リレー小説の楽しさと難しさ(前編)
2021年3月12日
どうも、あじさいです。
本や物語には出合うべき時がある、という話は皆さん聞いたことがあると思いますし、実際のところ皆さんもそういう感覚はあるのではないかと思います。
たまに何かの本の感想やレビューに、「もっと早くこの本に出合いたかった」とか、「一時の流行物だと見下さずにもっと早くこの本を開いておけばよかった」といったことが書かれていることがあります。
それはもちろん率直な感想だとは思いますが、しかし、筆者としては、仮に、自分がその本のタイトルに惹かれなかったとき、あるいは心からその本を読みたいと思えなかったときに、義務感や社会生活上の事情やその他の理由からやむなくその本を手にとり開いていたとしても、それは「良い出合い」にはならなかったのではないかと思います。
本や物語は同じでも、読む人の状態やタイミングによって、面白いと思えることもあればつまらないとしか思えないこともあるでしょうから、ここで大切なことは、「良い本」を求めてむやみに多くの本を漁ることではなく、むしろ、その時々の自分の状態やタイミングに合った本を手にとり開くこと、そしてそのチャンスを逃さないことではないかと思います。
それを踏まえて、皆さんのWeb小説や文章を貶める意図はないということを前提にした上での話ですが、最近の筆者は、カクヨムのことを考えるとき「めちゃくちゃ面白い(面白そう)」と「くだらなくてつまらない」という2つの極端な感覚の間を振り子のように揺れています。
皆さんのWeb小説を読みたくて、あるいは自分が書いている長編ファンタジーを書き進めたくて、この身体が胸の中心から爆発しそうになる日がある一方で、Web小説を読んだり書いたりすることに情熱を注ぐなんてバカバカしいと思う日もあります。
なお、このエッセイを書いている今の筆者は、文芸作品を読むことは「人間」(作者である皆さんや物語の登場人物たち)と会って話すことに等しく、広い意味での「世界」を知ることと同義でもあると考えています。
人間誰しも、猛烈に友人や家族の誰かと会って話したいと思うときもあれば、反対に、誰にも会いたくない、一人になりたいと思うときもあるように、Web小説(に限らず小説や物語)を読みたいと思うときもあれば、そんなもの考えたくもないと思うときもあって当然です。
ですが、恥ずかしながら筆者には、それを見失って、極端な考え方に足を取られるときがあります。
最近の筆者は、忙しなくそれを見失ったり見つけ直したりしている訳です。
まあ、それでも、四六時中無気力で、いつまで経っても何もする気が起こらない日々に比べればマシだと思っています。
そんな感じで、読むこと、そして書くことに対して何となく意欲的な日々を送っているのですが、先日—―といっても気付けばもう1ヶ月以上前――自主企画を眺めていて、参加したいという衝動が起こって、リレー小説に挑戦しました。
最初に言っておくと、考えるのも書くのも感想を頂くのも、どれをとっても楽しい経験でした。
自主企画を立ち上げてくださった主催者の方、企画に賛同して筆を執ってくださった参加者の方々、そして筆者の担当部分を読んでくださった読者の方々、ありがとうございます。
この企画に参加してみて、色々と気付きがあったので、今回はその話をさせていただきたいと思います。
基本事項を確認しておくと、リレー小説とは、リレーの走者がバトンをつなげるように、複数の書き手が文章をつないで1つの物語を作る活動のことです。
ライトノベル『僕は友達が少ない』(略して「はがない」)にも出てきましたね。
複数の書き手がきれいに調和することを目指すというよりは、それぞれの書き手が自由気ままに書くことが醍醐味の活動です。
そのため、お察しの通り、出来上がる物語自体は行き当たりばったりでカオスな代物になりますが、それもまたこの活動の楽しいところです。
筆者は高校の授業で一度やったことがあるだけですが(このときは、1文だけ書いて次の人に渡していく感じだったと思います)、なんだかんだで楽しかった記憶があります。
そのため、カクヨムでリレー小説の自主企画を見つけたとき、「せっかくだし、何かアイディアが浮かぶようなら参加してみよう」と思いました。
自主企画の概要欄は、ルールと登場人物の設定を簡単に述べた後、序章として導入部分を書いていました。
ジャンルは異世界ファンタジー。
勇者と魔法使い、それとなぜかペットの羊が、ドラゴンに苦戦を強いられている場面からのスタートです。
小説投稿サイトに馴染みやすいでしょうし、前置きを抜きにして戦闘シーンから始めたのも、続きを書く人がいかようにも話を広げられるので、良い選択だと思います。
ただ、話を広げることが可能ということは、言い方を変えれば、設定や場面の意味がそれぞれの参加者に委ねられているということでもあります。
このエッセイの「短編チャレンジ」の回でもお話ししたように、筆者は短編小説を書ける人に憧れがあり、筆者自身も書こうと思って悪戦苦闘してきました。
時には、リレー小説と同じ異世界ファンタジーというジャンルで、短編あるいは中編を書こうと構想を練ったこともあるのですが、上手く話をまとめることができずにいます。
小説投稿サイトには異世界ファンタジーを書く方が多いので、ひょっとすると「誰でも簡単に(思いつきで)書けるジャンル」というイメージがあるかもしれませんが、「剣と魔法の世界」の構築は、ちゃんと考え始めると意外と難しいものです。
