1-1.灰かぶりの家
灰かぶりの家。火は燃えているのに、どこか寒い。
◆この回で登場した外国語単語
・ジャッルリーノ(那giallulíno):黄色顔料。英語ではネープルスイエロー
・ガッタ(那gatta):猫
・ボルサ(伊borsa):腰から下げるウエストポーチ様の小物入れ。のちに最初から衣服に縫いこまれて
ポケットとなる。巾着、ポケットとも訳される
・ミディウム(伊medium):油絵のメディウムのこと。顔料と混ぜて絵具にする
・チェネレントラ(那Cenerentra):灰かぶり
・カンミーサ(那cammísa):シャツもしくはシュミーズ。肌に直接着る上着のこと
・ソッタ―ナ(伊sottana):ロングワンピース
・プント・イン・アリア(伊punto in aria):初期のニードルレース
・ダットーロ(古那Dattolo):ナツメヤシ。現ナポリ語の綴りはdàttelo
・ボデゴン(西bodegón):台所や食材を描いた静物画の一種
・カッサパンカ(伊cassapanca):座面を持ち上げると物を収納できる長椅子
・ソッタニーノ(伊sottanino):スカート。上着部分が無いのでソッタ―ナとは異なる
竈の中で燃える薪が爆ぜて火花を上げ、母屋から聞こえ続ける女の笑い声をかき消した。ゼゾッラは跳ね上がってすぐに光を失う小さな火の粉の一粒を目で追って、その動きをどのように描くか繰り返し思い描いていた。骨炭と黄土で暗褐色に塗り潰した背景に、淡黄色で小さな点を描き、指で上下の端をぼかす。上の端は筆跡を何度かなぞるだけ、下の端はぼかした部分が長く尾を引くように。そうすれば、熱い風に煽られて上っていく火の粉の様子がよく分かるだろう。火ばさみを握ったまま竈の中を一心に見つめるゼゾッラの後ろで、ジネヴラは画布いちめんに塗った石膏と膠が平らになるようやすりで削り上げていた。
規則正しいやすりの音をかき消すように、渡り廊下を挟んだ向こうの母屋の二階からは高い子供の声と、階段を駆け下りる騒々しい足音が二つ聞こえた。追いかけっこをしているらしい子供たちは床を踏み鳴らし、悲鳴とも歓声ともつかない高い声を上げて母屋を駆け回っている。居間の扉が開く音に続いて、老女が叫んだ。
「静かになさい!」
子供たちはその怒鳴り声を無視するように、ひときわ甲高く叫んでまた階段を駆け上がり、渡り廊下を通ってこちらの別棟へとやってきた。天井越しに聞こえる子供たちの足音がどんどん大きくなり、お化け屋敷だとはしゃぐ声が聞こえたところで、ついにジネヴラは手を止めた。
「……猫ちゃん、まただよ」
「そのようね」
ゼゾッラは立ち上がり、固まった腰の筋を伸ばすついでに、竈に据えた素焼きの壺を覗いた。中に満たされた亜麻仁油に淡く映る壺の口の輪郭が、瓶の底から湧きあがる波で揺らめき、固まった鉛丹の朱い粒が壺の底で震えている。ゼゾッラは腰に下げた巾着から畳んだ手巾を取り出し、手巾越しに壺の口を握って火から下ろした。
「そちらが終わったら、また火にかけて樹脂を入れておいて。明日の分の展色剤が無いと困りますからね」
ゼゾッラは壺を後ろの作業台に置くと、灰だらけの前掛けを外し、台所の外に出た。斜め前に見える召使い用の小さな階段を、彼女は慣れた様子で上っていく。薄暗い階段は壁で両肩を擦りそうなほど狭く、二階から差し込む陽光のほかには何も彼女を導くものはなかった。絶え間なく響く子供の歓声と、飛び跳ねる足音を目指してゼゾッラは段を上り、最後の一段を踏んで自分の部屋の前へとたどり着いた。枠を外れて中途半端に開いた古い扉を押しのけたとたん、寝台から飛び降りたパスカレッラが勢いそのまま彼女の腰に飛びついた。
「あ、灰かぶり居た! ねえ、あんたの宝石どこにあるの?」
