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1人目:魔女ネルと母の絵画①

 

 よく晴れた気持ちのいい朝だ。


 ポップアップトースターから焼けた食パンが飛び出し、美味しそうな香りが漂い始める。私は冷蔵庫からバターと近所の方から貰ったイチゴジャムを取り出した。

 抽出しておいたコーヒーと牛乳を適量マグカップに注ぎ入れ、私の朝食の準備は完了だ。


 ジャムとバターたっぷりのトーストにミルク多めのコーヒー。シンプルだけどこれが1番嬉しい。


 出来立てトーストを一口かじればイチゴジャムの甘酸っぱさとバターの程よい塩味が口いっぱいに広がる。それだけで幸せな気分になれるのだから、やっぱり人間たちの営みは素晴らしい。

 ここに来て良かったのだと強く感じるのだ。


 コーヒーを堪能していると、私の後ろ側にある窓がトントンと弱々しく叩く音が聞こえる。

 振り返るとモフモフの白い猫がこちらを見ている。首につけられた青い首輪でその猫が誰だか分かった。というかこんな事はあの子しかしない。目が合うと開けてほしそうにもう一度前足で窓を叩いた。


「はいはい、今開けるよ『アルフ』」


 私が窓を少し開けると白猫のアルフは狭い隙間からするりと室内に入ってきた。そしてそのまま窓枠から机にぴょんとジャンプをする。


「もうっ、毎朝勝手に脱走して……まあ画廊オープンまでに間に合ってくれたから良いけどね」


 猫相手に私の言葉がちゃんと通じているか謎ではあるが、心なしか尻尾がしゅんと垂れ下がっている。

 そして私に向けて顔を上げて何かを渡したそうに僅かに口を開けた。よく見たら何かを咥えている。手のひらをアルフの顔の前に差し出すとぽとりとそれを置いた。


 透明なガラス片だ。長い間外で放置されていたのか表面には細かい傷がついており、角も削れて丸みを帯びている。光に透かすと僅かに光って、思わず『綺麗……』と呟いてしまった。

 アルフは私のご機嫌取りなのか気まぐれなのか分からないが、毎朝出かけてはたまにお土産を持って帰ってくれる。口が傷付くと危ないから程々にしてほしいけど、正直プレゼントは心が温まって嬉しい。


「おませさんね。有り難く受け取っておくわ」


 私は引き出しから猫用のご飯缶を取り出し、蓋を開けてアルフの前に置いた。


―――――――――


 朝食を食べ終えた私たちは、すぐに1階のアトリエに向かう。階段を中心に左右にそれぞれ8畳ほどの部屋がある。


 片方は私の作業場と受付。

 もう片方はこのアトリエのメインである母の絵画の展示スペースだ。


 まずは展示スペースに向かい、何度も見た絵画たちの状態をチェックしていく。繊細な筆使いで描かれた油絵たちだ。母が描いた絵画は本物のようにリアリティがあり、手を伸ばせば触れられそうだと感じる。


 展示されている絵画の額縁を1つ1つ丁寧に拭いていく。1つだけ額縁に入れていないむき出しのキャンバスがある。空になった猫用のご飯皿だけが描かれたそれに、私は指を差した。


「さあアルフ、もうすぐオープンだから戻って」


 外が好きなアルフはやや不服そうに低い声でミーと鳴いたが、キャンバスめがけてぴょんとジャンプした。


 私が触れても表面に油絵具の質感を感じるただのキャンバスなのに、アルフにとってはこのキャンバスは小さな世界だ。絵の向こう側の小さな空間になんの障害もなくするりと入り込んだアルフは、くあーと大きな欠伸をして眠ってしまった。

