1-7.殺人
黄色い帽子の男と、女の叫び声。
広間から出入りする人の列に阻まれて足を止めたゼゾッラは、女の金切り声を聞いた気がして顔を上げ、広間の方へと顔を向けた。人がひっきりなしに出入りするために開きっぱなしの扉の奥では、何やら騒ぎが起こっているようだった。音楽が止み、集まった人々が扉の外から、舞踏の行われている辺りを凍り付いたように見つめている。廊下で出入りの順番を待つ貴族たちも、何事かとそちらに目を向け、囁き交わしていた。ゼゾッラがすぐ後ろにいるジネヴラを振り返り、何か見えなかったかと尋ねようとしたところで、今度ははっきりと女の怒鳴り声が聞こえた。
「てめえ、どういうつもりだよ! 舐めてんのか!」
同時に、人の倒れる重い音がした。ゼゾッラはジネヴラと顔を見合わせ、帰るために大階段を目指す流れから、広間へ入る流れへと乗り換えようと足を踏み出しかけた。気づいたパロマが手を伸ばし、二人を捕まえた。
「ただの喧嘩よ。関わってはだめ」
「でもパロマ様。あれ、たぶんインペーリアだ。いまの奥様の姪っ子」
「田舎の祖母君が亡くなって我が家に引き取られましたけれど、気性の激しい人ですの。さきほど広間でコロンビーナとパスカレッラの姿を見かけましたし、あの子たちが巻き込まれて怪我でもしたら」
ゼゾッラとジネヴラはしばしば広間の方に目をやりながら心配そうに言い募った。パロマは少女たちを行かせないように力を込めて手首を掴み、再び動き出した人の流れに乗って出口の方へと歩いた。
「そもそも、ここは躾の悪い子供の来るところではなくてよ。公爵家の者としての立ち居振る舞いはとっくにわきまえているべきだわ。カルモジーナが輿入れして、そろそろ二年が経つのだから」
たちまち背後に遠ざかっていく広間の扉の奥から、今度はカラミタの叫び声が聞こえた。うちの妹に触るなという怒鳴り声の直後、水差しの割れる大きな音とともに、子供の泣き叫ぶ声がした。大人たちの足音がその泣き声をかき消し、ゼゾッラ達の居る場所から義理の姉妹たちの様子は全く聞き取れなくなった。
「ゼゾッラ、あなただってカルモジーナがどういうつもりで嫁いで来たか、分かっていないわけではないでしょう。詐欺師の娘という汚名を雪いで、貧しい暮らしから抜け出すためよ。あんな子供を野放しにして、上流貴族の仲間入りなんてできるものですか。思い知らせてやるのが、本人たちのためよ」
パロマは階段を下りながら、小声でゼゾッラに言い聞かせた。上ってきた時と同じく、階段には人がひしめいて俯く隙間もない。明かりが揺れるのに合わせて、階段室の白い壁にびっしりと映る人々の淡い影が揺れるのが見えた。ゼゾッラはキアネッラを履いた足を踏み外さないようにぎこちなく段を下りながら、向かいの階段の踊り場の壁に設えられた彫像が、険しい顔でこちらを睨んでいるのを見た。ゼゾッラは胸の辺りにわだかまる苦味を飲み下し、前後左右にひしめき合う男女の衣擦れや、宝飾品の鳴る音を黙って聞いていた。
◆◆◆
拱門をくぐって正面の広場に出ると、人ごみの向こうから黄金色の火花の束が噴き上がった。中央で芸を披露していた芸人の肩に担いだ筒に、火がつけられたのだ。花火に照らされた一帯が淡く輝き、庶民たちの歓声が夜空に反響した。貴族ばかりだった王宮の内部に比べ、広場は富裕な者から貧しいものまで多くの庶民たちが集まっている。彼らは花火や芸人たちの出し物を楽しみ、時おり高台から振りまかれる施しの硬貨を拾い、菓子や酒、砂糖水の売り子から物を買っていった。