パスカレッラが笑うと、このあいだ抜けたばかりの前歯の隙間が笑った口の真ん中に見えた。ゼゾッラの顔を見たコロンビーナはさっと顔を背け、彼女など問題ではないと言いたげに、抱えていたゼゾッラのシャツを床に捨てた。二人とも普段より上等な釦つきのワンピースを着、ニードルレースの飾り衿をつけている。ゼゾッラはパスカレッラの腕を引き剥がし、彼女の肩に両手を置いてわずかに屈んだ。
「ごきげんよう、パスカレッラ。それからコロンビーナも。走り回って騒いだ挙句、挨拶もしないのは良家の娘の習慣ではなくてよ。母屋の居間では、あなた達の伯母様が、お客様と大切なお話をしていたのではなくて?」
「あのばあさんたち、いっつもおんなじ話しかしないの。ぜんぜん大事じゃないわ。それよりカラミタ従姉さんが王宮でお見合いするの! おっ母さんの形見で良いから貸して」
パスカレッラはゼゾッラのソッターナを引っ張り、その場で跳ねた。ゼゾッラは耳の奥に突き刺さる甲高い声に眉間を強張らせたまま、さらに義理の従妹を諭した。
「前に言ったでしょう? 私の母の形見は、前の奥様の頃に処分してしまったから、残っていないの。それからパスカレッラ、勝手にひとの部屋に入るのはお行儀の悪いことよ。作法の先生に教わったことをもう忘れたの?」
「本当は持ってるのに、隠してるんでしょう。チェネレントラはけちだもの」
少し離れたところに立っていたコロンビーナが、不貞腐れた様子で口を挟んだ。ソッタ―ナの服地を握り込んだ彼女は、口答えの間もゼゾッラの顔ではなく、胸から下の辺りを睨みつけている。その態度にゼゾッラはさすがに苛立ちを覚えた。姉の言いぐさをまねたパスカレッラが、けちのチェネレントラとはやし立てるその腕を掴もうとした時、ゼゾッラよりも早く、別の手がパスカレッラをとらえた。
「パスカレッラ様、それからコロンビーナ様も、別棟へのお立ち入りは無用と申し上げたはずです。お部屋にお戻りを。お客様のいらっしゃる所であのように騒がれて、奥様はたいへんお怒りです」
テレサの声に両肩を打ち据えられて、幼い姉妹は同時にびくりと肩をすくめた。テレサは主人の身内であることなどお構いなしにパスカレッラを部屋から連れ出し、渡り廊下の方へと引きずって行く。痛い、というパスカレッラの泣き言を聞いて妹を助けに行こうとしたコロンビーナは、だが正面に立ち塞がるゼゾッラの顔を見た途端に、足を糊付けされたように動かなくなった。最後にやってきて部屋の中を覗き込んだジネヴラが、そんなコロンビーナに気づき、幼友達のように気安い調子でその手を引いた。
「コロンビーナ、フィオレッラ従姉さんが探してたよ。髪に花を飾ってあげるから、戻っておいでってさ」
「……うん」
コロンビーナは大人しくジネヴラの手を握り返し、ゼゾッラの部屋を出た。渡り廊下を通り、彼女達が母屋の二階に戻ると、突き当りの階段を、杖をつきながら上ってくる足音が響いた。まだ別棟の廊下にいたゼゾッラはぎくりと体を強張らせ、義理の従妹たちを引き留めようとその後を追いかけたが、遅かった。
母屋の階段の手摺をしわがれた手が掴み、続いて老婦人の厳めしい顔が床板の高さを超えて現れる。二階の床板を踏んだ最初の老婦人の靴は金糸の刺繡を施した上等の絹で、留め金には碧玉が飾られていた。続けて二階に現れた年嵩の婦人たちもみな、金貨百枚でもとても贖えない一級品の絹と宝石を当然のように身にまとっていた。彼女たちの後に続いて最後に上がってきたカルモジーナのやつれた顔を見て、ゼゾッラは継母の目から逃れるように廊下の柱の影に隠れ、息を殺して様子をうかがった。老婦人たちは震える手で杖を振り上げ、子供たちを脅かすように床を打った。
「静かにしなさいというのが聞こえませんか? やかましく喚き散らして走り回って。家畜なら家の外にお出でなさい」
パスカレッラは老婦人の剣幕に怯え、思わずテレサの影に隠れようとしたが、テレサは服を掴んでくる少女の手を払い落としてそれを許さなかった。テレサはパスカレッラを廊下の真ん中に一人立たせたまま、自分は老婦人への礼儀を示すために腰を屈めて目を伏せた。取り残されたパスカレッラが顔をくしゃりと歪めるのを見て、コロンビーナは妹の傍に駆け寄って庇い、老婦人を怒鳴り返した。
