好きになりすぎてはいけない。
2022年11月13日
どうも、あじさいです。
今年の9月、筆者は他人の悪口しか言っていませんでした。
小説、エッセイ、創作論の3つ全てで、なろう系作品(このエッセイで言うテンプレ系Web小説)の悪口を言っていました。
そんな調子でも読んでくださる方はいらっしゃるもので、数ヶ月あるいは数年前に書いたエッセイにコメントを頂くこともあったのですが、それを機に読み返してみますと、このエッセイを始めた頃、筆者はもっとポジティブなことを書いていました。
今みたいに、口を開けば愚痴しか言わないような人間ではなかったのです。
もちろん、そういう書き方をしようと意識していた面もあります。ただ、やはり筆者自身の個性としても、そういう方向性で物を考えようとしていたところがあったと思います。
過去の自分に背中を叩かれる思いというか、こんなことではいけないと、思い切ってなろう系作品を褒め称える内容の記事を書こうとしたこともありました。
どの要素を称賛するか考えること自体は、さほど難しくなかったのですが、実際に書こうとしてみると、本題に入る前の部分でつまずきました。
そもそも、(なろう系作品に限らず)何かの文芸を無条件に好きであるかのように語ることが、果たして「正しい」のか、ということです。
「お前は何を言っているんだ?」
と思われるかもしれませんし、筆者もどう言えばいいのか分かりませんが、ひとまず言えるのは、今は時代の流れとして、あらゆるものに対して批判の目、もっと言えば疑いの目を向けるべき時代だ、ということです。
ネットリテラシーやメディアリテラシーも、結局はそういうことだと思います。
現代のこの社会――ネット社会と言うべきか、大衆消費社会と言うべきか、いっそのこと社会的包摂に失敗した相互不信社会と言うべきか――に生きる我々にとって、何かを全力で信用したり、全力で好きになったりすることって、すごく危険なんです。
ここで言う「危険」は、「詐欺に遭ってお金を盗られる」とか、「怪しげな宗教団体に壺を買わされる」みたいな個人的かつ実際的な意味だけではありません。
「知らない内に誰かに対する差別に加担している」とか「誰かを苦しめる社会的な構造を助長してしまう」みたいな、社会的あるいは倫理的な意味を含みます。
常識や風潮に囚われず、この社会のあらゆる物事に批判的な目を向け、自分自身の判断力にさえ疑いの目を向ける――それが、我々が求められている基本的な姿勢なのです。
政治の話になりますが、全体主義に陥ってはいけない、国粋主義に走ってはいけない、ポピュリズム的な扇動に惑わされてはいけないといった言説も、根は同じです。
私たちは特定のTVタレントを好きになりすぎてはいけないし、特定の政治家を信用しすぎてはいけないし、特定の(界隈の)本や記事ばかり読んでいてはいけないんです。
なぜならば、「好き」という感情は、少なくとも過剰になった場合には、人間の判断力を鈍らせるからです。
人間の判断力を最大限に発揮して、悪意ある現実、あるいは悪意なく悪事を働く現実の諸々に、立ち向かうためには、「好き」という感情を飼い馴らす必要がありますし、情報発信や表現の場でもそのことを意識せねばならないのです。
「息苦しいと時代になったもんだ」
と思われるかもしれませんが、今や誰も疑わない「多様性の尊重」のためには、避けて通れない事柄です。
「どんな物事も頭ごなしに否定するのはやめよう」
と言えば、皆さんにも受け入れていただけるかもしれません。
これは裏を返すと、「何かを好きになりすぎるな」ってことです。
何かを好きになることは、別の何かを嫌悪することと表裏一体です(ブルデューという社会学者がそんなこと言ってたらしいですよ)。
言い換えれば、あらゆる物事に対してフラットな(平坦、中立的な)目を向けようと考えるなら、特定の何かを贔屓しているようではいけないのです。
で、話を小説や物語に戻しますが、要するに、パッと読んだときに好きになれる要素があったとしても、その作品を全面的に肯定してしまうのは危うい、という話になります。
私たちの好き/嫌いは、善/悪とは別のものとしてあるわけですが、だからこそ、善/悪とその判断の余地を見極めていくために、好き/嫌いは一旦抑制しなければならないのです。
あえて1つ例を出しますと、『ハリポタ』の最終巻まで読んでスネイプを好きになる人は多いわけですが、彼を好きになりすぎる前に一旦立ち止まって(好きという気持ちを抑制して)、
「スネイプは客観的に言ってどんな人物だったのか」
「スネイプが最後まで思い人からの愛を得られなかったのはなぜか」
ということを考えるような、そういう視点を、私たちは小説に限らずあらゆる場面で持たねばならない、ということです。
ちなみにですが、筆者から見るとスネイプは常にレイシスト――血筋や出自によって人を差別する人間――であり、自分や仲間たちを変える努力をしなかった人物なので、思い人からの愛を得られなかったのは悲劇というより自業自得だと思います(異論もあると思います)。
なろう系作品にしても、数々のツッコミどころに蓋をして、好きなところだけを詰め込んでエッセイを書くこともできなくはないのですが、そんな物を書いてしまってよいのかというところが、ずっと引っかかっています。
カクヨム(という場)に関してなら、まだ良いんです。
「こういうところが面白い」
「こういうところが良いね」
などと言ったところで、それによってカクヨムの運営や作品を掲載しているすべての書き手さんを《《無条件に》》称賛したことにはならないでしょうから。
ただ、個別の作品について全面的なラブコールを送るとなれば、それはまた違った問題になってくるように思える、ということです。
自分自身も小説を書く(書いている)身で、こんなことは言わない方がいいのかもしれませんが、何だかこういう、実際的な問題よりも観念的な問題を重視しているような話って、文芸作品向きではないでしょうか?(笑)
というか、もう既に日本のどこかで、そういう小説が書かれていそうな気がします。
もしそういう小説が存在するなら、批判精神をこじらせた先に何を見出すのか(あるいは何も見出せないという結論に帰着するのか)、確かめつつ、考察してみたいですね。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
今回は抽象的な話になりましたが、次回はもうちょっと具体的な、エッセイらしい話を書きたいです。




