感情殺し
「うぉい! こっちに来い!」
俺が奴の髪を掴むと奴はうぐぅと声を上げた。
そのまま床にたたきつけてやると奴は仰向けになり、俺と目が合った。
「こ、こんなことしたって無意味だよ……」
「それは俺が決めることだ! よ!」
俺は奴のその冷めた顔面を思いっ切り踏みつけてやった。
奴の頭はトマトどころか紙風船のようにぺちゃんこ。
血が飛び散り、顔にかかったが俺は気にせず
今の奴の有様を見てひぃと悲鳴を上げた奴のほうを向いた。
「や、や、やめましょ、ね、ね、ね?」
問答無用。俺はへらへらと胸糞悪い笑みを浮かべるその顔面に拳を叩きこんでやった。
奴はふぐぅと声を出し、膝から崩れ落ちた。ボタボタと鼻から血が流れ落ちている。
鼻の骨は煮込んだ魚の骨のように柔らかかった。
「こわい、こわいい!」
「ふん。怖いか。じゃあ、楽にしてやろう」
俺はそう言うと奴の頭を掴みバルブを捻るように回してやった。
ベキキキキと音がして奴の頭は回転。そして俺と向き合ったまま奴は倒れた。
「ふぅ……それでそこのお前は何しているんだ?」
「呪われろ、へへ、呪われろぉ」
俺はそう言った奴に向かって……と、奴、奴、奴、ばかりで紛らわしい。
しかし、こいつらに名前などはないし価値もない。
だが、あえてつけるとするならそうだな、こいつは『陰気』だ。
理由はそのまんま。陰気な奴だからだ。
で、あるならば最初の奴にはこう名付けよう。『悲観的』だ。
その次の奴は『臆病』あるいは『不安』
……と、この三者、似ているような気がするが細かいことはどうでもいい。
どうせ殺すんだ。それにそう、人間というやつは複雑なんだ。
俺はそれを少し簡略化するのだ。
俺は『陰気』の頭を両手でつかむと力を入れそのまま潰してやった。
「おい! そんなことして良いと思ってんのかよ!
ふざけんなよ! 死ね! 死ねよお前!」
そう言い、いきなり掴みかかって来たこいつは中々やるな。
『キレやすい』いや『短気』か? 『激情的』?
ま、そんなところだ。どうせ殺すんのだからしっかり考えても意味はない。
こいつもさっきの奴らもいらないのだから。
……と、はい、殺した。簡単なものだ。
いかに力が強かろうと抵抗しようとも関係ない。
ここでは俺の思い通り。主軸となるこの俺が王であり神なのだ。
「いや、いや、やめよ? ね?」
視線を外すとこれだ。雨漏りのように染み出てきやがる。
そう広くない真四角の部屋。薄暗く、四方と床は黒ずんだ打ちっぱなしのコンクリート。
天井は文字通り肉肉しい。
出入り口はない。ではどうやって俺と奴らはここに入ったのか。
答えは一つ。ここにいたのだ。ここは俺の中。俺の脳内である。
治験というのはつまるところ人体実験だと思う。
だが、ネットで求人を見た時、俺はこれしかないと思った。
『人格矯正』目を引く文字だ。
万年鬱病の俺は二割か三割の割合で来る躁状態を活用し
勢いで、書かれていた番号に電話しながら家を飛び出したのだ。
着いた先のビルの中で、どうでも良すぎてもう忘れたが
長く、もっともらしい説明といくつかの質問に答えた後、同意書にサインすると
さっそく頭に仰々しい装置を装着、腕に注射をされた。
恐らく、他に被験者はいなかったのだろう。あの医者らしき者共は目を剥き
針にかかった魚を絶対に逃したくないといった表情をしていた。
そして薬の効力だろうか、うつらうつらとしながら
俺はこんな魅力的な話は他にはない、どうしてみんなやらないのだろうか
と思ったのだが、他の人間にとっては違うのだろうか。
いらない感情を殺すというのは。
「ね? お願い、やめて? 一緒に甘いお菓子食べよ? ね?
