11 再出発1 寿羽 真川 離婚の報告
それほど多くない荷物を片付けるために、今日は歌声が好きな背の高い男性俳優の歌をワイヤレススピーカーから流した。
同じ城つながりもあって結構好き。カバー曲も出ているので口ずさみやすい。
一緒に口ずさみながらテンポよく荷物を片付けていく。
引っ越しの段ボールもこのマンションのゴミに出していいと聞いたので、引越し業者の段ボールの回収は断った。
ヴェルフ◯イアに載っている台車を借りて潰した段ボールを束ねていく。
榛原さんに離婚が成立したと夜インターフォンを鳴らして告げた。
「お疲れ」と言われて胸にしみた。
2日かけてすべての箱を開けて収める場所に収めた。
爪切りや耳かきなんかを買いに行かなくちゃ。
爪切りは百均より薬局で買ったほうがいいよね。
夫の浮気から引っ越し、離婚まであまりにも早い動きをしたと自画自賛する。
すべて榛原さんのおかげだとしみじみ思う。
陽が傾き部屋の気温が一度下がった気がする。ぶるりと身を震わせて寒さのせいなのか人恋しさを感じてしまった。
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金曜日、寿羽が出ていってしまう。
既に家で暮らしていないので出ていってしまうっていう言い方は間違っているのかもしれない。
月末まではまだ夫婦だと自分に言い聞かせるが、それに何の意味があるのかは解らなかった。
昼の時間になって席を立つとスマホが震えて画面を見たら寿羽からだった。
引っ越しが終わって離婚届を出してくると書かれていて叫び声を上げそうになった。
慌てて人気のない場所を探して寿羽に電話をかける。
離婚は月末と言っていたと文句を言うと二言三言のやり取りで電話を切られてしまった。
こんなにあっさりと結婚生活が終わるのかと思って強い衝撃を受けた。
30分程経った頃またスマホが震えて画面を見ると離婚届の受理書が撮影されたものだった。
こんな気持ちを俺は今まで感じたことがなかった。
喪失感、やるせなさ。寿羽を失った。
家に帰るとどこかがらんとしていた。
整理ダンスが一棹なくなっていた。
それ以外それ程変わったところはないように思うのにこの家も俺の心もスカスカになった。
ノロノロと寿羽の仕事部屋へ足を運ぶ。扉の前では表面上そんなに変わっているところはないのに、寿羽がもういないということははっきりした。
開いた扉の向こうは綺麗に掃除していったのかチリ一つ落ちていなかった。
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離婚届の翌日、今日こそは両親に連絡を入れなくてはならない。
連絡しなくてもいいと思うんだけど、一応常識として連絡を入れることを決意する。
母親に電話しても会話にならないので、まだ会話が通じる父に電話する。
ちなみに兄姉も会話にならない。
「もしもし?」
『寿羽か?』
この人が私についた嘘を思い出す。
「はい」
『元気にしてるのか?』
伝える必要などないと思うが一応親だとため息を吐きたい気持ちになりながら伝える。
「はい。元気にはしているのですが、昨日、離婚しました」
『そうなのか?』
「はい」
『大丈夫なのか?』
「はい。私の希望が通った形なので」
『そうか。佐知江には連絡したのか?』
するわけないことを聞かないで欲しい。
佐知江というのは母のことで、顔を思い出すだけでも苦い気持ちになってしまう。
この父だって本心はどう思っているのかなんて、もう今さらだ。
「いえ、罵詈雑言が思い浮かぶのでお父さんから伝えてもらえますか?」
『解った。父さんにも連絡しておきなさい』
父が言う父さんとはお祖父様のことだ。
「はい。この後連絡するつもりです」
『そうか。そうしなさい。どこに引っ越したんだ?』
「前勤めていた会社の近所です」
『仕事は?』
「前の会社に戻れることになりました」
『そうか。暮らしには困らないんだね?』
暮らしに困っているのは両親たちの方ではないのだろうか?
