1-5.キアネッラ
母の形見の履物には、少女たちだけの秘密がある。
◆作中に登場する外国語単語
・スパーニャ(伊Spagna):スペイン。1630年代時点で、ナポリ王国はスペインの植民地
・ジュディッタ(伊Giuditta):ユディト。旧約聖書『ユディト記』のヒロイン
・オロフェルネ(伊Oloferne):ホロフェルネス。『ユディト記』の敵役で、アッシリアの武将
・アウリーヴァ(伊aulíva):オリーヴ
・トレーナ(那trena):レース編み
・ファッシェッタ(伊fascetta):補正帯。コルセットの一種
・ヴェストゥーラ(伊vestura):女性用上着の一種
・グアルディンファンテ(伊guardinfante):スカートを膨らませる金属・鯨髭製の枠。仏パニエに相当
・ガベッラ(伊gabella):物品の売買にかかる税。現在の消費税、関税に相当。多くは税率一割
・カットリコ(伊cattolico):カトリック
・プロテスタンテ(伊protestante):プロテスタント
・イングレーゼ(伊Inglese):イギリス人
・スパニョーラ(伊Spagnola):スペイン語
・パルモ(伊palmo):長さの単位。約二十五センチ
どこか咎めるようなジネヴラの声音を聞いて、パロマはようやく振り返った。顔を曇らせた少女二人を見つけて何度か瞬きをする彼女の顔は、歳よりずっと幼く見えた。
「何を言うの、とっても良い絵だわ。ジネヴラ、包んでおいて」
パロマの言いぐさにジネヴラは顔をしかめ、小さく頭を振った。描き直した個所の絵の具があらかた乾いていることを確かめて、ジネヴラが小間使いと共に絵を包みにかかる。彼女たちのために数歩下がって場所を開けたパロマは部屋の奥の壁に燭台を向け、そこに掛けられた絵を一つ一つ見比べた。見つからないと分かっている物を探すようなその横顔を、ゼゾッラは自分の絵に対する物足りなさのせいだと思った。彼女は冷え切った指先を握り込んで、亡母の親友の隣に歩み寄った。
「あの、パロマ様。……その、お許しくださいまし」
「え?」
いきなり詫びられたパロマは目を瞬き、ゼゾッラの方を振り返った。ゼゾッラはパロマの顔を見ることが出来ず、目を伏せたまま弱々しい声で続けた。
「お母様の絵を生かすことが、パロマ様のお心に沿うことだとは思いますけれど、お客様のご要望にそぐわないことが多くて。私の腕では、お母様の下絵をそのまま仕上げて良い絵にすることは」
ゼゾッラの弁明を聞いたパロマは思いを巡らし、そして何かに思い当たったように目を見開いた。彼女は全身で息を吐き出すと、ゼゾッラの肩に手を置き、目線を合わせた。
「ああゼゾッラ、違うの。違うのよ。……だめね、私ったら。こんな時まで仲買人のような口のきき方をして。あなたとルクレチェの画風はまったく違うし、あなたが彼女に合わせることなんて無いわ。私こそごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
熱心に言いつのるパロマの耳元で金線細工の耳飾りが揺れ、嵌め込まれた紅玉がまるで涙ぐんだ瞳のように光を弾いた。布に包んだ絵を作業台に乗せたジネヴラは、まくり上げた袖を戻しながら苦笑いをこぼした。
「パロマ様、絵の目利きをする時は口調が怖くなる。気をつけなくちゃだめだよ。いくらガッタが生意気盛りでも、まだ十四の子供なんだから」
「ジネヴラの言う通りね。ゼゾッラ、私が無駄なものにお金を出さないことはよく知っているでしょう? 親友の忘れ形見だからと言って、気に入らない絵を描く者を後援したりしないわ。あなたも少しは自信を持ってちょうだい。『ダットーロ』がたったの二年でサルデーニャいちの画家になったのは、あなたの手柄じゃなくて? そのうえこの絵が副王様のお気に召したら、宮廷画家にしていただけるかもしれないのよ。ルクレチェには、とても望めなかったことだわ」
