Ⅱ・伝承5
* * *
一週間ぶりに戻ったその足で書庫へと向かうも、いつもならそこに在る館の主の姿はなかった。
「タオは?」
その辺りでくつろいでいた書庫専属の兎達に問うと、二羽は同時に館の西側を指差し、一羽は耳を、一羽は顔を短い手でクルクルと拭い、最後の一羽は緊張感なく手足を投げ出して床に座った。
どうやらラピちゃん達は、主人は風呂に入っている、と伝えたいらしい。
「…タオがこんな昼間から、風呂?」
顔をしかめつつ問うと、一斉に可愛らしく頷くラピちゃん達。珍しい事もあるもんだ、と苦笑しながら、リオンはタオお気に入りの一人掛けソファに腰を下ろす。
整頓された本棚。すっかり見慣れた中庭の景色。僅かに開かれた窓辺で、秋の軽やかな風がカーテンを揺らす。
居心地の良さから無意識に笑んでいると――、目の前のテーブルに見慣れぬ本を見つけた。古めかしい紺色の革表紙。無造作に散らばった蔵書に紛れ、異質な存在感を放っている。
「貴様が手にしていいモンじゃねぇぞ」
手を伸ばした瞬間、前触れもなく聞こえてきた制止。ビクッ、として見やると、こちらに歩み寄る黒い寝間着姿の魔族。しっとりと湿った漆黒の短髪を、首に掛けたタオルで無造作に拭いている。
「…鴉の行水」
「誰が烏だ。俺様にしちゃあ長風呂だったぜ」
「そうじゃなくて。お前はいつも見事に黒一色だよな、って思ってさ。今もタオル以外は全身が黒。他の色は嫌いなのか?」
「嫌いじゃねぇけど――」
自分の指定席を占領しているリオンに文句は言わず、タオはリオンの指定席である向かいのソファに腰を下ろす。
「ま、黒が一番気に入っているからな」
「試しにさ、俺の法衣を着てみないか? イシュヴァから持ってきてあるから」
リオンの提案にタオが、ガクッ…、と頬杖を外す。
「大天使の法衣だぁ〜? 貴様、誰に向かってぼざいてやがる」
「もちろん、洒落気のない親友に向かって」
「洒落気がねぇどころか、かーなりこだわっているんだぜ? 素材、色の濃淡、デザイン――」
「裾が長いのが好きだよな、お前」
タオは答える代わりに目を伏せて笑い、伸びをしながらソファに横たわった。僅かに笑みを湛えた横顔…、彼がとてもリラックスしているのがわかる。
初めてタオがこんなに無防備な姿を自分に晒したのは何時だっただろう――、ふとそんな事を思った。
「兄貴が、お前によろしく、って」
「相変わらず馴れ馴れしい大天使長様だな。ま、貴様もか。よく似た兄弟だぜ。貴様らは本当に血ぃ繋がっていねぇのか?」
「兄貴は兄貴。それだけだ」
「大天使ってのは、アレだろ? ごく普通の天使から低確率で産まれるんだろ?」
モヒカンのラピちゃんが焼きたてのスコーンを運んできた。リオンは、そうだよ、と答えつつ、スコーンを割って蜂蜜を垂らす。
「イシュヴァに最低一人は在るように産まれてくるんだ。神が大天使の数を調整してるのかも」
「神。…久々に聞いた言葉だな」
「俺は神の崇拝者、ってわけじゃないよ? 神は存在する、そう感じてはいるけど」
「…馬鹿馬鹿しい」
いつも以上に投げやりな口調に驚いて顔を上げると、タオはこちらを背にしてソファに身を馴染ませている。
「そんなモン、いねーよ」
「なんだよ、怒ったのか…? 気を悪くさせたのなら謝る」
複雑な心境でいると、タオはゆっくりと寝返ってリオンを見た。穏やかな目。
「いや、怒っちゃいねぇ。気が立っていた。…疲れてんだ。悪りぃな」
「…」
――…思わず、唖然としてしまった。タオが詫びを言うとは珍しい。それほどまでに疲弊し弱っているというのか。
自分がイシュヴァに戻った理由は、タオが帰るようにと言ったためでも、大神殿の書庫で調べ物がしたかったためでもない。疲労の色が見えたタオを一人にして、ゆっくりと休ませたかったのだ。なのに彼は、まだ疲れている、という。実際に疲労が窺える。それほど頑固に疲労が残っているのか。――否、彼は全く休まなかったのだろう。
自分が不在にしていた間、タオはずっと何かをしていたのだ。何をしていたのかと問い質しても、おそらく答えてはくれないだろう。だが…。
