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証人チェネレントラ  作者: 文屋廿三
最初の祭りの日
7/28

1-6.シレーナの女王

みじめな灰かぶりの次は、人魚の女王を演じる番。


◆作中に登場する外国語単語

・ズッパ(那zúppa):具入りのスープ

・ブオノ(那Buóno):良い

・カルネヴァーレ(伊Carnevale):謝肉祭。カーニヴァル

・カンデリエーレ(伊candeliere):シャンデリア

・ジョヴァンニ・バッティスタ(伊Giovanni Battista):洗礼者ヨハネ

・ファルセット(伊farsetto):男性用の上着

・セニョリータ(西Señorita):未婚女性の敬称

・カッフェ(西café):コーヒー

・ヴァラ(西vara):長さの単位。八十センチ強

・シレーナ(西sirena):セイレーン

・チーフェロ(那cífero):悪魔

・クロスタータ(伊crostata):パイ(タルトも含む)

・コローナ(伊corona):冠飾り。必ずしも正式な王冠ではない


 ラヴィニアの家を出る前に、ゼゾッラはパロマに頼んで金貨を銀貨に替え、ラヴィニアに一年の家賃と祭りの祝儀を払った。机の上の小切手と積まれた銀貨を眺め、ラヴィニアは引っ張り上げた前掛けの端で目尻を拭った。


「あらいやだ、寡婦(やもめ)は涙もろくていけないわ。何でしょうね、痩せっぽちで怯えた子猫のようだったお嬢様が、ご自分でお金を稼いで家賃を払って下さるようになったと思うと。亭主が生きていたら、やっぱり泣いて喜んだでしょうよ」

「ジェンナーロの焼いて下さった栗の味を忘れたことはないわ。あの頃はスープ(ズッパ)も喉を通らなくて、随分とご心配をかけたもの。ご夫君の分まで、あなたには楽をして頂かなくては」


ゼゾッラはラヴィニアの腕に手を添えて、慰めるようにさすった。パロマは二人から一歩離れたところに立って手巾で目元を押さえ、息を吸い込んでことさら陽気な調子を作った。


「さあ、ラヴィニアに御殿を建ててあげる為には、良いお客を見つけてもっと稼がなくてはね。ではラヴィニア、よい(ブオノ・)謝肉祭を(カルネヴァーレ)


パロマは仮面を着けながらラヴィニアの頬に接吻し、少女たちの肩に手を置いて馬車の方へと導いた。松明を持って迎えに来た従僕の後に続き、ゼゾッラたちは凍るように寒い夜の街へと歩き出した。すでに家々の屋根よりも高く上っていた月は右半分を欠き、死神の不気味な鎌のように見えた。ゼゾッラはその月を睨みながら凍ったぬかるみを踏んで少しばかり歩き、馬車に乗りこんだ。


キアネッラを履いたゼゾッラは頼りない足取りで段を上り、客車の床に足をつけたが、そこにはパロマの小間使いがぐうぜん置いていた宝石箱があった。彼女はそこに足を引っかけてつんのめり、慌てた小間使いとジネヴラに助けられてようやく馬車の中に納まった。主人と隣り合わせに腰を下ろしたジネヴラは、申し訳なさに縮こまる小間使いを慰めながらぼやいた。


「大丈夫? ガッタ。何だか心配だなあ、王宮は人がいっぱい居るんだから、うっかり階段で転んだりしないでよ。痣を作った上に、騒ぎになってカラミタ達に見つかったら、泣きっ面に蜂だろう」

「少し目測を誤っただけよ。大げさね」


ゼゾッラは照れ隠しのように頬を膨らませ、顔を背けた。小間使いに取り出させた手袋を嵌めようとしていたパロマは、少女たちの会話を聞きとがめて振り返った。


「なに? カルモジーナの連れ子たちも王宮に来ているの?」

「カラミタが見合いをするんだってさ。祭り見物にかこつけて、相手と顔を合わせるんだって。おっ母さんは頭痛で休むけど、代わりに妹たちが付き添うみたいだよ」


ジネヴラが答えると同時に馬車が動き出し、車内はとたんに騒がしくなったが、パロマのあきれ返った呟きは少女たちにはっきりと届いていた。


「なんて無責任な母親なの。謝肉祭で娘の見合いですって? しかも子供たちだけで。良からぬ輩と(いさか)いになるに決まっているのに、これ以上家の評判を落としてどうするのかしら」

