表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雨降る月夜、深海に虹は架かる

作者: 雅野キュウ

 


挿絵(By みてみん)

 一年に一度だけ、雲ひとつない空に雨の降る夜がある。


 日の入りからその次の日の夜明けまで、一晩じゅう降り続ける。曰く、精霊たちの霊力が満ちると起きる現象なのだという。《月映つきばえの雨》と呼ばれているそれは、雫のひと筋ひと筋を銀色に輝かせ、月華げっか紫陽花が至る所で咲き誇り、その花びらに落ちた露は月光を反射する。

 そしてたったこの日だけに、精霊たちの夜市が開かれるのだ。


 魔女・ルメルティエラが人魚と出会ったのは、夜市へ向かおうと自宅の扉を開けた、その瞬間であった。


「ごきげんよう、魔女さん」


「……アオーロ・リオーリア(こんばんは)


「私は人語で話しかけているのよ? そっちが合わせるのは変でしょ」


 海辺にできた岩場の奥の、その更に奥。月光がきらめいて青白く光る洞窟の中に、ルメルティエラの家はある。岩壁をくり抜いて嵌めた扉は特注で、部屋は一階と地下。地下は彼女だけの作業場で、加えて魔法の泉がある。潮騒が織りなすメロディーはルメルティエラにとって日常そのものだ。

 そんな洞窟の中に、人魚はいた。


「あなたにお願いしたいことがあるの」


「深海の人魚か。よく地上にやって来られたわね」


 人魚は「よくぞ気づいてくれました」とでも言いたげに、黒い眼を見開かせて笑った。彼女は目も髪も鱗も真っ黒で、肌は血管が見えそうなほどに青白い。その見た目だけで、彼女が深海の生まれだということは容易にわかる。


「この雨のおかげよ。それでね、深海に虹を架けるためのお薬が欲しいの。しかも急ぎで」


「お代は?」


「そうねぇ……。幽灯魚のたまなんてどうかしら」


 幽灯魚ゆうとうぎょ

 深海に棲む魚類で、頭から伸びる長い触手を持つのが特徴だ。その触手の先端には青白く光る珠があり、それを使って餌を探したりする。


藍沈雪らんちんせつも頂戴」


「マリンスノーのこと? それはちょっと高くなぁい?」


「カイロウドウケツを頂かないだけ良心的だと思うけど。嫌なら結構よ」


 ルメルティテラが冷たく言い放つと、人魚は顔をしかめたが、すぐに元通りになった。


「いいえ、お願いするわ。どうしても見たいんですもの」


「ひとつ聞くけど、あなたに幽灯魚の知り合いはいる?」


「いるわよ」


「深海の虹の作り方はご存知?」


「それは……知らない」


 そもそも、日の光が届かない深海に虹は存在しない。それはきっと人魚もわかっているはずだ。

 けれど、魔女の力を借りるなら話は別。ちょうど、今宵の夜市に必要な商品が並ぶだろう。今晩中に欲しい、と人魚は懇願した。


「じゃあ、薬をお作りするわ。材料を買ってくるからうちで休んでいて。ここまで遠かったでしょう」


 ほどよく湿った、冷気に満ちた魔女の家は人魚にとっても過ごしやすい環境だろう。

 ルメルティエラは洞窟を後にして、夜の海色のほうきに乗った。柄の先端から吊り下げた青白いランタンには、波色の珊瑚で作った船の装飾がきらめいている。鞄の中身はなるべく少なくして、夜市の買い物に備えた。


 冷たくもどこか温かいような月映えの雨は、むしろ浴びる方が心地いい。ルメルティエラは雨よけの魔法を使わずにアクアマリン色の長い髪をあえて濡らした。とんがり帽子のつばが雨粒に打たれてぱたぱたと鳴る。