あ、あ、あ、やめて! いや! やめ――」
今殺したこいつは恐らく、俺の中にある女性的な部分か。
もう少し細かく言えば『可愛いと思われたい俺』か。
いい歳した男のくせにナヨナヨとしたやつであった。いらんいらん。
「ふあ~あ……」
「……で、床で寝そべっているお前はなんだ?」
「んー、なんだろうねぇ」
「おい、立て」
「えー、めんどくさいなぁ」
「語るに落ちたな。お前は『怠惰』な俺だ!」
俺は寝そべっている『怠惰』の髪を掴むと床に叩きつけ、引き摺ってやった。
『怠惰』の顔は雪玉をコンクリートに擦ったように簡単、瞬く間に摩り下ろされ
後ろには水を含みすぎた雑巾を走らせたように血が太い線を引いていた。
「フッ、どいつもこいつも馬鹿ばかり……」
おっと、コイツは念入りに殺してやらないとな。
ガキ特有の全能感。言わば『中二病』な俺。
人を見下し、上に立った気になり悦に浸るクソ野郎だ。
女子を無視するのがカッコいいと思っているバカ野郎だ。
おかげで昔、まあまあえらい目に遭った。
「ひぐぅ! 雑魚! 凡人! 無能! あ、あああああ!」
手足の骨を折るたびに口を大きく開け、声を上げる『中二病』の野郎が愉快に思えた。
だが、最後は最初の奴と同じ。頭を踏みつぶしてやった。
お前は凡人だ馬鹿め。
奴は股間を上に突き上げるように三回程その場でのたうった。
「フゥン、殺す姿も、殺される姿も美しい……」
こいつは『ナルシスト』か。強すぎる自己愛だな。不要だ。
「い、いや! 来ないで! 見ないで!」
こいつも俺の中の女的な部分か? まだいたのか。死んでもらおう。
「う、み、見られてる。緊張するなぁ……」
自己申告は助かる『緊張』はいらない感情だ。
「平和に行きましょうよ、まあ、強制はできないですけど……」
こいつは『思いやり』か? それとも『優しさ』『平穏』と言ったところか?
まあ、とっておこう。よしよし、他には……。
まるで多重人格。俺の中にある様々な感情たち。
それを殺し続ける中、俺はスイッチ付きの電源タップが思い浮かんだ。
スイッチを消すとそこには電気が流れない。殺した感情は、もう二度と抱くことはない。
つまりは完璧な人間になるということだ。それがどんなに素晴らしい事か!
この治験を終えた後、俺は完璧な人間になれるのだ。
前向きで、優しく、我慢強くてそれから、とにかくそうだ。
負の感情を抱かない、つまり悩んだり、嫉妬したりなどしない分
脳みそを有効活用できるはずだ。仕事だってなんだってできるぞきっと……。
と、そろそろ終わりのようだ。景色が揺らいで、ふふっ、楽しみだ……。
「気分はいかがですか?」
「……ええ、とてもいいです」
「落ち着いているようですね。薬の効果で少し頭がボッーとしているとは思いますが」
「ええ、それもあるようですが、今はとても穏やかな気持ちです」
「それは良かった。あ、これは治験の謝礼金です。
それと経過を見たいので来週また――お、また参加者が来たって?
すみません、他の参加者が来たようなので、ははは、ええ、ではまた来週」
……ビルから出て空を見上げる。
ああ、良い天気だ。
ここに来るまでは何とも思わなかったのに……いや、これまでもそうだ。
天気が晴れだろうが雨だろうが関係なく、頭の中は常に曇っていた。
でもネガティブな感情たちを殺しきった今は、いや、これからは違う。
俺は生まれ変わったのだ。そうか、長らく忘れていたがこれが『幸福感』か……。
「はい、では同意書にサインを、ええ、いいですよ。
くれぐれも感情を殺し過ぎないように、うん? 外か。何の騒ぎだ?」
「せ、先生! さっきの参加者が、と、突然服を脱いで赤信号を渡り、それで、トラックに……」