文章チェックと違和感。
2023年08月24日
どうも、あじさいです。
こんなことを言うのは小論『文章チェックのヒント』にとってちゃぶ台返しのようなものですが、美しい日本語、美しい文章を書く上で最も大切なことを1つ挙げるとすれば、それは「違和感」だと思います。
皆さんの母語が日本語ということを前提とした議論ではありますが、多くの人は、日本語で文章を書くこと自体には難しさを感じないものですし、誤字脱字や文法の乱れについて懇切丁寧な説明をされなくても、「ここがおかしいです」「こうした方が自然です」と言われたら納得するものだと思います。
※筆者が応援コメントで誤字脱字を指摘するときは、ディスコミュニケーションが起きないよう、念のために丁寧な解説を付けていますが、筆者自身、
「ここまで言うのはさすがにお節介だよな……」
と思いながら書いています。
では、なぜ現実問題として、Web小説(当然ながら筆者の作品を含む)には誤字脱字や不自然な日本語が多くなってしまうのかというと、結局、自分で自分の文章を確認したときに「違和感」を持てないからです。
「何かおかしいな」
と思うことさえできれば、大抵の書き手は、自分で辞書を引くなり、ネットで検索するなりして、問題を解決できるものです。
文章に対して違和感を持つためには、自分の中に基準あるいは軸が必要です。
たとえば料理を作ったとき、味が濃いとか薄いとか、見栄えが良いとか悪いとか思えるのは、比較対象があるからです。
この「比較対象」が、ここで言う「基準」あるいは「軸」です。
世間的に「家庭の味」、(古い言い方ですが)「おふくろの味」という言葉に良いイメージがあるのは、それが多くの人にとって味覚の「基準」の記憶を呼び起こす言葉であり、郷愁の象徴だからです。
このとき、注意していただきたいのは、「家庭の味」は家庭の数だけあるもので、我々が思い浮かべるイメージもまたそれぞれ異なるということです。
本来、「この家の味は上、あの家の味は下」などということはありませんが、カレー屋やそば屋を開業しようということになれば、ある程度、世間における多数派の「基準」に合わせる必要が出てきます。
美しい文章にまつわる話もこれと同じで、創作活動というものは本来、書きたいものを書きたいように書いて、自分で読み返して楽しくなれればそれで良いのです。
ただ、ネットに投稿したり公募に応募したりするとなれば、世間における多数派の「基準」に合わせる必要が出てきます。
問題はどうやって「基準」を設定するかということですが、料理のたとえから皆さんお察しの通り、手っ取り早い方法は、第三者が作った美味しい料理、すなわち誰かが書いた美しい文章にたくさん触れて、目を養うことです。
川端康成でも、小川洋子さんでも、森絵都さんでも、誰でもいいですが、「この人の文章、きれいだな。読みやすいな」と思える作家さんの文章を、たくさん読むことです。
そうすれば、ご自分や他のWeb小説家の文章に対して、「あの作家さんならこうは書かないはずだ」と違和感を持てるようになるはずです。
これが推敲の出発点であり、この感覚を持てるようにならなければ、文章力を鍛えることはできません。
――ということを、最近、よく考えます。
KACに参加したとき、三人称の地の文による短編もいくつか書きましたが、筆者はWeb小説を書くときはなるべく一人称の地の文で書きたいと思っています。
一人称の地の文ということは、小説の登場人物(多くは主人公)自身が地の文を語っているということですが、そうなると、語彙や文体も作品ごとに変わってきます。
たとえば、語り手が高校生なら、飲み会や酒の肴の話はしないものですし、語り手が色恋に興味がない女の子なら、ネットでしか見かけない下ネタ用語をごく自然に使うことはあり得ません。
同様に、語り手が読書嫌いなら、彼あるいは彼女が川端康成のような洗練された語彙と文体を駆使することはないはずです。
文章力を鍛えるには「基準」が必要と先ほど述べましたが、作品を推敲するとき何を「基準」に持ってくるべきかは、実は作品ごとに違う可能性があるのです。
この点に関して、先人たちの作品を思い出してみると、実はあまりそこに拘泥せず、ひとまずフラットで分かりやすい文体で書くということを徹底している作家さんが多いように思います。
考えてみれば、当然と言えば当然ですね。
夏目漱石の『吾輩は猫である』は猫が語り手ですが、猫が猫の語彙でしか語らないのでは、人間には読めません。
