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九尾の白狐の愛娘


 番犬にと屋敷で買い始めた仔犬が散歩の最中に脱走した。

 生まれてこの方、甘やかされて育った慎太郎が獣の足に追い付ける筈もなく、すっかりその姿を見失った。

(見廻り散歩などと言わなければ良かったなぁ…)

 トボトボと歩きながら家で待っているであろう両親への言い訳を考えた。

 大店呉服店の嫡男として生まれた慎太郎はドラ息子と町では有名で、家業を継ぐ歳となった今でも何かと家を抜け出しては仕事もせずに遊び歩く放蕩ぶりである。

(…そうだ、犬は猟師に譲ったことにしよう。そうすれば辻褄が…)

 一先ず言い訳を思い付き、シメシメと店の裏にある屋敷の門の前へ。

 そこでは何やら門前で奉公人が騒いでおり、旅装束の娘が泥塗れで立っていた。

 何事かと思った直後、娘は歓迎の様子で屋敷の中へ。

 何とも不可思議な光景に首を傾げつつ、そろりそろりと近寄って閉まり掛けの門を覗き込んだ。

「慎太郎‼」

 背後から振ってきた怒鳴り声にビクリと肩を揺らす。

 振り返った瞬間、母から強烈な拳骨が振ってきた。


〜〜〜〜〜


 罰として、その日の晩飯は冷めた塩にぎりのみとなった。

 痛む頭に濡れた手拭いを乗せ、薄暗い土間でそれを食んでいると父の声がした。

 恐る恐る戸を開けて居間を覗き込むと、そこでは先程の娘が父から頭を下げられていた。

「馬鹿息子が世話を掛けたね。どうか着物の弁償をさせて欲しい」

 そう告げながら父は店の商品を差し出し、娘は慌てふためいた様子で頭を下げた。

「そんな、お気持ちだけで十分ですから…!寧ろ、一晩泊めて頂けますこと心より感謝致します。皆様にはお忙しい中ですのに、とんだお手数をお掛けしてしまい申し訳ありません」

 自分とさして変わらない年頃だと言うのに娘は随分と言葉遣いが丁寧だった。

 物腰の低さに加え、所作が洗練されており、一目で育ちの良さが分かった。

良作(よさく)から聞いたが、奉公先を探しているそうだね?」

 番頭の名を出しつつ父は顎を撫でた。

 あれは働き手として興味を示している仕草だ。

「はい。恥ずかしながら、これまで山奥で暮らしておりました故、世間を知らないもので…。差し支えなければ、この辺りで女中奉公を募っている所をご存知であれば、お教え頂けないでしょうか?」

