1-4.サルデーニャの白鳩
灰かぶりが描くのは、誰のため。
◆作中に登場する外国語単語
・タヴロッザ(那tavulozza):パレット
・バッテレ・フィーロ(伊battere filo):絵具に浸した糸。ぴんと張ってキャンバスの上に渡し、糸を弾いて垂直な線を引く。褐色の絵具を使うことが多かった
・インプリマトゥーラ(伊imprimatur):油絵の地塗りのこと
・シニョリーナ(那Signurína):未婚女性への敬称
・プルチネッラ(伊Pulcinella):イタリア喜劇の道化。鷲鼻と太鼓腹、黒い仮面と白い服が特徴
・コンメディア・デッラルテ(伊Commedia dell'arte):イタリアの伝統的な喜劇(風刺劇)
・ポラキーノ(伊polachino):女性用の上着の一種。
・ナッカラ(那nàccara):カスタネット
・フランチャ(伊Francia):フランス
・キアネッラ(那chianèlla):オーバーシューズ。伊ピアネッラに相当
・ジェルサレッム(伊Gerusalemme):聖地エルサレム
・テッラ(那téla):キャンバス
ジネヴラに促されたゼゾッラはようやく顔を上げ、女中の運んできた絵を振り返った。横長の画面の左中央に城壁の高さを越えて上った朝日が描かれ、その光線が右下に描かれた基督の一行へとまっすぐに差し込んでいる。使徒たちと聖都の住民は基督の乗る仔驢馬の足元へと色とりどりの布を敷き、棕櫚の枝を差し伸べて神の子の訪れを祝っていた。
ゼゾッラは自分の描いたその絵をまるで親の仇にするように睨み、太陽から順に城門の垂れ幕、基督の一行、そして聖都の家並みへ、見る者の目線を導く自分の仕掛けが働いていることを確かめた。最後に基督の乗る仔驢馬に触れたゼゾッラは、その右側の脚二本が前に、左側の脚二本が後ろに出ているかと見直し、正面に向けて首を垂れたその顔をなぞると、窺うようにジネヴラを見た。ジネヴラはどこか自信のない様子の主人の肩に手を乗せ、頭巾に包まれた頭をそっと撫でた。
「ちゃんと描けてるじゃないか。そうそう、祖父ちゃんが荷運びに使ってた白い驢馬、こんな感じで歩いてたよ」
「……でも、やっぱり少し鬣の勢いが足りないわ。ついでに署名を入れてしまうから、黒を少し出して」
ゼゾッラは絵の表面に引っ掛かったわずかな埃を手巾で拭き取り、ジネヴラに向かって手を差し出した。ジネヴラは肩をすくめ、作業台の方へと踵を返した。
「キアッケレまだ残ってるよ」
「あげるわ。それより早く調色板をちょうだい」
こちらを見もしないゼゾッラから伸ばされた白い手を見て、ジネヴラは静かに首を振った。椅子の上にぽつんと残されたキアッケレの包みを取った彼女は残った菓子をまとめて一口に頬張り、紙を火鉢に放り込んで、作業台の上の絵具箱を開けた。小瓶と絵筆、そして口を縛った豚の膀胱がいくつか並んだ箱を覗きながら、彼女は古い革手袋をはめ、栗材の調色板を引き寄せて膀胱を一つ取った。底に刺さった小さな釘を抜くと、黒い絵の具がそこから垂れて調色板の上に薄く盛り上がっていく。ジネヴラは板目に沿って垂れ落ちそうな絵具を細筆で練りながら、こちらに伸ばされたままのゼゾッラの手にそれを調色板ごと握らせた。
ゼゾッラは画架の前に片膝をつき、絵の中の驢馬に殆ど額をつけるようにしながら、仔驢馬の立ち上がった鬣を筆先で描き足した。数本足しては立ち上がって数歩下がり、また近寄って描き足す。二度ほどそれを繰り返したゼゾッラは、ようやく満足したように目元を緩め、署名に移った。使徒たちが基督の足元に差し出した棕櫚の葉の影をわずかに伸ばし、絵の中に紛れ込ませるようにして亡母から受け継いだ署名を書き入れていく。それは『Vedummei Dattolo』という文言だった。『Vedemmo lo Dattolo(古那:我ら、棕櫚を見き)』と書きたかったのだとすれば、綴りを四文字も間違えていることになるが、どうしてかパロマは綴りを直すことをゼゾッラに許してはくれなかった。