「はい。大丈夫です」
『じゃぁ、佐知江に伝えておくよ』
「嫌なことを頼んで申し訳ありません」
『寿羽が気にすることじゃないよ』
「では失礼します」
父との電話を切り、お祖父様に電話をかける。
「もしもし?お祖父様」
『寿羽か?!』
「はい」
『全く顔もみせんで、どうしてるんじゃ?』
「昨日離婚しました」
『なんじゃと?!』
「私の希望が通った離婚です」
『原因は?』
「徐々に気持ちが離れてしまったので」
『まぁいい。明日顔を出しなさい」
「・・・解りました」
『ああ。一緒に飯を食おう。花柳で・・・13時だ』
「解りました」
『明日が待ち遠しいの』
「はい」
電話が切れて詰めていた息を吐き出す。
明日会いに行かなきゃならないのかぁ・・・。
一気に憂鬱になってしまった。
ECサイトの住所変更でもしよう。
ちまちまと色んなサイトのアドレス変更や住所、氏名変更をして気を紛らわせようとしたけれど、気分転換にはならなくて高カロリークッキーでも作ることにした。
たっぷりのバターをレンジで温めて溶かす。少し冷まして卵と合わせる。
これまたたっぷりの砂糖と重曹、小麦粉、バニラエッセンスを入れてサクッと混ぜる。
ラップに包んで棒状にして冷蔵庫で固める。
後は包丁で切ってオーブンで焼くだけ。
簡単だけど小麦粉の美味しさが出るクッキーなのでこれを作るときは美味しい小麦粉が必要になる。
食べる食感はサクホロで美味しい。
とっておきの紅茶を入れて焼きあがったクッキーを摘む。
はぁ〜美味しい。幸せ。
電話が鳴ってスマホの画面を見ると、榛原さんだった。
「もしもし?」
『今から会社に来れるか?』
「え?ええ。大丈夫ですけど」
『直ぐ来てくれ』
「解りました」
電話が切れた。
急いでいるようなので、慌てて身支度をして自転車にまたがった。
スマホに案内してもらいながら会社に向かう。
本当に会社まで近かった・・・。
受付で榛原さんに呼ばれたことを伝えると、入館証が渡され、6階に行くように言われた。
前の職場なので迷うこと無く6階に上がる。
直ぐに榛原さんが私を見つけて書類を渡されて「これ頼む」と言って前に私のデスクがあった場所に案内された。
書類に目を通しながら説明を聞いてすぐに取り掛かる。
黙々と作業を進めて22時が過ぎた頃、任されたことを全てやり終えた。
周りも終わりが見えてきたのか張り詰めた空気が緩んでいた。
榛原さんに提出して確認される。
「腕は落ちてないな」
「だったらいいですけど」
「急に悪かったな」
「いえ。ちょっと楽しかったです」
「デスクの用意は出来ているからいつでも戻ってきていいぞ」
「本当ですか?本気にしちゃいますよ?」
「ああ。本気にしろ」
「じゃぁ、来週からお世話になってもいいですか?」
「待ってる」
「社長にまだ挨拶できていないんですけど・・・?」
榛原さんがデスクの電話を取り上げ社長に私が要ることを伝える。
「悪いけど一人でいってくれるか?まだここを離れられない」
「解りました」
最上階にあがって秘書の葛城さんに声を掛ける。
「家城君!!久しぶりだね」
「お久しぶりです」
「戻ってくるんだって?」
「はい。社長の許可が下りれば」
「予定はいつから?」
「今、下で榛原さんに来週からと」
「待っているよ」
「ありがとうございます」
「ちょっとまってね」
葛城さんに招き入れられて社長室に入る。
「社長、お久しぶりです。家城寿羽です」
「久しぶりね。まぁ掛けなさい」
「失礼いたします」
「今までも色々仕事は頼んでいたけど、戻れそうかしら?」
「最大限の努力をいたします」
「そう。今日は仕事を手伝ってくれたんだって?」
「はい。久しぶりの仕事は楽しかったです」
「仕事を楽しめるのはいいね。前よりかは給料下がるわよ」
「はい。それは覚悟しています」
「いつから来られるの?」
「来週から来るようにと榛原さんに言われました」
