甘々新婚生活に怯えるオメガ妻の憂鬱
——運命と出逢ったら、一目でわかると誰が言ったのだったか。
あの日、舞踏会の話題はたった二人の若者に全て掻っ攫われた。青年が、一人の娘の前で膝をつき、その手に恭しく口付けたのだ。
「どうか、私のつがいになってください」
「はい……喜んで」
交わされた言葉はたったそれだけだった。だが二人にはそれで十分だった。
夫ユリウスが屋敷に帰還した。出迎えたティナは、微笑んでユリウスの胸にそっと寄り添う。背中に回った手が、ティナの体を抱きしめる。その力強さに、胸がときめいた。
「おかえりなさいませ、ユリウス様」
「ただいま、ティナ。私のオメガ、愛おしい人」
そっと額に口付けられる。すぐ近くでユリウスの匂いがする。それだけで、ティナはふわぁっと足元が浮くような感覚に陥ってしまった。頭がぼんやりして、目が潤んでしまう。そんなティナを見て、ユリウスはいつも嬉しそうに目を細める。
「ティナ、かわいい人……そんな切ない顔で見つめられると、少し困るな」
「あ、私……そんなつもりは……」
そっと両手が頬に触れる。革手袋越しにユリウスの体温を微かに感じた。再び額に触れた唇に、ティナはぴくり、と肩を揺らして目を閉じた。瞼に、頬に、鼻先に、それから、啄むように唇へ触れられる。
「……あ……」
すぐに離れていくのが寂しくて、ティナはつい目を開けてしまった。そうして至近距離で、優しく見つめる瞳を覗き込んでしまう。息を呑んだ。同時にまた、触れるだけの口付けを落とされる。
「ユリウス、さま……」
「ふふ、ティナ、かわいい」
「あの、ぁ、……」
ちゅ、と軽やかな音を立てて、何度も唇を啄まれる。ティナは、頬を包む両手を、縋るように掴む。くらり、と眩暈がする。
「ユリ、ウス、さま、……お食事、が」
「うん、……うーん、そうだなぁ」
ちゅう、ともう一度唇を喰まれて、ティナはそれ以上言葉を紡ぐことができなくなった。ユリウスは、少しだけ悩むそぶりを見せたあと、もう一度ティナの赤く火照った唇を啄んだ。
「後にする」
「……!」
楽しそうに笑ったユリウスに軽々と抱き上げられた。ティナは蕩けるような心地のまま、その首に手を回した。
朝、まだ目を閉じているユリウスの顔を見下ろして、ティナは憂鬱なため息をついた。
ごく小さなそれを聞かれてしまったのだろう。ユリウスはすぐさま目を開けた。
「なんだか元気がなさそうだ」
大きな手のひらが、そっと頬に触れる。髪を柔らかく払い、耳元から、目元まで、優しく撫でる。ティナはうっとりと目を細めた。
「……いいえ、そんなこと、ありません」
ユリウスが、心配そうに見上げている。でもこんなこと、夫には言えない……夫にだけは。
ティナは、そっと微笑んだ。心配をかけないように。
運命の相手、ただ一人の私だけのアルファ。その人と結ばれて、幸せだ。きっとこれ以上の幸せはない。心からそう思っている。けれど、どうしても拭えない不安が、ヒタヒタと毎日心の中でかさ増していく。だって私、私は……。
「私は……まだ発情期じゃ、ない……」
一人、寝台の上でティナが震える。自分を抱きしめるようにぎゅっと両腕を体に回した。
まだ、である。結婚してから、まだ一度も来ていない。こんなにふわふわして、ポヤポヤして、体がほかほかするのに、まだ。
てっきり、周期が早まったのだとばかり思っていたのに、違った。——それなのに、昨日触れられたところがまだ熱いような気がする。きっと気のせいじゃない。頭の先からつま先まで、ほんのりと熱を持ったまま引かないのだ。
「私、どうしたら……」
ティナはため息をついた。平時なのにこの有様だ。これで発情期が来た日には、一体どうなってしまうんだろう。そんな状態でユリウスに触れられたら……。想像しかけて、できなくて、そうしてティナは息を呑んだ。