花火といくつかの松明に照らされただけの暗い広場で、ゼゾッラ達に目を向ける者は居ない。催しの行われている広場の中央を回り込んで歩いていくゼゾッラの靴先に、転がってきた金貨が一つぶつかって地面に倒れた。刻印された盾の紋章が、花火を受けて金色に光る。ゼゾッラが視線を向けると、芸人たちを囲む人々に向けて、貴族の従僕らしい若い男が何人か、歓声を上げながら金品を投げているのが見えた。金貨や宝石が差しのべられた人々の手をすり抜けて、いくつか地面を転がっていく。ジネヴラはそれを拾って、ゼゾッラの方に差し出した。
「ほら、ガッタ」
「お前がお取りなさい。私が施しものを拾うなんて、みっともないわ」
「持っておいた方がいい。副王様の侍従が、さっきからつけて来ている」
ジネヴラの言葉に驚いたゼゾッラは、キアネッラを溝にひっかけたふりをして履物を脱ぎ、地面に降りた。かがんだ体勢のまま後ろを窺うと、何層かの見物人の列を挟んで、さきほど福王の書斎で給仕をした侍従が一人、ゼゾッラたちを探してあたりを見回していた。ゼゾッラはジネヴラから金貨と宝石をいくつか受け取って巾着に入れ、キアネッラの掛紐をまとめて持つと、何食わぬ顔で姿勢を正した。彼女がいつでも走り出せるように備えていることは、追手には見えていないはずだ。こちらも早いうちから追手に気づいていたパロマが、ゼゾッラの腕を引き寄せた。
「気づいていない振りをして、距離を稼ぎましょう。もうすぐ次の花火が上がるから、見物人が広場の中央に集まるわ。その隙に広場を突っ切って、裏の通りに出るのよ。馬車はあらかじめ待たせているわ」
「はい」
ゼゾッラは頷き、人の流れにしたがってゆったりと歩いた。つけられていることなど、全く気づいていないかのような足取りだった。広場の中央に陣取った芸人たちが高い梯子の上で逆立ちをし、短剣をいくつも投げては素手で受け止める芸を見せる。群衆がそれに見入っている間に、大きな筒を抱えた男がその陰で火のついた松明に筒を近づけていた。筒に火がつくと、男は広場の中央に駆けていく。天に向けられた筒の口からほどなくして金色の火花が噴き上がり、弧を描いて次々と地面に落ちた。男の肩や腕、石畳にぶつかった火花が砕けて跳ね、王冠のような形を作っては消えていく。花火にひときわ大きな叫び声があがり、人々がそちらへ駆けつけていく流れに乗って、ゼゾッラたちは広場を横切った。彼女を見失った王宮の侍従が慌てて人垣に割り込み、見物人にぶつかって鬘をずらされたのが見えた。ゼゾッラはそっと顔を伏せ、笑い出しそうな口元を指先で押さえた。
にわか雨のように激しい花火の音に紛れて、なじみ深い少年の声が聞こえたのはそのときだった。そちらに目を向けたゼゾッラの数歩前で人垣が崩れ、中から飛び出したトマソが後ろからのばされた手を払いのけた。
「だから、俺はなにも知らないって!」
「うるせえ、その鍵よこせ! てめえが持ってったのは分かってんだ!」
トマソは身なりの汚れた三人の男に追いかけられ、その先頭の一人が怒鳴りながら、少年の首に掛かった錠をむしり取ろうと襲いかかっていた。男の被っていた黄色いつば広帽が落ち、誰かがそれを踏んで行った。ゼゾッラが声を上げて、トマソをこちらに呼び寄せて逃がそうとしたとき、急に男が足を止めた。彼は腹を押さえてうずくまり、二人の諍いに押し広げられていた人の波が、逆に男の方へと押し寄せて押し包んでいった。横合いから踏まれたり蹴られたりしているはずの男は、だが先ほどまで少年に悪態をついていたとは思えないほど静かに人ごみの底に沈み、少しの間そこはただの人垣に戻った。
