05. One Night Lover
「表参道へお願いします」
タクシーに告げた先は自宅ではなかった。
そろそろあの花屋が閉まる時間、そう思ったらいつの間にか口から出ていた。
店の前でタクシーを降りると、ガラス越しに桜井講師が店じまいの支度をしているのが見える。自分が幽霊のようなひどい顔をしているのは分かっていたが、フラフラと店に吸い込まれてしまった。
「いらっしゃい、あ、逢沢さん?」
「ごめんなさい、こんな時間に」
桜井氏は何かを察したようで笑顔で椅子をすすめてくれた。
「良かったらどうぞ、ハーブティーです」
出されたカップに触れるととても熱い。指先が凍えるほどに冷えていたようだ。琥珀の液体を口に含むと、ほっとするカモミールの香りが鼻を抜けていった。
「え?」
桜井氏の驚いた声で気が付いた。
私はボロボロと涙をこぼしていたのだ。
「あ、あの大丈夫ですか? 具合が悪いのでは」
うろたえる桜井氏に私は首を振り、ハーブティーのカップを口に運んだ。
だが、理性を保てたのはそこまでだった。
私は顔を覆って号泣し、桜井氏は大慌てで店のシェードを降ろし始めた。
声を出して泣く、しかも他人の前で、小学校低学年以来の醜態だ。
(思ったより堪えてたんだ)
あの女の声を聞いたときは二股男に天誅でも食らわせようかと思っていたが、リアルな本人を目の前にすると何もできない。それが現実だ。
桜井氏はおろおろと私の背中をさすってくれていた。わけがわからず、さぞや迷惑なことだろうけれど、今の私にはそれを思いやる余裕はなかった。ただただ彼の胸にとりすがって泣いた。
「ごめんなさい、私…帰りますね」
「送りますよ、ご自宅は青山でしたよね」
私はスマホを操作してタクシーを呼ぶと彼といっしょに乗り込んだ。
「品川のPホテルへ」
はっ? という顔で桜井氏が振り返ったのでその手を強く握った。
生まれて初めて自分から男を誘ったので手がぶるぶると震えている。
ホテルを取っていたのは万一タカシが家まで来てしまったらと思ったからで、彼を誘うためではなかったのだが、一人になりたくなかった。
卑怯なやり方。
この人は優しいからこんな私を放っておけはしないだろう。
桜井氏は返事をせずじっと考えているようだった。フロントでチェックインを済ませると黙って部屋まで着いてきてくれたが、すぐに帰ろうとしたので恥を承知で服の裾を引っ張ってみた。
「逢沢さん、こんなことはよくないです。僕は弱っているあなたに付け入るようなマネはしたくない」
「気にしないでください、大人なんだから遊べばいいじゃないですか」
「完全にヤケになってますよね。僕はあなたをもっと大事にしたいです、あなたにも自分を大事にしてほしい」
「大事だと思うなら抱いてください。もう、私は壊れそうなんです」
彼は諦めたように私を抱き寄せた。
「分かりました、一緒にいましょう。でも僕も男なんで、我慢できる保証はないですよ」
「なんで我慢するんですか? 私はそんなに魅力ないですか?」
私は思い知り、打ちのめされていた。
タカシを失ったことが悲しいんじゃない。悲しいのはただ肩書で値踏みされてただけだということ、自分には価値がなく港区から引っ越した瞬間にただの女になってしまうこと。
あのフカヒレラーメン女の勝ち誇った顔。逆立ちしたって弁護士なんて肩書には勝てっこない、無価値な定食女は退散するしかない。
でも、この人は違う。
「あなたの感性は僕にとっては眩しいくらいです」
彼の口づけはとても優しかった。
その夜、タカシを思い出すことはなく桜井の優しさが本物だと確信できた。
はずだったのに。
朝になると彼はいなかった。
テーブルの上に封筒が置かれていて、開けると中には1万円札が一枚入っている。
頭に血が上った。




