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王太子ラグナ  前編


 入園式の新入生を示す赤い薔薇。

 それを胸元に揺らしながら、ラグナ・エルドナークは苛立たしげに足を踏み鳴らした。


「……ふん、愚図共め。王太子への供すら満足に出来んのか」


 腹立ちまぎれに舌打ちし、ラグナは後ろを振り向く。目に映るのは、青空にそびえ立つ簡素な白塗りの建物。

 貴族の子女達が通う、歴史だけはある学院の校舎だ。


 一国の王太子が通うにしてはあまりにも貧相。華美な装飾など、まるで見当たらない。

 それがまた忌々しくて、ラグナは再び舌打ちする。

 小うるさい宰相辺りに見られれば作法がなっていないと叱られるところだ。だが、ここには重臣達の目は届かない。それだけは良い事だと思い直し、ラグナは足早に歩を進めた。

 

 目指すは学院の中庭、なんとかいう木がそそり立つ場所だ。

 

(暇つぶしになれば良いのだがな)


 入学式の日に現れるとかいう『妖精』の噂。高貴な血を持つ者の前にのみ姿を見せるという、神秘的現象。

 それをラグナの耳に入れた生徒は誰だったか。

 まぁ、どうでもよいことだ。ラグナは思い出す労力さえ惜しいと切り捨て、目的地へと向かう。

 

 左右に配置された花壇。色とりどりの花々に導かれるようにして先へ先へと進んでいくと、不意に強く風が吹いた。

 新緑の花びらが宙に舞い、霞のように視界を遮り目を眩ませる。

 鬱陶しいそれを手で払い、眼を凝らすと、やがて花吹雪の向こうに影が見えて来た。

 

(あれが誰ぞが言ったモノか。さぞ見栄えが良い大木と思っていたが、何のこともない。少し花の色が珍しいだけで、何の変哲もない木ではないか)


 拍子抜けしつつも、ここまできた労力を思って傍へと近づく。

 期待外れだと毒づき、舌打ちし、そして。

 

 ――息を呑んで、立ち止まった。

 

「……妖精?」

 

 思わず、声が漏れてしまう。

 陽光が降り注ぎ、花々が煌めく輝きの中、木の枝の上に腰掛ける一人の少女の姿が見えた。

 

 風に吹かれふわふわと揺らめく、桃色の髪。パッチリとした大きな水色の瞳に、愛らしい顔立ち。

 周りには人の影も声も無く、葉が擦れる音だけが木霊する。その光景があまりにも幻想的過ぎて。

 ラグナはこれが現の光景なのか、己の目を疑ってしまった。


「どうしたんですかぁ、そんな所でボーっとしてぇ」


 頭上から振りかけられた甘ったるい声が、脳髄に響く。

 

「そ、それはこちらの台詞だ。お前こそ、そのような所で何をしている」

「ここからの眺めはですねぇ、最高なんですよぉ。校舎もお花畑も、向こうにある池までようく見えますぅ」


 遠くを指差し頬にもう片方の手を当てて、少女はコロコロと笑う。

 その目と目が合った瞬間、ラグナは奇妙な違和感を覚えた。

 何とも言えないざわざわとした感覚が胸の内からせり上がり、軽いめまいさえしてしまう。


「ほら、良ければ一緒に眺めませんか? この木の上、温かくて気持ちよいですよぅ」

「無礼な娘め、俺がそんな事を出来るものか馬鹿馬鹿しい!」

「あぁ、そっかそっか、登れないんですねぇ。ごめんなさい、無理を言ってぇ」

「何だと……?」


 小馬鹿にされたように感じ、ラグナは木の皮に手を掛けた。

 そのまま爪を立て、登ろうと試みるも――――

 

「痛ッ!?」


 力加減を間違えたか、はたまたそれ以前の問題か。

 ラグナはろくに這う事さえ出来ぬまま、地べたに尻を打ち付けてしまう。

 

「ふふふ、大丈夫ですかぁ?」


 痛みに顔を顰めるラグナの前へ軽やかに、妖精は木の枝から滑り下りてきた。


「こ、このような事、なんでもない! それより、お前だ! お前はなんだ、何者だ!?」

「私はぁ、レジーナ。レジーナ・メレナリスと申しますぅ」

「メレナリス……? 何だ、やはりここの生徒、貴族の娘か。 おい、父親の爵位はなんだ、答えろ」

「男爵ですよぉ、メレナリス男爵。ご存じありませぇん?」

「知らん、男爵程度の下級貴族など家名を覚える必要もない」


 出来るだけぞんざいに聞こえるよう答えてやるも、少女―――レジーナは「あら残念」と笑うばかり。

 その笑い方が、どうにもラグナの癪に触って仕方がなかった。

 

「そういう貴方は、どちらさまですぅ?」

「なに?」

「お名前ですよ、お・な・ま・え。私が名乗ったんですから、そちらも教えてくれてもいいんじゃないですぅ?」

「俺の顔を知らんのか、末席とはいえ貴族の娘であろうに」


 そう吐き捨てても、レジーナの表情は変わらない。

 人形のように凝り固まった笑顔で、こちらを見るばかりだ。


「……ちっ、ラグナだ。俺はラグナ・エルドナーク。この国の王太子であるぞ」


 ラグナは今日何度目かの舌打ちをしつつ、そう答えてやる。

 さてこの名を聞き、媚びを売るようにひれ伏すか、それとも小馬鹿にするか。

 この娘はどちらの反応を示すか。幾ばくかの興味と共に視線で促す、と。


「おぉ、王子様なのですね! でも、王子さまがどうしてお供も付けず、こんな所に一人で居るんですかぁ?」


 どちらでもなかった。

 それどころか、ラグナの急所を抉るように言葉の刃を突き刺して来る。

 

「……愚図共に用は無いのでな。適当に追い払ってやった」

「ああ、仲間外れになったうえに見捨てられたんです?」

「な……っ!?」


 ラグナが王太子と知ったうえでの不遜な発言。

 二の句も継げず、ただパクパクと口を開け閉めしていると、レジーナは頬をにんまりと歪めて舌を出した。

 