「わ、私……そのまま、し、死んじゃわないかしら……」
最悪の結末を想像してしまい、ティナはもう一度震えた。
ふわふわで、かわいくて、ほんのり紅潮した顔でいつも微笑んでくれる、かわいいかわいい俺のつがい。それが、ふと朝起きた時に沈痛な表情をしてる。どうしたんだろう、心配だ。でも彼女は首を振るばかりで……。
「なんかしたかな俺???」
「さぁ……」
「なんだと思います???」
「そうだね……」
「殿下! 真面目に聞いてください」
「聞いてるとも……」
にこり、と殿下は優雅に微笑んで紅茶を揺らす。その視線は遠く中庭の薔薇を見ている。本当かなぁ、とユリウスは怪訝な顔で殿下を見た。視線に気づいた殿下は、どこかバツの悪そうな顔で言った。
「あんまり、その、新婚の話をしないでくれたまえ……あてられるんだ……」
殿下は、少し悲しそうに見えた。ご婚約不成立が続いているのが堪えているのだろう。ちなみに先月も婚約破棄になった。
ユリウスは、愕然とした。
「そんな、殿下……俺は一体誰に相談したら……」
「私以外……私以外なら誰でも良いよ……」
殿下は遠い目をやめなかった。
——ついに来た。
朝から体が重くて、まるで腹の奥に鉛が詰められたような気分だ。ティナはぞくりと体を震わせた。
夫はもう部屋に居なかった。良かった、とティナは胸を撫で下ろす。まだなんの覚悟も決まっていないのだ。ここにユリウスがいたら、あっという間にわけがわからなくなってしまいそうで怖かった。
寝台の上、そっと身じろぎするだけで、愛しいアルファの匂いがふわりと漂う。ほんの数時間前まで寄り添っていたせいだ。
「……」
ティナは、ずしりと重さを増した体を、ようやく少しだけ持ち上げた。胸が苦しい。残り香だけで、こんなに。はだけた寝巻きをそっと着直し、乱れた髪を軽く抑える。
——まだ大丈夫、まだ。
ティナは自分に言い聞かせる。シーツに残るアルファの気配から離れがたい気持ちを引き剥がすようにして、ティナはベッドから降りた。
ユリウスが帰宅したと知らされても、ティナは部屋から出られなかった。熱っぽい体のまま、ぐったりと寝台に伏せている。朝、湯浴みをした後に着替えては見たものの、結局一日中寝巻きのままだ。とても人前に出られそうになかった。部屋の中はどこもかしこもユリウスの匂いでいっぱいで、シーツも、枕も、羽毛布団さえアルファの気配を色濃くさせて、ティナの心を乱した。
——私のつがい、こんなにも気配だけがあるのにどうして貴方はここにいないの。
ぐすん、と鼻を啜る。会いに行きたい、縋りつきたい。でも、同時に不安が胸いっぱいに広がるのだ。
——本物のユリウス様と相対したら、私が私でいられなくなるかもしれない。
どうしても、それが怖かった。
その時、コンコン、と控えめに戸を叩く音がした。
「……ティナ」
びくり、と体を震わせ、ティナは目を開けた。
「ティナ、調子が悪いと聞いた。大丈夫?」
——アルファの声だ。私の、わたしのユリウスがそこにいる
ふら、と手を伸ばしかけ、慌ててティナは引っ込めた。
「ゆ、ユリウス、さま……おかえりなさいませ」
ひっくり返りそうな声で、かろうじて返事をした。
「……ティナ? 開けるよ」
「ダメです!」
「え……」
悲鳴のように言い切ると、扉の向こうでユリウスが戸惑った声を出した。
「そんな、ダメなのか? 少し顔が見たいだけなんだ」
「だ、ダメです……だめ……」
「どうしても?」
「あ、……う……」
悲しそうな声がする。大事なつがいが悲しんでる。ティナはぎゅうっと胸が締め付けられそうになる。そこに居るのに、触れられない。
——だって、怖い。
——でも、会いたい。