「……はい」
ゼゾッラはまだ表情に強張りを残したまま、それでも頷いた。パロマはそんなゼゾッラの額に口づけ、まるで幼子にするように彼女を抱きよせた。少女の肩越しに、彼女の描いた絵が一面に掛けられた壁が見える。腕の中の少女の体は二年前より肉がつき、骨も太くなり、たしかに年相応の生気が戻っていた。そんなゼゾッラの背中を撫でたパロマは、いちど深く息を吐いた。彼女はまるでゼゾッラに縋るように彼女を腕に抱き込んだまま、ついに覚悟を決めて口を開いた。
「……ねえ、ゼゾッラ。あなたに、ユディトの絵を頼みたいの。旧約聖書の。別荘の私の応接間に飾るから、そうね……あなたの背丈くらいのテッラに、縦長の絵でお願いするわ。金貨百枚くらいで、できそうかしら?」
「ええ、それは勿論。……でも、パロマ様。応接間なら、もっと華やかな絵の方が」
パロマの声音にどこか哀しげな響きを聞きつけたゼゾッラは、抱き寄せられた肩を少し離して、パロマの顔を見ようとした。だがパロマはゼゾッラの身動ぎを感じても腕の力を緩めず、少女の肩に自分の顎を乗せたまま話し続けた。
「ジュディッタは画面の中央に居るのがいいわ。よく顔が見えるようにしてちょうだい。ホロフェルネスの首を斬り落とした直後の姿で。ともに悪人を殺した侍女が、主人の衣装の裂け目や返り血を隠すために駆け寄ってくるの。女どうしの友情の物語よ、美しいでしょう?」
「はい……」
ゼゾッラは頷いたが、彼女にはパロマの口から出た言葉よりも、わずかに掠れて震えるその声の調子の方が気になっていた。生気に満ちてよく通るはずのパロマの声は、だが今だけはどこか上擦っていて、涙をこぼさないように無理に上機嫌を装っているように聞こえた。しばらくするとようやく腕の力が緩み、その腕から這い出したゼゾッラは、パロマの顔を見た。彼女は目の縁をわずかに赤らめて、笑っていた。
「この絵の下絵は、何も手本を見ずに全てあなたが描いてちょうだい。もちろん、ルクレチェの素描も見てはだめよ。指示書と前金は、私がナポリに居る間に届けますから」
「はい、仰る通りに」
「パロマ様、あたしにも前金をくれたって良いんだよ?」
横合いからジネヴラが軽口を差し挟み、パロマは少しばかり気が軽くなったようだった。彼女は上機嫌に、入口の脇に立て掛けていた鞄を自分で部屋の中央に引きずってくると、留め金を開けた。黄味の強い緑に染まった絹の服地の上で、蝋燭の光が満ち潮のように波打った。
「そうね、ジネヴラ。お前にはまずご祝儀と、これをあげましょう。私が娘の頃に、大奥様に仕立てて頂いた晴着よ。形は少し古いけれど、召使いのお仕着せとしては充分。さ、着替えていらっしゃい」
鞄から最初に覗いた晴れ着と、一掴みの銀貨を取って、パロマはそれをジネヴラに渡した。彼女が着替えるために衝立の影に向かうと、ゼゾッラはパロマに耳打ちした。
「……パロマ様。ジネヴラのことですけれど、少し給金を上げたいと思っていますの。こうしたことは、いつ伝えれば」
「召使いを大切にする心がけは立派なことよ。だけれど、少し待ちなさい。収入の見通しの立たないうちに空手形を切るなんて、放蕩者のすることですからね。まずはこの謝肉祭の間に、副王様のお心をしっかりと掴むこと。いまの副王様は、本国の宰相閣下の義弟でいらっしゃるから、うまくいけば本国の宮廷にも推薦していただけるかもしれないわ。四旬節が始まった後で、きちんとお金の話をなさい」
パロマは話しながらふと正面の床に目をやり、乾燥が済んで壁際に縦に並べられた数十枚の画布の列から、一枚だけごくわずか前にせり出しているのに気がついた。それはまるで、列の中から絵を一枚抜き取った後、急いでまた戻したような有り様だった。主人の絵を損なわないよう、ジネヴラが丁寧に整理しているはずのこの工房では珍しいことだ。パロマはひとまずそのことを忘れ、ゼゾッラにさらに訊ねた。