 水幻月すいげんづき__人の世で言うところの六月は、よく雨が降る。古来から、雨は精霊たちの霊力が高いときに降り、水幻月はそれが顕著なのだそう。

 なかでも今日は特別で、空が雲に覆われていないにもかかわらず雨の降る日。月光をふんだんに浴びた雨粒は、まるで水晶を砕いたかのように輝く。


 北西に進むと、精霊たちの森がある。陸路では決して辿りつかない、深い深い森で彼らは自由きままに過ごしている。

 そんな彼らがとびきり張り切る今宵は、森が霊力で銀色に輝くから地図いらずだ。しばらくして、ルメルティエラは森に降り立った。

 潮風とは違う、森林の青く柔らかな香り。木や苔や大地が、今日のこの雨を祝福しているようだった。


「いらっしゃい、魔女・ルメルティエラさま」


 市場の入り口で、一体の精霊がルメルティエラに声をかけた。入り口は木で出来た大きなアーチで、精霊語で《月映えの宵市よいいち》と書いてある。アーチを抜けた先には露店が立ち並んだり、奥の広場で曲芸師が舞台に立っていたり、この日だけに開くカフェテリアがあったりする。そしてどこを見ても、月華紫陽花が青や紫に輝き咲いている。


「深海のものを売っているところはどこ?」


 精霊というのは魔女以上に形がさまざまで、動物みたいなものもいれば、人に近いものもいる。そもそも形を持ってすらいな場合もあるとか。入り口の精霊はまるでつばさうさぎのぬいぐるみのような見た目をしていて、淡い紫色の体に月光でできた宝石のような瞳を輝かせていた。


「すぐそこで売ってますよ、海風の精が。《深海秘宝堂》という看板が目印です。両替は?」


「前のがまだあるから大丈夫。ありがとう」


 精霊たちは月紋葉げつもんようという葉を通貨としている。魔女や獣人みたいな精霊族以外の種族にとっては見慣れないため、夜市で買い物をしたければ、まずは自分の貨幣や魔法素材を月紋葉に替えてからという決まりだ。


 深海秘宝堂では水晶玉のようなしゃぼん玉が浮かび、まるで海中のようだった。

 売り場には海糸のシルク布や深海水の瓶、超深海クラゲの毒、宝石珊瑚などが売っていた。


「いらっしゃいませ〜。魔女のお方」


 店主の海風の精はルメルティエラよりもずっと背丈の高い、飛魚の羽を生やした人型の精霊だった。長い髪を波みたいに揺らし、竪琴のような声でルメルティエラに微笑んだ。


深綺しんきの雫を作りたいの。材料はあるかしら」


「まあ! まあまあまあ、深綺の雫? もちろんあるわよ。素敵なものを作るのね」


「深海水と海炎草かいえんそうは持っているから、残りのやつを」


 精霊は歌うように了承して、店の奥から品物を取り始める。


「それと、ともれの薬の材料も」


 海風の精がその手を止め、目を丸くした。


「厄介なものにかかってしまったのね、その子」


「……おそらくね」


 ルメルティエラは月紋葉を渡した。月紋葉には銀色の刺繍のような模様があり、葉の取れた樹の月齢によって模様の複雑さが変わる。基本的に、複雑であるほうが貨幣としての価値が高い。


 ルメルティエラは複雑な模様の葉を二枚、簡単な模様の葉を六枚支払った。


「さて、と」


 ルメルティエラは他に欲しかったものたちを買い、月映えの宵市を後にした。花の精から買った月の実の飴は甘く、口に含むと月光の香りがする。それを舐めながらほうきに乗った。


 家に帰ると、人魚がテーブルの上で眠っていた。ベッドよりも石で出来たそれのほうが馴染みがあるのだろうか。ルメルティエラは魔法で人魚を運び、起こさないよう自身のベッドに寝かせた。