 娘は尚も低姿勢で訊ねる。

 案の定、父はニコリと微笑んだ。

「歳は十五と言ったね?なら、ウチで働きなさい。働きぶり次第では銭を弾もう」

 そんな誘い文句を断る人間はまず居ない。

 当然のように娘は喜々と了承の返事を返した。


〜〜〜〜〜〜


 新たに店に雇われた娘はリンという名で、父が見込んだ通り大層な働き者だった。

 日の出と共に起き出して身支度を整えるや、先輩女中よりも先に朝の支度を行い、一寸の休みも取らずに朝から晩まで働いた。

「お前、本当に人間か?」

 仔犬に餌を遣るついでに、慎太郎は軒先で縫い物をしていたリンに半ば呆れたように訊ねた。

 彼女が屋敷に来て、早一月。

 相変わらず休みらしい休みも取らずに誰よりも働く彼女に、人間ではなく化け物かと思い始めた。

 しかも炊事に洗濯、掃除は元より裁縫の腕も良く、家の遣いに畑仕事、諸々の書き物さえ卒無くこなした。

「ここでのお仕事は楽しいですから」

 いつもの微笑みを浮かべ、リンは答えた。

 凄まじい働きぶりに加えて毎日いつでも笑顔を絶やさない彼女に、気付けば屋敷の誰もが虜になっていた。

 今や父母も彼女がお気に入りで、近頃は実子の慎太郎よりも可愛がっているくらいである。

「いや、答えになってねぇし」

 思わず突っ込みを入れ、彼女が直している着物に触れた。

 それは彼女が屋敷に来た時に着ていた着物だった。

 奉公人達の話によればあの時、彼女が泥塗れだったのは、逃げた犬が田んぼに落ちていたのを見つけて引っ張り上げた所為だった。

 首に着けていた名札を頼りにあちこち訊き廻りながら屋敷まで辿り着いたそうで、その労を労って招き入れたらしい。

(これボロじゃねーか)