「それで、さっき頼んだ絵のことだけれど、私がナポリに居る間に下絵を見せてもらうことはできる? もちろん、小さいもので構わないわ。応接間に飾るから、細かく要望を出したいのよ」
「あ、はい。もちろんですわ。ではお母様が素描なさっていた紙と同じ大きさで、何枚か案を描きましょう」
「お願いね」
パロマはゼゾッラの頭を抱きこみ、そのつむじに接吻した。彼女の耳飾りの揺れる音が、またゼゾッラの耳元で聞こえた。
「なに? 二人でこそこそと。またあたしの悪口を言ってたんだろう」
衝立の影から出てきたジネヴラが、腰に手を当てて二人を順に睨んだ。オリーヴのような暗緑色のソッタ―ナは慎ましげだったが、彼女のまっすぐ伸びた背筋の美しさを引き立てていた。パロマは彼女の四角い襟ぐりを塞ぐようにレース編みの襟飾りを巻き、金線細工の胸飾りで袷を留めた。襟飾りから透けて見えるジネヴラの肌の色合いを見て、パロマは満足げに頷いた。
「綺麗にできたわ。お前は背が高くて肌も美しいから、こういうすっきりとした装いがよく映えるの」
「何だか白々しいよ、パロマ様があたしを手放しで褒めるなんてさ。実家への仕送りを減らしたいなんて言うんじゃないだろうね?」
ジネヴラは襟元を直されながら、どこか照れくさそうにそう言って目を逸らした。彼女の様子に悪戯心が芽生えたゼゾッラは、ジネヴラの後ろに立って耳元でささやいた。
「それは、私達だって本意ではないけれど、こう何でも値上がりされると厳しいですからね。試しにお前の葡萄酒の割り当てを少し減らそうかしらとご相談を」
「えっ」
「嘘よ」
驚いて振り返ったジネヴラに、ゼゾッラは舌を出して見せた。担がれたと分かったジネヴラは主人に抱き着き、まるで実家の幼い妹にするように尻を叩く真似をした。少女たちのじゃれ合う姿に声を立てて笑いながら、パロマは床に屈んで鞄に残った晴れ着を両腕に抱え、目尻に滲んだ涙をぬぐって立ち上がった。
「さあ、二人ともおふざけはお終い。ゼゾッラ、あなたの着替えは少し時間がかかりますからね。ジネヴラに補正帯を締めてもらったら、ソッタ―ナを着て、その上に長胴衣を着るのよ。私は髪を巻く鏝を温めておくから、着替えたら二人でこちらにいらっしゃい」
パロマは晴れ着を一枚ずつジネヴラの腕に重ねて置き、少女たちを衝立の方に送り出した。ジネヴラは歩きながら腕の中の晴れ着を見下ろして、パロマに訊ねた。
「パロマ様、フープはないの?」
「今回はいいわ。ヴェストゥーラの前を開けて、裾をちょっと後ろにたくし上げるから、自然と腰から下が釣鐘型に膨らんで見えるでしょう。そのためにソッタ―ナを良いものにしたの。銀糸を織り込んだ明国の絹よ。早く着て見せて」
少女たちを衝立の向こうに追いやったパロマは、工房の扉を叩く音を聞きつけてそちらに顔を向けた。遠慮がちに少し開いた扉の隙間から、湯桶を持ったラヴィニアがこちらを窺っていた。パロマは彼女を手招きし、火鉢のそばに椅子を置いてともに座った。
「トマソは?」
「今しがた帰りました。弟たちと妹に祭りの土産を買って帰るから、もう少し小遣いを稼ぐんですって」
ラヴィニアは湯桶を作業台に置き、火鉢に両手を翳した。骨ばった指の関節が寒さのために赤く腫れあがっている様が、パロマの視界の端に映った。
「まったく働き者だこと。あの子、うちに来てくれないかしら。給金は弾むつもりだけど」
パロマは軽口を叩いた後、ラヴィニアの方へわずかに身を寄せた。彼女は開いた扇で口元を隠し、ゼゾッラが着替えているはずの衝立を横目に見ながら囁いた。
「……ご商売の方は、どんな具合?」
「まあ……、半年でそう変わりやしませんけど、お嬢様とパロマ様のお陰で、乞食をせずに済んでいますよ。トマソも近所のよしみでよく助けてくれますし、神様に感謝しなくっちゃいけませんね」
