冥府が壊れ始めた日
冥府の異変に、腐死公爵は気づく。
静寂は嵐の前触れ。
帝都で完成した切り札が、世界の均衡を崩し始める――。
劫火公爵領。
冥府の声が――消えた。
執務室を満たしていたのは、ただの静寂ではない。
向こう側の沈黙だった。
俺は椅子に背を預け、ゆっくりと呼吸を整える。
激戦の傷は癒えつつある。
だが、胸の奥に巣食う違和感だけが、消えない。
「主様ぁ、こちらをどうゾン♡」
ドラミィがいつもの調子でグラスを差し出す。
その笑みが、今はやけに遠く見えた。
ワインを喉に流す。
味がしない。
(四天王としての責任を果たせ)
カプリチェスの冷たい声が、頭の奥でこだまし、
振り払おうとしても振り払えない。
わずかに頭を振る。
「復讐は続ける。余計なことは考えるな」
ワインの香りが、甘く鼻をくすぐる。
だが、胸の奥の違和感は消えなかった。
「……おい」
胸の奥に問いかける。
冥府へ。
返事はない。
(切れている……?)
その瞬間、足元の大理石が黒く変色した。
瘴気が、逆流する。
「吸われてる……?」
冥府の瘴気が、どこかへ引き抜かれていく。
まるで――冥府そのものが呼吸を止められたかのようだ。
管理でも浄化でもない。
ただの吸収。
王権の根幹が、物理的に断ち切られていく感覚。
(これは……奪われている……!)
闇と土の魔力が、制御を失いかける。
冥府の力は、俺の補助輪だった。
死者の重みを、大地に還すための回路。
それが消えれば――
「冥府が……溢れる」
額の土の紋章がひび割れる。
「……ふざけるな」
俺は拳を握りしめる。
確信が、冷たい血のように胸を貫く。
冥府の瘴気を吸い上げる装置――闇水晶。
フィンを器にするための下地。
冥府の瘴気、光と混ぜるには、最悪の媒介。
「……やりやがったな」
拳を地面に叩きつける。
勝つためなら、壊れても構わない。
使い潰しても構わない。
それが、ドミノ・ルーメン。
「冥府が荒れれば、地上に死者が溢れる」
「ご主人様…」
俺は歯を食いしばる。
冥府には自由にやれとは言ったが、そういう意味じゃねえ。
その時、微かに――冥府から声が届いた。
『……王……』
『戻れ……』
俺は目を閉じる。
「……待ってろ」
リンクは切れたが、完全ではない。
「冥府は、俺の責任だ」
重く、張り詰めた空気が変わる。
風が、軋む。
上空から、ぱち、ぱち、と乾いた拍手が響いた。
「いい反応だ、腐死公爵」
風が室内に渦を巻く。
姿を現したのは、暴風公爵ディアボルス、そして竜騎士レイン。
「お前の想像通り、帝都で完成した」
俺は睨み返す。
だが、ディアボルスの様子がおかしい。
全身に裂傷、飛竜に捕まるのがやっとの状態だ。
「……その姿、何があった?」
「そうね、死ぬほど痛いわ」
ディアボルスは震える手で血に濡れた青銀の長髪をかき上げ。
小さく吐息を漏らした。
「私ももう、帝都には戻れない。ドミノとは決別した」
「どうせ、裏切ったんだろう。
だが、俺の時みたいに裏でこそこそ動いたわけじゃなさそうだ」
「…少し情報をやろう」
「聖騎士フィン。
正義の塊――お前が倒した、あの青年だ」
俺の胸が、いやな音を立てた。
「お前への切り札となった」
「――!」
「光だけの剣は脆い。
だから皇帝は聖水晶にした」
ディアボルスの深い蒼の瞳が細まる。
「光と闇。
両立しないものを、無理やり人に詰め込む」
「そんなこと……」
「できるわ。
壊れても構わないなら」
俺は、言葉を失った。
(死んだわけじゃねぇのか。
救われたのか、それとも――利用されたのか)
ディアボルスは続ける。
「お前と、黒騎士フィン。
どちらが勝っても皇帝を利する」
風が強まる。
「腐死公爵。冥府に戻るのはやめておきなさい。
今戻れば、あなたも吸われる」
「止める気か?」
一歩、前へ。
床が割れる。
「冥府が呼んでるんだ。
王が行かなくて、誰が行く」
眉間に縦皺が寄る。
「その体で俺を止められるなら――やってみろ」
執務室の壁が弾け飛び
風と瘴気が、正面から衝突した。
皇帝の一手は、波紋を広げていきます。