 無駄に早起きなんてするからそうなるのよ。でも大人しいのは好都合。今のうちに額縁に入れてしまおう。やっぱりむき出し油絵をそのまま展示するのは落ちた時大変だから。


 掃き掃除も終えて受付前の玄関の扉を開ける。扉に付けた木札をClosedからOpenに変更した。

 私『ネル』と亡き母の小さなアトリエのオープンである。


―――――――――


 ここは隠れ家のような小さなアトリエだ。オープンといってもすぐ人が来るわけではない。とはいえ母の絵画は特別で珍しい。一部に熱狂的なファンが居て、雑誌にも取り上げられた事もあるので毎日誰かしらやってくる。


 私はひとまず受付裏の作業場に置いてある大きなイーゼルに、描きかけのキャンバスを置いた。まだ未熟であるが私も画家の卵だ。いつか母のように人々を魅了する魔法のような作品を作れるようになりたいと願っている。


 油絵はその名の通り、絵の具に専用の油を混ぜた画材だ。幾重にも塗り重ねた絵の具は重ねれば重ねるほど深く奥行きのある色彩を生み出す。


 油絵は普通の水彩絵の具と違い、乾燥が非常に遅いという特徴がある。そのため一度に出来る作業に限度がある。

 魔法で早く乾かすという手段も存在するが、自然に乾くのを待つ方が私は好きだ。何日、何週間もをかけて少しずつ生み出される作品は、自分の子供のように愛おしい。母もきっと同じ気持ちだったのだろうと感じるのだ。


 私が今日も自分の作品に筆を走らせていると、扉をノックする音が聞こえ、ガチャと音を立てて開いた。

 入ってきた青年は私に笑いながら手を振った。


「おはようネル、作品作りは順調かな?」


 彼の名前は『ミッシェル』。この辺りに住んでいる青年で、母の作品のファンの1人だ。有り難いことに毎日のように来てくれる常連さんの1人で、私にとっては1番気の許せる大切な友人でもある。


「おはようミッシェル! 今日も来てくれて嬉しいわ。この絵ももうすぐ完成するはず」


「おー、どれどれ」


 私は描き途中の作品をミッシェルに見せるように椅子を少し退ける。ミッシェルは肩に掛けていたカバンを下ろしながら、キャンバスを覗き込んできた。


 描いているのは静物の絵画だ。

 ワインボトルと小さな彫刻を描いている。


 ミッシェルは母の作品に惹かれて絵を描き始めた青年だ。画家という訳ではないが、私より絵描き歴が長いので正直私より絵が上手だ。たまにアドバイスをもらう事もあり、友人でありながらちょっとした師匠でもある。


「おー、良い感じじゃん! ここの濃い影のおかげで彫刻の白さが引き立っている。複雑な形を正確に描くの難しいのに、本当に絵が上手になったね。俺、そのうちネルに画力負けるんじゃないかな」


「えへへ、これはもう絵画が動き出すのも時間の問題じゃないかな!」


「いやぁ、それは分からないけど……普通の絵画はネルのお母さんが描いたものと違うというか、猫が飛び出したりしないよ」


 猫というのはアルフの事だろう。

 母の作品の中に猫が描かれている絵はあれだけだ。


「いやいや、私は画家魔女の愛娘! いつか生きているかのような作品を生み出してやるわ!」


「まー、俺には魔法の事は全然分からんけど頑張れー」


 そんなこんなでアドバイスをもらいながら筆を進めていると、また扉が開く音がした。


 今度は小さな男の子と美しい妙齢の女性の2人組だ。物珍しそうにきょろきょろしているのでおそらく新規のお客様なのだと思う。私と目が合うと彼女は軽く会釈をし、質問を投げかけてくる。


「失礼します、こちらのアトリエに魔法の絵画があると噂を聞いてきたのですが……」


「あ、はい! こちらの部屋が展示スペースです」


 私は立ち上がって2人に展示スペースの説明をする。その間、有難い事にミッシェルが固まらないように筆の掃除をしてくれている。後でお礼をしなければ。


 私はお客様を階段の向こう側にあるもう一つの部屋に案内した。今日もなんだか楽しい一日になりそうな気がする。



 

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