「あれぇ、図星ですぅ? ごめんなさい、私ってばぁ、言葉を言いつくろうのが苦手でしてぇ。正直者なんですよぉ」

「おおおお、お前……!」

「お前、じゃありません。レジーナですよぉ、王子様っ!」


 めっ、と。ラグナの鼻先を指で弾き、レジーナはまた笑う。


「もぉ、貴方ってば、お友達も居なくてぇ、レディへの礼儀もなってなくてぇ。こりゃ、どうしようもない王子様ですねぇ」


 もはや言葉も無いラグナの前で、そうだ、とレジーナは手を叩く。


「仕方がないので、私がお友達になってあげますよぉ。明日もここに居ますのでぇ、お昼でも一緒に食べましょう!」


決まりとばかりに立ち上がり、スカートの裾を翻しながら、少女はラグナを置いて軽やかに走り出す。


「ま、待て待てお前! まだ俺は良い等と言っておらんぞ! おい、聞いてるのか娘!」

「レジーナですぅぅぅ!」


 その、返事という名の叫びだけを残して、見る間にその背中が影となり消えて行く。

 ラグナは思わず懐の()に手をやりそうになるが、少しの逡巡の後、指を離した。

 周囲を見回すも、後に残るのは微かに薫る甘い匂いのみ。

 あまりにも突然の出会いと別れに、白昼夢でも見たのではないかと、ラグナは己の正気を疑うのだった。



◆ ◆ ◆



 翌日の昼。悩んだ挙句に、ラグナは例の木へと足を運んでいた。

 自分が見た少女が本当にこの世の物かどうか、確かめて起きたかったのもある。

 しかしそれよりも何よりも、気になることがあった。

 

「あ、こんにちは王子様! あなたのお友達、レジーナですよぉ!」

「誰がお前の友か……って、ええい喚くな、叫ぶな! 


 ラグナが答える最中にも、娘は矢継ぎ早に言葉を放ってくる。

 耳を抑え辟易しながら、木の根元に近付くと、レジーナは今日も今日とて枝の上。

 何が楽しいのか、足をぶらぶらとさせながら鼻歌まで響かせていた。

 

「さぁ、お昼を食べましょう! 私、サンドイッチを作ってきたんですよぉ。どうぞどうぞ」

「このような物を食べれるか――って、おい、 聞け!」


 拒否する間も無く、肉と野菜を白く平べったいパンで包んだ軽食が手渡される。

 

「どうせ、食堂で食べるつもりだったんでしょぉ? あんなところに一人ぼっちで食べるより、私と二人の方が楽しいですよ、きっと!」


 言うが早いかあんぐりとかぶりつき、レジーナは見る間にサンドイッチを平らげてしまう。


「うん、我ながら美味しい! 冷めても肉汁がジュワッとして。これがハスハの葉の、微かな渋みと合わさるともう、最高の味わいですぅ!」

「こんなものが最高……? お前、普段はどんなものを食しているのだ。学生寮かタウンハウスかは知らんが、余程に貧しい物しか口にしていないと見えるな」

「文句言いながらもしっかりと食べてる所がもう、どうしようもなさを加速させますねえ。美味しいです?」

「ムグ……っ!?」

「はい、お水」


 喉に詰まりかけたパンを慌てて水で流し、ラグナはレジーナを睨み付けた。

 

「ええい、お前と話していると調子が狂うわ! 何なのだ、お前は!」

「何なんのだと言われましてもぉ、新入生の男爵令嬢レジーナとしか申せませんよぉ」


 首をすくめて、レジーナがはにかむ。春の日差しのような柔らかな笑み。

 しかしそこにある違和感を、ようやくラグナは悟った。

 

(やはりか、どうにも気になっていたのだ。くるくると表情を変えるように見せて、その実――――)


 ――――目が、笑っていない。


 おべっかを言いながら近づき、媚びを売る連中でかつては見慣れた瞳。

 それすら無くなって久しいがゆえに、懐かしくもあった。

 

(……ふん。何のつもりかは知らんが、まぁ余興には丁度良いか)


 レジーナのあの目で見られるたびに、疼いたように胸やけがする。

 それは、不快さとは少し違う。本能がそうさせる物だとわかる。

 反射的に懐に忍ばせた懐中時計を覗き、時刻を確認する。

 一時間はまだ経っていない。十分に『戻れる』。

 

(わざわざ疲れるような真似をするのも億劫だ。どんな企みがあるかは知らんが、退屈しのぎにはなるだろうよ)

 

 三つ目のサンドイッチに手を伸ばすレジーナを眺めながら、ラグナは口元を吊り上げた。

 

 

 それから、毎日のように中庭へとラグナは足を運び続けた。

 いつも、いつでもレジーナはそこに居て、枝の上から空や校舎を眺めている。

 不思議な事に、他の生徒の姿はまるでなく、ほぼほぼ貸し切りのような状態であった。

 

 破天荒な娘とラグナも思っていたが、男を誉めそやす心得は持ち合わせているようで、王城で学んだ知識や買い集めた調度品の事を話せば、レジーナは凄い凄いと持ち上げてくれた。

 そうなると現金なもので、ラグナも逢瀬を重ねる度に口が軽くなってゆく。

 必然と、鬱屈した感情を愚痴という形で吐き出し始め、いつしかレジーナはその聞き役に徹するのが常と変化していった。

 

「ふぅん、そんなにセラスフィア様は喧しい方なんですねぇ」

「あぁ、そうだ。いつも会うたびに口うるさくてな、もっと努力をしろ、対人関係を改めろとばかり指摘してくる。鬱陶しいこと、この上ない!」


 苛立ち紛れに舌打ちする。自分はこの国の王太子だ。何をしても許される、どんな贅沢をしても構わないのだ。

 そう言えば、流石王子様、とレジーナは手を叩き、笑う。いつもの、冷めた瞳でこちらを見つめながら。


 それに気が付かないふりをしながら、ラグナは今日も不満と自らの境遇の嘆きを少女にぶつけるのであった。


 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「随分と、あの娘と仲がよろしいのですね、殿下」


 (――――いつか来るとは思っていたが、意外と遅かったな)

 

 目の前で冷ややかな笑みを浮かべる婚約者を眺めつつ、ラグナは苦笑した。


「お前には関係なかろう。こんな場所に王太子を呼びつけて、開口一番がその言葉か。不敬ではないか、セラスフィア?」


 生徒会の会長のみが使用を許される特別応接室。

 壁もソファーもテーブルすら真っ白な不気味な部屋で『彼女』と相対しながら、ラグナは肩をすくめた。

 

 セラスフィア・レーベンガルド侯爵令嬢。

 齢6歳にして王太子ラグナの婚約者となった少女にして、稀代の女傑である。

 頭の回転の速さもさることながら、礼儀作法も完璧。法学にも通じ、十代前半の頃より高名な学者と論を交わす事が出来たというからお手上げだ。自分が及ぶ相手では無い。ラグナは心からそう思っている。

 

 そして何よりも、彼女は神から授かりし力・『祝福』の持ち主なのである。

 限られた者しか知らぬ秘匿。それをラグナは、他でも無いセラスフィア自身から聞かされていた。


「それとも、何かが視えたのか? 俺があの娘と関わると良からぬ事が訪れる、とでも?」

「さて、どうでしょう。『同類』である殿下の未来は視え難いですもの。ただ怒りと嘆きが渦巻く暗闇が仄かに瞬いただけ……」


 不気味に笑うセラスフィアから目を逸らし、ラグナは腕を組んだ。


(この女の『祝福』である予知は、ほぼほぼ的中する。その画が不明瞭な像を結ぶほどに強く、運命に引かれるように――)


