1-8.罪人の名は
物置から消えたのは、呪いの水と黒い羊
貴族の馬車はまず通らないような小道に、白馬はためらいなく飛び込んでさらに駆けた。馬に飛び乗った副王の侍従は、夜闇に薄く浮かび上がる白馬の後ろ姿を追って、さらに馬腹を蹴った。
少女の衣装の裾が向かい風になびき、織り込まれた銀糸が星のように瞬いている。少女の馬術は年の割に見事なものだったが、それでも訓練された大人には敵わない。騎手の靴先が壁を擦るほどの狭い道では、侍従はすぐに前方の白馬に追いついた。前後にぴったりとついた二頭の馬は、小道をひたすらに駆ける。突き当りを曲がれば、市場の正面入り口に面した広場へ出ることを、侍従は知っていた。銀糸のソッタ―ナを仕立てられるような大貴族の邸宅は、この辺りには少ない。きっと馬は広場で進路を変えて、再び西に向けて走り出すだろう。広い場所に出る瞬間に前に出て、馬を驚かせてしまえば、馬の胴を挟む脚力に乏しい少女など、振り落とされてしまうにちがいない。そうすれば落馬した少女を助けて護衛する名目で、堂々と彼女の住処を突き止めることができる。侍従はそう考えていた。
いちど遠ざかった庶民たちの浮かれ騒ぐ声が再び近づいてきて、侍従は手綱を握る手に力を込めた。身を乗り出せば触れられる距離にある白馬が先に広場に飛び出し、馬の首を左に向けさせる。目の前の広場では、入口の開け放された居酒屋から出入りする庶民が其処此処にたむろしていた。素晴らしい勢いで駆け込んできた白馬を見て、幾人かが歓声を上げる。侍従は巧みに馬を操り、白馬の進路を塞ぐようにその前に立ちはだかろうとした時、銀の光が彼の手元で一度、縦に走った。
ぶつりと音がして、手綱が彼の右の手元で断ち切られた。侍従は何が起こったか分からず、とたんに言う事を聞かなくなった馬の上で呆然と立ち尽くす。侍従を回り込んだ白馬は少女を乗せたまま、西の方へと向かう小道に入っていった。侍従は激しく揺れる馬の上で何とか手綱を結び合わせようとしながら、ついに白馬の背に声を掛けた。
「待ちなさい!」
仮面の少女は振り返りもせず、いつの間にか右手に抜いていた剣を鞘に納めると、何かを後ろへ放り投げた。それが地面にぶつかる高い音を聞きつけて、近くに居た酔っ払いが足元を覗き込む。そこに落ちていた金貨の、盾の刻印を滑る鈍い光を見て、その男は叫んだ。
「おい、金貨だ! 真珠もあるぞ」
その声を聞いた仲間が何人か寄ってきて、地面にしゃがみ込んだ。彼らを回り込んで白馬を追おうとする侍従の前に、外套と頭巾を被った少女が駆け出してくる。外套の袷から、アウリーヴァの色のソッタ―ナが覗いた。彼女は両手に抱えていた荷物をいきなり中空に放り投げ、叫んだ。
「シレーナの女王様から、謝肉祭のご祝儀だよ!」
少女の声をかき消すように、まき散らされた金貨や宝石が地面にぶつかる音がした。酔っ払いたちはとたんに駆け寄り、地面に這いつくばって金目のものを拾い始める。急いで結び合わせた手綱ではうまく馬を操れず、興奮した人間たちに恐れをなした馬を宥めながら、侍従は彼らに向けて怒鳴った。
「おい、お前ら退かないか!」
だが金貨と宝石に目のくらんだ大勢に、一人の声が届くわけもない。酔っ払いに取り囲まれた侍従は仕方なく馬を下り、短い手綱を引っ張って白馬の入って行った小道の入口に立った。居酒屋や宿屋からもれるわずかな明かりが小道の入口まで伸び、そこに落ちていたキアネッラの左足を淡く輝かせていた。白馬に乗った『シレーナの女王』はとうに蹄の音も追えないほどに遠ざかり、丁字路の突き当りには馬の吐いた湯気の名残だけが薄く漂っていた。
