15 再出発5 真川 寿羽 新年の挨拶
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仕事が終わって、寿羽に昨日は電話をしたから今日はメッセージを送ることにする。送信をタップすると失敗した。
「嘘だろう?!」
再度送るが送信失敗する。
寿羽と会話らしい会話をした最後の日のことを思い出す。
『好きな人ができたから連絡してこないで』
その言葉が頭の中をぐるぐる回る。
本気なのか?
離婚して1ヶ月程度でもう他の相手を見つけるのか?!
「あの日の車のやつか?!」
心の中で殺意が膨れ上がる。
誰に対してなのだろう?
寿羽?車の男?!
どちらも同じだけ憎い。
寿羽を傷つけることなんてできない。けど俺のもとに戻ってこないのならいっそ・・・。
閉じ込めて俺だけしか見えないようにしてやる!!
今まで躊躇していた探偵をその日雇った。
その帰り道、刃物店に寄って先が尖っていて、刃渡りの長い包丁を手に入れた。
店の主人は「いい刺身包丁ですよ」と満足そうにしていた。
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テーブルにIHコンロを置いて、切った野菜を盛ったお皿と蟹を置く。
玄関の扉が開く音がして榛原さんが入ってきた。
互いの家の鍵を交換しているので最近はインターフォンは鳴らさない。
「蟹?どうしたんだ?」
「お祖父様が送ってきてくれたの。生きてるから生で食べられるよ」
「俺がそれ食べたら殺されないか?」
「正月の3日、一緒に肉食べようって誘ってたよ」
「マジか・・・」
「断っても問題ないよ?」
「いや、行く」
「お祖父様に伝えとくね」
「お手柔らかに・・・」
「ふふっ。蟹食べよ」
「そうだな」
ポン酢と刺し身醤油と山葵を出すと榛原さんが不思議そうに首を傾げる。
「刺し身で食べられるからね」
「ああ、なるほど」
「食べ終わった殻は鍋に入れてね。蟹エキスが出るから」
「解った」
二人で黙々と蟹を食べる。
刺身が飽きたら鍋に入れてポン酢で食べる。
ちょこちょこと野菜や豆腐も食べて口直しすると蟹の残りも少なくなってきた。
「甲羅酒もあるんだけど」
「いいな!!」
ガスコンロの上に網を置いて、甲羅を載せる。
1杯分の頭が残るので分けて入れる。
殻はやっぱり鍋の中に入れて蟹エキスを取る!!
足の身を少し甲羅に入れて、日本酒を注いで火にかける。クツクツしてきたら出来上がり。
蟹味噌たっぷりの甲羅酒は最高!!
「食べ物の中で一番蟹が好きなの。だから11月が一番好き。子供の頃はね、お祖父様が毎年11月になったら蟹を食べに連れて行ってくれたのよ」
「蟹を食べに連れていけるようにしっかり働くよ」
「ふふっ。ありがとう。雑炊どうする?」
「腹いっぱいだ」
「でも直ぐおなかすいちゃうよ」
「少し運動してから食べよう」
鍋に蓋をして洗い物をしてから一緒にシャワーを浴びて、ベッドに入った。
翌朝まで二人共目覚めなかった。
「朝から蟹の雑炊って贅沢だよね〜」
「本当に美味いな。俺は生の蟹とか食べたのは初めてだった。ボイルされた蟹や冷凍の蟹は食べたことあったけどな」
「美味しいと思った?」
「美味しいと思っていたけど昨日の蟹とは比べるまでもないな」
「昨日食べた蟹は違った?」
「ああ。違った。美味かった」
「良かった。食べ物だけは好みが違うと困っちゃうもの」
昼はちらし寿司の元を作って昨日取り置いた蟹の身を混ぜ、錦糸卵をフライパンで作って海苔をハサミで刻んだものをちらして、いただいた。
ちらし寿司を作るときは炊飯時の水を減らして、昆布を入れて炊く。
ちらし寿司の素だけでは榛原さんには酢が足りないらしいので、酢を足した。
榛原さんがうちわで扇いでくれたので扇風機を出さずに済んだ。
うちわはだいぶん前に行った阿波おどりの絵が書かれたもの。
11月12月と思いもよらないことばかり起きたけれど、今年も元気に1年を終えることが出来た。
離婚も仕事も榛原さんも、すべて私の望みが叶った気がする。
お祖父様との養子縁組は望んではいなかったけれど、両親兄姉と家族という枠組みから出られたのは喜ばしい出来事と言ってもいいだろう。
ただ、父とは兄妹になってしまったので、家族といえば家族なのだけれど、お祖父様が父に見切りをつけたので、次に関わるのはなにか大きな問題が起きたときだけだと思いたい。
年越し蕎麦を一緒に食べて、初詣に行くことにした。歩いて20分くらいのところに小さな神社があるのでそこに行くことにした。
小さな神社だけあって人もまばらで、人目を気にせずに手を繋いで歩くことが出来る。
榛原さんの手袋を二人ではめる。
手袋のない手は榛原さんと手を繋いで榛原さんのコートのポケットの中。