「しかたないよ。旦那様が妾の家から戻るのを待っていたら、みんな年増になっちまう」


ジネヴラがそう言って取りなすと、パロマは鼻で笑った。いま彼女の心に浮かんでいるのは、ゼゾッラの母が生きていた頃のことに違いなかった。


「ああ……、あの男は相変わらずね。そんなに女優の情夫で居たければ、当主を辞めて駆け落ちでもすれば良いのに。ゼゾッラがまっとうなお婿を迎えて女公爵をやった方が、よっぽど家のためになるわ」


彼女の言葉をたしなめる者はなく、ゼゾッラとジネヴラは苦笑とも諦めともつかない表情を渡された仮面の下に隠した。ゆうべの雪でふやけた地面は轍や足跡をいくつも残しており、馬車はしつこく揺れながら通りを進んだ。車輪や(くびき)の継ぎ目が大きく軋んで、車内の人間の話し声はいっさい聞こえなくなる。()え馬を引いて松明を掲げた召使いが時おり馬車の横を行き来し、日除け布を透かしたその光が女たちの膝を走って行った。それをしばらく眺めた後に馬車は停まり、召使いが外から扉を開けた。


外を見たゼゾッラの視界いっぱいには王宮の四角い影が映り、その窓からところどころ漏れる吊り燭台(カンデリエーレ)の黄色い明かりが冬の夜気に滲んでいた。主人よりも先に下りたジネヴラが手を伸ばし、男の召使いとともにゼゾッラを支えて馬車から下ろした。パロマは腰に下げた鎖を引き寄せて、その先に付けた懐中時計の蓋を開けた。刻み彫りされた片翼の鳩が、こちらに向けて頭を垂れているのがゼゾッラの目に入った。


「もうすぐ十時ね。副王様とのお約束は十時半だから、ちょうど良い頃合いに着いたわ。広間で少し時間を潰しましょう」


パロマは懐中時計を元通りポラキーノの裾に隠し、ゼゾッラの腕を取った。


◆◆◆


豪華な晴れ着を纏った男女の列に紛れて、彼女達も入口の拱門をくぐり、王宮の中に入った。白漆喰と大理石で作られた階段室は燭台と松明の火明かりを受けて淡い黄色に色づき、壁一面に刻まれた浮彫の影が蜻蛉(とんぼ)の羽根のように重なって伸びている。行き交う人々の淡い影がその上を滑っていくのを横目に、ゼゾッラは腕を引かれるまま階段を上った。襞衿(ひだえり)(かつら)を着け、仮面で目元を隠した男女が前後左右にひしめき、手を上げるわずかの隙間もない。パロマとジネヴラはゼゾッラを支える腕に力を込め、万が一にも彼女を(つまず)かせないよう神経をすり減らした。


ゼゾッラは両側からそれぞれ腕を担がれ、踵が浮き上がりそうになりながら、何とか階段を転げ落ちる羽目にはならずに二階へとたどり着く。方形の廊下を人の流れに沿って歩き、もっとも出入りの激しい広間へと入った。楽団の演奏に合わせて踊る男女が左右に分かれ、奥に飾られていた絵が彼女の正面に現れた。


「……まあ」

ゼゾッラが思わず声を上げたのは、ゆうに彼女の背丈を超える大きさの画布に描かれた、洗礼者の誕生を描いた絵画のためだった。絵の傍に駆け寄ったゼゾッラのあとについて行ったパロマは、玉座を囲むように四方の壁に掛かった六枚の絵を順に眺めた。洗礼者の出生から非業の最期まで、幾人もの画家がそれぞれの場面を描いている。パロマはほかの客人たちの方に時おり視線を向けながら、ゼゾッラに耳打ちした。


「副王様の思し召しで、このお祭りの間だけ広間に飾られているそうよ。いずれ本国の新しい王宮に納められる連作なのですって。スタンツィオーネ、フィノーリア、それからこれは、女流画家のジェンティレスキ」


パロマが扇の角で指した正面の絵に、ゼゾッラはすでに見入っていた。生まれたばかりの洗礼者に、女たちが産湯を使わせている。赤子の洗礼者を中心に円形の光が人物を照らし、女たちの色鮮やかな衣装がより洗礼者の方へ見る者の目線を集めている。彫像のように絵の前に佇んだまま、ゼゾッラは仮面の下で視線だけを上下左右へ走らせていた。パロマはそんなゼゾッラが踊っている客にぶつからないよう自分の影に入れ、ゼゾッラに問いかけた。