ならず者から逃げおおせたトマソはいきなり男の姿が消えて、後ずさりながらも戸惑ったように後ろを振り返った。だが男の仲間が追いつき、周囲の通行人を乱暴にかき分けたとたん、彼らの怒りの声に混じってどこからか女の悲鳴が響き渡った。再びぽっかりと人ごみに空いた穴の中央には、先ほどの男が倒れていた。横向きに倒れた男は喉をかきむしった体勢で泡を吹いたまま固まり、その背中には短剣が突き刺さっていた。幾人もの足跡に踏み荒らされた血だまりの真ん中で、男はすでに死んでいた。
「人殺し!」
女の叫びが人垣の後ろから聞こえ、ゼゾッラは凍り付いた。その女の声は、さらに叫んだ。
「その子供よ、捕まえて!!」
その叫びを聞いた人々が振り返ったのは、少し離れたところで膝をついていたトマソだった。周りのただならぬ様子に顔を上げたトマソは、花火の明かりに浮かび上がった男の死体を見つけ、こちらを睨んでいる大人たちの顔を見て何度か首を振った。
「ち、ちがう。俺じゃ」
「トマソ、来なさい!」
人混みを縫って駆け寄ったゼゾッラは、たどたどしい口調で弁明しようとするトマソの腕を掴み、人混みの中に飛び込んで走った。パロマが後ろからゼゾッラに呼びかける声が聞こえたが、彼女は足を止めるどころではなかった。先ほどの女の叫び声が耳の奥に蘇る度に、頭ががんがんと痛んでいた。
◆◆◆
ゼゾッラは広場の影を選んで走り、人気のない教会の裏道へ駆けこんだ。トマソを教会の壁に押し付けるようにして自分の影に隠したゼゾッラは、荒い息を繰り返しながら走ってきた方を睨み、こちらへ近づいてくる足音がないかと耳を澄ませた。口からこぼれる白い吐息が夜の闇に溶けてしまったのを確かめて、ゼゾッラはようやくトマソに声をかけた。
「ひとまず、追ってきてはいないわ。服や手に血が付いていないか見せなさい」
「あ、えっと、チェネレントラ、俺」
「見せなさい」
トマソは夜目にも分かるほど青ざめ、震えていた。ゼゾッラはそれをあえて無視し、彼の両手や足元に血が付いていないことを念入りに確かめる。ようやく顔を上げたゼゾッラは、氷のように冷え切ったトマソの手を握って、小刻みに震える黒い瞳を見つめた。
「なあ、なあチェネレントラ。俺、何もしてないんだよ。友達と祭り見物をしてたら、さっきの男にいきなり追いかけられたんだ。鍵を寄越せって言われたけど、こいつはうちの納屋の鍵だ。金目のものなんてないし、他の鍵なんて何も預かってない」
「知っているわ。知っているから」
震える声で必死に弁解するトマソに、ゼゾッラは頷いた。トマソはゼゾッラの肩越しに、広場での騒ぎに目をやった。今しも広場に戻って弁解を始めそうな少年の腕を押さえて、ゼゾッラは言い聞かせた。
「今は駄目よ。この騒ぎで子供の言う事なんて誰が聞いてくれるものですか。このままお前をパロマ様の屋敷にお連れして、匿って頂きます。警官に連れて行かれて、お前が違法な御用聞きをしていることが知れたら、いよいよ犯人扱いよ。馬車を待たせてあるから、ついてきなさい」
ゼゾッラはトマソの格好を上から下まで見回し、先ほど着たばかりの外套を少しばかり乱暴に脱いだ。少年の、胴着の袖や袷から覗く白いカンミーサが、夜闇にぼうっと浮かび上がっているのを見たためだ。彼女は、脱いだ外套で少年の体をすっぽりと包み、その手を引いて再び歩いた。歩みを進めるごとにゼゾッラの歩調は早まり、ついには走り出した。
左右を壁に挟まれた真っ暗な道を明かりもなく駆けたために何度か壁に肘や肩をぶつけたが、ゼゾッラは構わずトマソの手を握ったまま裏道を抜け、半分の月が照らす夜道を、通りの向こうで待っていた六頭立ての馬車に向かってさらに走った。寒さを訴える馬が鼻を鳴らし、吐く息で白く煙った空気の中にひとつ行灯が掲げられ、ジネヴラの叫びが響き渡った。