榛原さんの指が時折動いて私の手を撫でる。
その指の動きがなんだか誘われているみたいで恥ずかしい。
「付き合い始めて榛原さんのイメージがずいぶん変わりました」
「そうか?」
「もっとクールな人だと思っていました」
「まぁ、“特別”以外にはそうかもな。でも寿羽にはずっと優しかっただろう?」
「前は個人的に関わることがあまりなかったので知りませんでした。仕事に復帰したいと連絡してからはこんなふうにする人だったっけ?って思うことはよくありました」
「意識されないっていうのは虚しいな」
私は慌てる。
「今は意識しまくってますよ!!」
「そうなのか?」
榛原さんがちょっと意地悪っぽい笑顔を浮かべて私を見ている。
「久哉さんのバカっ!」
笑われている間に日付が変わる。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「あけましておめでとう。こちらこそよろしく頼む。特に3日」
今度は私が笑う番だった。
美世さんのおせちを二人でつまみながらゴロゴロして過ごす。
榛原さんは2日にお兄さんの家に行くと言ってお年玉の用意をしていた。
のんびりしてくればいいのに昼頃出かけて夕方には帰ってきていた。
一人はやっぱり寂しいから私は嬉しいけど、榛原さんの家族の人たちも寂しいのではないかと少し心配になった。
3日に私一人で行くなら南さんが迎えに来てくれる予定だったけれど、榛原さんと一緒に行くのならもう少し遅い時間の方が良いということになって、南さんのお迎えも断って◯ェルファイアで出かけることになった。
1時間のドライブも榛原さんとならあっという間で、お祖父様の屋敷に着いた。
榛原さんはお祖父様の屋敷を見て顔をひきつらせ、若干緊張しているようだった。
会えばもっと緊張するのかな?
お祖父様怖いからなぁ・・・。私には優しいんだけど。
「お祖父様、怖く見えるかもしれないけど私には優しい人だから」
「寿羽に優しいなら俺には恐ろしい人になるんじゃないか?」
「離婚歴のある私の相手にそんな態度は取らないと思うけど・・・お祖父様がどう思っているのかはちょっと解らない・・・。私も頑張るね」
「ああ。程々に頼むな」
谷中さんが迎えに出てきて少し驚く。
「今出てきた人はお祖父様の秘書の谷中さん。玄関の前に車を止めていいから」
榛原さんが車を停めると南さんが現れる。
「あけましておめでとうございます。お祖父様の専属運転手の南さん」
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
丁寧に南さんが頭を下げてくれる。
「こちらこそよろしくお願いします」
正月の挨拶をして、谷中さんと南さんに榛原さんを紹介する。
南さんがヴェルファ◯アの鍵を預かって、移動させる。
美世さんもやってきて、挨拶をしておせちが凄く美味しかったと伝える。重箱も返しておく。
榛原さんもおせちの礼を言う。
美世さんは嬉しそうに笑って、また来年も作りますねと気の早いことを嬉しそうに言った。
和室の一室に案内される。障子を開け、谷中さんが入室を促す。
腰を下ろすとお祖父様が直ぐにやってきて軽い仕草で腰を落とす。
谷中さんはお祖父様の斜め後ろに座る。
「お祖父様、あけましておめでとうございます」
「うむ。おめでとう。いい年明けだったか?」
「はい。ここ何年かぶりにいい正月を迎えられました」
「そうか。何よりだ」
「お祖父様、ご紹介させていただきますね。私が今お付き合いさせていただいている、榛原久哉さんです」
「はじめまして、榛原久哉と申します」
「うむ。家城宗吉という。寿羽の父親だ」
「父親ですか?」
「そうだ。昨年の暮に養子縁組をした。聞いていないのか?」
「家城グループのお嬢様だとは聞いておりましたが、それ以外のことは知りませんでした」
「そうか。養子にしたことは家族も知らんことだ。触れ回るな」
「勿論です」
榛原さんから聞いてないぞ〜!!という心の声が聞こえた気がした。
「はっきり言っておく。寿羽と結婚する気なら儂の持つものがすべてその手の中に入ると思え」
「それは・・・?」
「寿羽の父親は相続を放棄している。儂の遺産の相続人は寿羽だけだ」
「理解しました」
「その気があるなら寿羽に話を聞くといい」
「寿羽、話す気があるなら話せ」
「解りました」
出すタイミングを逃した手土産を榛原さんがお祖父様に渡して、谷中さんが受け取る。
お茶を一杯飲んだ後お祖父様が立ち上がる。
「取り敢えず昼飯に行こうか」
「お肉と聞いていましたがどちらに行くのですか?」
「幸田に行く」
「楽しみです」
「新しい車を買ったんだ」
お祖父様が胸を張って自慢げに言う。