「同じ画家の目から見てどう? あなたの絵に取り入れるべきものはあるかしら」

「無論ありますわ。洗礼者(ジョヴァンニ)ヨハネ(・バッティスタ)に視線を集めるために、光輪や十字架でなく、画面の明暗と女たちの衣装を用いているでしょう? まるで市井の日常を描いたように自然に、かつ王宮に飾るにふさわしい気品でもって、聖書の一場面を描くことは簡単ではありません。テッラを横長に使って、右奥の扉と画面の左外からの光がぶつかる点に主役を置くことで、主役を明るく、左奥を暗くして画面に奥行きを持たせることができますの」


ゼゾッラは閉じた扇で絵の中の光をなぞって見せ、夢中になって説明を続けた。荷物を抱えた召使いが追いついてくるのを待っていたジネヴラは、パロマの影に佇んだまま絵を見ている主人の背中に目を向け、そちらへ歩いて行こうとした。


そのとき彼女の前に立ち塞がるように、古風な襞襟のついた男の上着(ファルセット)の白い背中が割り込み、ジネヴラよりも先にパロマ達の傍へたどり着いた。男はパロマの横に立ち、まるで屋敷から一緒にここへやってきた連れのように落ち着いた仕草で顎ひげを指先でしごいた。


「ほう、これは大した見識だ。そなたのような年若い娘が、花や人物の姿かたちでなく構図の論評に熱を上げようとは」


スパニョーラで急に会話に入り込んできた男の声に、パロマとゼゾッラは背後を振り返った。追いついたジネヴラが主人の後ろに回り込むと、道化の仮装をした細面の紳士が、いたずら小僧のように片目を瞑り、農夫のようなつば無し帽を持ち上げて挨拶する顔が見えた。その後ろでは、あれほど広間にひしめいていた貴族たちが左右に分かれ、無関心を装った恭しさでもって彼の為に道を開けている。パロマは扇を閉じて、挨拶をした。


「これは、副王様」


パロマの言葉を聞いて、戸惑っていたゼゾッラ達も急ぎ礼をした。副王は頭を垂れる女たちをゆったりと見回し、手振りで頭を上げるよう促した。


「よいよい。パロマどの、そなたはたとえ仮面を着けていてもすぐに分かる。これほどの洒落者は、ナポリ広しといえどもそう居らぬからな。(あるじ)はご健勝か」

「おかげさまをもちまして。老体ゆえナポリまで参上することは叶いませんでしたが、副王様に謝肉祭のお祝いを、と申しておりました」

「お元気そうでなにより。……ところでパロマどの、こちらのご令嬢(セニョリータ)は、そなたの新しいご友人かな?」


副王は仮面の下から覗く唇を笑みの形に保ったまま、パロマの後ろで腰を屈めているゼゾッラを見た。パロマは姿勢を正すと、ゼゾッラの腕を取って自分の方に引き寄せた。


「ええ。実はこの者は、先日ご紹介いたしましたダットーロなる画家の絵を、屋敷に数十点置いている者でございます。かの画家は主にサルデーニャに顧客を持っておりますので、この娘がナポリでほぼ唯一の収集家と申せましょう」

「これは珍しい。着物や化粧に血道を上げる年頃の娘が、絵画の収集とは」


副王はパロマの作り話に目を瞬き、道化の仮面の下でゼゾッラに値踏みするような視線を向けた。両肩に重いものがのしかかってきたような感覚に耐えて、ゼゾッラは口を閉ざしていた。


「はい。本日はこの娘が、副王様にお渡しすべく画家から預かった物があると申しております。少し静かなところで、副王様のご覧に入れたいのですが」

「おお、もうできたのか。たしか指示書を送らせたのは年の瀬であったはずだが。よし、余の書斎でゆっくり見るとしよう。后も呼んでな」


副王は仮面越しにも分かるほど顔をほころばせ、パロマの手を取って歩き出した。ジネヴラの肩を借りたゼゾッラがその後に続き、荷物を抱えた召使いたちがその後に続く。副王と客人たちの長い列を通すために、貴族たちはさりげなく両脇に避けて道を開けた。ゆったりと広間を横切り、王宮の侍従が開いた扉から出て行く一行を、大人たちの後ろに隠れたコロンビーナとパスカレッラが見ていた。


カラミタの介添えに飽きた幼い子供たちは、流行の衣装と宝石で華やかに着飾ったゼゾッラをまさか義理の従姉とは思っていなかった。副王のすぐ後ろについて品よく歩き去って行った若い娘について、彼女たちは顔を見合わせて口々に言い立てた。