仮に、Web小説の人気作によくあるように、誰もが多少なりとも魔法を使える、という世界観にすると、その社会を統率し、人々を統治し、秩序を守る人々にはどんな権能と心構えが求められるかという問題が出てきます。
何気なく街を歩いている人が、触れずに物を動かしたり、手から火や水を出したり、空を飛んだりする可能性があるということは、凶器や計画性がなくても殺人や放火、強盗、誘拐などの犯罪を実行可能ということです。瞬間移動ができれば完全犯罪も脱獄も可能ですし、(傍受不可能な)テレパシーを使えるなら組織的犯罪やテロ、革命も容易になります。
限られた人(転生してきた主人公やそのライバル)しかそんなことできないから問題ない、という話にはなりません。
たとえその世界に前例がなくとも、たとえ歴史上の強力な魔法使いが善人ばかりだとしても、政治的な支配者になるような人物あるいは集団は、新しい魔法が開発される可能性と、悪意(政治権力に対する不信感)を持つ人間がそれらを使用する事態を想定し、関係者を制圧し裁くための準備を日頃から整えておくのでなければ不自然です――逆に言えば、その程度の危機管理もできない者には、そもそも政治権力を獲得することも維持することもできないはずです。
Web小説の異世界ファンタジーでは度々《たびたび》、誰もが多少なりとも魔法を使えるのに、王や貴族が幅を利かせている世界が描かれますが、民衆に納税と兵役を強いる彼ら彼女らが特権階級の座に君臨して敬意の対象にまでなるとしたら、その前段階として、民衆が何をしても叩き潰せるだけの圧倒的な武力(魔法を含む)を持ち、相当緻密な監視網を張り巡らせ、その上で窮屈極まりない身分制度を自発的に支持させるような倫理観を(おそらく宗教を通じて)植え付けなければならないはずなのです。
この「暴力と監視と宗教による支配」は、貴族から民衆に対してだけでなく、王族から貴族、上位の貴族から下位の貴族に対しても行われるでしょう。
人間が他を圧倒する暴力を手にし得る世界、誰かが簡単に別の誰かを殺せる世界、ひとりの人間が才能や血統だけで多人数を屈服させ得る世界は、それだけで人間の不安と恐怖を煽り、平和的な統治を困難にし、社会秩序の実現と発展を遅らせるのです。
こうなってくると、一種のディストピアです。
もちろん、「剣と魔法の世界」という非現実でリアリズムばかり追求しても誰も楽しくないですし、あまりシビアな世界にしすぎると世紀末を通り越して人類が滅亡してしまいます。
ですが、あまりに設定がザルだと、――きつい言い方になりますが――登場人物の言動や物語の展開に説得力が出ず、読者の期待を悪い意味で裏切る、ご都合主義で幼稚な「陰キャの妄想」になってしまいます。
どうにかして社会秩序が実現される方向で辻褄を合わせるか、何か工夫をして世界観に対するツッコミを回避しなければなりません。
こういったことを考えずにはいられなくなるので、少なくとも筆者にとっては、「剣と魔法の世界」の物語を書くのは相当難しいことに思えます。
しかし。
しかし、ですよ!
リレー小説では、そんなことは考えなくていい。
というのも、筆者が書くのは物語の初めでも終わりでもなく、途中のごく一部だけで、難しいことは後の人にお任せすればいいからです。
おまけに、設定だけでなく、プロットについても、少なくとも他の方々にお見せするレベルのものを用意する必要はありません。
もちろん、前に書かれたエピソードから、登場人物の人柄や設定についての確定事項を読み取る必要がありますし、そういった点に制約はあります。
とはいえ、リレー小説なので、多少曖昧でも話を進められます。
先の展開を気にせず、ただその場の面白さとかっこよさ、高揚感、読み心地の良さといったポジティブなものだけを追求して、作中世界や登場人物を動かすことができます。
そこには、通常の創作活動ではまず得られないであろう、独特な気楽さと開放感と、純化された「書くことの喜び」が――
いや、そうじゃないですね。
通常の創作活動でそれらを感じられない訳ではありません。
ただ、筆者が書きかけにしている長編を完成させようと考えている内に、忘れてしまっていただけです。
小説を書くということ、物語を創るということは、本来、気楽で、自由で、「書くことの喜び」に身を任せることだったはずなんです。
想像を始めると書かずにはいられないような、山を目にしたからには登ることを考えずにはいられないような、そういうことだったはずなんです。
最初に述べた通り、リレー小説にチャレンジしたのは最初からある程度「書きたい」という思いがあったからですが、しかし、チャレンジしたことが確かな要因となって、筆者の中から「書きたい」という思いがさらに湧き上がってきました。
その意味で、少なくとも筆者にとっては、リレー小説にチャレンジする意味は大きかったと思います。
その一方、参加してみると思わぬ苦労もまた色々ありました。
ですが、長くなってきたので、その話は次回以降にさせていただきたいと思います。
こういう場合、予約投稿で間髪入れずに次話を投稿するか、せめて24時間以内に投稿できるように準備しておくのが望ましいとは思うのですが、今回の話題でこれ以上投稿を遅くしたくはなかったので、とりあえず書き上げたこの部分までで投稿させていただきます(既にリレー小説にチャレンジしてから1ヶ月以上経っているので遅すぎる気もしますが)。
次回の投稿がいつになるか分かりませんし、このエッセイの他に拙作(長編の異世界ファンタジー)の執筆と推敲を進めてもいるので、ひょっとすると長めにお時間を頂くことになるかもしれませんが、気長にお付き合いいただけると幸いです。