「じゃぁ、来週から頼むわね」
「はい。精一杯勤めます」
部屋から下がると葛城さんに書類を数枚渡されて、目を通す。
サインをして仕事への復帰が決まった。
社員証や入館証はすでに準備されていて、とても嬉しかった。
榛原さんに報告して私は帰路についた。
久しぶりに仕事をして、楽しくていい夢を見て目覚めたけれど、今日はこの後花柳だと思うと気が重くなった。
朝ご飯は塩鮭とほうれん草の白和えと具だくさんみそ汁。
人参は千切りして、ほうれん草と下茹でしておく。
豆腐はキッチンペーパーに包んでレンジで温め水気を切る。
豆腐を滑らかになるまで潰してすりごま、薄口醤油、砂糖、顆粒だしの素を入れて固く絞ったほうれん草と人参を入れて混ぜ合わせる。
味噌汁は冷蔵庫の余った野菜を片付けるのに重宝するアイテム。
お腹も膨れるしね。
真川に食事の用意をしているときはもう一品なにか作っていたなーと思い出す。
一人になるとやっぱり手抜きになってしまう。
そのおかげか、私の理想の体重までしっかり減った。
今度は増減しないように維持するのを頑張らないと。
仕事に行くようになったら新しい服が欲しくなるね。
3年前の服を着ていくわけにも行かないだろうし。
花柳の後、時間があればちょっと服でも見て回ろうかな。
気分転換にもなるだろうし。お祖父様がついてきたら大変なことになってしまうのでなんとか回避しなくっちゃ。
花柳までここから1時間半掛かるから余裕を持って家を出る。
電車の中、イヤホンで朗読を聞きながら本を開いて目でその文字を追う。電車の揺れと読書を堪能した。
次が降りる駅なので本を閉じて視線を外の景色へと向ける。
駅には1台の車が停まっていてお祖父様の車だと解る。
運転手の南さんがドアを開けてくれる。
「南さん。お久しぶりですね」
「寿羽お嬢様もお元気そうで何よりです」
「ありがとうございます。南さんも元気そうで安心しました」
「ありがとうございます。旦那様が首を長くしてお待ちですよ」
車内で南さんと少し近況を話している間に花柳についた。
女将さんの歓待を受け、案内される。
「お祖父様、お待たせしてしまいました」
「いや、約束の時間より大分早い」
「お祖父様がお元気そうで安心しました」
「うむ。寿羽も変わりないようで安心した」
「お祖母様はお元気ですか?」
「ああ、今入院しておる」
「えっ?大丈夫なのですか?」
「う〜ん・・・先は短いな」
「何かご病気なのですか?」
「癌だ。末期で今年いっぱい持つかどうかと言われている」
「えっ?そんなに悪いのですか?」
「具合が悪くても病院に行きもせんかった。倒れた時には末期でどうにもならん。お前には伝えるなと言われてな。まぁ、言われなくても伝える気などなかったが」
「そう、ですか」
「お祖父様は大丈夫ですか?」
「儂のことは心配はいらん。清々してるわ。これから年末にかけて葬式があることだけ解っとればいい」
「解りました」
話が一段落ついたことに気がついた女将が料理を運んでくる。
ランチなのに夜用の懐石コースが出される。
お祖父様の力は全く弱まっていないのだと気がつく。
目も楽しませてくれて舌も満足させてくれる料理に舌鼓を打つ。
「寿羽様は久しぶりにいらしてくださいましたので、少量ですが、ぼたん鍋もご用意させていただきました」
「贅沢ですね〜。松茸に、カニまで出ていたのに」
「旦那様にお願いされました。寿羽様とのデートだから寿羽様のお好きなものを出せと」
「道理で好きなものばかりが出てくると思いました。お祖父様ありがとうございます」
「寿羽が喜ぶなら儂は何でもするぞ」
「あまり無理をしないでくださいね」
「子供と孫がいるが、寿羽ほど可愛い子はおらんぞ」
「兄さんや姉さんたちが怒りますよ」
「彼奴等は暇があったら金をせびりに来る。自立した奴が一人もおらん!!身の丈に合わん大言壮語ばかり言いおって!!」