「誰だろうね、あの人」

「ほんとう。まるでどこかの女王様みたい」


◆◆◆


 副王の書斎は王宮の南側にあり、広間を出た彼らは回廊の突き当りの扉から、控えの間を通ってそこに入った。露台や隣室への扉、窓や鏡を除いて、四方の壁はほとんどすべて静物画に埋め尽くされている。副王は中央の卓に絵を置かせ、客人たちを座らせると、侍従に后を呼ぶよう命じた。給仕が人数分の珈琲と砂糖菓子を運び、静かに下がっていく。副王はパロマとゼゾッラに珈琲を勧め、自分も上機嫌でひと口含んだ。


「ご婦人がたの珈琲(カッフェ)には、砂糖をたっぷり加えておる。どうぞ召し上がれ。さて、先に絵を見せてもらおうか。ご存じの通り、后は支度に時間のかかる女でな。余はとても待ちきれぬ」


卓に身を乗り出した副王の前で、パロマの召使いたちは画布を包む布を取り、絵をさらけ出した。ゼゾッラは仮面の下で目を瞑り、副王の顔に浮かんだわずかな失望の色も見えないように顔を伏せた。耳に痛いほどの沈黙の後、男のため息が一度聞こえ、そしてスパニョーラの囁きが彼女の耳に忍び込んだ。


「……これは見事だ」


ゼゾッラは聞き間違いではないかと思って顔を上げ、副王の方を向いた。副王は卓に手をついて身を乗り出し、仮面すら取り払って絵に見入っていた。ここでようやくゼゾッラのもとに漂ってきた珈琲の香りは、胡桃や栗を焼いた香りに少し似ていた。


「いや、面白い。たかだか約八十センチ(一ヴァラ)四方の広さに、これほど劇的な場面を描き出すとは。パロマどの、画家への代金はセニョリータに直接支払っても良いのかな?」

「え? ええ、もちろんですわ」


代金は銀行を通じて支払われるものと思っていたパロマは少し驚いたが、副王は浮き立つ足取りで立ち上がると、書き物机の抽斗から数枚の金貨を取り出してゼゾッラの後ろに回り込んだ。背凭れの後ろからゼゾッラの手を取り、副王はその白い手に金貨を八枚乗せると、さらにそこに四枚を足した。


「四枚はそなたの分だ、セニョリータ。真珠の一粒なりと買い足して、宝石箱に加えるとよい」

「……お礼の言葉もございません」


ゼゾッラは指先の震えを悟られないうちに、金貨を乗せた手を引こうとした。だが副王はゼゾッラの手を捕らえたまま、染みついた絵の具のにおいを嗅ぎ取ってわずかに目を見開いた。


「ん? セニョリータは変わった香水をお召しだ。水仙か、いや、これは東方の」

「まあ、あなた。私が化粧直しをしている僅かの間に、このように幼気(いたいけ)な花の蕾を手折ろうとなさるとは」


ゼゾッラの手を握ったまましつこく香りを確かめる副王を見つけ、支度を終えて入ってきた后が声を上げた。わざと咎めだてするような口調を作った妻に、副王は慌ててゼゾッラの手を放し、駆け寄ってその肩を抱いた。


「何を言うのだ、后よ。我が庭に棘のない薔薇が咲いておるのに、どうして菫の蕾を取って花瓶に生けようか。そなた以外の花など、とても余の目には入らぬ」

「どうでしょう。私も若い頃は、その甘いお言葉に絆されて幾度も涙を呑みましたからね。パロマ、ごきげんよう。昨日はとても楽しかったわ」


后は副王の接吻を受けながら、立ち上がったパロマと握手を交わした。パロマは恭しく后の手を取って腰を屈め、挨拶を終えるとゼゾッラを傍に引き寄せた。


「こちらこそ、お招き頂きましてありがとうございます。冬の海を渡って、サルデーニャから参った甲斐がありましたわ」

「嬉しいこと。ところでパロマ、こちらのセニョリータを私にも紹介してくださいな。見るからに育ちの良い、名門の姫君とお見受けしましたけれど」


后は卓の上に広げられた絵とゼゾッラとを交互に見比べ、扇で口元を隠しながら尋ねた。パロマはちらと后と目を見交わし、鹿爪(しかつめ)らしい顔を作って答えた。


「こちらはナポリ湾に浮かぶ人魚(シレーナ)の国の女王でございます。副王様への謝肉祭の贈り物として、お抱えの画家に絵を描かせてお持ちしました」

「そなたもこの絵を見るがよい。サルデーニャの宮廷で人気のダットーロという画家の作だ。六年前にいちど筆を折っていたが、近頃ふたたび描き始めてな。しかも急に腕を上げたというので、評判になっておったのだ」