 はっきりと視えた『画』ならば、回避も可能。しかし、こんな漠然としたものではそれも出来ない。

 一つの方法としては、ラグナがレジーナから離れれば済むのだが、それはそれで目の前の少女の思惑に乗る様で面白くなかった。


(まあ、いざという時は()()()いい。いつもそうしていた。今回もそうするさ)


 それでも逃れられないならば、それこそ、その瞬間が自分の運命、末路なのだろう。

 取り出した懐中時計を手の内で弄びつつ、ラグナは欠伸をする。

 

「もういいか? 俺も暇では無い、人を待たせているのでな。どうせお前の事だ、あの娘にも忠告をしたのであろう?」

「ええ、勿論。身分差と弁えるべき礼儀をお話いたしましたとも」


 だというのに、この場にラグナが呼び出されたのが、レジーナの答えだ。

 くつくつと、昏い炎が胸の内で舞い踊る。何だか愉快な気持ちになり、ラグナは美しい婚約者の姿を眺めた。

 煌めくような銀の髪、人形のように整った顔立ちは見る者によっては神々しささえ感じるだろう。

 ラグナにとっては忌々しくて仕方がないが。


「俺などと話すより、アルフレッドに構ってやれ。その方が奴もお前も有意義な時を過ごせるというものだ」


 返事は返って来ない。凍てついたような微笑みに背を向けて、ラグナはその場を去った。

 

 

◆ ◆ ◆



(俺だって、好きにはなれなくとも、受け入れてやろうとは思っていたさ。あの日、あの時までは)


 中庭に向かう花道を足早に駆けつつ、ラグナは舌打ちした。

 頭の巡りも悪く、我儘し放題の愚鈍な王子。弟に才の全てを奪われた哀れな王太子。

 自分に近しい者達からそう蔑まれ、陰で笑われているのは知っていた。

 

 最初は暴れ、不敬罪だと父王に直訴し、何人もの臣下に鞭をくれてやった。

 王族を侮る者は許されない。当然の行為であり、その事は宰相ですら認めてくれていたのに。

 次第に皆の心が自分から離れて行く。それが許せなくて癇癪を起こし、更に周りから人が消えていった。

 

 それでも、どんなに罵倒し冷たい態度を取っても、自分の婚約者である彼女だけは。無条件でラグナの味方であると、決して見捨てたりはしないと思い込んでいた。いや、思い込もうとしていたのだ。

 

「あれぇ、王子様? 今日はずいぶんと遅かったですねぇ」


 秘密の逢瀬。自分と、枝の上で足をぶらつかせる妖精と同じように。

 セラスフィアもまた、ラグナの弟であるアルフレッド第二王子と想いを通わせていたのだと、間抜けにも気が付くことが出来なかった。

 

「――あの女が、俺を裏切った。だから、こちらも好き放題する。道理であろう?」


 木の根元に辿り着き、息を切らせながら怨嗟を吐く。

 

「ある日のお茶会で、俺は見たんだよ。こそこそと隠れるようにして抱き合うあの二人の姿をな」


 礼儀作法も何もかもが完璧な婚約者。その姿に苛立ち、怒鳴り散らして追い払ったあとの事だ。

 宰相に叱られ、仕方なしに探しに出向いたその先で、ラグナはそれを見付けてしまった。

 

 忘れもしない。あの時のセラスフィアの瞳は、氷が溶け新緑の芽が吹くように、若い情熱に潤みきっていた。


(――――あんな女は、知らない。あれは、俺の知る侯爵令嬢では無い)

 

 炎を思わせる赤い髪をなびかせ、少女を抱き留める弟もまた、未知の表情をしていた。

 いつも冷静で、淡い笑みを絶やさなかった優しく賢い王子様。

 その眼が欲望の炎を燃やし、こちらをねめつけるのを、ラグナはこの目で見たのだ。

 

「セラスフィアを問い詰め、瑕疵を突こうとしても無駄だった。父上も俺の言葉に耳を貸さない。宰相も、誰もがそうだ。俺の話なんて聞いてもくれない」



 ――あれは気の迷いです。私の身は王国に捧げました。王太子である貴方に永遠に仕え、裏切る事はありません。

 

 

 美しい婚約者からそう、笑みを浮かべて諭された時の、惨めな気持ちは今でも覚えている。

 

「知っている、あれは嘘を吐かん。言葉通り、アルフレッドと結ばれる事も無く、不義にも手を染めず、ただ俺の花嫁として王妃として、この王国の国母として尽くすだろう」


『この身は王国に捧げ、永遠に仕える』


 けれど、心は寄せてもらえない。

 あのゾッとするような氷の微笑みを湛えたまま、永遠に想いを凍てつかせたまま、ラグナの隣に居続けるのだろう。

 

「耐えられるか、そんなこと! 俺は、俺には何も手に入らん、人の心ひとつ思い通りにならんのだ! 例えこの先、国の王へなろうと、な!」


 そもそも、王になれるのか。弟王子の空恐ろしい表情に怖れが走る。

 長じるに連れて増え始めた暗殺騒動。毒が料理に入れられたのも一度や二度ではない。

 

 そのおぞましい想像を振り払うようにして、ラグナは気が触れたように哄笑する。


「ハハハハハ、俺がこの『力』を持っていなければ、とっくに亡き者にされていたろうさ! 馬鹿どもめ、愚か者どもめ、俺を殺せるならやってみろ! どいつもこいつも薄情者ばかりだ。セラスフィアの痴れ者め、俺を裏切ったことをいずれ後悔させて――――」


 ぱちん、と。頬に痛みが走った。


「な、に……?」

「あー、もう限界だわ。来る日も来る日もなっさけない愚痴ばかり! それでもアンタ、この国の王太子なの!?」


怒りに眼を吊り上げ、こちらを睨み付けてくる少女(レジーナ)

その迫力に押され、不敬を告げる事さえ出来ず、ラグナは尻もちを付いてしまう。


「アンタ、本当にバッカじゃないの!? 婚約者に冷たくしたうえ罵倒して、労わりもせずに放っておいたら、弟に心を奪われちゃったんですぅ~ってか!? あったりまえだろ馬鹿! この馬鹿王子!」


 脳天に拳が振り下ろされる。少女の細腕だ。痛みはそれほどでもないが、その衝撃は言葉にならなかった。

 