「お祖父様、あまりお怒りになると血圧が上がりますよ」
「そうだな。ところで離婚ってどういうことだ?真川の倅は何をしたんだ?」
「なにも」
「なにも?」
「はい。なにも」
「・・・なるほど何もせなんだか?」
「はい」
「父親はいい男なんだがなぁ」
「残念です」
「まぁ、いい。離婚したなら儂の家に帰ってこい」
「いえ、仕事も決まりましたし、住むところもいいところを紹介してもらいましたので」
「ITの榛原和人か」
「紹介してくださったのは和人さんの弟の久哉さんですけれど」
「弟の方とは仕事関係だったか?」
「はい。結婚前に勤めていた会社のチームリーダーでした。今度は上司になりますが、来週から復帰出来ることになりました」
「屋敷に帰ってくる気はないのか?」
「はい。親族の目もありますし、それにお祖母様が・・・」
「そうか・・・。ならば儂の養子になれ」
「お祖父様・・・。急に何を言い出すんですか?」
「これは譲らんからな。あれが死ぬ。儂も先はそう長くないだろう。だから今回は譲らん。正しい場所に戻るだけだ。書類にサインしてくれ」
「お祖父様・・・お祖父様は長生きしますよ」
「頼む」
「届け出はお祖母様が亡くなられてからにしてもらえますか?」
「ああ。その条件でサインしてくれるならな」
「解りました。サインします」
「儂が死んでも遺産放棄しない約束もしてくれ」
「それは・・・」
「遺産相続させるために養子にするんだ」
「お祖父様の遺産を受け取ったら身を滅ぼしそうですね」
「受けてくれるか?」
「はい。お祖父様の望み通りに」
「養子の話は寿羽は黙っていろ」
「解りました」
水菓子をいただいた後、机の上が片付けられ養子届の書類と遺産放棄しない約束をしたという書類にサインした。
最近重要書類にサインばかりしている気がする。
お祖父様に見つからないように小さくため息を吐いた。
「仕事に戻るなら衣装が必要だろう!今から買いに行くぞ」
「お祖父様、店でここからここまで全部買うとかは止めてくださいね」
「解っとる。好みがあるってことはもう解っているから、もうせん」
お祖父様にデパートに連れて行かれて、今年いっぱい同じ服を着る必要がないほど買ってもらった。
衣装に合わせた靴がいるとお祖父様が言いはって、靴も同じだけ買ってくれた。
お祖父様が買ってくれたらいつものことなのだけれど、デパートが直接配達してくれることになった。
南さんが家まで送ってくれることになり、その道程で実家の様子などを教えてもらった。
両親は相変わらず働かず、兄は事業を起こしては失敗を繰り返して借金が増えるばかりで、姉は嫁ぎ先での一般的な普通の暮らしができなくて、離婚して実家に戻っていると話してくれた。
家に帰り着いてやっと日常が戻ってきた気がした。
お祖父様と一緒にいると本当に住む世界が違うと思ってしまう。
明日大量に届く衣装は収納できるけど、靴の収納場所が足りない。
備え付けの大きな下駄箱は付いているけど、この下駄箱では収納しきれない。
どうしたらいいものやら。
取り敢えず和室の壁にそって並べておくしかないかな。
和室が収納部屋になりそうでちょっとがっかりした。
これから冬が来たら炬燵で蜜柑でまったりするつもりだったのに、目の前に並ぶ靴箱に押しつぶされる気がした。
夕食にと渡された花柳の懐石弁当に舌鼓を打ちつつ夕食を終えてその日は早々に眠った。
翌日はデパートから衣装と靴だけでなく貴金属まで届いた。
「お祖父様・・・」
見ればそれ程高価ではなく、ちょっと背伸びをしたら買えるくらいの物でデパートの人が頑張ってくれたんだろうと思った。
でも、これを全部着け替えて使ったらおかしいって思われるからね。
箪笥の肥やしになるのはもったいないと思ったけれど、気に入った何点かだけ着けることにした。
金庫が欲しいと切実に思った。
6月18日 22:10 UPです。