「何を買われたんですか?」
「レク◯スLMだ」
私も榛原さんも目を剥く。2,000万・・・。
「年末に届いたばっかりでな。儂も今日初めて乗るんだ」
まさかの後部座席は2シートしかなくて、私が助手席に乗ると言ったんだけど、榛原さんに勘弁してくれと言われて榛原さんが助手席に座った。
運転席と後部座席の間には大きなTVが設置されていて意思の疎通はできないわけじゃないけど、前は前で話しているので私はお祖父様に蟹のお礼をいう。
おせちの箱の中に入っていたお菓子も少しずつ食べていることも伝えた。
「年始の挨拶が色々届いているから持って帰れ」
「ありがとうございます。たくさん持って帰りますね」
お祖父様は嬉しそうに笑って「全部持って帰れ」と笑った。
ステーキハウス幸田に着いて後続車で谷中さんも現れる。案外レ◯サスLMは役立たずだ。
南さんと谷中さんも一緒に店内に入る。
半個室に入り、目の前にはステーキを焼いてくれる銀色に輝く大きな天板に向かって座る。お祖父様と榛原さんで私を挟んで、入口近くの席に谷中さんと南さんも座った。
谷中さん、南さんが一緒に食事をすることはあるけれど、同じ席に座るのは珍しい。
天板の向こうから食べられないものはあるか聞かれ、全員がないと答えた。
注文を聞かれることなく前菜が並べられる。
「蟹を食べに連れて行ってやりたいが、寿羽が満足する蟹を食べさせようと思ったら日帰りは厳しいからな。花柳も続いたし、肉もいいだろう?だが忘れたらいかんぞ。女将とふぐを食べる約束を」
「それで今日はお肉なんですね?」
「そういうわけではないぞ」
お祖父様の都合のいい日を聞いて私がそれに合わせる形になった。
榛原も一緒に来ればいいとお祖父様は言ってくれたのだけど、彼の都合がつかなかくて花柳は私とお祖父様だけで行くことになった。
「お肉も好きですよ。ただお祖父様と一緒に食事をすると、スーパーのお肉が味気なくなります。あまり贅沢をさせないでください」
「寿羽はたまには贅沢をしなさい」
「ありがとうございます」
「榛原の兄弟には寿羽の家のことで世話になった」
「いえ、私にも下心がありましたので」
「正直だな。まぁ、お前さんのお陰で真川の馬鹿とも早々に縁が切れた。感謝しておるよ」
「私はただ空き家を紹介しただけです」
「寿羽、真川からの連絡は切れたか?」
「はい。今のところは」
「儂からもちょっと真川の親父の方に釘は刺しておいた」
「助かります」
前菜、スープ、サラダと出たけれどどれも量が少なかった。
生姜が効いたスープが美味しかったので物足りないくらいだった。
「シャトーブリアンでございます」
一人200gほどの大きさに切り分けられる。
お肉のために他のものの量が減らされていたんだ。
「贅沢が過ぎませんか?」
「たまにのことだ、いいだろう?」
焼き加減を聞かれて当然レアで頼んだ。
口の中でとろけて無くなってしまうかと思うほど柔らかく、お祖父様の生活は異世界だと思ってしまった。
珈琲を飲みながら私たちの仕事の話をする。
榛原さんのお兄さんの話も出て、初めて知る話ばかりで私は興味津々で聞いていた。
聞いていると榛原さんのお兄さんが会社を立ち上げるとき、榛原さんも関わっていて、榛原さん自身も未だに関わっているらしかった。
休日に仕事と言って出かけることに首を傾げていたので、納得がいった。
榛原さんがあのマンションを購入していることも腑に落ちた。
「榛原さんもお金持ちですね・・・」
「寿羽ほどじゃないと思うけど?」
「私個人は一般市民ですよ。給料だけで生活してますもの。お祖父様のお陰で家賃の支払いは一度もせずに済んでしまいましたけれど」
「寿羽には屋敷に帰ってきてほしいんだがな」
「仕事に通えなくなってしまうので無理です」
「儂の仕事を手伝えばいいだろう?」
「手伝える仕事があるとは思えません。それに今の仕事が好きなんです」
「本当にうまくいかんな。自立してほしい者は自立しなくて、自立しなくていい者は勝手に自立してしまう」
「お祖父様、それは違うと思いますよ。私が自立していなかったら、今ほど愛してもらえなかったんじゃないでしょうか?」
「それこそ違うな。寿羽は特別じゃ。儂の命に替えても守ってやりたい」
「感謝しています」
コーヒーを飲み終わり店を出て屋敷に戻る前にデパートの初売りに行こうと言われて私は焦った。
「今日は榛原さんもいるので、春になったら一緒にデパートに行きましょう。ね?」
お祖父様は渋々納得してくれた。
屋敷に戻るとお祖父様は私たちに気をつけて帰れと言って、榛原さんにたまには一緒に来るようにと言ってくれた。
お祖父様に別れの挨拶をした後、谷中さんに年始の手土産を大量に持たされて帰路についた。
明日 22:10 UPです。