「うるせえな、くそばばあ。帰って自分の葬式の支度でもしてな!」
「子供は口を閉じなさい! 許しもないのに口をきくなんて、なんて無礼な子でしょう。その上あんな暴言を。カルモジーナ、あなたいったいどんな躾をしているのです」
「……申し訳ありません」
幼い姉妹を怒鳴りつけたのと同じ剣幕で、老婦人はカルモジーナに食ってかかった。客人たちの後ろに控えていたカルモジーナは生気の薄い顔で、掠れた詫びの言葉を口にした。別の老婦人がさらに言った。
「輿入れから二年近く経つというのに、この行儀の悪さ。いくら教育しても、豚の子は豚ということかしら」
「多産の家系だと聞いたからフランチェスコの嫁にしたけれど、まだあの女優の方がましだったかもしれないわ。ねえカルモジーナ、あなたの家が貴族だというのも、かたりだったのではなくて?」
「そうに違いないわ。お父君は砂を金にすると言って金貨千枚を集めた方ですもの。その舌先三寸で、貴族の肩書きもだまし取ったにちがいないわ」
老婦人たちは口々にカルモジーナを嘲り、笑い声が廊下じゅうに響き渡った。カルモジーナは一言も口答えせず、青ざめた顔色のままでくのぼうのように立っている。罵られるばかりの伯母の姿を見たコロンビーナは唇をわななかせ、老人たちの不快な笑い声をさらに断ち切ろうと声を上げかけた。ジネヴラが後ろから彼女を抱き留めて、ごく小さな声で言い聞かせた。
「静かにしてな。伯母さんが困ってるだろう」
「ここはあたし達の家だ。あんなの追い出してやる」
「このままだと、追い出されるのはあんただよ。妹に物乞いををさせたくなけりゃ、口を閉じるんだ」
ジネヴラはいつになく強い力でコロンビーナを隅に引きずって行った。老婦人たちはなおもしつこくカルモジーナを嘲笑いながら、再び階段を下り始めた。
「まったく、あなたの躾がしっかりしていれば、年寄りがこんな階段を上り下りしなくて済んだものを。そういえばカルモジーナ、この屋敷の絵はいつ見ても代わり映えがしないわね」
「最近は『ダットーロ(古那:Dattolo)』が良いわ。サルデーニャで人気の画家でね、最近きゅうに腕を上げたのよ。まああなたの持参金では、厨房画を数枚買うのがやっとでしょうけど」
「ほらカルモジーナ、肩を貸してちょうだいよ。年寄りが苦しんでいるのに、本当に気の利かない人。貴婦人の振る舞いもできない、女中の仕事もできない、あなたは一体なんの能があるのかしら」
歩きながら発されるしわがれた声が少しずつ遠くぼやけて行き、そして老婦人たちとカルモジーナの姿は下の階に消えた。ついにジネヴラの腕を振り払って飛び出したコロンビーナは、階段の親柱を掴んだところで再びジネヴラに抱き留められた。
「放して! あいつら殺してやる!」
コロンビーナの叫びを聞いて、ゼゾッラは手をついていた柱の壁に爪を立てた。古くなって欠けた漆喰の壁から、少しばかりの粉が床に落ちた。ジネヴラは子供の小さな腰骨をしっかりと抱きこんでつかまえたまま、コロンビーナを諭した。
「あの人たちは旦那様の親戚だよ。みんなナポリでは名の知れた大貴族だ。それを殺したら、あんたも従姉さん達も伯母さんも死刑にされちまう。どうせあの人たちは、あんたが大人になる頃には揃って墓の下だ。今は辛抱するんだよ」
子守歌を聞かせるような様子でジネヴラが言い聞かせると、コロンビーナは眉間にきつく寄っていた皺を少しずつ緩め、色を失った小さな唇を噛みしめた。小さな両目に涙の膜がせり上がっていくのを見たジネヴラは少女を抱き上げ、赤子をあやすように小刻みに揺すった。その腰に後ろから別の子供の腕が回って、ジネヴラは少しばかり驚いた。まだわずかに震えているパスカレッラが、姉と同じようにジネヴラのごわついた仕事着に顔を埋めていた。