「お、まえ……おまえ、は……」

「あん? 驚いた? それとも幻滅した? 残念でした、こっちがあたしの本性よ」


 あー、すっきりした。そう言って伸びをする少女を、ラグナは唖然として眺める他は無かった。


「アンタを誘惑して、あわよくば王妃の座に――なんて考えてたけど、正直言って無理。生理的に駄目。考えただけでもう吐き気がするわ」

「そ、そこまで言うか……?」

「え、そら言うわよ。逆に、なんで言わないと思うの? というか、こんな事さえ言ってくれる人は居なかったわけ? だとしたら、王太子様も可哀想ね。まぁ、自業自得なんだろうけど」


言葉通りに彼女の顔は晴れ晴れとしていて、空を思わせる水色の瞳も生気を取り戻したように輝いていた。


「あーあ、あの侯爵令嬢サマの嫌味にも耐えて聞き流した、あたしの努力はなんだったの? 責任取って欲しいわね、責任」

「だ、誰が?」

「もちろん、アンタよアンタ、当然でしょ? 王太子様が噂以上の馬鹿王子だったせいで、こっちの我慢も利かなくなっちゃったんだからさ」


 何という言い草。何という自分勝手な理論。

 愛らしい顔立ちはそのままに、目つきは飢えた狼のようにギラついている。

 ラグナの本能が、この娘に逆らってはならないと、そう告げていた。


「な、何をしろと言うのだ。何を望むというのだ? 俺の、この国の王妃の座か?」

「馬鹿! それはさっき要らねえって言ったでしょ! 話聞きなさいよこの馬鹿!」

「馬鹿馬鹿言うな! 切なくなるだろうが!」

「勝手になってなさいよ。でもまぁそうね、あたしの望みは……」


 しばし空へ目線を彷徨わせたあと、レジーナはぱちんと指を弾く。

 

「……幸せになること」

「なんだその、漠然とした答えは……?」


 思わず胡乱な視線を向けてしまう。頭がどうかしてしまったのではないか、得体のしれない不安さえ過ぎる。

 しかし、そんなラグナの心中を欠片も慮らず、少女は得意げに言い放った。

 

「アンタは、あたしを幸せにするために頑張りなさい。良縁を見付けて世話して、贅沢な暮らしをさせること!」

「なんだそれは。おぞましい欲望に塗れてるではないか、汚らしい女め!」

「うるさいわね、こんなの一般的な貴族令嬢なら誰もが望む夢よ!」

「セラスフィアはそんな事を考えんぞ!」

「アレは一般的じゃないでしょうが!」


 舌戦を交わそうとするも、ラグナではとても敵いはしない。

 喋るたびにポンポンと鋭い言葉が返ってきて、終いにはしどろもどろになってしまった。


「決まりね、決まり。ほら、しょぼくれた顔をしてないで立ちなさいよ!」

「ひいっ!?」


 背を思い切り叩かれ、ラグナは文字通り飛び上がった。

 

「アンタをちったぁマシな人間になるよう、教育してあげるから。今のままじゃ良縁の世話どころか、恨みをかって死んじゃいそうだし。あたしも巻き込まれそうだし。そんなの御免だし」


 一息にそう捲し立てると、レジーナは満面の笑みを浮かべて胸を張る。


「さぁ、明日から色々としてもらうから! 放課後も時間頂戴よ。どうせ暇でしょ? はい決まり! じゃあねー!」


 初めて出会った時と同じようにスカートを翻し、少女は校舎の方へと駆け出していく。

 待て、という言葉さえ出て来なかった。完全にラグナはその勢いに圧倒されてしまっていた。

 

「いや、待て。何故私が、あの娘の伴侶を探さねばならん? 王妃の座を狙って近づいたとかそれ、不敬とかそのような言葉を越えておるのではないか……?」


 王太子相手にそんな事を言ってのける胆力に、心の底から慄く。

 明日からどうしたらいいのか、どう対処すれば正解なのか。

 それを相談する相手すらなく、ラグナは一人途方に暮れるのであった。

 


 ◆ ◆ ◆



「……時間を遡れる? なにそれ凄いじゃない! 失敗も無かった事に出来るし、はっきり言って無敵じゃないの!」


 レジーナが興奮した心持ちで捲し立ててくるが、対するラグナはげんなりとした気分であった。

 翌日の昼。ラグナが重い足取りでいつもの場所に向かうと、そこに待ち構えていたレジーナに質問攻めにされた。

 昨日のアレはどうやら夢では無かったらしい。ラグナが自棄になって発した言葉さえも彼女は覚えていたようで、『祝福』を持っているのかと恐ろしい勢いで問い詰めてくるのにはもう、お手上げだった。

 

「そんなに良いものでは無い。気軽に使えるのなら、昨日のあの時にもう遡っておるわ」

 

 そう、ラグナの『祝福』は疲れるのである。もの凄い疲労感に包まれるのである。ハッキリ言ってしんどいのだ。

 

「戻れるのは精々が十分から最大一時間程度。調子の良し悪しで効果が変動する。口に含む毒物を防ぐには丁度良いが、試験などにはほぼほぼ使えぬな。おまけに戻った後は、疲労困憊でろくに動けぬ。まったく神も、役に立たぬ力をくれたものだ」


 おまけに、時間を遡るには触媒が要る。重くて扱い辛い懐中時計を常に持ち歩かねばならない。

 

 一応、もっと長時間遡れないかと試した事もある。しかし、ある一定の時間を越えようとすると、体内の活力めいたもの、生命そのものの根源のようなものが、ごっそり消え失せるが如き感覚に襲われてしまった。


 あのまま、『戻ろう』としたら、果たしてラグナはどうなっていた事か。

 死の恐怖に心からおびえたのは、あれが最初で最後であった。


「へえ、『祝福』も万能じゃないのね。まあ、あたしのもそうだし、意外とその辺偏らないようにしてるのかもね」

「ああ、そうだ――ん? おい待て、今お前はなんと言った?」

「あたしも『祝福』持ってんのよ。いわゆる『魅了』ってやつ。目と目を合わせて会話した相手の『好き』って感情を増幅させることが出来るわけ」


 サンドイッチを摘まみながら、事もなげにのたまう少女。

 その言葉の意味が判らないほど、ラグナも愚かではない。

 

「お、お前! 俺にそれを掛けたのだな! どうもお前と会話をしていると、体がおかしくなると思ったら!」

「あ、ドキドキした?」

「胸やけが止まらんかったわ!」


 ラグナの怒りもどこ吹く風。レジーナは残念、と呟きながら指先をぺろりと舐める。

 

「というか、お前! 分かっているのか!? この事が暴露されたら、極刑では済まんぞ! 一族郎党が処刑され、晒し者に――」

「分かってるわよ、好きにしたら? 王さまにばらすなら、そうすればいいじゃないの」


 緊張感の欠片も無く、ひょいひょいとサンドイッチを口に運ぶレジーナ。

 恐れの見当たらないその姿は、ラグナの理解を超えていた。

 