 着物に触りながら、その痛み具合に眉を顰めた。

 元は上等な布地だったようだが何回も繕い直しているのが伺えた。

 人が着るにはあまりにも粗末で、あちこち擦り切れた所に態々端切れを縫い付けていた。

「好い加減捨てたら?」

 そう言って、着物を抓み上げた瞬間だった。

 リンは奪い取るように着物を手繰り寄せ、取られまいとするかのように胸に抱き寄せた。

雪華(せっか)様の物を軽々しく捨てろなどと言わないで…!」

 それは初めて見る彼女の怒りであり、彼女がひた隠す本性に見えた。

 慎太郎は思わず嗤った。

 来た時から何となく違和感はあったが――、やはり猫を被っていた。


 これは面白い―――。


 新たな遊びを思いついた慎太郎は、咄嗟に強い言い方をしたと謝るリンを横目に、喜々と踵を返して悪巧みを始めた。


〜〜〜〜〜〜


 軽快に算盤を弾く音が響き、その音に誘われて仔犬の雪丸(ゆきまる)はトコトコと奉公人等が屯する店の結界(番頭の仕事場)へ歩み寄った。

 普段なら良作がそこで算盤を握っているが、今算盤を扱っているのは傍らに座るリンだった。

「驚いたな。お前さん、算盤まで出来るとは…」

 痛む背を摩りつつ良作は目を丸くした。

 一昨日から腰を悪くし、長く座っていられなくなった為、書き物が出来る者は居ないかと募った所、彼女が名乗り出た。

 初めは書き取りだけを頼んだが売上計算の間違いを指摘され、試しに算盤をやらせてみれば、その手際の早さに目を剥いた。

「こいつぁ、店の手伝いも頼めるぞ!」

「いや、顔負けだなぁ!」

 あまりの仕事振りに奉公人等は唸り、彼女を褒め称える。 

 皆の感心の声が響く中、リンはそそくさと結界から出るや恐れ多いとばかりに三つ指を立てて頭を下げた。

「お役に立てたようで何よりです。では普段の仕事に戻らせて頂きます」

 相変わらずの腰の低さで挨拶を告げ、屋敷の方へ。

 そんな彼女の背を追い掛け、雪丸は尾を振りながら後を追った。

「あらあら、雪丸付いて来ちゃったの?」

 洗濯物を取り込んていた先輩女中はリンの後ろを懸命に追い駆ける雪丸に苦笑い。

 番犬として店の方に繋いでいた筈なのに、いつの間にか縄を外して、またも脱走である。

「何だか懐かれてしまって…」

 困り顔でリンは雪丸を撫で、先輩女中に続くように乾いた襦袢や手拭いを屋敷の中へ。

 そんな折だった。

 何かに気付いた雪丸が泥足のまま屋敷の中へと駆け込み、リンも女中も大慌て。

 全力で追い駆け、やっとの思いで追い詰めた先は女中達の私室を兼ねた寝床だった。

「あーあー、廊下拭き直しだわ」

「手拭いと桶持ってくるわ…」

 何かを訴えるように吠え立てる雪丸を捕獲しつつ、リンも女中もがっくりと肩を落とす。

 至る所、見事に足跡だらけだ。

「雪丸、駄目じゃない…」

 叱りつつ鳴き喚く雪丸を抱えたリンだが、不意に異変に気付いた。

 部屋の隅、私物を入れている篭が空いている。

 朝方、確かに蓋をした筈―――。

 まさかと思い、慌てて中を確認した彼女は絶句した。

「そんな!どうして…!」

 途端に慌てふためく彼女に、女中達は何事かと目を向ける。

 リンは涙目で篭の中をひっくり返し、見当たらない大切な物を捜し回った。

「リン、どうしたんだい?」

 様子の可怪しい彼女に、女中達はどうしたのかと近寄る。

 リンは縋るように先輩の手を取るや大粒の涙を零しながら叫んだ。

「何処にも無いんです!雪華様の御着物が…!大切な物なのに!」

 悲鳴にも似た涙の理由に女中達は目を剥いた。


〜〜〜〜〜〜


 その日、店は急遽の暇を貰い、屋敷の誰もがリンの着物を探し回ったが、一向に見つかる気配はなかった。

「聞いたかい?大通りの狗井屋(いぬいや)さんが暫く店を閉めるってよ!」

「何でも盗人が入って、リンちゃんの大事な着物が盗まれたんだとよ!」

 町外れの茶屋にて団子を呑気に食みながら、慎太郎はそんな噂話に耳を傾けた。

 町内でもリンは人気者で、誰もが屋敷で起きた物取り騒ぎにご執心。

 そんなざわめきが慎太郎には面白くなかった。

(ボロくらいで大袈裟な…)

