作品についての手痛い批判。
2023年10月17日
どうも、あじさいです。
前回に続いて自作の宣伝めいた話になりますが、このエッセイはカクヨムの話をするのが趣旨ですし、筆者のカクヨムライフは筆者自身の作品と切り離せないので、ご容赦いただければと思います。
前回、多少は分かりにくい小説でも意外と読んでもらえるし、高評価もしてもらえる、という話をしました。
そうなると悔やまれるが、拙作『ようこそ、ナーロッパ劇団へ』(以下、『ナーロッパ劇団』)のことです。
この作品、タイトルに「ナーロッパ」という語を使っている都合で、届けたい人に敬遠されるに違いないと思い、連載中にタイトルと紹介文を変えるという変則的な宣伝戦術をとったのですが、一時的にPVが増えただけで、あまり成果は出ませんでした。
結局、ナーロッパ作品が大好きな人たちは筆者の作品を見ても自分の考えを変えませんし、ナーロッパ作品に批判的な方々はいかにもテンプレくさいタイトルには近付かないわけで、ターゲットをあえて外すようなパッケージをしてもお客を減らすだけだったようです。
もちろん、このリスクは最初から分かっていましたが、近況ノートにも書いた暴露話をくり返しますと、炎上商法を狙った上で、半端なロジックで本作を非難しに来た人たちを返り討ちにしたかったんですよね。
過去の作品への愛とリスペクトはどこ行った? と言われそうですが、むしろ愛とリスペクトがあるからこそです。
文芸の流行は長期的には巡りめぐるものですが、だからこそ発展しなければ衰退あるのみ。
過去の名作を超えるためには、同情も忖度もなしの批判が必要ですし、より良い未来の礎になることこそが古典の価値だと、筆者は思います。
ですから、拙作『ナーロッパ劇団』は、一読するとナーロッパ作品を容赦なく否定しているように見えるかもしれませんが、やっていることは否定ではなく批判であって、諸々のナーロッパ作品の存在を全力で肯定しているとも言えるのです。
というわけで、筆者はこの作品を悪い作品とは思っていないのですが、半年ほど前、ある方から手痛い批判を頂きました。
今回はそのお話をさせていただきたいと思います。
詳細が気になる方は、『ナーロッパ劇団』のコメント欄をご覧いただければ、すぐに見つかると思います。
問題の箇所は、第63話から第64話にかけての、異世界転生者の主人公が不在の場面。
町で多くの住民が巻き込まれる大変な事態が起こりそうだというとき、ある少女(仮にAさん)が或る発言をして、それにキレたある少年(仮にBくん)が彼女に平手打ちをするシーン、およびその前後です。
批判の内容をざっくり要約させていただきますと、神経質なまでに倫理にうるさかった作品が、ここに来て暴力を肯定するなんて……、というもの。
当時も今も、この批判は全くもって真っ当だと、筆者も思っています。
『ナーロッパ劇団』の基本的な形式は、演劇のリハーサルというメタ的な舞台設定で、ナーロッパ作品によくある設定や流れが言及され、それに対して登場キャラたちがあーでもない、こーでもないと意見する、というものです。
流行の要素にツッコミどころがあれば、細かいものであってもそのほとんどに対して、誰かがツッコミを入れていました。
そんな作品で、いきなりBくんがAさんを殴ったにもかかわらず、誰も明確には批判をせず、その後の場面のAさんはあまり気にせず仲直りしたように見える……。
そりゃ、おかしいと思いますよね。
ただ、筆者にも言い分はありました。
詳しいことは、先ほども言ったようにコメント欄をご覧いただきたいですし、さらに気が向いた皆さんには作品の本文も読んでいただきたいと思います。
このエッセイという場で皆さんと共有したいのは、作品や作者の倫理観を読者に信用していただくのはかくも難しい、という話です。
再三言っているように、この批判を下さった方に対して、筆者は何の不満もありません。
ただ、筆者の力不足を嘆く文脈で、小説とは難しいものだというお話をしたいだけです。
筆者の甘い見立てでは、作品の序盤からずっと、「魔法の訓練は周囲の安全に配慮して行われるべきだ」(第5話)、「政略結婚や許嫁は女性蔑視を前提にした因習で、軽い気持ちで憧れを表明するのは無神経だ」(第18話)といった議論をしていく中で、筆者が倫理にうるさい書き手だということで、読者にも信用していただけていると思っていました。
最もフェミニズム色が強い第43話を越え、第63話までついてきてくれた読者に、ここに来て、暴力を肯定する書き手だと思われるとは……。
正直、
「女性蔑視はダメだ、亜人差別はダメだ、奴隷制度を肯定しちゃダメだ、と主人公に言わせ続けてきた書き手が、『時には男から女への暴力が正当化される場合もある』だなんて、そんなメッセージを発信するわけないじゃないの」
と思いました。
ですが、作品を読んでもらった上でそんな疑いをかけられるということは、小説のテーマの核心に関してさえ、伝えたいことを伝えられなかったということですから、その時点で書き手としては「負け」なんですよね。
結局、その応援コメントに対しては筆者なりに弁明を書きつつ、該当箇所に加筆・修正を加えました。
メタ的な台詞や地の文でのツッコミを入れていい場面ではなく、そこはどうにも譲れないので、少年BくんがAさんを殴った直後から後悔の念に駆られていくことを明記しました。
正直、Bくんのキャラクター性が歪んだような気がしており、完璧な修正とは思っていません。
ぶっちゃけると筆者自身は、そもそもBくんはそんなに良い子ではなく、頭に血が上ったら周りが見えなくなる人物のつもりで書いていたので、勢いでビンタしたくせにその場で後悔し始めるのは(少なくともそれを本文に明記するのは)彼らしくない、くらいには思っています。
また、殴られたAさんにしても、あの状況でああいう殴られた方をして、直後にああなったときに、それを後々まで根に持って態度に出すのは、彼女の精神年齢に合わない気がする、というのが率直なところです。
しかし、そうは言っても、作品として暴力を肯定しているなどという誤ったメッセージを発信するのに比べれば、多少野暮でもこのように修正せねばなるまい、と判断しました。
もちろん、一般的な文芸なら、モラルに反する要素すべてにいちいちツッコミを入れるのは、それはそれでどうなのかという話になりますが、『ナーロッパ劇団』はツッコミを入れないわけにはいかない作品なので……、ちょっと惜しいですが。
うじうじした話に、ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
考えてみると、少なくとも筆者の場合、どの作品にも似たようなことがあります。
未完の長編ファンタジー『ダームガルス戦記』の主人公は、性被害に遭った姉を気にかける一方、自分が不良少年だったときにケンカした相手のことは思い出しもしません。
短編『スカートめくり』の語り手は、小1のとき同級生に振るった暴力を高校生になっても反省していません。
KAC参加作品『お母さんの宝物』の主人公・高1の翔くんは、自分のことで頭がいっぱいで(暴力は振るいませんが)母親の苦労を推し量る発想を持っていません。
もちろん、こういったことは作品の一部として意図して残した要素ですし、変則的な『ナーロッパ劇団』はともかく、一人称の語りで地の文もしっかりある小説であれば、ある程度許してもらえそうな気もしますが、もしかすると、どこかで誰かに、
「このあじさいってヤツ、倫理観がまだまだ未熟だな。こんなヤツの作品、読み続ける気にならないよ」
と思われているものなのかもしれません。
本当に、小説というものは隅々に至るまで配慮を尽くして書かねばならないもので、書いて公開するからには、日々見識を深め、技術を磨くことが欠かせないなと思います。