「し、幸せになりたいのではなかったのか? 死んだら幸せにはなれぬぞ?」

「アンタ、意外とお人好しよね。あの頭お花畑の男爵が連座して処刑されるならそれはそれで、あたしは幸せよ」

「おま、お前の父親だろう? 何故そのようなことを……」

「アレに育てられたわけじゃないし。お母さんを見捨てて苦労させて死なせたのに、今更父親面するような奴をどう思えってのよ」


 水色の瞳に、仄かな暗い影が過ぎる。

 吐き捨てるような態度に圧され、何も言えないでいると、背中を思い切り叩かれた。

 

「変な顔するなっつうの! ほら、シャキッとする! アンタがあたしを糾弾しないなら、言う事に従ってもらうわよ」

「何でだ!? お前の言う事は一から十まで滅茶苦茶が過ぎる!」

「良いのよ、どうでも。ほら、退屈しのぎをしてあげるって言ってんの。付き合うのに飽きたらさっさと殺せばいいわ」

「命は大事にするものだぞ……?」

 

 会話の方向性が掴めない。昨日は良縁を掴むために教育を、と言った癖にこの投げやりぶりだ。

 まだ本性を隠しているのではないか? そうラグナは疑うも、パンを頬張るその横顔からは、それ以上何も読み取る事は出来なかった。


 

 ◆ ◆ ◆



「まず、口調ね。『俺』って荒っぽい言い方はあたし好きじゃないの」

「お前の好みで物を語られても困るのだが……?」

「うっさいわね。僕、とか。私、とか。あ、うん。『私』って言い方は良いわ! それと、もっと物腰も丁寧にしなさいよ。乙女の手を取りキスとかしてさ、まさに王子様!って感じの穏やかな語り掛け方を……ほらっ!」

「そんな、なよなよした口調は好かんわ! 物語の登場人物を現実に当てはめるんじゃあない!」


 放課後。再び中庭にやってきたラグナは、レジーナからの無茶極まる要求に、来るのではなかったと早くも後悔し始めていた。


「なよなよしてるじゃない、実際に。逞しさの欠片も見当たらないし。学年末の剣術大会とかどうすんのよ、もうすぐでしょ。この指なんてほら、剣を握った痕すらありゃしない」

「上に立つ者が、剣を振るう必要などあるまい。ゆえに、そんな大会など出る意義が無いな」

「ケツまくって逃げるわけね」

「勇気ある辞退と言え!」


 はぁ、とため息を吐きながらレジーナは木の幹に手を掛け、ぽんぽんと叩く。


「これ、登んなさいよ。少しでも体力を付けるといいわ」

「何故!? そんな事が出来るか!」

「それよ、それ。アンタ、努力ってものをした事ないでしょ? どうせ出来るわけないって最初っから決めつけて。だからそんな情けない駄目王子に成長しちゃったのよ」


 木登りに努力も何もあるものか。そうラグナは息巻くが、レジーナの迫力にはどうしても勝てなかった。

 

「何故だ……どうして、王太子が木に登らねばならんのだ……? 猿でもあるまいし……」

「ぶつくさ言わない! ほら、もっと体重を上手く移動させて。腕だけじゃなくて、お腹にも力を込めるのよ!」

「ぐぉぉぉ……!?」


 ぴしりと木の枝ではたかれながら、何度も試すが、上手く行かない。

 そればかりか手の皮がずる剥けそうになり、ラグナは涙が出て来そうになった。

 

「まぁ、今日はここまでね。明日はもう少し頑張んなさいよ」

「明日もやるのか!?」


 何やら満足げにうんうんと頷くレジーナ。

 おかしい、弱みを握っているのはこちらの筈なのに。何故奴の方が優位な立場にいるように振る舞うのだ? そうラグナは唸るが、どうにも言う事に逆らえない。

 

(『魅了』か? 『祝福』を使っているのか? しかし、胸の疼きも吐き気も感じられぬ……どうなっておるのだ!)


 頭を抱えながら、ラグナはその場にへたり込むのであった。

 

 

◆ ◆ ◆



「お、ちょっとはマシになったわね。でもまだまだ、そこらの子供にも及ばないけど」

「ぐ、ぐぅ……せめて少しでも褒めろ。俺は、褒められてこそ輝く王太子なのだ……」

「その結果が今のアンタじゃないの。甘ったれるなバカ」

「ふん、何を言うか。俺は褒められた事など無い! だからこそ輝けなかったという逆説的真実だ!」

「情けない事を堂々と言うんじゃないわよ」


 木登り王太子を始めて数日。レジーナの言う通り、少しは這い上がれるようになったものの、及第点には程遠い。

 何故木に登るのか。どうしてこんな事に付き合わねばならんのか。疑問は尽きない。

 ただ、来る日も来る日もこうして、一つの事に集中し、それを誰かに見て貰えた事など、今まであったろうか。

 王宮での座学は途中で投げ出し、教師もラグナを見捨て、剣術の稽古もアレコレ言い訳を述べれば、もう次の日からそれを行うよう咎められる事は無かった。

 唯一口うるさく話し掛けてきたセラスフィアも、半ば諦めの念が見て取れるほどであった。

 

(俺に何があっても、後釜にはアルフレッドが居る。そう思っていたのだろうよ。恐らく、父上でさえもな)


 他国の事は知らないが、王太子への教育としてはお粗末も良い所。それを許された理由について考えようとすると、胸が苦しくなった。なのに、だというのに。目の前の、この娘は。

 

「ほら、サボるなサボるな。出来るまでやるわよ。何日、何か月かかってもね!」

「お前は、俺にコレが出来ると思っているのか?」

「何を言ってんの、ちょっとは進んだじゃない。それを繰り返していけば、誰にでも出来るわよ」


 もちろん、アンタにも。そう言って笑うその瞳には、かつての冷えた眼差しは見当たらなかった。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「おぉ、良いもの見っけ。ここにも生えてんのねえ、これ」

 

 木登り練習の後、何の気なしに中庭を散歩していると、レジーナは足元に生えた草を摘み取り、何やら器用に包み始めた。


「何だそれは。草を丸めてどうしようというのだ。まさか、俺に喰わせるつもりか……?」

「喰わせるか、馬鹿。これはねぇ、こうすんの」


 茎を抜き、丸めた草の葉。それを唇に押し当てると、レジーナは目を閉じ吹き始めた。

 

「な……」


 聞いた事も無い音だった。王宮での雅な演奏に比べれば、雲泥の差。拙い旋律。

 しかし、その曲は胸に染み入るように優しく響き、ラグナの心を奮わせた。

 

 いつしか、日が暮れだしていた。

 校舎の向こう側に見える夕焼けが、得も知れぬ懐かしさを思い起こさせ、胸を掻き毟るような切ない想いが込み上げてくる。

 

 桃色の髪が風になびく。夕日の朱に包まれた少女の姿は、この世の物とは思えない美しさに輝いていた。

 心を奪われるとはこの事か。息も付けずその光景を眺めていると、演奏を終えたか、レジーナが微笑んだ。

 