◆◆◆
追手を撒いたゼゾッラは裏門から屋敷に入り、厩番に白馬を託した。ゼゾッラは手袋を取った手の甲で額の汗を拭い、別棟の勝手口から屋敷の中に入った。薪の爆ぜる音がして、竈の前にしゃがみ込んでいたテレサが声を上げた。
「まあ、お嬢様。もうお戻りで?」
テレサの足元には、火ばさみの他に時間潰しのための繕い物が整然と並べられていた。ゼゾッラは着物の裾でその並びを乱さないように気を配り、テレサのもとに歩み寄った。
「ああ、テレサ。夕方に、居間に石を投げる悪戯があったでしょう? あの男に似た人がさっきうろついていたから、念のため寄ってみたのよ。怪しい人は入って来なかった?」
「え。い、いえ、私は何も見ておりません。すぐに他の者を起こしましょう」
テレサは火ばさみを置いて、機敏に立ち上がった。そのまま執事の部屋へと走り出しそうな彼女の肩を押さえて、ゼゾッラは訊ねた。
「待って。お義母様は寝室においでなのでしょう? せっかくお休みになられたのに、騒いでお体に障っては」
「いいえ? カルモジーナは十時半頃に急に着替えて、出かけました。ちょっと古い友達に会ってくるとか言っていましたけど」
テレサがひとこと口にする度に、ゼゾッラは自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。彼女は自分がまっすぐ立っていることを確かめるために、とっさに傍の机に手をついた。彼女の唇はその間にも、何かに操られたように開き、次の問いを発していた。
「……十時半頃? それで、まだお戻りになっていないの?」
「ええ、あの女が戻るまで私も休めませんから、こちらに。……お嬢様?」
テレサに怪訝な顔をされても、ゼゾッラはうまく取り繕うことができなかった。彼女は震える指先を巾着に差し込みながら、テレサの方を見た。微笑んだ唇が歪みそうになるのを、彼女は死に物狂いでこらえた。
「……ありがとう。馬車に乗っていらっしゃったということは、厩番はまだしばらく起きてお義母様を待っているでしょう。きちんと鍵を閉めて、あなたは決して外に出てはだめよ。窓にも近づかないように。私は夕方にお祖父様の別荘に行ったきり、ここには帰ってこなかったことにしてちょうだい」
「え、ええ。もちろん構いませんけれど」
「きっとよ」
ゼゾッラは念を押し、テレサの手を取って巾着から取り出した紅玉を握らせた。それが王宮で拾った施しの残りだということにも、ゼゾッラは思い至らなかった。彼女はそのまま内緒話をするように、テレサに囁いた。
「これは、お祭りのご祝儀。あなたのお陰で、副王様との商談は上手くいったわ」
テレサはゼゾッラの様子がいつもと違うことに気づいていたが、そのことを告げることはなく、ただ頷いた。テレサの手を離したゼゾッラはどこか定まらない足取りで台所を出、ほとんど真っ暗な階段の方へと向かっていく。彼女が明かりを持っていないことに気づいたテレサは、火を点けた燭台を差し出してゼゾッラに呼びかけた。
「お嬢様、明かりを。お召し替えでしたら、私がお手伝いいたします」
「ありがとう、大丈夫よ。上の階は下の物音が聞こえないから、お義母様がお戻りになっても行き違いになってしまうわ。あなたの務めを優先してちょうだい」
