虚実の狭間
たとえば、こんな妄想。
目を閉じ、息をするな。何も考えるな。縮こまり、体を硬直させて石となれ。
音を立ててはならない。気配を消せ。お前はそこに存在しない。
ぎゅっと眉間に力がこもる。
僕は早鐘を打つ心臓の音に恐怖を覚えた。
僕の中で爆音が響いている。何かが僕の内側のドアを執拗に、乱暴に叩いているような音が。
恐怖が僕の意識に反して、体を小刻みに震わせる。
これじゃまるで僕は発信機だ。見つけてくれと懇願しているようなものじゃないか。
僕は心臓を手で握って震えを止めたい欲求に駆られた。
そうすれば僕は死んでしまうだろう。
嫌だ、死にたくない。でも震えれば死ぬ。だから止めたい。
なんということだ。どちらにせよ僕は、死ぬのだ。
瞬間、僕の黒く塗りつぶされた視界に死という文字が孵化し始める。
ものの一瞬でゴキブリのようにうじゃうじゃと視界にこびりつく、無数の死。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
がくがくと顎が揺れ始める。
……な、んで、だよ……。
憎しみと悔しさで、頭痛がするほどに顔面の筋肉が醜く歪む。喉の奥が詰まり、目から液体が零れる。
嗚咽は唇を噛んで我慢する。今はもう無意識にそうしてしまう。おかげで僕の唇は下唇だけぶよぶよに肥大していた。
……なんで僕が、死ななくちゃいけないんだ。僕は何もしていないじゃないか。どうしてこんなにも現実は理不尽なんだ。
僕をこんな運命に導いたのは誰だ。僕は望んじゃいない。そうだ。だから全部お前のせいなんだ。お前が望んだから僕はこんな状況に立たされているんだ。
お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。
「おいっ、そこに誰かいるのか!」
鐘が鳴った。
「と、いうわけで今日はここまで。次回はこの続きからということで、お疲れ様でした」
そう言って古文の教師は先ほどまで剣に見立てていた指し棒を短くし、とても満足そうに教室を出て行った。
「おいっ、そこに誰かいるのか!」
クラスのお調子者ポジションの奴が早速ネタにしている。もはや飽きるほどに見慣れた光景だった。
「絶好調だな」
隣の席の友人が妙な笑い顔で僕に話しかけてくる。
「熱くなんのはいいけど、いい加減ちょっとくどいわ」
だいたい数百年前に人が感じていたことなんて分かりっこないのに。勝手に解釈を押し付けられるのも疲れるというものだ。
「まー、俺は結構楽しんでるけどね」
「あそこまでいくと最早妄想の域だろ」
「いいじゃん。なんつーか、ロマンがあって」
「歴史に夢見るなよ。現実はもっとつまんないの。今日のアレだって、あんなドラマみたいなセリフ言ったはずないね。誰かいるかもしれない、ってなったら何も言わずにこっそり近づいて確認するだろ」
「まぁ、そうだろうけどさ。お前ちょっと現実的すぎ。だからモテねぇんだよ」
「うっさいわ」
映画や小説の中でなら良い。むしろ大歓迎だ。
夕日を背に決意する別れ、空中での魔法大戦、突如始まる戦争。大いに結構。
だが歴史となると話は別だ。そこに居た人物は紛れもなく僕たちと同じ世界に生きていた。
そこにドラマ性などはほとんどなく、現実的な泥臭さが世界のほとんどを埋め尽くしているのだ。
にもかかわらず創作物のように脚色して事実を捻じ曲げるのは、妄想と現実が混ざり合ってしまうようで、……嫌だ。
妄想は妄想であるからこそ、人はそこに安寧や刺激を見出せるのだと思う。
「もしかしたら織田信長は腹上死したのかもしんないぜ?」
「あり得ない。そんな説ないし」
「その説ってのも結局は口伝えとか本に記されていたものを基にして創られた“一番もっともらしい話”じゃんか。創作物と何が違うんだよ」
「いや、だってちゃんと証拠が」
「全部ウソだったら? 俺たちの知ってる過去は全部誰かが作った創作物で、実は今は西暦二千十年じゃなくて、五度目の人類誕生から六千三百十年だったり」
「馬鹿言うな。ありえない。僕たちの居るこの世界は過去の人物が生きてきた上にある。文学だって科学だって、偉人の名前がごろごろ出てくるじゃないか」
「お前は盲目的に信じるんだな? 自分の目で見たわけでもないのに。お前だけじゃない。この世界に生きている人間は、せいぜい百年前までの記憶しか持っていない。その前に様々な事象を感じていた人たちはもう死んでしまっているんだ。なのに何故、それが真実だと言い切れる?」
突然真顔になって口調の変わった友人に面食らう。
「じゃあ、何が本当なんだよ」
「そうだ。それが問題だ。書でなくとも、他人であるだけでその人が考えていることを理解することは不可能だ。つまりこの世界に本当のことなどただ一つを除いて存在しない」
そこで突然、饒舌な友人は言葉を切った。
「そのただ一つって、なんだ?」
友人は体をこちらに向け、力強く言い放った。
「自分が自分である、ということだ」
強く風が吹いた。そして永遠とも感じられるような無言の時間が流れてゆく。
その時、僕の頭に天啓とも言うべき考えが閃く。
こいつ、は……まさか。
「そうだ。俺は、」
その先の言葉を、このときすでに僕は分かっていた。
それが、僕の運命だったから。
「お前だ」
「そうやって先月貸した一万円ごまかそうとしても無駄だからね」
「やっぱ無理か」
友人が情けない顔で笑った。
だんだんとつられて僕も笑えてきてしまう。
こうやってお互いに変な冗談を言い合うのが、僕らの日課だった。
くだらない。本当にくだらない。
どうしようもなく平和で、退屈な日常。
たまには自分が悲劇のヒーローになる妄想をするときもある。僕はけっこう痛い子だ。
でもそれは妄想で、けして現実ではない。
それがいいのだ。現実はつまらないからこそ、現実らしい。
つまらないから、小さな冗談でこんなにも笑いあえる。
そんな現実に居られて、
僕は今、とても幸せだ。
黒い雨がさめざめと降り注ぐ中、円形に抉られた焼け野原の中心で、少年は擦れた声で咆哮し、一発の銃声が大気を震わせた。
もらった古い溶接機のバッテリーを充電しようとしたら、液面低下のランプが点灯。
なぜだー! 液タプタプに入ってるのに。
六年間雨ざらしだったらしいから、やっぱりどこか故障してるのかな……。
少しでもお楽しみ頂けたなら幸いです。
ご読了、ありがとうございました!