「ん、久しぶりに吹いたけど、覚えてるものね」

「い、今のは何という曲なのだ? 何処でこんなものを習って……」

「知らないわよ、曲名なんて。これね、お母さんが良く吹いてくれたの。その内に私も覚えたってわけ」

「母君が……」


 軽く頷き、レジーナが再び草の葉を吹く。

 華美さはまるで無い。素朴な曲だ。けれど、それだけにいつまでも聞いていたいような、そんな思いを抱かせる。

 

「お母さんね、元は良い所のお嬢さまだったんだって。貴族じゃないけど、商家の出身だったとか。なのに、男爵様と想い合って恋人になって、全てを捨てて駆け落ちしようとした所で捕まえられて」


 それで、全部おしまい。そう言って、レジーナは笑った。

 

「絶縁されて、地方の色街に捨てられて。その時にはもう、私を孕んでたらしいわ。それでも何とか、境遇に同情した人達に助けられて、体を売る事で私を産み育ててくれたの」


 何と言えば良いのか、分からなかった。ラグナが言葉を探すうちにも、レジーナは口を開く。

 

「その内ね、客の一人。男爵に似た男ってのに入れ込むようになって。そいつが売りつけた薬を服用する内に、綺麗だったお母さんの髪も肌もくすんでやせ細って、お金もまるで無くなっちゃった」

「あ、お……」

「昔からの馴染みさん達が、食料を差し入れてくれてもそれすら売っちゃってさ。あの時はもう、どうしようかと思ったけど。幸いあたしは『祝福』があったからね。ちょっと皆に泣き付くことで、生活が出来た」


 草笛が指から離れ、風に乗って宙に舞う。

 

「最期はもう、あの男と男爵を混同してたのか、『もうすぐお父さんが迎えに来てくれるからね』って、それだけを言い続けていたっけ。そう、息を引き取る最期まで。最期、まで……」


 顔を俯かせるその様は、とても演技とは思えなかった。

 ラグナはどうして良いのか分からず、ただただ困惑する他無い。


「そ、それで? その男はどうなったのだ!? 禁制の麻薬を扱った可能性もある。とんでもない悪党ではないか! すぐに捕らえ――」

「死んだわ。別の顧客だったらしい『恋人』とやらに刺されて、さっくりと神さまの所に逝った」

「応報、というものか……」

「そうよ、罪には罰が。神さまは見てるのね。でも、もう少し。もう少しだけ早く……」


 その後の言葉は続かなかった。

 無言の間はどうにも居心地が悪い、レジーナとの付き合いもそろそろ一年になるが、こんな気持ちは初めてだった。

 

「……それで、その直後に男爵に引き取られたのか。何という間の悪い男だ」

「そ、皆そうなのよね。手遅れになってから終わって、始まるの」


 どこか冷めたような瞳で、夕日を眺めるレジーナ。

 何故か、その姿が赤い光に溶けて消えてしまいそうな気がして。

 ラグナは、反射的に声を張り上げていた。

 

「おい、教えろ。その草の音色、気に入った! 俺にも吹かせろ」

「アンタが……?」

「そうだ、完璧に吹けるようになるまで、傍で見ていろ、いいな!」


 ぽかんとした顔。その表情を引き出せた事に満足し、ラグナは得意げに葉を毟る。

 

「ム、コレはどうするのだ!? 確か、茎をこう抜い……おい、葉が破れたぞ! 不良品だ!」

「ぷっ……」


 あはははは、と。レジーナは腹を抱えて笑い出した。

 涙すら浮かべて転がるその姿に、ラグナは憮然としつつ、何処か安心する物を感じていた。

 

  

 ◆ ◆ ◆

 

 

「どうだ、登れたぞ! 見たか!」

「枝に何とかぶら下がれただけじゃないの。まだまだね」

「ぐ……! 相変わらず口の悪い娘よ……」


 枝から指を離すと、汗だくの顔をハンカチで拭う。

 

 月日は過ぎ、入学してから二度目の春がやってきた。それでも、二人の関係は変わらなかった。

 いつも放課後になったら待ち合わせ、こうして木登りだ何だと、ラグナは常にレジーナに振り回される日々を送っていた。

 

「ほい、休んでないで次はこっちよ、こっち」


 差し出された葉を手に取り、ラグナは勢い込んで口に当てる。

 今日こそは、今回ならば。そんな祈りにも似た思いで曲を奏でようとする、が。

 

「ぐぅ……どうして上手くいかんのだ! どれだけ長く練習していると思っている!」

「アンタが何やらせても不器用で下手くそなのは、今に始まった事じゃあないでしょう。一々嘆いても仕方ないっての」


 どんなにヘマをしても、どれほどに情けない所を見せても。レジーナはラグナを見捨てなかった。

 そんな些細な事に、心地の良さを感じている自分が居る。この頃になると、ラグナはそれを自覚し始めていた。

 少女に悪態を吐かれて小突かれる毎日が、悪くは無いと。いつしか、そう思うようになっていたのだ。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

「何してんの、そんなにキョロキョロして。目立っちゃ駄目なんでしょう」

「う、うむ……こうやって街を歩くのなんて初めてでな……」


 ある日の放課後、ラグナは申し訳程度に変装をして、レジーナと共に城下の町を練り歩いていた。

 見る物全てが珍しく、どうしても目移りしてしまう。

 屋台から立ち昇る肉料理の煙や匂いが香ばしく、自然と体もそっちに寄ってしまいそうになった。

 

「気を付けなさいよ、財布でもスリ取られたら面倒だってのに」

「財布……?」

「ああ、そうか。一応アンタは『そう』だっけ。そりゃ、下々の民みたいに、お金を持ち歩かないか」


 ため息交じりに首をすくめられ、ラグナは反応に困った。

 皆に疎まれているとはいえ、自分は王太子である。必要な物は口に出すまでもなく揃えられたし、欲しいと言えば何でも手に入った。

「ふむ、買い物という奴か。興味深くはあるな」


 金貨を数枚くらい、持ち出しておけば良かったかと後悔する。

 レジーナに買わせるのは気が引けたし、何よりも自分で物を購入してみたかったのだ。

 

「ん? どうした、そんなにボーっとして……ム?」


 気が付けばレジーナが立ち止り、橋向かいの店をぼうっと眺めていた。

 

 石造りの大きな橋を挟んだ向こう側は、ある程度の裕福な層向けの店が多い。

 その中の一つ、装飾を扱う店に彼女は目を奪われたようであった。

 