署名を終えた彼女は全身で息を吐き出し、強張った首をのけぞらせて暗い天井を見た。扉一枚隔てた隣の部屋からは、ラヴィニアとトマソの和やかな話し声が変わらず聞こえてくる。まだ待ち人が来るには時間があると思ったゼゾッラは、いちど画架の前を離れて部屋の奥へ行き、壁際に立てかけた習作の中から一枚を抜き取って戻ってきた。それは貴婦人の肖像画だったが、主人の肩越しにその絵を見たジネヴラは少しばかり渋い顔をした。ゼゾッラは構わず貴婦人の手元に署名を入れ、額に滲んだ汗を袖で拭った。
「……できた。マルテディ・グラッソの頃には、お渡しできるわ」
絵の中の女の赤い衣装が、燭台の明かりでますます鮮やかに輝いている。ジネヴラは屋敷から持ってきた籠の中身を作業台に並べる合間に、主人に小言をこぼした。
「よくやるよ。パロマ様に隠れてこんなもの描いてさ。ばれて気まずくなっても知らないからね」
「お前には関わりのないことよ。前の奥様がいらっしゃった頃の屋敷を知らない者には、分からないわ」
ゼゾッラは意固地に背を向けたまま、ジネヴラに言い返した。その間も彼女の手は、肖像画に点々と張り付いたごくわずかの埃を手巾でそっと拭い続けていた。ジネヴラはテレサに持たされた顔料の瓶を絵具箱に収めて、諦めたように呟いた。
「……あたしは、そんな絵見なかったから。うまくおやりよ」
ゼゾッラはジネヴラに背を向けたまま小さく頷き、仕上がった絵を再び習作の間に押し込むようにして隠した。顧客に注文を受けて描いた絵ならば、早く乾くように壁に掛けるものだが、ゼゾッラはそうしなかった。戻ってきた彼女は少しだけ気まずそうに目を伏せ、体だけジネヴラの方を向いたまま立ち尽くしていた。ジネヴラは聞かん気な子供のような主人の様子を横目に亜麻仁油を小鍋に開けると、絵の具箱から取った褐色の絵具をそこに垂らして丁寧に混ぜた。作業を終えたジネヴラは小鍋を軽く掲げ、何事も無かったかのように主人に声を掛けた。
「ほら、次の絵にかからないと間に合わないよ。誰かさんのせいで注文が次から次に来るんだから」
「……ええ、そうね。まったくだわ」
ゼゾッラはジネヴラの何も気にしていない顔を見て、ようやく肩の力を抜いた。作業台の後ろに置かれた透写紙と、新しい画布を取ってきた彼女は、それらを床に広げるとジネヴラから小鍋を受け取った。亜麻仁油をたっぷり染み込ませた透写紙には、すでに聖母子の下絵が描かれている。ゼゾッラは下絵を裏返し、小鍋の中身を刷毛でまんべんなく透写紙に塗り広げ始めた。別の小鍋で蝋を溶かしていたジネヴラが、火鉢の傍から声を掛けてきた。
「できた?」
「もう少し。聖母様の肩まで塗れたから、残り三分の二くらいかしら」
「こっちはもう殆ど溶けたよ。急いで急いで」
「うるさい人ね。下絵が大きくて腕が届かないのよ」
ゼゾッラは掌に滲んだ汗をソッタ―ナに擦りつけ、再び小鍋を握り直した。腰を屈めて、彼女の上半身を覆うほどの下絵に絵具を塗り広げる作業はかなりの重労働だったが、彼女は何とか蝋が煤と煙に代わる前に作業を終えた。ゼゾッラが息つく暇もなくジネヴラが駆け寄ってきて、透写紙の上の端を持ち上げる。ゼゾッラが下の端を持ったところで、二人は呼吸を合わせて透写紙を画布の上にひっくり返した。薄い褐色に塗られた聖母子を横目に見ながら、ジネヴラは作業台に置いていた蝋の小鍋を取って、手早く画布の四隅に蝋を垂らし、そこに透写紙の四隅をそれぞれ押し付けて貼り合わせて行った。溶けた蝋が革手袋に垂れた時、ジネヴラが声を上げた。
「熱っつ。この手袋、穴が開いてら」
「貸して。お前は指を冷やしなさい」
声が聞こえた瞬間、ゼゾッラは素早くジネヴラの手袋を抜き取った。革が擦り切れて薄くなり、指先に穴が開いていた。溶けた蝋がそこから素肌に垂れて火傷を作ったらしい。ゼゾッラは針と糸を取り出しながらふとジネヴラを見、彼女が指の火傷を舐めて冷やそうとしているさまを見て鋭く叱りつけた。
「舐めてはだめ! 絵の具も付いているのよ。桶の水をお使いなさい。……さしあたり繕っておくから、気を付けて使ってちょうだい。新しい手袋はパロマ様にお願いして、すぐに届けていただくから」