 地下へ降りて、買った材料を作業台に揃える。

 黒曜石で作った大きな作業台や壁際の棚には、試験管やフラスコ、蒸留器、薬草の鉢植えなど、魔法薬作りに欠かせないものばかりが置いてある。

 魔法の泉がほの青く光り、この部屋を照らす。潮騒の音が聞こえると、ルメルティエラは瞼を閉じた。


 心をすっと整えてからではないと、魔法は上手くいかない。自身の内側にある意志と調和の心が魔法を作るのだ。


 瞑想をやめ、ルメルティエラは幽光苔ゆうこうごけと海炎草を蒸留器に入れた。そこに深海水を注ぎ、杖をひと振り。すると金色の炎が灯り、蒸留器が作動した。


 青白い蒸気が揺れ、冷却器を通して小瓶に液体が滴り落ちていく。

 瓶が満ちたら、そこにつきい貝の粉をティースプーン二杯ほど。この貝は満月の光を一晩じゅう浴びせたあと、自分で粉にしたものだ。

 時計回りに三回、反時計回りに七回。スプーンでかき混ぜる。溺れ蝶の鱗粉も加え、同じようにさらに混ぜた。


 深涙鉱しんるいこうの粒をひとつ入れると瓶の中が銀色に輝くので、その縁を一周、指でなぞる。



  しじまの海よ 呼吸を止めよ

  闇の奥底に 光を宿せ

  星なき世界に 月よ昇れ



 ルメルティエラが呪文を唱えると、より一層輝きが増した。光が消えないうちに瓶を閉める。深綺の雫の完成だ。


 作業を終え、一階に上がると人魚はすでに起きていた。尾鰭をゆらゆらとさせながらしゃぼんのきらめきのように笑った。


「このベッド、初めて見るけど意外と快適ね。体の上に布をかけるなんて斬新だわ」


「なら良かった。お待たせ、出来たよ」


 お茶でも淹れようかと思ったが、人魚は一刻も早く使いたいとそれを断った。


「お代を……と言いたいところなんだけど、海に置いてきてしまったの。取りに来てもらってもいい?」


 やっぱりね、とルメルティエラは心の中で呟いた。了承し、海中呼吸と耐水圧の魔法をかけ、魔法薬の小瓶を()()()鞄に入れる。


 ほうきに付けていたランタンを手に取り、人魚と共に海へ潜った。


 深海は静かでゆったりとした場所だと思われがちだが、それは思い込みだ。実際は、静寂というより緊迫。暗い海の底、食料ひとつすら貴重な世界では、動きのひとつでも命取りになる。


 人魚は岩場に案内して、「ここなら安全」と微笑んだ。岩場の影に、一尾の幽灯魚が横たえていた。触手の先の珠は消えかけていて、最後の蝋燭のような儚い光がちらちらと見え隠れした。


「ああ、ああ、魔女さま。申しわけありません。わたくしのわがままで、こんなところまで……」


 幽灯魚は口から砂のような泡を吐き、こちらを見た。


「深綺の雫を持って参りましたわ」


「やっと……やっと、虹が見られるのですね」


 人魚は心配そうに幽灯魚を撫でた。もう大丈夫よ、と憂いを帯びた瞳で。


「この人魚に……おつかいを頼んだのは、このわたくしです。最期に一度でいいから、深海に架かる虹を見たいという、愚かな願いをこの子は叶えてくれました」


 暗く、冷たく、沈んだ世界。そんな海で幽灯魚の生命が終わろうとしていた。


「大丈夫よ、ユウちゃん。私も一緒だから。あなたの体を、私の泡で包んであげるのよ。虹の中で」


 ルメルティエラは少し迷って、彼女たちに冷たい現実を放った。


「残念だけど、これでは虹は架からないわ」


 人魚は驚いて声を上げたが、幽灯魚の方はそれを知っていたかのような諦念の表情をした。


「深海の虹の作り方。それは、幽灯魚の珠の光を人魚の鱗で反射させること。珠は普通よりもずっと強く光らなければならない。そのための、深綺の雫だけれど……」


 深綺の雫は、幽灯魚の珠に垂らすことで効果を発揮する。簡単にいうと、珠を強く光らせるための薬だ。

 ルメルティエラは、幽灯魚を見て首を振った。


「この薬を今のあなたに使っても、虹が架かるほどの光は出せないでしょう。むしろ、体に悪いわ」


 人魚はがばっとルメルティエラの肩を掴み、涙を流した。涙の粒は海中に浮かび、そのまま溶ける。


「お願い……! 虹を見て、ユウちゃんと私は一緒に死ぬのよ! それが、私たちの最期のお願いよ。どうか、なんとかならないかしら……!」


 懇願する人魚を見て、魔女は笑った。人魚は訝しげな顔をして、彼女をじっと見つめる。


「ユウさん。あなた、灯忘れでしょう」


 灯忘れとは、幽灯魚が罹る病のこと。珠が光らなくなり、やがて死に至るものだ。

 人魚と幽灯魚は、「なぜそれを」とでも言いたげな顔をした。


「おかしいと思ったわ。深海の虹は生きた幽灯魚の光でないと作れない。なのに、報酬は幽灯魚の珠。その幽灯魚が元気なら、別のもので取引をするはず」


 カイロウドウケツとかね、とルメルティエラは付け足した。

 人魚の依頼は、虹を見た後にその幽灯魚が死んでしまうようなものだった。


「別の幽灯魚の珠をくれるのだとしても、それを渡すのはユウさんにちょっと不謹慎よね。同種の遺品だもの。だから、『虹を作る幽灯魚』と『報酬の幽灯魚』は同じだと思ったの」