「何だ、あそこになにか、欲しい物があるのか?」

「ちょ……!」


 レジーナの手を引き、ラグナはずかずかと歩き出す。

 その店はそれなりに高級感のある佇まいであり、貴族も上客として名を連ねているのでは無いかと想像も付く。


「ほう、外からも見えるようにガラスで透かして細工品を並べておるのか。 これはわかりやすくていいな」

「盗まれやすく、狙われやすくもなるから、警戒が必要なんだけどね。ま、何か対策はしてるんでしょ」


 そう言いながらも、レジーナの目線は細工の一つに留まって動かない。

 蝶を模した、銀の髪飾りだ。それなりに良いものであろう事は、ラグナでもわかる。


(まぁ、安物であろうがな)

 

 王族が身に着ける装飾品と比べれば、価値も値段も足元にも及ばないだろう。

 

「ふむ、それが欲しいのか? なら、買ってやろうではないか」

「え、アンタが……?」

「そうだ、店主に話し……いや、この格好では信用ならんか。後で遣いをやって、買って来させよう」


 良い案だ、とラグナは満足する。この娘とも毎日のように顔を突き合わせているのだ。そろそろ、宝石の一つ、細工物の一つくらい贈ってやっても構うまい。

 小生意気な小娘が泣いて喜ぶ所を想像し、知らず頬が緩む。

 

 ――しかし。

 

「いらないわよ」

「な、なに!? 何故だ!?」

「そんな風に貰っても嬉しくないっての。あのね、これはアタシの憧れの一品だったのよ。昔から欲しかったデザインの奴なの。それを恵んでやろう娘! みたいな態度で遣いの人に買って寄越させても有難くもなんともない!」


 言っている意味がまるで判らなかった。物が手に入るなら、誰から得ても変わらないはず。

 ラグナは困惑を通り越して混乱してしまう。

 

「買うなら、アンタが金出しなさいよ。もうすぐあたしの誕生日だし。あ、王宮から金貨を~とか思っても駄目よ。図星でしょう」

「むぐ……!」

「普通の貴族令嬢なら、こんな事は言わないんだろうけどね。あたしはヤなの、絶対にダメ」

「な、ならばどうせよと言うのだ……? 俺には自前の金などないぞ?」

「稼げばいいじゃない。学園で奉仕活動、あるでしょ。アレでやんなさいよ」

「馬鹿を言うな!」


 確かに、学園内の自主的な奉仕活動を行う事で、幾ばくかの謝礼を貰えると聞いた事はある。

 しかし、どれも雑多で地道な仕事ばかりで、とても王太子のラグナがするような物ではなかった。

 

「キツイ物ほど、実入りが良いらしいよ? ほら、地下に溜まった泥の汲みだしとか」

「俺に汗と泥に塗れて働けと言うのか!? 冗談では無い!」

「そうよね、じゃあいいわ」


 そう言って憤慨すると、レジーナは意外なほどにあっさりと言葉を引っ込めた。


「なぁに、珍妙な物を見るような目をして。当たり前じゃないの、王子様にそんな事はさせられないものね。冗談よ、冗談」

「そ、そうなのか……?」

「そうよ。ただ、ね」


 うん、と伸びをして、レジーナは空を見上げた。

 

「そんくらいに憧れた物なの。あたしがどうしても欲しかった二つの内の一つだから」


 どこか遠くを見るような視線に、ラグナは引き寄せられた。

 水色の瞳が、陽の光を浴び煌めく。美しいと、素直にそう思った。

 

「もう一つは、何なのだ? 良縁を得て幸せに、というやつか?」

「家よ、お城みたいに白くて大きなお屋敷。門の向こうには綺麗な薔薇の花壇が続いていてね、お姫様を出迎えてくれるわけ」


 何だそれは。想像したよりも少女的な発想にラグナは面食らってしまう。

 

「昔ね、お母さんが実家から唯一持ってこれたっていう絵本があったの。良く読み聞かせてくれたなぁ。その挿絵に出てくる、貴族のお姫様のお屋敷がね、とても綺麗に見えて憧れたんだ」


 薬代として売っちゃったから、もう読み返せないけど。そう言って、少女は寂しそうに笑った。

 

「本の題名も思い出せないけど、それだけは頭に残ってるんだ。いつか、そんな家に住んでみたい。夢見るような素敵な家に」


 うっとりとした顔でそう呟くレジーナ。

 その表情があまりにも嬉しそうで、思わずラグナは口を挟んでいた。

 

「それが……お前の、幸せなのか」

「え?」


 虚を突かれたように、レジーナが目を瞬かせる。

 

「……あぁ、そうか。そうね、そうかもね。そんなお屋敷に、家族と暮らせたら幸せかもね」


 そう言って、レジーナは再び微笑む。

 その顔に、何処か陰りのような物が過ぎるが、ラグナはあえて、そこから目を逸らした。

 

 

◆ ◆ ◆



 ――季節は巡る。春を通り越し、夏が過ぎ、やがて冬を迎える。

 

 そうして王太子と男爵令嬢の関係は何も変わらぬまま、ついに三年目へ辿り着いた。

 

 すぐに飽きると思っていた木登りも、ようやく枝に上がれるようになり、下手くそな草笛もどうにか形になっていた。

 この頃には剣もそこそこ振り始め、学問にもそれとなく目を向けるようになる。

 

 けれど、いつまで経ってもレジーナがラグナを褒め、労うような事は無い。

 まだまだね、もう少しね。幾らねだっても、そう言って笑うばかりだ。

 

「いい加減、少しは褒めても良いだろう。前に比べれば俺も随分と変わったと思うが……」

「ダメよ、アンタはすぐに調子に乗るんだもの。これで褒めたら逆戻りしそうで嫌」

「チッ、可愛げの無い女め。もっと愛想良くしたらどうなんだ」

「好きでもなく、落とす気もない男に、そんな真似してどうすんのよ、勿体ない」

「相も変わらず、打算的な娘だ! もしや好いた男の前では、あんな甘ったるい声を出して誘惑するのか? 気色の悪い!」


 以前のレジーナの口調を思い出し、ラグナは腕をさすった。

 

「アレはあくまで演技よ、演技。馬鹿王子に合わせた頭の軽い女の真似。あたしだってね、好きな男の子の前ではもっと可愛らしく、しおらしい乙女になるわよ――――きっと」

「想像も付かんな」

「うん、あたしも!」


 自分で言うか、とラグナは吹き出す。確かに、この女が誰かに恋する所など頭にも浮かばない。


「そうねぇ……アンタがあたしを心から幸せだと思わせてくれたら、褒めてあげるわ」

「城みたいな屋敷を買えと言うのか?」

「あら、覚えていたの。まぁ、王子様ならそれも出来るかもね。流石にそれは自分の稼ぎで買えとは言わないわ」

「当たり前だろう、奉仕活動何十年分だと思ってる」


 流石にそこまで無茶は言わなかったか。そう安心していると、また背中がぶっ叩かれる。

 