ティナは、よろよろと吸い寄せられるように扉の前に歩み寄った。
ガチャ、とノブの回る音が、ひどくゆっくりと聞こえる。
「……ティナ?」
「はい」
少し不安そうな顔のユリウスが、立っていた。その顔を見ただけで、ティナはツンと涙が滲んだ。
ユリウスは、無言でティナの顔をじっと見下ろした。
「…………いい匂いがする」
「は、い……」
長い沈黙の後、ユリウスは絞り出すように言った。発情期にあてられたアルファの顔だった。
「ティナから、してる」
「……は、」
はい、と答える前に、きつく抱きしめられた。息がくるしい。ずっと求めていた相手に包まれて、ティナは気が遠くなりそうだった。けれど、すぐにユリウスの声で引き戻された。
「どうして、扉を開けたくなかったんだ?」
「あ、それ、は」
「……俺が嫌になった?」
「え」
「一緒に居たくなかった?」
「ち、ちが」
「……ごめん、今は離してあげられない……ごめんね……」
「違、ちがい、ます! 違うんです……!」
ふるふると首を振り、ティナもユリウスの背中に縋りついた。
「いつも私、すごく幸せで、……すごくふわふわして、何にもわかんなくなって、発情期じゃ、ないのに……!」
ティナの両目から雫がポタポタ落ちる。不安が涙の形になって外に出ていくようだった。
「だから、発情期がきたら、私どうなるのか、わかんなくて、怖かっ、たん、です……」
「……」
ユリウスは、ゆっくりと瞬きした。
「あー、なんだ」
深く息を吐いた。肩を落とすほどに、深く。
「そういうことか……」
それからティナを一層強く抱きしめ、ユリウスは、ふふ、と笑った。
「……かわいい、かわいいティナ、すごくかわいい」
「わ、私、本当に……っ!」
「うん、大丈夫」
ほろほろ落ちる雫を、吸い取るように頬に口付けられる間中、ティナはユリウスの背中をパタパタと叩いた。
「だって、だって、本当に心配で!」
上機嫌なユリウスが、喉の奥を鳴らす。
「ふふふ、……うん、だめだ、クラクラしてきた。我慢できそうにない」
「……っ」
グッと背中を逸らすように抱き寄せられ、ティナは深く口付けられた。舌ごと飲み込まれそうなくらい、深く。
「……!」
唇が離れた時、ティナの頭の中で膨らみ続けていた不安は、つがいの匂いでいっぱいに包まれた安心感に塗りつぶされていた。
「ティナ」
「ぁ、う、……」
答える前に、また口付けられ、有無を言わさず抱き上げられる。軽やかに部屋を横切って、あっという間に寝台に辿り着いたユリウスが、腕の中のティナを優しく横たえる。覆い被さるようにして手を付いたユリウスが、潤んだ瞳のティナを見下ろしながら、そっと頬を撫でる。甘く蕩けるような声で囁いた。
「かわいいティナ、どんなふうになるか、一緒に確かめてみようか」
ティナは、ぼうっとしたまま、頷いた。
朝、目覚めたティナが、とろとろにとろけた顔でゆるりと微笑んだ。それから、ハッと目を見開いて、飛び起きる。細く喉を鳴らすように小さな悲鳴をあげ、顔を真っ赤にして、シクシクと泣き出した。曰く、恥ずかしい、はしたない、もうお嫁に行けない、云々……。
ユリウスは微笑んだ。そっとティナを抱き寄せ、涙の残る目元に唇で触れた。宥めるように髪を撫で、背中を撫でて、首筋に触れる。いくつもの歯形が残る頸をそっと指先で辿りながら、耳元で優しく囁いた。
「大丈夫、貴女はもう私のお嫁さんだよ」
「——そう言うわけで、ティナは不安に思ってただけでした! あーよかった! かわいい!」
「そうか、報告ありがとう……しなくてもよかったんだよ……」
「それで本題ですけど。殿下、新しくご婚約が決まったとお聞きしました。誠におめでとうございます」
「うん、先に言おうね……」