 そう呆れながら思うのは、彼自身が盗人本人である故だった。

 いつも笑顔で屋敷中から愛されるリンの存在は悪評だらけの慎太郎の立場を更に悪くし、近頃、両親はリンを養子にしようとさえ考えている。

 呉服屋の跡取りという立場をも揺るがし始めた彼女に対する、慎太郎の細やかな嫌がらせだった。

「狗井の旦那によれば明日にも岡っ引きが盗人探しに乗り出すってよ…!」

「そりゃ本腰入れて来たな…」

 そんな話し声に思わず背筋が凍った。

 ――このままでは本物の盗人として御用になってしまう。

 慎太郎は足が付く前に着物の始末をしようと家路を急ぎ、己の寝所に駆け込むや仕舞い込んでいたリンの着物を引っ張り出した。

 ――そうだ、いっそ燃やしてしまおう。

 そう思い立って庭先へと駆け出す。

 瞬間、またも脱走していた雪丸が現れ、強烈な喚き声を上げた。

 まるで盗人を見つけたとばかりの鳴き方に、彼は逃げ出すように屋敷の外れにある畑へ。

 丁度、野焼きをしていた丁稚を押し退け、着物を投げ込まんと炎へと振り被った。

「止めてぇっ!」

 その声に目を向ければ、怒り狂った奉公人と泣き喚くリンがやってくる。

 慎太郎は笑みを浮かべ、悪意を持って着物を放った。

 その途端だった。

 爆ぜるように炎が荒ぶり、慄く慎太郎の眼前で着物が化生のように舞い踊る。

 駆け寄ったリンは、身の危険も厭わず燃え上がる炎の中へと飛び込み、着物を抱き締めるや布を炙る火を消し止めんと古井戸へと飛び込んだ。

 その光景には誰もが絶句した。

 途端に皆が駆け寄り、井戸に落ちた彼女を助け出さんと怒号を上げる。

 慎太郎はそれで漸く己のしたことの恐ろしさに気が付いた。


〜〜〜〜〜〜


 幸いにも水嵩があってリンは一命を取り留めたが、その体は酷い火傷を負い、予断を許さない状態だった。

 結局、内輪揉めとして町奉行の世話にはならない方向で決着は付いたが、慎太郎は謹慎として蔵に押し込められた。

 しかし、己のしたことの重大さに気付いた彼は自責の念で地獄を味わうこととなった。

 この程度の罰などリンが受けた苦しみと比べたら比較にもならない―――。

 そう気付いた時には何もかもがあまりにも遅かった。


〜〜〜〜〜〜


 謹慎を解かれた朝、店前で地面に膝を突き、慎太郎は両親と奉公人達を前にして精一杯の謝罪の意を示した。

「もうこのような過ちは犯しません。今一度、私に改心の機会を頂けないでしょうか…!」

 頭を地に擦り付け、誠心誠意をぶつける。

 奉公人達は彼の代わり振りに驚きを隠せなかったが、父は毅然とその心意を見定めた。

「今よりリンの世話をせよ。無論、跡取りとしての仕事もこなしてもらう。出来ぬなら出て行け」

 それが父なりの答えであり、赦しはしないとの遠回しの通達だった。


〜〜〜〜〜〜


 それからの慎太郎は憑き物が落ちたように振る舞いを改め、率先して店に立っては己の役目に向き合った。

 仕事の合間には女中に代わって未だ目覚めぬリンの世話に明け暮れ、夜も付きっきりで看病に勤しんだ。

「…リン、すまなかった」

 火傷による熱で魘されるリンを介抱しながら慎太郎は、詫びの言葉を漏らした。

 早い回復を祈って神仏にも手を合わせたが、思うように回復の兆しは見られなかった。

(神様仏様、どうかリンを助けてください。全ては私の業です。どうか、どうか…!)

 リンが寝込み始めて五日目の真夜中、慎太郎は祈りながらリンの手を握った。

 今更ながら彼女の手が酷く荒れていることに気付き、己の愚かさを更に痛感した。

 休むこと無く働き続け、それを楽しんでいた彼女の尊さに胸が苦しくなった。

「……嫌に冷えるな…」

 不意に頬を撫でた冷気に気付き、リンの体が冷えぬようにと隣に敷いた己の掛け布団を被せてやった。

 その枕元には女中等に習って繕った燃やしてしまった着物が置かれている。

 彼女が目覚めた時、すぐに目に入るようにとの心遣いだった。


 …クーン


 心配するような鳴き声が傍らから聞こえ、目を向けてみれば、またも雪丸が縄から抜け出して来ていた。

 仕方のない奴だと溜息を零しつつ、傍らに寄ってきた垂れ耳を撫でる。

 その刹那だった。

 リンに視線を戻した拍子、その頬に鼻先を寄せる白銀の姿が見えた。

 驚いて顔を上げ、慎太郎は目を剥いた。

 リンに寄り添うように神々しい大きな白狐が九つの尾を揺らしている。

「へっ…?」

 思わず情けない声を漏らした。

 白狐は慈しむようにリンの額を舐めると、厳かに顔を上げた。

『これは妾の愛娘じゃ。くれぐれも頼む』

 仄かに微笑むように白狐は告げ、途端にその姿が闇に溶けた。

 呆気に取られながらも再びリンへと視線を戻せば、不思議とその顔色は良くなっていて、試しに手を充てがってみれば熱がすっかり下がっていた。


〜〜〜〜〜〜


 翌朝、リンは目を覚ました。

 五日も目を覚まさなかったとは思えぬ程にその顔色は健やかで、更には火傷の傷も綺麗に消え失せていた。

「ありゃあ、お狐様の護りかねぇ…」

 帳簿を付けながら良作が零したボヤキに、算盤を弾いていた慎太郎は思わず顔を顰めた。

 昨晩の白狐の事は何となく言ってはいけない気がして、皆には話さなかったのだが―――。

「嗚呼、そうか。慎太郎様は知らないんでしたね…」

 思い出したように良作は呟き、慎太郎を見据えて困ったように笑みを零した。

「実を言うとね、リンは九尾のお狐様に育てられたそうなんですよ」

 そんな言葉を皮切りに彼が教えてくれたのは、リンが屋敷で働くに当たって密かに教えてくれたという過去だった。



 それは今より八年前――、貧しい村に生まれたリンは強欲な村長の差し金で女衒に売られ、遊郭へと連れ込まれる道中で命辛々逃げ出し、山寺に住み着いていた雪華という九尾の白狐に拾われたそうだ。