ジネヴラはゼゾッラの剣幕に驚き、言われた通り作業台の足元に汲み置いていた水に火傷を浸した。手早く針と糸で手袋の穴を繕うゼゾッラの張り詰めた横顔を見つめ、ジネヴラは恐る恐る声をかけた。
「……でも、ガッタ。手袋なんて高いもの、あたしはいいよ。よその工房では手袋なんて使ってないんだし、油で少しくらい手が荒れたって」
「だめよ。絵の具は毒なの。特によく使う鉛白は。ずっと素手で触っていたら、どうにかなってしまうわ」
ゼゾッラは貼り合わされた透写紙を鉛筆でなぞり、下絵を画布に写し取りながらぴしゃりと言った。その口ぶりは、いつもの意地っ張りや憎まれ口の類とは明らかに違っており、ジネヴラはそれ以上の口答えを止めた。固まった蝋を四隅から剥がして透写紙を取り去ると、背景の無い白い画面に、聖母子の姿が薄く浮かび上がる。戻ってきたジネヴラがそれを作業台の縁に立てかけたのを見て、ゼゾッラは絵から少し離れ、底冷えのする床の上に腰を下ろした。寒さの為に赤みの差した指を鉛筆ごと握り込んで、彼女は眉をひそめた。
「……この聖母様のお顔、少し冷たいような気がするわ」
「おっ母さんの下絵を使ったんだろう? たしかに指示書には『慈愛に満ちた聖母子像』って書いてあるから、気になるなら描き直したっていいんじゃないか? パロマ様だって、お客の要望に沿うのを悪いとは言わないよ」
ジネヴラが言い添えると、ゼゾッラは難しい顔をしたままかすかに頷いた。火鉢の明かりを映してぼうっと輝く画布を見つめて、彼女は鉛筆を画布に向け、虚空に何かを描きこむように動かした。何度かそれを繰り返したのちに、ゼゾッラは心を決めて立ち上がった。
「……そうね、描き直しましょう。先に背景の奥行きを決めるわ。ジネヴラ、墨糸様の道具を作って」
ゼゾッラの指図に従って、ジネヴラは作業台に戻ると、絵具箱から出した黄土を亜麻仁油で練り、黄褐色の絵具を作った。それを器に入れて縒り糸を浸す間に、ゼゾッラは副王に納める予定の絵を画架から外して後ろの壁に立てかけ、代わりに聖母子の下絵をそこに掛けた。
器を運んできたジネヴラが踏み台の端に乗り、糸の端に結わえた釘を画布の木枠に刺すと、ゼゾッラは反対側の端に結ばれた錘を垂らして、揺れの収まる頃合いに指で弾いた。糸に染み込んだ絵具が画布に薄く写り、まっすぐな縦の線が画面を切っていく。垂直線をあらかた引き終えた後は、それに合わせて水平線を引くだけだ。格子のように画面を区切る茶色い線の中に、褐色の聖母子が閉じ込められているような下描きが出来上がると、ゼゾッラは糸をジネヴラに片付けさせ、鉛筆で聖母の顔と首、そして背筋の流れを描き直しはじめた。
画布の目止めに塗り込まれた石膏のざらつきのために、ひと筆入れるごとに掠れた音がし、むず痒いかすかな振動がゼゾッラの指先に走った。最初の下描きでは女王のような威厳を醸し出していた聖母は、気づかわしげに我が子を見守る健気な母親の姿に描き替えられ、そんな聖母の顔の後ろには大きな窓が付け足された。そこから差し込む夕日の光線が聖母子に掛かるように線を足し、ゼゾッラは鉛筆を置いた。今や聖母子の姿は格子線の前に飛び出して見え、石造りの建物の窓から差し込む夕日が二人に後光を添えていた。重い荷物を下ろしたように、ゼゾッラは軽やかな溜息をついた。
「有色下地の前に、パロマ様にお見せしましょう。ジネヴラ、納期はいつだったかしら」
「復活祭の前だって言ってたよ」
「あと、ひと月と少しね。パロマ様が納得してくださると良いけど」
「おや、お嬢さん。おいらが何だって? 何かひどい悪戯でもしたのかい」
きゅうに後ろから裏声が聞こえ、扉の方を振り返ろうとしたゼゾッラはいきなり肩を掴まれた。喉をひきつらせたゼゾッラが恐る恐る反対方向に首をひねると、鼻先が触れ合うところに道化の黒い鷲鼻の面があった。声も出ないゼゾッラの視界から急に面が取り払われ、目元につけぼくろをつけた女の笑顔がその後ろから現れる。彼女の顔を見たゼゾッラは全身で息を吐き出し、少しばかり恨みがましい目で女を見た。
「パロマ様、お戯れが過ぎますわ」