「ガッタ、こっち!」
ゼゾッラとトマソはそちらに駆けより、ジネヴラが幻でないことを確かめるようにその肩に手を置いた。大きく肩を上下させるゼゾッラとトマソを交互に見て、ジネヴラは言った。
「馬車に乗って。パロマ様が来たら、すぐに出るから」
「トマソ、先に乗りなさい。絶対に窓から顔を出してはだめよ」
ゼゾッラはトマソの背を押して馬車に乗せたが、自分は地面に足をつけたまま、乗り込もうとしない。ジネヴラは主人を抱え上げて馬車に乗せようと、彼女の方へと手を伸ばしたが、それよりも早くゼゾッラがジネヴラの手を掴み、キアネッラの右足の掛紐をそこに握らせた。
「ジネヴラ。これはお祖父様の別荘まで持って帰って。私はそこの副え馬を借りて、いちど家に帰ります。すぐに戻ってくるから、パロマ様には先にお祖父様の別荘に行ってくださるように、お伝えして」
「馬鹿言ってんじゃねえ。強盗に殺されてえのか」
「駄目だよ、ガッタ。最近は治安が悪いってみんな言ってるじゃないか」
馬車から身を乗り出したトマソとジネヴラが、代わる代わるゼゾッラを止めた。ゼゾッラはその剣幕に少したじろいだが、それでも譲らなかった。
「人殺しの顔に見覚えがあったの。昼間、母屋の玄関に石を投げて行った男よ。南側の通りへ走って逃げて行ったから、またうちの屋敷に逃げ込むつもりかもしれない。馬で先回りして、テレサ達を起こしたらすぐに戻ってくるから。副王様の召使いが私をつけているのに、馬車で行ったら私の家も突き止められてしまうわ。大丈夫、何度もお祖父様の狩猟のお供をしたから、乗馬には自信があるのよ」
ゼゾッラのよどみない言葉に、トマソとジネヴラは戸惑って顔を見合わせた。年若い二人には、ゼゾッラを一人で行かせる危険と、彼女の正体が副王に知られる危険、どちらを優先すべきか判断がつかなかった。ゼゾッラはその間に御者に命じて副え馬に鞍を置かせると、女乗りではなく、鐙に足をかけて跨った。驚いて足踏みする白馬を宥めるゼゾッラの左腕には、キアネッラの左足の掛紐が引っかかっている。引き止めきれないと思ったトマソは馬車の中を這うようにして武器を探し、覗き窓から御者席を覗いて、そこに置かれた長剣を見つけた。トマソは馬車から滑り降り、剣を鞘ごと掴んだ。
「おっさん、借りるぜ」
戸惑う御者をよそに、トマソはゼゾッラに駆け寄ると、剣を彼女に押し付けた。目を瞬くゼゾッラに、彼は早口で告げた。
「斜めに背負って、持っていけ。馬の鼻先や足元に物を投げられたら、これで払いのけるんだ。はったりでも良いから、剣を使い慣れてるふりをしろ。それで大抵のやつはびびって逃げ出す」
「……わかったわ」
ゼゾッラは言われた通りに剣を背負い、馬の脚に絡みつきそうな引き裾の服地を結び合わせて丈を短くした。白馬が落ち着いた頃合いを見計らって、ゼゾッラは慣れた手つきで手綱を操ると、通りの中央へと馬を進めた。最後にジネヴラが、ゼゾッラの方へと声を張り上げた。
「ガッタ、まず市場の前の広場に行って!」
ジネヴラの言う広場は、屋敷とは反対方向にある。ゼゾッラは理由を尋ねようとしたが、王宮の方から騎馬の近づいてくる音が聞こえた。問いただす暇がないことを知ったゼゾッラは、無言でジネヴラに頷き返し、馬腹を蹴った。勢いよく走り出した白馬を見つけて、馬に乗った男たちは一目散に追っていく。馬たちの跳ね上げた土くれが自分の足元に落ちるのを眺めていたジネヴラは、先ほど主人の言った言葉にふと違和感を覚えて、誰にも聞こえないように呟いた。
「……昼間に石を投げて行った男って、さっき死んだ奴だよね?」