「ま、もしもの時は愛人として囲って頂戴な。妾ってやつ? あたし、多くは望まないから。そこそこの家に住まわせてくれたら、それでいいわよ」

「何故お前を愛人にせねばならんのだ……!? その首が飛ぶかどうかは、俺の決断一つだと忘れていないか!?」


 脅かすように睨み付けるが、どうせ聞き流されるだろう。そう思い、ラグナは鼻を鳴らした。

 この三年間、ずっと繰り返されて来た光景だった。

 しかし、今日この時は、普段と違う反応が返って来た。

 

「ねぇ、王子様は、どうしてそうしないの?」

「何……?」

「あたしの首よ。サッサと王さまにでも何でも報告して、殺しちゃえばいいのに」

「物騒な事を言うな。命は一つしか無いものだ、大事にしろ」


 ラグナがそう言ってやるも、返事は帰って来ない。

 レジーナは木の根元にちょこんと座り込み、膝の上で手に頬を付きながらこちらを見ている。

 もう片方の手には、小さな包み紙が握られている。それを手で弄びながら、少女はぼやく。


「もうすぐ、卒業だね。パーティーには偉い人たちも来るんでしょ?」

「あ、あぁ……父上も、ご挨拶をなさるだろう」

「じゃ、そこで言えば。そうしたら、全部終わるわよ」


 空色の瞳が、じっとこちらを見ている。そこにどんな感情が籠められているのか、ただひたすらにラグナの姿を捉えて離さない。

 

「この間、お父様――男爵に聞かれたの。殿下との仲はどうかって」

「……お前は、なんと答えたのだ?」

「悪くはないけど、せいぜい妾になれるかどうかだって言っといた。そうしたら、顔色を変えちゃってね」


 メレナリス男爵は、娘が冷遇されると思い込み、お前の器量なら『祝福』ならきっと王子の正妃になれるはずだと言い張ったそうだ。


「地位に目が眩んだか? 捨てた娘が国母になるという――」

「違うわね、きっと。本気でそう思ってるのよ。あたしが幸せになるにはこの国の妃になるのが一番だって。そうすれば、どんな権力にも愛する人との仲を引き裂かれる事は無いってさ。馬鹿なお父様。一応、後悔はしていたのね」

「愚かな……幾ら俺が寵愛しようとも、お前に『祝福』があろうとも、後ろ盾の無い男爵家の娘が王妃になどなれるわけがなかろう」

 仮に本当の愛に目覚めた等と言う戯言を述べて、婚約破棄などすればどうなるか。

 良くて廃嫡、悪ければそのまま幽閉。王太子を惑わしたとして、レジーナは『祝福』の有り無しに関わらず処罰されるだろう。


「そうだね、そうだよね。でもそんな簡単な事が、お父様にはわからなかったのよ。だから、あたしは言ったの。正妻はセラスフィア様でしょうって。お二人の仲は睦まじいみたいですよ、って」

「おい、それは――」


 ウソだ。婚約者である侯爵令嬢とはこの三年間、事務的な話以外は言葉をろくに交わしていない。


「何度も言ったよね。自分の婚約者様も大事にしたらって。なのに、アンタはあたしにずっと付き合った。ほんと、馬鹿みたい。アンタもあたしもお父様も……みんな、みーんな馬鹿ばかり」


 膝に顔を埋めて、レジーナは吐き捨てた。

 

 

「だから、死んじゃったのよ。愚かなお父様」



「なっ―――ー!?」



 何だ、それは。そんな話は、聞いていない。ラグナは思わず身を乗り出した。

 

「死体は出てきてないんだけどね。馬車で崖下に落ちたろうって、今は捜索中。でも、始末されたんでしょうね。きっとそうよ、そうに決まってるわ」

「ま、待て待て! 死んだ? 男爵がか? 始末されたって、誰に……」

「さぁね? あたしの話を聞いたあと、話が違う、確かめてくるって飛び出して、それっきりよ。何を、誰に確かめるつもりだったのかしらね。全く、それすらわからないじゃないの。本当に抜けているんだからあの人は」


 バカね、と。もう一度呟き、レジーナの小さな体が震え出す。

 

「次は、きっと私の番ね。どんな風に殺されるのかしら。何かの罪とかでっち上げられるの? それとも、この国の王太子を魅了しようとした証拠を突きつけられるのかな。ふふ、自業自得っちゃそうね」

「お、落ち着け! 大丈夫だ、お前は死んだりなどせん。一国の王太子にあんな無礼な口を叩けるような図太い女が、そう簡単に殺されるものか!」


 最後の方の言葉は、ラグナ自身の願望のようになっていた。

 何故、どうしてこんなにも必死になっているのか、自分でもわからない。

 けれど、これはないじゃないか、とそう思うのだ。

 あんなにも傲慢で我儘で、溢れんばかりの生気に満ちていたこの女が、どうして儚げな涙などを流しているのだ!

 

「安心しろ、俺は王太子だ。お前の身くらい守ってやる」

「どうやってさ? 最近は見直されてきたみたいだけど、それでもアンタの人望は……」

「囲えばいい。さっき自分でも言ってたろう、お前は俺の妾になれ。公然とそう触れ回ってやる。お前に手を出すのが不利だと、王太子の怒りを買うと、そう思わせるんだ」

「え……」

「あぁ、わかっている。嫌だろうが、お前は俺を愛している振りをしろ。四六時中引っ付いていれば、手も出せんだろう」


 そうと決まれば話は早い、馬鹿王子の本領発揮だ。我儘を通すのには慣れている。


「学長にはある程度の事情を話す。お前は俺のクラスで世話係になるんだ。そうだ、行き帰りも一緒にせねばな」


 油断は禁物だ。どの機会を狙われるか判らない。いつも傍に居なければ不安だ。


「今日から王宮に行くぞ。離れに部屋が余っていたはずだ。そこで俺と寝泊まりをする。手は出さんから安心しろ」


 それがいい、我ながら良い案だと、ラグナは手を叩きそうになる。

 自分が常に一緒に居れば、毒殺だろうと何だろうと防げる。時を遡れば無かった事に出来るのだから。

 

「アンタ、自分が何を言ってるか判ってるの? セラスフィア様を放って愛人を囲うって事だよ、それ」

「だからそう言っているだろうが。セラスフィアには一応、説明しておく。それで何も問題は無い」


 少女の涙に濡れた目が細まり、水滴がそこから零れ落ちてゆく。

 

「……馬鹿ね。せっかく少しはマシな評価になったのに。それを自分から捨てるの? それも、アンタを騙そうとした女を守って……」

「馬鹿馬鹿言うな! 無い知恵を絞ったのだから、少しくらい褒めろ!」


 顔を赤くしながらもそう怒鳴りつけてやると、レジーナはしゃくり上げながらも、ようやく微笑んだ。

 

 

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