「恩返しは基督者として当然のことよ。あなた方ご夫婦のお陰で、ゼゾッラはあそこまで立ち直ったのだから。月に一度もナポリに来られない私には、とてもあの子を支えきれなかったわ」
パロマは込み上げる何かをやり過ごすように目を伏せて、開いた扇をわずかに揺らした。衝立の向こうから少女たちの囁く声と、小さな衣擦れ。そして少しばかり弾んだ笑い声が漏れ聞こえた。パロマはわずかに微笑むと、扇を掌に打ち付けて畳んだ。再び顔を上げた彼女はいつものように快活な表情と早口で、世間の不合理をなじった。
「そもそも、ナポリは規制が多すぎなんだから。市場以外で食べ物を売ってはいけない、店では女が果物や野菜の重さを量ってはいけないなんて、とても現実的じゃないわ。秤に品物を載せるためだけに、給金の高い男の店員なんて雇えるわけもなし。夫を亡くした寡婦の青物屋は、店を畳めと言っているも同然じゃない。女は手が小さくて商品の目方を誤魔化すだなんて、お上は尤もらしい言い訳をしますけどね、元はといえば消費税を三割も取るせいで食べ物が割高になるから、商人も狡いことをするし、客も神経質になるのじゃなくて? どうせ税を集めたって、傭兵を雇ってミラノで略奪させるだけなのに」
「ふふ、パロマ様が男だったら、大臣や宰相になってナポリを良くしてくださるでしょうに。今頃この辺りのみんな絹の服を着て、毎日ラヴィオリや焼いた仔牛を食べているでしょうよ」
ラヴィニアは貴婦人然としたパロマが、下町の女のように早口で喋るさまを見て可笑しくなったが、同時にその頭の回る速さに感心してもいた。少女たちの髪を巻く鏝を火鉢であぶりながら、パロマは暗い天井を目だけでなぞり、また楽し気な早口で答えた。
「そうね、私が好きに国を動かせるなら、戦争なんかさっさと止めて貿易に精を出すわ。カトリックだのプロテスタントだの、同じ基督者の間で縄張り争いなんて馬鹿馬鹿しい。イギリス人や異教徒どもはのびのびと商売をして、天国のように豊かな暮らしをしているのよ?」
パロマの手元で熱された鏝が薄く煙をまとい、その鉄の胴に玉虫色の波模様が現れた。ほどなくして少女たちの囁き声が止み、ゼゾッラとジネヴラが衝立の影からこちらに歩いてくる。ゼゾッラは解いた髪が顔の前に垂れてくるのを鬱陶しそうにかき分け、晴着の裾を破らないよう普段の倍以上の時間をかけてパロマの方へと向かった。ジネヴラは床に広がる主人の長い袖と引き裾とをせわしなくまとめ、ゼゾッラ本人よりも気をつかいながらその後ろについてきた。二人を手招きしたパロマは、目の前に立ったゼゾッラの髪を、深い青緑色のヴェストゥーラの肩からひと房すくっていとおしそうに撫でた。
「この髪の色も手触りも、ルクレチェにそっくり。ヴェストゥーラを海色にして正解だったわ。よく映えている。さあ、後ろを向いてごらんなさい。どの国の女王様にも負けない高貴な貴婦人にしてあげるわ」
パロマはゼゾッラに後ろを向かせると、手早く彼女の髪を湯に浸した手巾で湿らせ、熱い鏝に巻き付けていった。髪をわずかに引かれたゼゾッラはのけぞるような格好になり、とっさに伸ばされたジネヴラの手を掴んでようやく体勢を立て直した。パロマは慣れた手つきでゼゾッラの髪を巻きながら、彼女にささやいた。
「ゼゾッラ、手紙で打ち合わせた通り、副王様にはあなたのことを画家本人ではなくて、ナポリで一番の『ダットーロ』の収集家だと言ってありますからね。裕福で品の良いご令嬢としてふるまってちょうだい。スペイン語はまだ覚えているわね?」
「はい」
「どうしてそんな回りくどいことをするのさ。せっかく副王様とお話しできるんだから、さっさと宮廷画家にして下さるようお願いしなくちゃ」
ゼゾッラの姿勢を支えたままのジネヴラが声を上げると、パロマは悪戯っぽく歯を見せて笑った。
「ちょっとした遊びよ。副王様は、芸術家の庇護者としては一流の方。欧州じゅうから、まいにち何十人もの画家が絵を売り込みに来るわ。その中で抜きん出るためには、副王様のお心に残る工夫が必要なの」
