「何が出ようと私が排除する。とにかく、貴様は私の後ろだ」
「…俺はお前に守られるばっかりかよ」
「駄天使の分際で思い上がるな。貴様が前でうろちょろされると、殺りにくいだけだ」
「ふぅん…?」
タオが、とにかく、と声を張り上げる。
「私から離れるな。万が一、はぐれたり幻に惑わされた時は、私の羽根から私を探れ」
「幻…?」
「遭えばわかる」
リオンは、意味がわからない、と続けようとしたが、思い直してグッと堪える。タオの言葉に誤りはないだろうし、これ以上の説明を求めても…タオ自身どのように答えれば良いのかわからないのだろう。
不満はあるが頷いたリオンに、タオがため息をつきながら頭を掻いた。
「それから…、どうにかしろ、と言うなよ? 俺は俺なりに考えたんだ。貴様は貴様で考えやがれ」
「…それ、前にも言った」
「強調したんだからな。もし言いやがったら、半殺しだ」
「覚えておくよ」
「…期待はしねぇけどな」
「それも前に言われた。しつこいぞ」
わざと怒って言うと、タオが顔をしかめてため息をつく。
重い動きで鎌を構え、再度のため息。
「――…はぁ…、絶対に厄介が起こる予感がする…。胃が痛い」
「あーもうッ、わかったからッ。さっさと覚悟決めろよッ」
「つーか、少し離れろ。巻き込むぞ」
数歩下がったリオンを確認し、タオは一瞬で魔力をみなぎらせ、虚空目掛けて鎌を振るう。
「!」
魔族の一太刀に揺らぐ空間。凝縮された異質の空気。高圧の気流に体が押し戻されそうになるが、リオンはなんとかその場に踏み留まる。
次の瞬間。リオンの手を鷲掴みしたタオが、出現した空間へと躊躇いなく飛び込んだ。