 雪華は人にも化ける土地神で、長年リンの様な不幸な子供達を助け出しては独り立ちできるようになるまで世話をして読書きなども教えていたという。

 それから月日が経って、リンが巣立ちを控えたある日―――、村長に唆され、雪華を退治せんと瑞雲(ずいうん)という名の行脚僧が現れた。

 初めこそ雪華を仇なす者として警戒したリンであったが、瑞雲は雪華が善い狐であると知るや子供達を慈しみ、父のように接してくれたそうだ。

 しかし、瑞雲が寺を立たんとした直前、村長が村人を引き連れて寺を襲った。

 子供達を守らんと雪華は身を賭して立ち向かい―――。


「どうにか村人を退けたもののお狐様は力尽き、その意志を継いだ瑞雲殿が寺に留まってリン達の面倒を見たそうです。しかし、子供達を養うには瑞雲殿だけでは生活が苦しく…」

「それでリンは奉公に出たと?」

 そう訊ねた慎太郎に良作はコクリと頷いた。

「元より寺を立つ身だった故、己が奉公に出れば妹達に行き渡る米も増え、瑞雲殿の負担も減るからと…」

 そこまで告げた良作は感極まって涙を浮かべた。

 鼻を啜るその傍ら、慎太郎は己の拳を強く握った。

 ――そんな健気な娘に、己は何と愚かなことをしてしまったのか…。

 今更ながら自身の業の重さを思い知り、どうしようもない後悔が襲い掛かった。


〜〜〜〜〜〜


 夕餉を持って襖を開けた時、リンは大切そうに古びた着物を抱き締め、縫い付けてあった黒の布地に頬を寄せていた。

「し、慎太郎様!」

 姿に気付くやリンは赤面。

 慌てて着物を片付けた。

「粥を持ってきた。食えそうか?」

 心配を寄せながら盆を畳に置き、甲斐甲斐しく匙を差し出す。

 リンは気まずそうにそれを受け取り、そろそろと粥を喰んだ。

 五日も眠っていた為、流石に胃腸は衰えていた。

「すまなかった…」

 不意に慎太郎は告げ、深く頭を下げた。

「その着物はお前を救った白狐様から譲り受けた物だと聞いた…。そんな大切な物を俺は…っ…」

 後悔の涙を浮かべて只管謝る彼に、リンは小さく溜め息を零して首を振った。

「大事には至らなかったのですから、そんな悔やまないでください。私自身ケジメをつけねばとは思っていましたし」

「ケジメ…?」

 恐る恐る顔を上げた慎太郎に、リンはそっと着物を手に取り、頬を寄せていた黒の布地を見せた。

「本当は着物そのものではなく、この端切れを惜しんだのです。瑞雲様が…、とてもお世話になった方が着物を分けてくださって…」

 そう告げるリンの顔は恋焦がれていて―――、それで慎太郎は察した。

 察した途端、ズキリと胸が痛んだ。

「…好きなのか?」

 訊ねる声は震えていた。

 リンは小さく頷き、しかし酷く悲しげに嗤った。

「決して叶わぬ恋です。あの方は雪華様をお慕いしていましたから…。ならぬ恋と解っているのに…、想いを抑えきれなくて…」

 そこまで告げたリンは込み上げた涙を抑え込めず、はらりと着物に雫を落とした。

「だから寺を出たんです…。奉公に出れば妹達は食うに困らず、あの方にも苦労を掛けずに済みますから…」

 気丈に笑うもその両目からは悲哀の涙が溢れた。

 瞬間、慎太郎はリンを強く抱きしめた。

「俺では駄目か?」

 その問いに彼女はキョトンとした。

「叶わぬその想いごと受け止めるから…、俺が一生リンを想うから…」

 強くなる腕の力と切なる願いに、リンは慎太郎の想いを悟った。

 途端に色を変えた涙が溢れた。

「慎太郎様っ…」

 応えるようにリンは着物を手放し、慎太郎の肩に額を寄せる。

 そして、両手を彼の背に回し―――。


 …ワン!