同じように、語り手が小学生だからといって、小学生並みの語彙と文体、時には脈絡のなさで小説を書かれてしまったら、読者が困惑してしまいます。
百歩譲ってプロ作家による紙の本なら読破してもらえるかもしれませんが、アマチュアのWeb小説でそれをやるのは危険すぎます。
夏休みの絵日記のような「作文」を読み続けてくれるほど、Web小説を読みに来ている読者たちは辛抱強くない、と思っておくべきです。
少なくとも、レビューや新規読者の獲得に関しては、鳴かず飛ばずになる危険を覚悟せねばなりません。
強引にまとめてとりあえずの結論としますと、自分の文章に違和感を持てるように、誰かの文章を「基準」とすることは欠かせないものの、一人称の地の文でWeb小説を書くつもりなら、「基準」は唯一絶対のものではなく、手札のように何枚か準備しておくのが望ましい――。
要するに、「Web小説を書くだけじゃなく、良い本をたくさん読もう」ということです。
もちろん、これは筆者が主に自戒として書いたことですが、皆さんが創作活動に行き詰ったときにも思い出していただければ幸いです。
ところで、話が変わりますが、このエッセイ、エッセイ自体や他の小説が更新されていない期間も断続的にPVやフォローを稼ぎ続けていました。
筆者の予想では、筆者がどなたかの作品に書いた長文の応援コメントを見かけた方々が、筆者に興味を持ってお越しくださったのではないか、と思っています。
もちろんこれはありがたいのですが、そういう方々はもしかして、筆者が読み返して長文の応援コメントを送ることを期待していらっしゃったりするのでしょうか?
最近、自主企画を一覧で見ると「コメント書きます」、「批評します」、「添削します」といったものを多く見かける気がしますし、参加作品もそれなりにあるようです。
その多くはガイドライン違反の疑いがあるので通報していますが、それはともかく、そういう需要は常にあると思いますし、気持ちとしても分からなくはないです。
筆者も近況ノートなどで、「筆者 (あじさい)に批評してほしい作品、誤字脱字などを指摘してほしい作品があればコメント欄にリンクを貼ってください」みたいなことを言った方が良いのかと思案しましたが……、どうなんでしょう?
誰も募集してこなかったら赤っ恥、というのもありますが、他の心配もあります。
以前、この手の自主企画を立てたことがあるのですが、身も蓋もない話、募集に応じて文章チェックするつもりで読むと、「読むもの」ではなく「読まされるもの」という感覚が強くなるのです。
読み方を縛られて、自由がなくなるせいかもしれません。
それに、これは偶然かもしれませんが、そうやって読んだ作品をノルマ(筆者自身が決めた文字数や話数など)以上に読み進めることって、ほぼ皆無なんですよね。
文章チェックを含む応援コメントを送った時点で、「仕事終わったぁ!」という感覚になってしまうのかもしれません。
そんな具合で、あまり期待しないでいただきたいですが、もし、
「私はどうしても自分の作品に第三者の意見が欲しいんだ!」
「俺はどうしてもあじさいをギャフンと言わせたいんだ!」
とお考えの方がいらっしゃるなら、この機会にご一報いただければと思います。
今の筆者は自分の言語感覚にも頼りなさを感じている状態でもありますし、どうなるか分かりませんが、そもそもが小心者なので、PVやフォローが意味不明に増えるのはどうにも落ち着きません。
用事があるなら言ってもらった方が嬉しいです。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
物の本で角田光代さんがおっしゃっていましたが、商業化を目指すなら、個性的で癖のある文章よりも、フラットで平易な文章を目指した方が良いそうです。
夏目漱石の文章は個性の塊で、漢字の使い方も独特ですが、後世の文学者たちの文章はどんどんサラサラしたものになっていきます。
小説がエリートの嗜みから大衆のエンタメになっていくにつれて、「読んで疲れる文章」は敬遠される傾向が強くなっているのかもしれません。
ただ、Web小説は本来、お金にならなければゴミという世界ではありません。
というか、紙の本では出合えない癖の強い――「好き」を突き詰めた――作品に出合えることが、小説投稿サイトの大きな特長なのではないか、と筆者は思っています。