副王は后の前に絵を運ばせ、得意げに説明した。后は絵をじっくりと見つめ、やがて微笑んだ。


「美しいこと。シレーナは歌の名手揃いと聞いておりましたが、近頃は絵の名手も居るのですね。女王どの、ダットーロという男は、サルデーニャの生まれなのですか?」


后に話しかけられたゼゾッラは息を呑み、震える唇をいちど噛みしめた。


「……ダットーロは、ナポリの生まれでございます。パルテノペの歌声に惑わされて、わが島に流れ着いたと」

「まあ。これほどの画家がナポリに生まれながら、母国と副王様の為にこれまで一枚も描いていないというのは、由々しきことですわ。ダットーロはいったいどういうつもりで、サルデーニャの注文ばかりを受けるのです? 見たところ署名の綴りを誤っているようですが、読み書きも知らぬ者がそなたやパロマとどのようにして知り合えたのか、私には不思議でなりません」


后の口調は穏やかだったが、その問いの中身は鋭く厳しかった。わずかに顔を強張らせたゼゾッラの様子を見て、パロマは助け舟を出そうとしたが、それよりも早く、ゼゾッラは自分から声を上げた。


「おそれながら、お后様。ダットーロの署名は、ただの間違いではございません。それには悪魔(チーフェロ)の呪いが掛けられております。呪いのためにダットーロの姿はふた目と見られぬほど醜くなり、その姿を恥じてかの者は、これまで王宮に参上することもできませんでした。ともに生まれ育った私がパロマ様を頼り、サルデーニャの貴い方々に見出されたお陰で、ようやく画家として一本立ちすることができたという具合です。副王様のような、主の祝福を受けたお方ならば、この呪いを解いて下さるかと」


悪魔、という言葉にだけ、ゼゾッラはナポリ語を使った。パロマは驚いてゼゾッラを振り返り、后はその様子を見て目元を和ませた。気づかなかった副王はひとり首を傾げたが、后が扇の影で何事か耳打ちすると、彼はいちど目を見開いた後、大口を開けて笑い出した。


「なるほど、それはぜひとも解き明かさねばなるまいな。しかしパロマどの、こちらのセニョリータの教養は見事なものだ。まさかナポリ人の娘から、このような言葉遊びを仕掛けられることになろうとは」

「恐れ入ります」


パロマは副王が楽しそうに笑っているのを見て、どこか得意げに答えた。后が菓子を運ばせ、四人は侍従たちが書斎の壁にゼゾッラの絵を掛けるのを眺めながらパイ(クロスタータ)を食べ、葡萄酒を楽しんだ。十一時半を過ぎ、王宮を辞するためにパロマとゼゾッラが立ち上がると、副王夫妻は彼女達を見送りに出た。ゼゾッラの手を引いて扉口まで案内した副王は、挨拶をするゼゾッラの肩に手を置いて告げた。


「ではシレーナの女王どの、お帰りになったら、余の言葉をダットーロにお伝え願おうか。『謝肉祭の間に、必ずそなたの正体を突き止めるゆえ、余の前に姿を見せる覚悟を決めておけ』とな」

「……かしこまりました」


ゼゾッラは慇懃(いんぎん)に頭を下げたが、パロマは副王が『悪魔の呪いを解く』と言わなかったことに気づいていた。二人の女の背中が曲がり角の向こうに消えるのを目で追っていた副王は、片付けに掛かろうとした侍従の一人を手招きして命じた。


「先ほどの客人の家まで尾行して、正体を確かめよ。冠飾り(コローナ)を着けた、若い娘の方をな」


若い侍従は頷き、回廊にひしめく男女の壁に阻まれながら、先ほどの女たちを追って行った。后は別の侍従に別のことを命じていたが、夫の命を受けた侍従が去っていくのを横目に見て小さく溜息をついた。


「あなた、少しばかり無作法なやり方ではありませんの? 若い娘の後をつけて、身元を確かめるなどというのは」

「なに、余が突き止めたいのは男の居場所だ。若い娘の臥所を覗き見るわけではない」


副王は細い髭をしごいて、自信満々にそう答えた。

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