 唐突に吠える声がして襖の向こうから悲鳴が上がった。

 まさかと駆け寄った慎太郎が襖を叩き開ければ案の定、母や奉公人達がまたも脱走した雪丸を押さえ込んでいた。

「み、見てたなぁ⁉」

 その叫びと同時に一同は苦笑い。

 まあまあと宥めながら部屋に乱入し、和気藹々と若い二人を囲った。

 そんな様子を慎太郎の父は物陰で眺めつつ、遠路遥々訪ねて来た御仁に目を遣った。

「…会わなくて良いのですか?」

 そう訊ねるも御仁は首を振り、困ったように笑うばかりだった。

「今、会ってはリンの決意が揺らぎます。新たな縁に綻びを拵える訳には参りません…」

 隠せぬ寂しさを纏いながらも、そう告げた御仁は静かに踵を返した。

「良ければこれを。また遠慮せずにいらしてください」

 闇夜に紛れるように店を去らんとする御仁に、慎太郎の父は反物や簪等を手土産に渡した。

 リンより事情は聞き及んでおり、生活の足しになればとの思いだった。

「お心遣いに感謝します。子供達が喜びます」

 酷く困ったように嗤いながら頭を下げ、恐縮しながら彼は土産を胸に抱えた。

 そうして、粉雪の舞い始めた通りを戻り始めた時だった。

 背後でわんと鳴かれ、行くなとばかりに雪丸が追いかけて来る。

 その後ろには、血相を変えて駆け寄る慎太郎とその背に負ぶさるリンの姿があった。

「瑞雲様…」

 追い付き、背から降ろされたリンは慎太郎に支えられながら縋るように歩み寄る。

 しかし瑞雲は手にした錫杖を翳し、ならぬと首を振った。

「…っ…やはり、怒っているのですか…?許されぬ想いを抱き、文だけ残して寺を出てっ…」

 涙を浮かべてリンは悔いるように問うたが、瑞雲は酷く悲しげに微笑み、違うと首を振った。

「息災ならばそれで良い。苦しい思いをさせて、すまなかった」

 そう告げた瑞雲は、隣の慎太郎に目を向け、深く頭を下げた。

「慎太郎殿、どうかリンを末永く宜しくお願い致します」

 その頼みに慎太郎は勿論だと真摯に答え、直後、瑞雲は踵を返した。 

「ありがとうございましたっ!」

 去りゆく背にリンは涙ながらに感謝を叫び、瑞雲は振り返ること無く、達者でと伝えるように錫杖を掲げた。

 慎太郎はその背が見えなくなるまで頭を下げ続け、そんな二人に雪丸はいつまでも寄り添った。


〜〜〜〜〜〜


 それから暫く後、慎太郎は晴れて父に認められ、若旦那として店を取り仕切るようになった。

 奉公人達からも信頼され、立派な商人になった彼は、すっかり看板娘となったリンとの祝言を挙げた。

 誰が広めたのやら、白狐に育てられた娘としてリンは人々から縁起を担がれるようになっており、そんな彼女の晴れ姿を一目見ようと町の通りは大賑わい。

 ごった返す店前にて、立派な番犬となった雪丸は何事かと右往左往。

 慎太郎に手を引かれ、笑みを零すリンは呉服屋の嫁に相応しい見事な色打ち掛けを纏っていた。

 その背には九尾の白狐の姿があり、二人の門出を祝うように天気雨の空には鮮やかな虹が掛かっていた。

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