序章
もう二度と足を踏み入る事はあるまい――。そう確信すらしていた地に、彼は訪れていた。
数日後に満月を控えているとはいえ、分厚い雲に遮断された月光は地上まで届かず、周囲は闇に包まれている。だが闇に慣れている彼にとって、闇はすでに闇ではない。鬱蒼と茂る草木や落ち葉を障害とせず、粛々と歩を進めていく。
それで――、と。
唐突に歩を止めた彼は、誰もいない虚空へと問い掛けた。
「今更、何用だ? 返答によっては――」
低く暗く。威厳と威圧。そして、抑圧した魔力の全てを解放せん勢いの殺気。無意識に溢れ出た己の魔力にますます煽られていく。
だが――。その彼を前に、相手は口の端を持ち上げて軽く笑んでみせたのだ。余裕すら感じさせる気配。
『――そうカリカリするな。お前に話すべき事がある』
「貴様から聞くべき事など何もない。勝手に語れ。その後、再び葬ってくれる」
死を呼ぶ覇気に、虫の声や木々のざわめき、風さえが息を潜めた。あまりにも重い空気が周囲に満ちる。
しかし、男の笑みは変わらない。それどころか、その笑みはますます深まっていく。
『実に頼もしい。好きにしろ。それを承知の上で、永久の闇よりお前に会いに来たのだからな』
その言葉に彼は、ほぉ…、と目を眇める。
「何を血迷うたかは知らぬが…、私は貴様と馴れ合うつもりなど毛頭ない」
『お前は変わった。昔のお前ならば、今こうして私と対峙すらしていまい。私の存在を感じた瞬間に、私を消しにかかっただろう』
「――何用だ、と訊いたはずだが?」
依然として殺気を弱めぬ彼に、男は笑みをたたえて閉眼した。そして息を吐き、口を開く。
『お前が大切だと思う全てのモノに関わる話だ。聞いて損はないぞ?』
「そんなめでたいモノが私にもあると思うておるならば、残念であったな。私は何も重要視などしておらぬ。世界も民も――…私自身の命すらも」
『お前は変わった』
男は伏した目を開いて彼を見据えた。その瞳は、闇夜にすら映える美しい黒。
『世界も民も己さえもどうでもいい――、確かにかつてのお前の本心だろう。
だが…、お前は変わった。今のお前には、失っては惜しいと思うモノが数多くある。そうだろう? でなければ、こうして私の話をおとなしく聞いてなど――』
「…減らず口も相変わらず、か。さて、あと何回殺せば黙るかな」
『例えば――…あの大天使』
男の言葉に、彼は無意識に眉を跳ね上げた。対して、男は悠然とした笑みを口元にたたえ、軽く小首を傾げてみせる。
『どうだ? 死なせたくはないのだろう? ならば、この減らず口に少し付き合うことだ』
「…一つ、勘違いをしておるようだがな」
うん? と喉を鳴らすかのように問い返してきた男を、彼は傲慢で自信に溢れた笑みで見据えた。
「どこぞの誰かがアレを殺すなど、ありえぬ事よ。
アレを殺すのは――、この私だ」