そう言ってテレサを台所に留めたゼゾッラは、燭台を受け取らずに真っ暗で狭い階段をひとり上って行った。彼女は手探りで扉を開け、小さな格子窓から差し込む月明かりを頼りに部屋の中を進んだ。床に膝をついて燭台を探し当て、火を灯すと、カッサパンカに刻まれた鳩の沈み彫りがいちど白く光り、蝋燭の火が雫の形にしぼむにつれてその溝に影がだらりと垂れ下がった。昼間のうちにテレサの手で片付けられた室内を見渡したゼゾッラはカッサパンカの座面を持ち上げ、中に納められたわずかな着替えの一枚を取り出すと、ヴェストゥーラの掛紐を解き始めた。
天蓋のほつれた縁が垂れ下がる様は、亡霊の朽ちた衣のようだった。敷布の皺には濃い影が落ち、まるで亡母がまだそこに病みやつれた体を横たえているような錯覚さえ覚えた。ゼゾッラはぎこちない手つきで晴着を脱ぎ、いつもの古着と前掛けを纏う。髪に編み込まれた冠を強引に取ると、何本か髪の千切れる音がした。ゼゾッラは構わず、晴れ着と宝石を全て古布に包み、結び目に借り物の剣を差して腕に抱えた。蝋燭を吹き消して扉に向かいかけたゼゾッラは、ふと冷たい風に吹かれたような気がして後ろを振り返った。カッサパンカと寝台の他に何もない小さな部屋で、右側の欠けた半月の光が床に格子の影を映していた。ゼゾッラは無表情にそれを見下ろし、部屋を出た。
◆◆◆
先ほど上った階段をひっそりと下りたゼゾッラは、まだ台所に居るはずのテレサを憚るように足音を殺し、吹きさらしの渡り廊下を通って母屋に渡った。居間の前で曲がってさらに奥に進んだ彼女の正面に、物置の古い扉が立ちふさがる。死者の手のように冷たい把手を握って、ゼゾッラはその暗い部屋に入った。
半地下になった物置は最初の石段さえ見えないほど暗く、ゼゾッラは手探りで燭台と火打石を探し当て、火を灯した。敷物や掛布を納めた箱、先祖の甲冑に馬具、宴会用の食器類などが所狭しと詰め込まれた有り様は、貴族の屋敷の物置としてはありふれていたが、一つだけ奇妙なところがあった。季節の衣装の入った箱のいくつかに黒い染みのついたものがあり、その傍の床も円い形に黒ずんでいる。石の床の割れ目や継ぎ目に染み込んだ黒いものの正体が乾いた古い人の血だと、ゼゾッラはよく知っていた。
いびつな円の中央に立った彼女はまるで潜んだ悪魔を探すように燭台を掲げ、天板いっぱいに荷箱を乗せた古い机の傍に歩み寄ると、かさついた木が擦れる音を聞きながら古びた抽斗を引き開けた。かつてあの女がゼゾッラの母の遺品をそうしたように、あの女の持ち物は父があらかた売り払って、小銭に換えてしまった。今ここにあるのは、金にならないわずかながらくたばかりのはずだった。ゼゾッラは抽斗の中身の上に蝋燭の明かりを差しかけ、一つずつ確かめた。ほとんどが使いかけの化粧瓶で、一見しただけでは水と区別のつかない透明な液体が、蝋燭の揺らぎに合わせるように波打っていた。
ゼゾッラはその中の一本に手を伸ばし、四角く平たい透明な瓶を取り上げて明かりに翳した。トマソを捕まえるよう唆した女の声は、王宮前の広場からここまでずっと頭の中で響いている。その声の主が誰なのか、ゼゾッラの頭の中では何度も答えが浮かんでは消えていた。そして蝋燭の頼りない光に映し出されたのは、掲げた瓶に描かれた聖ニコラの姿と、瓶の中の透明な液体の水面が、聖人の足首の辺りまで下がっている様だった。ゼゾッラは自分の体が、寒さのためだけでなく震えだしたことに気がついた。三年前には、聖ニコラの肩の辺りまで満たされていたはずのトファナの水を見て、彼女の胸によぎったのは驚きでも怒りでもなかった。これ以上物置を探さなくとも、この机の下に、他の衣装箱とともに積まれた贋金の箱が無くなっていることを、彼女は知っていた。
「……先生」
ゼゾッラの呟きを聞いた者は、誰も居なかった。