 虹を作ったあと、その生を終えようとしていたのだろう。けれど、「薬さえあれば灯忘れでも虹は作れる」というのが大きな勘違いであった。


「やっぱり……そうですか。可能性に賭けてみましたが、駄目ですね」


「ユウちゃん……」


「ごめんなさい、スィーリィ。まるで騙し討ちですね。どうかあなたは、もっと素敵なお方を見つけてください」


「嫌よ!」と人魚は叫んだ。魔女はふっと息を漏らし、もうひとつの小瓶を取り出した。


「"これ"がなければ、そうなっていたかもね」


 小瓶の蓋を開け、幽灯魚に飲ませる。するとものの数秒で珠が光を取り戻し、月光のように青白く輝いた。


 幽灯魚に使ったのは、灯忘れを治す薬。ついでに夜市で材料を揃え、作っておいたのだ。


 そして、深綺の雫を珠に垂らす。


 月光よりも強く、日光よりも淡く。幽灯魚の珠は光り輝いた。夜空に浮かぶ星のように。


 その光が、人魚の黒い鱗にぶつかる。黒といっても、赤や青、緑のような様々な色が混ざった黒だ。光はその彩色を暴き、海中に浮かび上がる。


「虹だわ……」


 人魚は、うっとりと呟いた。空に架かる虹とはまったく異なる、青々とした、しかし色とりどりの天の川のようなそれ。泡がまたそれを反射して、まるで星で作ったビジューのようだった。


「スィーリィ、綺麗ですね」


「ええ、本当に」


 人魚と幽灯魚が織りなす、深い海に映る色彩。

 彼女たちは、それが闇に溶けるまで眺めていた。


「魔女さん、お代のことだけど……」


「ええ。幽灯魚の珠はあきらめるわ」


 ルメルティエラはにやりと口角を上げた。


「これなら足りるでしょうか」


 幽灯魚が差し出したのは、珊瑚の心臓と一冊の本だった。


「この本は……おそらく古の魔女が落として、深海まで届いたものです。古い呪文や魔法薬が書いてありました」


「ではいただくわ。次回もどうぞご贔屓に」


 人魚と幽灯魚が微笑み合っているのを一瞥し、ルメルティエラは深海の岩場を去った。

 幽灯魚の珠なんて貴重なもの、欲しくてたまらなかったが今回は我慢した。きっと、あの幽灯魚の寿命が訪れたら自ずと手に入るだろう。


「おっと」


 うっかり見落とすところだった。ほの白く、深海のわずかな光を取り込んだそれを、ルメルティエラは見つけた。


 藍沈雪(マリンスノー)だ。


 深海魚の数少ない食料だが、二尾の命を救ったのだから許してほしい。ルメルティエラは鞄から巾着を取り出し、丁寧に藍沈雪を採取した。思いがけない幸運に魔女は上機嫌に微笑んだ。


 月が海を、雨を、生き物を照らす夜。

 月光の届かない深い海でも、月映えの雨はふたつの生命に光をもたらしたのだった。

・単語集・


月映えの雨:一年に一度、雲ひとつない空に降る特別な雨。精霊の霊力が満ち、夜市が開かれる。

月華紫陽花:月光を浴びて銀色に輝く紫陽花。

幽灯魚:深海に棲む、触手の先に光る珠を持つ魚。人の世でいうチョウチンアンコウ。珠を持つ個体は雌。

藍沈雪:深海に降り積もる微細な有機物や鉱物のこと。

月紋葉:月紋樹から取れる葉。精霊たちの通貨で、模様によって価値が変わる。

深綺の雫:魔法薬の名前。幽灯魚の珠を強く光らせるために、珠内のバクテリアを活性化させる。

深海水:深海の水。

海炎草:海の暖流付近で採取できる赤い水草。魔法薬製作において触媒の役割を持つ。

灯忘れ:幽灯魚が罹る病。珠が光らなくなってしまう。

幽光苔:深海の岩場に生える苔。ほのかに発光する。

月喰い貝:満月の日に開く貝。夜空色をしており、装飾品の材料としても人気。

溺れ蝶:海辺に生息する蝶。

深涙鉱:深海で採れる鉱物。人魚の涙が深海まで落ちてできると言われている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