ようやく柱の影から出てきたゼゾッラは、子供二人にしがみつかれたジネヴラを手伝おうと手を伸ばしかけたが、泣いているパスカレッラに何をすれば良いのか分からず、中途半端にこちらに伸ばした手を空中でさまよわせた。テレサの方は泣いている子供たちには見向きもせず、ゼゾッラの傍に近づいていくと、先ほどの老婦人たちに対するよりもはるかに真心のこもった礼をした。
「お嬢様、お騒がせいたしまして、申し訳ございません」
「あ、いいえテレサ。あなたが早く来てくれたから、収納付き長椅子の中身をひっくり返されただけで済んだわ。こちらこそ、ジネヴラが急いで呼びに行ったものだから、あなたの仕事を止めてしまったでしょう。ごめんなさいね」
ゼゾッラはテレサの両肩を支えて、顔を上げさせた。ちょうどその時、先ほど老婦人たちの下りて行った階段を上ってくる、軽やかな足音が二つ聞こえた。ほどなくして手摺の格子の隙間から、こちらを覗き込むカラミタの顔が見えた。彼女はジネヴラにしがみついて泣いている様子の子供たちを見つけ、二階の床に足をつけるのと同時に声を上げた。
「あんた達どこに行ってたの。庭の方まで探しに行ったんだから」
「ガッタの部屋に来てたんだよ。あんたがお見合いするから、宝石を貸してくれって言いに」
駆け寄ってきたカラミタへ、ジネヴラはコロンビーナとパスカレッラを引き渡した。カラミタは不機嫌そうに眉根を寄せ、唇を引き結んでジネヴラを見たが、それでも黙って幼い従妹たちを引き受け、その顔を覗き込んだ。子供たちの目に滲んだ涙を見た彼女は、さっと顔色を変えた。
「どうして泣くの。またチェネレントラに打たれたんじゃないだろうね」
「旦那様の親戚のばあさんたちだよ。打たれちゃいないけど、ちょっと酷い言いぐさでね。あまり叱らないでやって」
従姉にしがみついたコロンビーナの頭を撫でて、ジネヴラは取りなした。彼女達に追いついたフィオレッラが、右頬の痘痕を掻きながらふと従妹の足元を指した。
「あ、パスカレッラ。ソッターナにかぎ裂きができてるよ。お尻のとこ」
「え? どこ?」
「ほらここ」
フィオレッラは晴れ着のまま床にしゃがみ込み、パスカレッラのソッターナにできた破れ目に指を引っかけた。白地に赤い花模様を織り込んだソッタ―ナの後ろの生地に、大人の指が二本ほど入るような裂け目が出来ている。弱り目に祟り目のパスカレッラはついに泣き出し、カラミタは腰にしがみついたまましゃくりあげる従妹の背中を、軽く叩いて宥めた。
「部屋に帰って、新しいやつに着替えよう。今から繕っても間に合わないよ」
「いや! これがいい」
パスカレッラは涙声を張り上げて叫んだ。フィオレッラは姉を助けようと、パスカレッラをカラミタから引き剥がしながらさらに諭した。
「我がまま言うんじゃないの。従姉さん達が同じようなのを一緒に選んでやるから」
「いや!」
カラミタとフィオレッラが二人がかりで宥めても、パスカレッラは譲らなかった。地団太を踏んだパスカレッラはフィオレッラの手さえも振り払い、再び廊下じゅうに響く声でこの服でないと嫌だと叫んだ。これ以上騒ぎ続ければ、客間に戻ったはずの老人たちは今度こそカルモジーナに、子供たちを鞭で打つよう命じるに違いなかった。ここまでカラミタに遠慮して少し離れたところにいたゼゾッラは、とっさにパスカレッラの足元に膝をつき、子供用のソッターナの後ろに開いたかぎ裂きの形を確かめた。
「パスカレッラ、じっとしていなさい」
片手でボルサを探った彼女は、裁縫道具と手巾を取り出した。手巾を切り取って端切れにすると、ソッターナにできたかぎ裂きの裏にあてがい、手早く縫い合わせていく。ジネヴラがゼゾッラを手伝い、下に重ねたスカートの布地を巻き込まないように服地を持ち上げた。ひと針ごとにかぎ裂きが消え、赤い花の模様が僅かなずれもなく元通りに繋ぎ合わされていく。縫い糸を切ったゼゾッラは立ち上がり、パスカレッラの手を取ってその場でくるりと回らせた。晴れ着の釣り鐘型の輪郭が僅かも引き攣れていないことを確かめて、彼女は満足そうに息をついた。