「ごめんごめん。ゆうべ、お后様にご招待いただいて喜劇を見たのよ。私がサルデーニャから来たと言ったら、プルチネッラがくれたの。『ナポリいちの伊達男の仮面だと言って、故郷で自慢しろ』ですって。絵を描く時の見本にしてちょうだい」
パロマはゼゾッラに仮面を渡し、画架の前へと歩いて行った。彼女が歩くたびに灰色の外衣の裾からたくし上げた赤い下重ねがちらちらと覗き、靴に履かせた覆いが床を打ち鳴らして高い音がした。ジネヴラは作業台を片付けながら、パロマの背中に声をかけた。
「パロマ様、ソッターナの下でカスタネットが鳴ってるよ。また靴を新調したの?」
「仏蘭西の流行よ。オーバーシューズより軽くて、脱いだらこのまま狩りにも行けるから、大旦那様が買って下さったの。格好いいでしょう」
パロマはことさら自慢げに、裾をわずかに上げて新しい靴を少女たちに見せた。踵を高くした革靴が、共革で作った覆いをさらに履いているのが少女たちの目に映った。そのまま数歩歩いて見せたパロマは画架の前に辿り着き、ゼゾッラが先ほど描き直したばかりの聖母子を見つけた。とたんにパロマは裾から手を離し、履物に捺染された金の花模様を赤い下重ねの下に隠してしまうと、いっそ冷たいほどの目で下絵をじっくりと品定めした。
「……構図を変えたわね。ルクレチェの下絵では、聖母様は正面、主は少し下を見ておられたはずよ」
しばらくして聞こえたパロマの声音は平坦で、聞きようによっては苛立ちを押し隠しているようにも聞こえた。ゼゾッラは背筋を強張らせ、唾を飲み込んで、何とか声を押し出した。
「あ、あの。ご令嬢の寝室に飾るための、慈しみ深い聖母様を描いてほしいとのご要望でしたので。お母様の下絵では、聖母様は威厳に溢れていましたけれど、慈しみ深さを表すには、御子に視線を向けている方がふさわしいと」
そう答えながら、少女の視線はずっとパロマの横顔を窺うように見上げていた。パロマはゼゾッラの様子には気づかず、指先で顎を摘まんだまましばらくそこに立っていた。再びパロマの靴が鳴り、ゼゾッラはびくりとして伏せていた目を上げた。パロマは絵の方を向いたまま目を瞑り、そしてまた開いた。どこか自分を納得させようとしているような横顔だった。
「……そうね。お客様のご希望には、こちらの方が沿っているわ。このまま進めてちょうだい」
「……はい」
ゼゾッラは固い声で答え、画架の後ろへ回り込むパロマを目で追った。壁に立てかけられた絵を見つけたパロマは、自分の小間使いを呼んで燭台を持ってこさせ、明かりにかざしてじっくりと見つめた。やはりにこりともせずに、パロマは訊ねた。
「それで、これが副王様にお納めする絵なの? ルクレチェの下絵はどこに使ったのかしら」
「あ、この驢馬ですわ。こちらの素描を見て」
ゼゾッラは亡母の素描の束を抱えてパロマの傍に駆け寄り、木炭で描かれた驢馬の絵姿を指した。だがパロマはゼゾッラの方を見もせず、絵を睨んだまま続けざまに訊ねた。
「エルサレム入城を早朝の場面として描いたのは、何か意味があるのかしら」
「……そ、その。キアロスクーロを効かせた写実的な絵ですので、主に光輪を添えると雰囲気が壊れると思いましたの。指示書には聖ルカの顔がはっきり映るようにとありましたし、いっそ地平線を下げて、昇る太陽の光が主のお顔に掛かるようにすると神々しさが増すかと」
「ルクレチェにはない発想だわ。あの人なら画布の全面に、驢馬の足元を描くでしょう。その背に乗った主のおみ足や、使徒たちの足を細かく描いて、どの足が誰のものか想像させるの。あの人は明暗に関心の薄い人だったから、仕上がりは退屈になったかもしれないけれどね」
パロマはゼゾッラの言葉を遮るようにそう言い、ゼゾッラの絵に描きこまれた人物と風景の具合を丹念に確かめた。パロマが亡母の画風を語る度に、ゼゾッラは何か責められているような気がして俯き、黙り込んだ。そんな主人の様子に気づいたジネヴラは片付けを終えて画架の傍に戻り、うなだれた主人の肩に手を添えて、彼女の代わりに声を上げた。
「そんなら、描き直した方がいいの? パロマ様」