「…」
気が付けば、タオは規則正しい寝息を立てている。垂れ耳のラピちゃんが小さな体で一生懸命に毛布を運んできたが、毛布を踏んづけて転んでしまった。
やれやれと苦笑しつつ立ち上がり、リオンはラピちゃんに代わって友に毛布を掛ける。一瞬だけタオが目を微かに開けたが、毛布を体に馴染ませると再び寝入ってしまった。
床に落ちたタオルを拾い上げる。冷たい。
「…」
友の眠りを妨げないように、リオンは静かに書庫を出た。
「風呂に入ったって事は、汚れた、って事だよな…」
昼夜を問わずに書庫で過ごす事が多いタオ。その彼が珍しく外出をし、衣服や体を汚して帰ってきた。
――…一体、どこで、何をしていたのだろう…。
「白ちゃん!」
渡り廊下に差し掛かった時、甲高い女の声が耳に響いた。驚いて視線を巡らすと、中庭に立つ夜魔の女。
「ねぇ白ちゃん、聞いてちょうだいな! あの小娘、酷いのよ〜っ!?」
「小娘…?」
怪訝に問い返すと、女は珍しく鼻息荒くさせつつ乳を揺らして腕を組む。
「この間の満月で来た、余所者の小娘よぉっ」
リオンは、あ…、と小さく声を漏らす。タオの心配ばかりに気をとられて、あの混血の娘の存在をすっかり忘れていたのだ。
そんなリオンの反応にますます苛立ったのか、女は目をつり上げて髪を振り乱した。
「あの小娘、私達の住処をぐちゃぐちゃにしたの! 散々引っ掻き回して、さっさと退散したのよっ!?」
「住処を…?」
彼女達の一族は、山を二つ越えた先の塔を住処としていたはず。特に変わった点はない古い塔なのだが…。
「そうなの! しかも、私達の住処だけじゃないの。他の悪魔の住処も荒らしているみたい。だから、みーんな大激怒…! 徒党を組んで小娘狩りに出る悪魔もいるくらいなのよ〜っ」
「それは…、穏やかじゃないなぁ」
「私も被害を受けたわぁっ。お気に入りの衣装を踏みにじられたの! 貝と紐で作った素敵な衣装でね、それを着て公を誘惑しようと思っていたのに…!」
「…そ、それも…、穏やかじゃないな…」
徐々に強ばっていく自分の表情筋を感じつつ、リオンは無意識に女と距離を空けた。
「親父さんは?」
いつも女と共に行動している小悪魔の姿が見当たらない。リオンが首を傾げると、女は疲労感たっぷりなため息をつく。
「お父様は小娘狩りに出て、それっきり。帰って来ないわぁ」
「へぇ…。そういうのに参加しなさそうなのに、ちょっと意外」
「白ちゃんったらそんな顔しちゃって。成り行きでの参加なの。まぁ帰って来ないから、死んだのかもしれないわねぇ」
「…」
バハールドートの民には親子の情など希薄で、安否を心配する事もないらしい。ここまであっさりと言われると、むしろ清々しさすら感じてしまう。
女はわざとらしく潤ませた瞳で、それよりも…、と上目遣いにリオンを見つめる。
「白ちゃん、あの小娘に迫られたんでしょう?」
「…へ?」
「大丈夫だった?」
「…。な、なんか誤解してないか…?」
「あらぁまぁ白ちゃん、顔が真っ赤よ? 本当にウブなのね。可愛いわぁ。――あら、逃げないでぇ〜」
女のすがるような黄色い声を背後に、リオンは低空飛行で館の中へと逃げ込んだ。
少し悩んだものの、リオンは再び書庫に戻った。
警戒心の欠片もない、という寝顔の館の主。いつの間にか捕獲されたらしい茶トラ模様のラピちゃんが、諦めきった表情で大人しく潰されて枕になっている。
この孤高なる存在がこのような寝顔を無防備に晒してくれている――。これほど自分に心を開いてくれている事には誇らしさすら感じる。
無意識に口元がほころんだが――…、ふいに沸き上がってきた不安に心が曇った。
――…タオがこれほど無防備な姿を見せた事があっただろうか…。
もし…、他者をはね除ける余裕がない程にまで疲れきっているのだとしたら…?
「…」
あの満月の晩、何をしていたのだろう? 自分が不在であった間に、何をしていたのだろう?
――…これから、何をするつもりなのだろう…?