「これでいいわ。もう晴れ着で走り回ってはだめよ」
「……うん」
「すごいや、縫い目が見えないよ。まるで母さんの縫ったあとみたいだ」
フィオレッラはソッタ―ナの布地に触れて、縫いあとを確かめた。ゼゾッラはわずかに頬を上気させて答えた。
「お義母様には、九歳の頃から教えて頂きましたもの。これくらい簡単ですわ」
「良かったね、パスカレッラ。最後に髪をやってあげるから、こっちおいで」
「うん」
すっかり機嫌を直したパスカレッラは袖で涙を拭い、今度こそ大人しくフィオレッラに手を引かれて行った。前掛けの膝をはたいたゼゾッラは、俯いた足元に影が差すのを見て顔を上げた。カラミタがコロンビーナを抱きかかえたまま、こちらを睨みつけていた。
「厭味ったらしい。親父の金でうちの母さんを雇ってたのが、そんなに自慢なわけ」
「カラミタ義姉様、私そんな」
刺々しい義姉の言葉に、ゼゾッラは誤解を解こうと口を開きかけた。だがカラミタは、ゼゾッラの申し開きなど聞く値打ちもないと言いたげに吐き捨てた。
「あんたに義姉さんなんて呼ばれる筋合いはないの。あんたが二年前に、夕飯の席でコロンビーナを打ったこと、あたしは忘れてないからね。もういちど妹たちに何かしてごらん、ただじゃおかないから」
カラミタはそのままゼゾッラの前を通り過ぎ、その隣にいる母の小間使いに声をかけた。
「テレサ、ディアマンテの支度を手伝ってよ」
「他の者にお申し付けください。私は仕事の続きがございますので」
テレサは眉一つ動かさず、主人の娘の言いつけをすげなく断った。カラミタは舌打ちをもらしたが、それ以上無理強いすることは無かった。彼女はコロンビーナを抱きかかえて踵を返し、フィオレッラたちの後を追って寝室へと続く角を曲がっていった。最後にパスカレッラが、こちらに手と顔だけを出してゼゾッラに向けて手を振った。
「チェネレントラ、ありがとう」
ゼゾッラはつられて手をわずかに持ち上げたが、平民の娘がするように、それをパスカレッラに振り返すことはできず、けっきょく裾をつまんでいつもの通りの会釈を返した。主人の代わりにジネヴラが横合いから顔を出し、泣き止んだ少女の笑顔に向けて自然な仕草で手を振り返す。パスカレッラははしゃいだ様子でさらに手を振り返したが、カラミタに引きずり戻されて、再び壁の向こうに消えた。
◆作中の外国語表記について
・主要登場人物はナポリ語、副王夫妻はスペイン語を話すと想定
・作者はイタリア語話者ではないので、発音の表記は適切でない可能性あり。分かりやすい漢字表記が無い場合のみ、参考文献の表記に従ってナポリ語、イタリア語、スペイン語を使用
・那=ナポリ語、伊=イタリア語、西=スペイン語
ナポリ語辞典に載っていない単語について、補足的にイタリア語で表記
※古那=17世紀頃のナポリ語。1674年版『ペンタメローネ』でスペルを確認し、発音については綴りから類推。文献についてはインターネットアーカイブで閲覧。
◆言語に関する参考文献(使用頻度の高い順。題名、作者、出版年、出版社 で記載)
・Modern, Etymological Neapolitan-English Vocabulary、P.Bello D.Erwin、2015、(出版社記載なし)
・モードのイタリア史、R.L.ピセツキー、1987、平凡社
・The Italian Baroque Table、Thommaso Astarita、2014、ACMRS
・絵画術の書、チェンニーノ・チェンニーニ、2004、岩波書店
・The National Museum of Capodimonte、Nicola Spinosa編、1996、Electa Napoli