「何だかせこいよ」
「お黙り」
パロマはぴしゃりと言って、ゼゾッラの髪に冠飾りを編みこんでいった。慎ましい金線細工の冠を引き立てるように高さを抑えた髪型は、ゼゾッラの首の美しさも引き立てていた。少し前まで骨と筋の形がはっきりと分かるほど痩せていた少女の首には、今やほどよく肉が付き、肌の肌理も戻って花弁のような手触りを伝えてきた。最後にパロマはジネヴラに目配せして、ゼゾッラの巾着から棕櫚の花穂を取り出させると、それを胸飾りでヴェストゥーラに留めた。ゼゾッラの支度を終えたパロマは、次にジネヴラの髪も結い上げて真珠を挿してやった。支度のできた二人を見て、ラヴィニアは弾んだ声を上げた。
「まあ、お嬢様のお美しいこと。やっぱり生まれながらのお姫様は違うわ。まるで妖精の国の女王様のようですよ。ジネヴラ、あんたもとっても綺麗。貴族の娘だと言っても誰も疑わないわ。王宮で名家の御曹司に見初められるかもしれないよ」
「それは困るわ。私の顔料師なのに」
ゼゾッラはふざけてジネヴラの腕に抱きついた。ジネヴラは主人の肩を叩いて腕を外させた。
「はいはい、ガッタが忘れずに飯を食ってくれればあたしは辞めないから。それでパロマ様、靴はどうするの? このソッタ―ナは引き裾にしたってちょっと長すぎるから、かなり踵を高くしないと」
ジネヴラは主人のソッタ―ナの裾を両手でたくし上げて、ようやく小さな白い靴の甲をパロマに見せた。貴婦人の衣装の腰から下は、正面から見て釣鐘のように緩く膨らみ、下重ねは足の甲がちょうど隠れるくらいの長さであるべきだが、ゼゾッラの着ているものは約二十五センチほど長すぎて服地がたわみ、優美な曲線がくずれていた。パロマは晴れ着を詰めていた鞄から、最後に白いキアネッラを出して、ゼゾッラの足元に置いた。
「これを履けば、完成よ。……新しい靴を買ってあげると言ったのに。こんな色褪せたキアネッラだなんて」
「せっかくですから、私にお貸しくださいまし。お母様の娘時代のお品ですから、もうどなたもお召しになれないでしょう?」
ゼゾッラはジネヴラの肩に手をつき、踏み台に乗るようにキアネッラの上に乗った。とたんに彼女の背は一パルモほど高くなり、たわんでいたソッタ―ナの服地が伸びて美しい釣鐘型となる。ジネヴラは主人の裾を少しばかり上げ、靴が抜けないようにキアネッラの甲の掛紐をきつく締めようとした。その途中でジネヴラはふと首を傾げた。彼女の目は、左右のキアネッラの甲に施された金糸の刺繍を見比べていた。
「……パロマ様、これって、ガッタのおっ母さんの嫁入り道具だよね」
「ええ、十四の頃に履いていたの。あの人が亡くなった時に、私に送るようにと遺言されていたそうよ。それからずっと私が、あの人の絵と一緒に保管していたけれど」
「キアネッラの刺繍が変だよ。右足にはご立派な格言が縫い取ってあるけど、左足のは意味が通らない。何かの悪戯かな」
「あら本当だ。左足だけ、糸を解いて縫い直した跡がありますよ。裁縫を習いたての娘がやったようだわ」
ジネヴラとラヴィニアは代わる代わるゼゾッラの足元を覗き込んだ。そこにはゼゾッラの亡母の実家の家訓で、『己が星に逆らうは狂人なり(古那:Ca pazzo e chi contrasta co le stelle)』という文句が刻まれているはずだったが、左足だけはもとの刺繍がすべて解かれ、代わりに意味の通らないアルファベトの列が縫い直されていた。ゼゾッラは自分の足元であれこれと言い合う二人を見下ろし、やがてぽつりと呟いた。
「……良いのよ。これで」
ゼゾッラの声を聞きつけた二人は顔を上げ、少女の様子を窺った。ゼゾッラはゆっくりとパロマの方を向き、そして微笑んだ。
「そうでしょう? パロマ様」
「……そうね」
パロマはゼゾッラに微笑み返し、ひと言だけ言った。